婚約破棄、あざーす!悪役令嬢は田舎へ飛びたい。

パリパリかぷちーの

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「……旦那様。行ってください」

王城の執務室に、私の冷静な(しかし少し大きめの)声が響いた。

目の前には、この世の終わりのような顔をしたアレクシス様がいる。

「嫌だ」

「子供みたいなことを言わないでください」

「モナを置いて行けるか。俺がいない間に、カイルがまた壁ドンしたらどうする。リリナが毒入りクッキーを投げてきたらどうする」

「迎撃します」

事の発端は、数分前に飛び込んできた早馬だった。

ミランド公爵領の北端で、季節外れの「大寒波」が発生し、魔物たちが活性化しているというのだ。

これは、公爵家当主であるアレクシス様が持つ「氷の魔力」でしか鎮められない異常事態らしい。

「領民が凍えています。農作物が全滅したら、今年度の収益見込みが30%ダウンですよ?」

私は電卓を叩きながら説得した。

「損害額、金貨五万枚。……これを放置して、私のそばで書類の監視をするのが『公爵の仕事』ですか?」

「……うぐっ」

アレクシス様が言葉に詰まる。

「稼ぐ男が好きだと言いましたよね? 資産(領地)を守れない男に、私は魅力を感じません」

これはキラーワードだった。

アレクシス様の瞳に、悲壮な決意の火が灯る。

「……わかった。行ってくる」

「はい、行ってらっしゃいませ」

「ただし!」

アレクシス様は、私の両肩をガシリと掴んだ。

「最短で片付ける。往復含めて二十四時間……いや、十二時間で戻る」

「無理です。片道だけで馬車で六時間はかかります」

「飛んでいく」

「人間は飛べません」

「俺ならできる」

真顔で言うので怖い。

「いいですか、無理な突貫工事(強行軍)は事故の元です。一泊して、確実に魔物を殲滅してきてください。……私はここから逃げませんし、カイル殿下もスタンプ押しで忙しいので安全です」

「……約束だぞ」

アレクシス様は、私の額にコツンと自分の額を押し当てた。

「必ず戻る。……愛している」

「はいはい、気をつけて。お土産は『雪解け水で育った高山植物(換金用)』でお願いします」

私は照れ隠しに手をひらひらと振った。

アレクシス様は、何度も何度も振り返りながら、ようやく窓から飛び出して(本当に風に乗って飛んで)いった。

「……ふぅ」

嵐が去ったような静けさ。

私は椅子に座り直し、お茶を一口飲んだ。

「さて、邪魔者……いえ、監視役もいなくなったことだし。バリバリ仕事しますか!」

私は腕まくりをした。

アレクシス様がいなければ、いちいち「近い!」と文官を威嚇することもない。

業務効率はさらに上がるはずだ。

(よし、今夜は徹夜で決算書を仕上げるわよ!)

私は意気揚々とペンを握った。

はずだった。



その夜。

私は王城の一室、貴賓用の寝室でベッドに入っていた。

結局、仕事は驚くほど早く片付いてしまった。

アレクシス様がいない分、文官たちがリラックスして報告に来るため、皮肉にも回転率が上がってしまったのだ。

「……暇ね」

時計を見る。

まだ夜の十時だ。

いつもなら、この時間は公爵邸で、アレクシス様とティータイムを過ごしている頃だ。

彼が不器用にリンゴを剥いたり(皮が分厚い)、私がその日の節約成果を報告して褒めてもらったり。

そんな「ルーティン」がないだけで、時間はこんなにも余るものなのか。

「……寝よう」

私は高級な羽毛布団に潜り込んだ。

王家の布団は素晴らしい。

軽くて、温かくて、肌触りも最高だ。

これなら即座に熟睡できるはず。

目を閉じる。

……。

…………。

「……眠れない」

私はパチリと目を開けた。

静かすぎる。

王城の夜は、防音結界のおかげで無音だ。

風の音も、虫の声も聞こえない。

公爵邸なら、隣の部屋からアレクシス様の気配がする。

彼が本をめくる音や、衣擦れの音。

時には、バルコニーで剣の素振りをしている風切り音。

それらが「生活音」として、私の安眠BGMになっていたことに気づく。

「……まさか、騒音がないと眠れない体質に?」

私は寝返りを打った。

広い。

キングサイズのベッドは、一人で寝るには広すぎる。

手を伸ばしても、どこにもぶつからない。

(……冷えるわね)

空調は完璧なはずなのに、なぜか背中が寒い。

アレクシス様は体温が高い。

隣にいるだけで、暖房器具がいらないくらい温かい。

「……これは、単なる物理的な温度低下よ」

私は自分に言い聞かせた。

「カイロ。カイロがあれば解決する問題だわ」

私は起き上がり、鞄を探った。

しかし、あいにくカイロ(火の魔石)は切らしていた。

「……最悪」

私は再びベッドに戻り、膝を抱えた。

寒い。

静かだ。

そして、胸の奥が妙にざわつく。

『必ず戻る。……愛している』

昼間の、アレクシス様の言葉がリフレインする。

あの必死な目。

温かい手。

額を合わせた時の、触れ合う熱。

「……うっ」

胃が痛い。

変なクッキーを食べた時とは違う、キリキリとした痛みではない。

もっと重くて、鈍い痛み。

胸がつかえて、息苦しい。

(何これ。不整脈? それとも過労?)

私は自分の脈を測ってみた。

正常だ。

体温も平熱。

論理的な身体の不調は見当たらない。

なのに、なぜこんなに……「足りない」感じがするのだろう。

「……まさか」

私は天井を見上げた。

認めたくない仮説が、脳裏をよぎる。

これが、いわゆる『寂しさ』という感情なのか?

この私が?

金と数字しか信じない、鉄の女モナ・バーンズが?

男一人がいないだけで、眠れなくなるなんて?

「……あり得ない。計算外よ」

私は首を振った。

「これはアレだわ。カフェイン不足による離脱症状。あるいは、糖分不足。……そうよ、甘いものが足りないのよ」

私は無理やり結論付けた。

そうだ。

アレクシス様は甘い。

存在が甘いし、言葉も甘い。

彼という「糖分」を過剰摂取していたせいで、体がそれに慣れてしまったのだ。

「……中毒性があるなんて、危険な男(資産)ね」

私は枕を抱きしめた。

その枕に顔を埋めても、彼の匂い(シトラスと冬の朝のような匂い)はしない。

あるのは、無機質な洗剤の匂いだけ。

「……早く戻ってきなさいよ」

ポツリと、本音が漏れた。

「十二時間で戻るって言ったじゃない。……嘘つき」

その時。

コン、コン。

窓ガラスを叩く音がした。

「……?」

私は飛び起きた。

ここは三階だ。

鳥か?

それとも、風で枝が当たったのか?

コン、コン、コン。

規則的なノック音。

まさか。

私はベッドから飛び降り、カーテンを開けた。

「……!」

そこにいたのは。

月明かりを背に、窓枠に腰掛けた、雪まみれの「魔王」だった。

「……よお、モナ」

アレクシス様だ。

髪もコートも真っ白で、まつ毛にすら霜が降りている。

息が白い。

「だ、旦那様!?」

私は慌てて窓を開けた。

冷気が吹き込む。

「何してるんですか! ここは三階ですよ! それにその格好、雪だるまですか!?」

「……約束しただろう」

アレクシス様は、ガチガチと歯を鳴らしながら、へらりと笑った。

「十二時間で戻るって。……今は、十時間と四十五分だ」

「……は?」

時間を計算する。

私が送り出してから、まだ半日も経っていない。

片道六時間の道のりを、往復して、魔物討伐まで完了させてきたと言うのか?

「馬鹿なんですか!? 死にますよ!」

「死なん。……君が待っていると思ったら、魔物など一瞬で凍らせられた」

アレクシス様が部屋に入ってくる。

足元がフラついている。

魔力枯渇(ガス欠)寸前だ。

「……ただいま、モナ」

彼は倒れ込むように、私に向かって手を伸ばした。

私は咄嗟に彼を受け止めた。

「っ……冷たっ!」

彼の体は氷のように冷え切っていた。

服の上からでもわかる冷気。

「バカ……! 本当にバカ……!」

私は彼を支えながら、ベッドへと引きずっていった。

「こんなに冷え切って……! 早く暖まらないと!」

「……ああ。暖かいな、モナは……」

アレクシス様は、私の肩に顔を埋め、安堵したように息を吐いた。

「会いたかった……」

「……数時間しか経ってません」

「永遠に感じた」

彼は私の腰に手を回し、強く抱きしめてきた。

冷たいはずなのに、その奥にある鼓動だけは、熱く、激しく脈打っている。

「……私もです」

小さな声で、私は答えた。

「え?」

「私も……少しだけ、静かすぎて眠れませんでした」

「……そうか」

アレクシス様が嬉しそうに笑う。

「なら、俺が温めてやる」

「貴方の方が冷たいです。……こっちに来てください」

私は彼をベッドに押し倒し、布団を頭から被せた。

「え、モナ? 一緒に寝るのか?」

「緊急措置です。低体温症で死なれたら、資産価値がゼロになりますから」

私は躊躇わず、彼に抱きついた。

湯たんぽ代わりだ。

そう、これはあくまで人命救助であり、熱交換の物理実験である。

「……温かい」

アレクシス様が、布団の中で私を抱きしめ返す。

次第に、彼の体温が戻ってくる。

そして、私の「寂しさ」という名の胸の痛みも、嘘のように消えていった。

「……おやすみなさい、旦那様」

「ああ。おやすみ、俺の愛しい妻」

その夜、私は久しぶりに(といっても半日ぶりだが)、泥のように深く眠ることができた。

翌朝。

ベッドの中で抱き合って寝ている私たちを、モーニングコールに来たカイル殿下が目撃し、「いやぁぁぁ! 神聖な王城で何をしているぅぅ!」と絶叫することになるのだが、それはまた別の話である。

こうして、公爵邸の北の脅威は去り、私たちの絆(と依存度)はさらに深まった。

そして、物語はいよいよ最終章へと向かう。

王城での任務を終えた私たちが直面するのは、最後の敵。

追い詰められたリリナ様が仕掛ける、起死回生の大嘘。

「モナが国庫を横領している」というデマの、決定的な証拠(捏造)が出てきたのだ。
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