英雄になれなかった子

朝顔

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30 約束

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 パーティーがあった翌朝、目蓋が重くて目を開けようとすると、頭痛がした。
 胸も重くて、気だるさが残っていたので、ルキオラはベッドに転がりながら、気持ち悪いと言って唸った。

「二日酔いですよ。まったく、英雄様を酔いつぶすなんて……、町長は何を考えているだ!」

 水差しを持って部屋に入ってきたウルガは、怒っていますという顔でグラスに水を注いだ。
 何とか起き上がったルキオラは、ベッドの背もたれに背中を預けたまま、グラスを受け取って水をごくごくと飲んだ。

 昨夜遅くまであったパーティーで、ルキオラは動けなくなってオルキヌスに運ばれてしまった。
 表向きは酔ったということだったが、何が起きたのか、ルキオラにはしっかり記憶が残っていた。

 酔っていたのは確かだったので、酒の匂いを嗅いだウルガは、町長に抗議をしますと言って真っ赤になって怒っていた。
 何とか宥めてベッドに転がってからの記憶がない。
 おそらくそのまま寝てしまったのだろう。

「あの……、オルキヌス卿は?」

「町の兵士達の早朝訓練の指導に行っています。何か御用ですか?」

「い、いい……、大したことじゃないからっ」

 ウルガの真面目な視線を受けて、ポロリと話してしまいそうになった。
 昨夜はお酒が入って開放的な気持ちになり、どうしようもなく、オルキヌスに触れたくなってしまった。
 それであんな事に……

 思い出しただけで、体の奥が疼いて顔が熱くなってしまった。

「はっ、お顔が赤いです! 熱でも……」

「い、いや、これは……」

 ルキオラの熱を測ろうとしたのか、ウルガが手を伸ばしてきたが、その手がピタリと止まった。
 ルキオラの前髪がするりと横に流れた先を見て、目を見開いていた。

「ルキオラ様……」

「え? どうしたの?」

「し……」

「し?」

「印が、ありません」

 蚊が鳴くような小さな声がウルガの口から漏れた。
 ルキオラはついにその時が来たのだと、体がビリっと痺れて酔いが吹っ飛んでしまった。
 前髪を全部持ち上げてウルガの方に見えるようにおでこを向けた。

「よ、よく見て! ほ本当に!?」

「ええ、何もありません。昨夜までは確かにありました。今は……何も……」

 部屋の中に静寂が流れた。
 スッと立ち上がったルキオラは、鏡台の前に座って自分の目で確認をした。
 そして深く息を吐いて顔を上げた。

「ウルガ、神殿に伝令を送ってください。印が消えたと、英雄が選ばれたと」

 ウルガが分かりましたと言って部屋から出て行った後、ルキオラは一人で何度も鏡の前で確認してしまった。

 何の跡形もなく、ただ真っ白なおでこしか見えなかった。
 ついに役目から解放される時が来た。
 きっと、まだ使えるからと、ファルコンには残れと言われると思うが、ルキオラは辞退して去ろうと決心していた。
 そして、この胸の中にある想いは、真っ直ぐに伸びている。

 その人の元へ、あの大きな胸に飛び込もう。
 昨夜耳元で聞いた告白に、ルキオラはすぐにでも答えてしまいたかった。
 今なら分かる、ルキオラが泣いている時、優しく寄り添ってくれたオルキヌスに惹かれていた。
 眩しいほど格好良くて、優しくて時々いじわるで、甘く微笑む顔と寂しそうに遠くを見つめる目を持っている人。
 ファルコンへの気持ちに揺れながら、どんどん惹かれていた。

 ファルコンへの気持ちにもやっと区切りがついて、広い世界へ連れて行ってやると言ってくれた彼の手を、もう迷うことなく掴もうと決めた。

 オルキヌスのことを考えれば考えるほど、体が熱くなっていく。
 やっと印も消えたので、ようやく前に進むことができると思った。

「でも……全然、変わらない」

 印は消えたというのに、不思議と体の感覚は変わらなかった。
 手を広げてみたら、今にも力が使えそうな気がしてしまった。
 せっかく印が消えたというのに、わざわざ試すこともないかとルキオラは首を振って手を下げた。




 しばらくエイレンのホテルに滞在して、神殿からの返事を待った。
 やはりすぐに戻るように連絡が来たので、表向きは体調不良ということで、その他の日程は切り上げてルキオラは神殿に戻ることになった。

 オルキヌスはもともとファルコンの親書を、国境の町へ届ける役目があったので、エイレンで別れることになった。

 みんなが急いで帰り支度をする中、ルキオラは邪魔にならないように、ホテルの中庭にあるベンチに座っていた。
 高台に作られているので、町を一望できて港や海がよく見渡せた。
 ぼんやりと座っていたら、後ろからよぉと声をかけられた。
 ここ数日、兵士の訓練に付き合って忙しくしていたオルキヌスが、ゆっくりと中庭を歩いてきた。

「まだ馬の準備に時間がかかるらしい。少し待ってくれと言われた」

「分かりました。突然帰る事になって、みんな動揺していますから、申し訳ないです」

「気にするな、いつか来ることだったんだろう。周りだって分かってくれるさ」

 オルキヌスは話しながら、ルキオラの隣に座った。そして手を伸ばして、ルキオラの前髪を上げた後、おでこを確認するように眺めた。

「うん、何もないおでこもいいな。印があっても可愛かったが、どちらもいい」

「ま……また、そんなことを……」

「俺の気持ちは言っただろう。ルキオラの側にいると、構いたくて仕方がない」

 ニヤッと笑ったオルキヌスが揶揄ってくるので、ルキオラは顔を赤くして下を向いた。

「……お前に、話しておくことがある」

 揶揄ってきたくせに、次は真面目な声色になったのでルキオラは顔を上げた。
 オルキヌスは顔を真っ直ぐにして前を見ていた。
 どこか遠いところ見ている、寂しそうなあの目をしていた。

「俺は、この町で生まれた」

「え……」

「正確には、この町の娼館で生まれた」

 驚きの告白に、ルキオラは声を出せなくなり、ごくっと空気を飲み込んだ。

「母はもともと娼婦だったわけではない。父も母も身分が高い家に生まれたが、両家の間には溝があって、結婚を反対されて駆け落ちした。人里離れた山奥でひっそりと二人で暮らしていたが、父の方の捜索隊に見つかってしまった。その時、赤ん坊だった兄と、母の腹の中には俺がいた。父の家は一族で争っていて、子が見つかったら殺される可能性があった。だから母は、必ず見つけるからという父の言葉を信じて、子供と共に逃げた。流れ着いたのが、この帝国の港町、エイレンだ」

 以前オルキヌスが、好きなら全て捨ててもいいくらい、頭が染まるものだと言っていたのを思い出した。
 まさにそれは、オルキヌスの両親の話に思えた。
 全てを捨てて駆け落ちした二人に待っていたのが悲しい別れだったなんて、胸が痛くなった。

「母は父が探しに来てくれるのを待ち続けたが、子を抱えた女一人、生きていくのは厳しかった。娼館に身を寄せて、客を取るようになり、兄と俺は母が男と部屋に入っていくのを見ながら育った。そしてあの大火だ。母と兄と俺はあの火事に巻き込まれた」

「えっ……そんなっ……」

「気がついた時、母は火に飲まれてもう手遅れだった。兄は逃げる時に俺を庇って命は助かったが大怪我をした。俺のせいで、兄は深い傷を負って生きる事に……だから、残りの人生は兄のために生きようと決めた」

「でも……火事の中、みんな生きるのに必死な状況ですから、そんな……自分を責めるなんて……」

「兄にもそう言われたよ。もう、自分の人生を生きてくれと。でも、それが分からなかった。だから死に場所を探すように戦いに身を投じて、危険な場所にも飛び込んでいった。でも、結局死ねずに生き残って、最後に兄のために少しでも役に立つことをして死んでやろうって思ったんだ」

 ルキオラはいつの間にか、オルキヌスの手を掴んでいた。
 オルキヌスは話しながら、本当にどこかに消えてしまいそうだと思ってしまった。
 だから、消えてほしくなくて、無意識にその手を掴んでいた。

「だから、ここに戻ってきた。英雄様の謎を解いて、帝国の弱点を掴んでやろうって意気込んでな」

 その話から、オルキヌスの立場がなんとなく見えてきた。
 友好国の出身だと言っていたが、おそらく身分を偽っていて、本当は敵対関係の国の出身なのだろう。
 それを聞いても、ルキオラの心は揺るがなかった。
 むしろやっと話してくれたと、感動して胸が熱くなっていた。

「でも、ここに来て、ルキオラと出会って、欲が湧いてしまった。いつ死んでもいいと思っていたのに、生きたいと……ルキオラと一緒に生きていきたいと思うようになってしまった」

「オルキヌス卿……」

「ルキオラ、お前を幸せにしたい」

「………」

「心に別の男がいても構わない。いつか俺に夢中にさせてみせる。だから……だから、俺を見てくれ。ルキオラの笑顔を命に代えても守りたい」

 声を出すことができなかった。
 息を吸い込んで口に手を当てたルキオラは、溢れてくる想いに我慢できなくなり、目からポロリと涙を溢した。

 こんなに揺さぶられる想いになって、胸が熱くなるのはルキオラも同じ気持ちだからだ。
 自分も想いを伝えたいと思って口を開こうとしたら、オルキヌスが勢いよく肩を掴んできた。

「一週間だ」

「え?」

「一週間で戻る。その時に、ルキオラを帝国から奪う。この国の何もかも、敵に回しても構わない。待っていてくれ、必ず、奪いに行くから」

 溢れてくる涙で視界が見えなくなってしまった。
 ルキオラは精一杯、分かったと頷いて見せた。
 見つめ合った二人は、思いを確認し合うように抱きしめ合った。


 今すぐ好きだと言って二人で逃げてしまいたい。
 けれどオルキヌスには目的があり、ルキオラも全てを終わらせなくてはいけない。

 印がなくなった状態を見られたら、すぐに解放されるだろうと、ルキオラはこの時思っていた。

 しかし、いよいよ大きな波が動き出して、全てを飲み込もうとしていることを、まだ知らなかった。





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