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4章「臆病だね、君は」
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しおりを挟むにもかかわらず、あんなにも淡く儚く美しく生きている色のない絵を、私は見たことがなかった。惹き込まれて、囚われて、叶いようのない夢を与えられた。
「贈り物でも呪いでも、色があってもなくても、ユイ先輩が見えているものなら、それがすべてなんです。先輩の絵ならなんでも好きな私の前で、そんなこと言わないでください。先輩の絵は、珍しいとか技術とかで片付けられるほど、安くない」
ユイ先輩を初めて見たときも、同じ衝撃を受けたのだ。
ああ、あの絵は、この人そのものなんだと。
「っ……」
ユイ先輩がわかりやすく狼狽えた。夜色の瞳で私をじっと見つめたまま、しかし言葉が見つからないのか、口を開けては閉めを繰り返す。
やがて喉の奥から絞り出すように零れ落ちたのは、また予想を反した言葉だった。
「本当、小鳥遊さんて……なんか真っ直ぐ、だよね」
「え?」
「それがすごく、眩しい。だから、いつも君の周りだけは──」
先輩は途中で口を噤んだ。
ゆらゆらと視線を彷徨わせたかと思えば、おずおずと私の手を取っておもむろに歩き出す。明らかに様子がおかしい。
「せ、先輩?」
「……あ、あまり遅くなってもいけないから。次、行こう」
──今、なんて言おうとしたんだろう。
私の周りは、私は、ユイ先輩にどう見えているんだろう。
忙しなく音を鳴らす心臓がやっぱり痛い。
この痛みがなにから来る痛みなのか、私にはどうしても図りかねてしまう。
けれど今は、不思議と追及したいとは思えなかった。
◇
しばらくは気まずい雰囲気が流れていたものの、そこはやはりユイ先輩。
鑑賞コースもゴールに近づき、そろそろ最終エリアという頃には、もういつも通りに戻っていた。
このあたりはおもに小さな海洋生物が集められているらしい。
クマノミやエビ、タコなどの私でも知っているような生き物から、触ることも可能なネコザメまで、多種多様の生物が展示されていた。
そのうちのひとつ、天井を突き抜けるように設置された円柱型の水槽の前で立ち止まっていた私は、隣のユイ先輩を見上げながら告げる。
「先輩はクラゲみたいですよね」
クラゲ、海月。海の月。ユイ先輩そのものだ。
「……俺が?」
「はい。いつもゆらゆらふわふわしてて、どうも掴みきれないところとか」
そうかな、と先輩が不思議そうに小首を傾げた。吸い込まれるようにクラゲが揺蕩う水槽を見つめる立ち姿は、なんともまた絵になる光景で。
ついくすりと笑みを誘われながら、私はひっそりとこれを描こうと決めた。
しばらくクラゲを見ていたかと思ったら、先輩はふいに顔を上げた。
なにかを探すようにあたりをきょろきょろと見回して、ユイ先輩は「こっち」と私の手を引いて歩き始める。
「これ」
「……チンアナゴ? ですか?」
また海洋生物のなかでもマイナーな生き物の前で立ち止まったユイ先輩は、ふたたびじっとチンアナゴを見つめる。絵描きの観察眼がフル稼働しているような目だ。
そんなにこの子たちが気になるのか、と不思議に思っていると、ユイ先輩はふと満足そうに深くうなずいた。そして、ひとこと。
「君に似てる」
「え。こ、この子たちがですか」
「うん。ほら、ひょっこり出てくるところとか。そっくり」
ええ、と私はなんとも複雑極まりない心境でチンアナゴを見つめた。
くねくねと珍妙な動きをしながら、ときおり砂の底にもぐっては、気まぐれに顔を覗かせている。よくよく見たら可愛い……かもしれない。
わからないけど、そう思うことにしておいた。
「……ユイ先輩、水族館よく来るんですか?」
先ほどから思っていたことだった。館内はさして複雑な構造をしているわけではないものの、それにしたって先輩は迷うことなく歩いていく。
勝手知ったる様子、というか、とても慣れているように見える。
「うん、まあ。たまに来るよ。行き詰まったときとか、気分転換したいときとか」
「せ、先輩でも行き詰まることが……!?」
「俺のことなんだと思ってるの。むしろ、行き詰まってばかりだよ。絵に関しても、他のことに関してもね。いつも溺れそうになってる」
なんだか、意外だった。ユイ先輩は、どこまで沈んでも平気で息をしていそうなくらい絵を描くことに囚われている人だと思っていたから。
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