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「……はあ、はあ。ねえセバス、もう追手はいないわよね? キラキラした粉、浮いてないわよね?」
私はボロ布のようなマントを脱ぎ捨て、隣町の市場の片隅で座り込んだ。
足はパンパンに腫れ、髪には木の枝が刺さっているけれど、心はかつてないほど晴れやかだった。
「ご安心ください。あの森を抜けるルートを選んだのは正解でした。騎士団の重装備では、あの泥沼地帯は越えられないでしょう」
セバスは、あんな険しい道を歩いたとは思えないほど涼しい顔で、私の隣に立った。
この男、実は私よりずっと高い身体能力を持っているのではないかしら。
「それにしても、お嬢様。その顔、鏡で見たことはありますか? 泥と炭で、もはや公爵令嬢の面影は微塵もございません」
「最高のご褒美じゃない! これならシリウス殿下の信者たちに見つかっても『なんだ、ただの汚い小娘か』で済むわ」
私は顔を袖で適当に拭い、立ち上がった。
鼻をくすぐるのは、馬の匂い、人々の熱気、そして……何より私を惹きつけてやまない「あの香り」だ。
「……セバス、聞こえる? 油がパチパチと爆ぜる、あの天国の旋律が」
「はいはい。お嬢様の胃袋が鳴らす轟音のせいで、周囲の話し声が聞こえないほどですよ」
私たちは市場の奥、ひときわ煙が立ち込める屋台へと足を向けた。
そこには、無骨な中年の親父さんが、巨大な鍋で何かを揚げている姿があった。
「おじさん! その茶色くて丸いやつ、二つ……いえ、三つちょうだい!」
「あいよ! 下町の特製メンチカツ、揚げたてだ。お嬢ちゃん、腹減ってんのかい?」
「ええ、もう一生分ね!」
私は差し出された、紙に包まれただけのメンチカツをひったくるように受け取った。
王宮で出される「子羊のポワレ・トリュフソース添え」のような気取った料理とは違う。
ただひたすらに茶色く、暴力的なほどに脂ぎっている。
「……いただきます!」
一口齧ると、カリッという音と共に、熱々の肉汁が口の中に溢れ出した。
粗挽きの肉と、甘みの強い玉ねぎ。そして、それを包み込むラードの重厚な風味。
「…………っ、……おい、しい……」
私は思わず、その場に崩れ落ちそうになった。
目から一筋の涙がこぼれ、頬の泥を洗っていく。
「お嬢様、公共の場で泣かないでください。私が虐待しているように見えます」
「だって……セバス。見てよ、この油。キラキラしていないのよ。光を反射して虹色に輝くこともない。ただの、純粋な、不健康な油だわ……!」
「それを幸せと呼ぶのは、世界広しといえどお嬢様くらいなものです」
「いいのよ。王宮の食事は、一口食べるごとに『君の唇と同じバラの色だね』なんて王子の声が幻聴で聞こえてきて、全然味がしなかったんだから。このメンチカツは、私に『お前は今、自由だ!』と叫んでくれているわ!」
私は夢中で二個目を口に運んだ。
胃の底にずっしりと溜まるこの感覚。
シリウス殿下の顔を見た時の「ムカムカする胃もたれ」とは違う、心地よい「満腹感」という名の重み。
「お嬢様。感動しているところ申し訳ありませんが、これからの生活費を考えれば、そう毎日メンチカツというわけにもいきませんよ」
セバスが現実的な釘を刺してきた。
確かに、換金した資金があるとはいえ、いつまでも逃亡者でいるわけにはいかない。
「わかってるわよ。仕事を探すんでしょう? 私だって、ただの食い潰し令嬢で終わるつもりはないわ」
「ほう。何か特技でも? 刺繍や詩の朗読は、この街では一文にもなりませんが」
「失礼ね! 私には、十年間の地獄で鍛え上げた『忍耐力』があるわ!」
「忍耐力、ですか」
「そうよ。あの王子のキラキラ攻撃を正面から浴び続けて、精神崩壊せずに生き残ったのよ? どんな過酷な労働だって、あの顔面に比べればお茶の子さいさいだわ!」
私は最後のメンチカツを口に放り込み、力強く宣言した。
「見てなさいセバス。私はこの街で、誰よりも逞しく、誰よりも脂っこく生きてみせるわ!」
「……志が低いのか高いのか、判断に苦しむ宣言ですね」
セバスの呆れ声さえ、今の私には心地よいBGMだった。
空は高く、空気は濁り、そして私の胃袋は満たされている。
これこそが、私が夢にまで見た「悪役令嬢の理想郷」なのだ。
しかし、その時の私はまだ知らなかった。
この街の掲示板に、すでに「行方不明の聖女(私)を探しています」という、王子の妄想が全開になったお触れ書きが出回っていることを。
私はボロ布のようなマントを脱ぎ捨て、隣町の市場の片隅で座り込んだ。
足はパンパンに腫れ、髪には木の枝が刺さっているけれど、心はかつてないほど晴れやかだった。
「ご安心ください。あの森を抜けるルートを選んだのは正解でした。騎士団の重装備では、あの泥沼地帯は越えられないでしょう」
セバスは、あんな険しい道を歩いたとは思えないほど涼しい顔で、私の隣に立った。
この男、実は私よりずっと高い身体能力を持っているのではないかしら。
「それにしても、お嬢様。その顔、鏡で見たことはありますか? 泥と炭で、もはや公爵令嬢の面影は微塵もございません」
「最高のご褒美じゃない! これならシリウス殿下の信者たちに見つかっても『なんだ、ただの汚い小娘か』で済むわ」
私は顔を袖で適当に拭い、立ち上がった。
鼻をくすぐるのは、馬の匂い、人々の熱気、そして……何より私を惹きつけてやまない「あの香り」だ。
「……セバス、聞こえる? 油がパチパチと爆ぜる、あの天国の旋律が」
「はいはい。お嬢様の胃袋が鳴らす轟音のせいで、周囲の話し声が聞こえないほどですよ」
私たちは市場の奥、ひときわ煙が立ち込める屋台へと足を向けた。
そこには、無骨な中年の親父さんが、巨大な鍋で何かを揚げている姿があった。
「おじさん! その茶色くて丸いやつ、二つ……いえ、三つちょうだい!」
「あいよ! 下町の特製メンチカツ、揚げたてだ。お嬢ちゃん、腹減ってんのかい?」
「ええ、もう一生分ね!」
私は差し出された、紙に包まれただけのメンチカツをひったくるように受け取った。
王宮で出される「子羊のポワレ・トリュフソース添え」のような気取った料理とは違う。
ただひたすらに茶色く、暴力的なほどに脂ぎっている。
「……いただきます!」
一口齧ると、カリッという音と共に、熱々の肉汁が口の中に溢れ出した。
粗挽きの肉と、甘みの強い玉ねぎ。そして、それを包み込むラードの重厚な風味。
「…………っ、……おい、しい……」
私は思わず、その場に崩れ落ちそうになった。
目から一筋の涙がこぼれ、頬の泥を洗っていく。
「お嬢様、公共の場で泣かないでください。私が虐待しているように見えます」
「だって……セバス。見てよ、この油。キラキラしていないのよ。光を反射して虹色に輝くこともない。ただの、純粋な、不健康な油だわ……!」
「それを幸せと呼ぶのは、世界広しといえどお嬢様くらいなものです」
「いいのよ。王宮の食事は、一口食べるごとに『君の唇と同じバラの色だね』なんて王子の声が幻聴で聞こえてきて、全然味がしなかったんだから。このメンチカツは、私に『お前は今、自由だ!』と叫んでくれているわ!」
私は夢中で二個目を口に運んだ。
胃の底にずっしりと溜まるこの感覚。
シリウス殿下の顔を見た時の「ムカムカする胃もたれ」とは違う、心地よい「満腹感」という名の重み。
「お嬢様。感動しているところ申し訳ありませんが、これからの生活費を考えれば、そう毎日メンチカツというわけにもいきませんよ」
セバスが現実的な釘を刺してきた。
確かに、換金した資金があるとはいえ、いつまでも逃亡者でいるわけにはいかない。
「わかってるわよ。仕事を探すんでしょう? 私だって、ただの食い潰し令嬢で終わるつもりはないわ」
「ほう。何か特技でも? 刺繍や詩の朗読は、この街では一文にもなりませんが」
「失礼ね! 私には、十年間の地獄で鍛え上げた『忍耐力』があるわ!」
「忍耐力、ですか」
「そうよ。あの王子のキラキラ攻撃を正面から浴び続けて、精神崩壊せずに生き残ったのよ? どんな過酷な労働だって、あの顔面に比べればお茶の子さいさいだわ!」
私は最後のメンチカツを口に放り込み、力強く宣言した。
「見てなさいセバス。私はこの街で、誰よりも逞しく、誰よりも脂っこく生きてみせるわ!」
「……志が低いのか高いのか、判断に苦しむ宣言ですね」
セバスの呆れ声さえ、今の私には心地よいBGMだった。
空は高く、空気は濁り、そして私の胃袋は満たされている。
これこそが、私が夢にまで見た「悪役令嬢の理想郷」なのだ。
しかし、その時の私はまだ知らなかった。
この街の掲示板に、すでに「行方不明の聖女(私)を探しています」という、王子の妄想が全開になったお触れ書きが出回っていることを。
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