英雄になれなかった子

朝顔

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31 不穏な空

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 空は厚い雲に覆われて、帝都全体が薄暗く、空気は湿っていた。
 何やら不穏な気配がする空色に、馬車に乗って戻ってきたルキオラは、胸騒ぎがするのを感じた。
 街道を歩く人達は、いつもと変わりなくたくさんいたが、誰もが暗い表情で力なく歩いているように見えてしまった。

 役目から解放されたばかりだ。
 新しい人生の始まりで、晴々とした気持ちのはずなのに、厚い雲に飲み込まれたように息苦しく感じていた。

 気のせいだ。
 神殿長に会って、英雄様でなくなったと判断してもらえたら、気持ちも変わってくるかもしれない。
 窓から空を見上げながら、早く早くとルキオラは願っていた。



 神殿に戻り、自分の部屋で待機して指示があるのを待った。
 ルキオラには、久々の遠出だったが、あっという間だったように思えた。

 空はすっかり暗くなり、雨がぽつぽつと降り出した頃、ようやく礼拝堂に来るようにと神殿長から呼び出された。

 暗くなった礼拝堂に、ウルガが明かりを灯した。しんと冷えた空気と、人の気配がなさすぎて、暗闇の中、大きな女神像に見下ろされたら、二人でぶるっと震えてしまった。

「いつか印が消えるとは思っていたけど、こうなってみると寂しいよ。ウルガは親身になって仕えてくれたから……。私がいなくなった後は、ここに残るんだよね?」

 今まで仕えてくれた従者の中で、まともにルキオラの面倒を見てくれた人はいなかった。
 ウルガが唯一、支えてくれたので、会えなくなるのは寂しかった。
 ウルガは神官を目指すのだから、ここに残ると思っていたが、あまりに汚れきった神官達の巣窟に残していくことが、心配になってしまった。

「そ、そうですね……」

「君は真面目な男だから心配だよ。知れば知るほど、ここの連中はとても女神を崇拝しているとは思えない。信仰心があって目指すのなら仕方がないけど、騎士は難しいとしても、馬に乗るのは上手だったから、他に道も……」

「ルキオラ様、実は……私は……」

 ウルガと話していたらガタンっと音が鳴って、礼拝堂の扉が開かれた。
 暗闇の中から、ついに神殿長が高位の神官達を後ろに従えて現れた。
 その後ろにぞろぞろと、神殿長専属の兵士達も現れて、堂内は急に大人数になってしまった。
 ルキオラは息を呑んでから、慌てて立ち上がって頭を下げた。

「お勤め、ご苦労だったな」

 声をかけられたルキオラは、はいと言って頭を下げたまま、神殿長が近づいてくるのを待った。
 神殿長がルキオラの前に立ち、神官達がルキオラの前髪を上げた。
 蝋燭の火を当てられて、神殿長は神官達と何やらコソコソと話をしながら隅々まで確認した。

「よし、間違いない。ついに印が消えたぞ」

 神殿長は立派に蓄えた髭を揺らして、大きな息を吐いた。
 神官達からも、おぉと声が上がって、安堵のため息が漏れた。

「皇帝に連絡をしろ。恐らく直ぐにでもと話が来るはずだ。ヘルトの準備をさせておけ」

 はい、と声が上がって連絡役の神官が走り出した。
 確かに待ちに待った英雄様の決定だが、成人までまだ半年は時間がある。
 それなのに、こんなに慌てて、パーティーでお祝いでもするつもりなのかと、ルキオラは考えてしまった。

「ルキオラ」

「はい」

「お前は印が消えて、ただの人となった。どうだ? 体から力が抜けたような感覚はあるか?」

 神殿長から鋭い視線が飛んできて、ルキオラは緊張してしまった。
 本音を言うと、何も変わらない。
 印が消えただけで、体の奥にはまだ言い表せない温かさを感じる気がする。
 だが、印がないということは、力をなくしたということなので、全部気のせいだろうと考えを散らした。

 それに、神殿長の視線は恐ろしいほどに強かった。
 否定をしたら、頭から喰われそうな恐ろしさを感じてしまい、ルキオラはとにかく逃れるために、頷くことにした。

「……はい」

 ルキオラの答えに、神殿長はニヤリと笑った。

「長かった。先代からこのような厄介ごとを継いで、どうなることかと思ったが、ついにこの時が来た。神もきっと満足されるだろう」

 神殿長の言葉には違和感があった。
 しかし、深く足を踏み入れるには、どうにも不穏な空気を感じてしまい、ルキオラは一歩後ろに退いた。

「あ……あの、私についてですが、これでもう……」

 すぐにでもここから離れたいと思ったルキオラは、自分の処遇について確認しようとした。
 しかしその時、何をするんだ、という声が響いた。

「放せ! やめろ!!」

 その声はウルガだった。
 いつの間にか屈強な兵士がウルガを取り囲んで、両側から腕を掴まれて、連れて行かれそうになっていた。

「何をするんですか!? 彼は私の従者の神官見習いで、兵に連れて行かれるようなことは何もしていません」

「お前はもうただの人だろう。従者など付けられる身分ではないはずだ」

「それは……そうですが、なぜ兵があんな手荒な真似を……」

 神殿にいる兵士は神殿長に従順で、乱暴な者が多い。ルキオラは、ウルガに動かないようにと視線を送った。
 暴れたら腕の一本くらい平気で折ろうとしてくるかもしれない。

「心配するな、あいつは地方に送り返すだけだ。すぐに成人の儀が行われる。お前は部屋から出るな。兵士を立たせて監視しておくから、絶対に動かないように!」

「どういうことですか? まだ半年もあるのに、もう儀式をするのですか? 私はただの人なら神殿から出るのではないですか?」

「お前が知るところではない。黙って部屋にいるんだ」

 目障りだからと、外の教会にでも送られると思っていたのに、なぜか神殿長はルキオラを解放しなかった。
 ルキオラは抗議をしようと神殿長に近づこうとしたが、行く手を兵士が持っている槍で塞がれてしまった。

「大人しくした方が身のためです。我々とご同行ください」

 口では丁寧に言っているが、強引に腕を後ろに回されて掴まれてしまった。

「ルキオラ様! おい! その方に触るな!」

 ウルガが叫んでもがいているので、ルキオラは力を抜いて大人しく捕えられた。

「ウルガ、大丈夫だから……、私は大丈夫」

「ルキオラ様……」

 今まで身の回りのことを一生懸命に世話してくれたウルガのおかげで、英雄様として最後の日々を希望を持って過ごすことができた。
 ちゃんと別れることができなくて悔しいが、自分のためにウルガに怪我をしてほしくなかった。

「いくぞっ、早く動け!」

 兵士に背中を押されたルキオラは、転びそうになりながら何とか足を踏ん張って前に進んだ。
 ウルガが泣きそうな顔をして見てきたので、また大丈夫だと頷いて目線を送った。
 棒でぐいぐいと押されて、ルキオラは通路を歩かされた。

 なぜ捕えられるのか、どうして外に出してもらえないのか、この先どうなるのか。
 不安で胸が押しつぶされそうだったが、とにかく生きてさえいれば、また会える。
 願いを込めて最後に振り返ったルキオラだったが、無情にも扉が閉められて、ウルガの顔を見ることはできなかった。






 乱暴に部屋に戻されたルキオラだったが、入り口と窓の下に兵が配置されて、本当に出入りできなくなってしまった。
 何が起きてるのか、全く情報が入ってこない。
 ウルガがどうなったのか、いつ儀式が行われるのか、中から兵士に話しかけたが、答えてはくれなかった。

 仕方なく部屋の中をウロウロして、眠れない夜を過ごしたが、朝になっても状況は変わらなかった。
 残飯のような食事がドアの隙間から投げ入れらたが、何一つ説明のようなものはなかった。

 ルキオラはため息をつきながら足を止めた。
 明らかに何かがおかしい。
 ただずっとウロウロしていても仕方がないので、ルキオラは記録を調べるために、本棚の前に立った。

 書庫と呼べるほどでもないが、ルキオラの部屋にも本棚がある。
 そこには、宮殿図書館から借りてまだ返却していなかった本が残っていた。
 帝国で行われる神事や儀式について、オルキヌスが関心を持っていたので、力になれたらいいと思って、関係のありそうな本を借りていた。
 その中から儀式の記録について書かれた本を手に取った。
 落ち着いて調べるために、ベッドの上に座って本を開いた。

「まずは直近の成人の儀は……」

 前回成人の儀が行われた記録を調べた。
 ルキオラが生まれる百年前に誕生した英雄様は、ヘインスという名だった。
 ヘインスは十五の時に成人の儀を行っている。
 亡くなったのはその五年後、成人である二十歳の時に病で死亡と書かれていた。
 その前の世代の記録を調べると、前の英雄様は十七の時で儀式を行っている。

 このことから、成人の儀といっても二十歳ぴったりに行われるものではないと分かった。
 それより過去の書かれている記録を見てみたが、十代半ばに行われていることがほとんどだった。
 むしろこれを見ると、ヘルトの儀式は遅い方だと分かる。
 それはルキオラと力が分かれていたからで、歴史上初めてのことだったからだろう。

「だから急いでいたのか……、でもそんなに急いだところで、早く儀式を終えて宮殿に入れば、英雄様としての活動は終わってしまう。国民に望まれているのに、都合で終わらせてしまうなんて……」

 英雄様の存在は、帝国民のためにあるのだと思っていた。
 力が一番強くなる成人ギリギリまで活動して、下降を辿るその後は、皇帝の側で国を支える、そういった仕組みだと思い込んでいた。

 そしてヘインスが成人の歳で亡くなってしまったこともまた、胸が詰まるような気持ちになった。

「……これじゃまるで、英雄様は儀式が終わったら用済みみたいだ。余生は皇帝の側で守られてなんて……とてもそんな風には……」

 教えてもらってきたことと、実際はずいぶんと違う内容に思えて、ルキオラは腕を組んで考えてしまった。
 改めて記録を見れば疑問が湧いてくるが、オルキヌスに出会わなければ、何も考えずに言われた通りに信じていたに違いない。

 その時、パタンと音が鳴った。
 並べていた本の隙間が空いたことで、立てていた本が横にひとつ倒れた。
 何も考えずにその方向を見たルキオラの目に一冊の本が目に入った。

 倒れた本の隣にあった、大型で重量感のあるその本は、アーバン伯爵にもらってから、どうしていいか分からずにそのまま置いていた、あの日記だ。
 目が離せなくなって、じっと見つめてしまった。

 その本がまるで呼んでいるみたいに思えて、ルキオラはベッドから立ち上がった。





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