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2・17歳
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水曜日と木曜日はひたすら彼女から借りた佐野元春のCDを聴いていた。アルバムタイトルは『NO DAMAGE』。
尾崎とは違ってポップなメロディーが多かったけれど、情緒を持った詩的な歌詞の一つ一つの切なさや真っすぐさがとてもストレートで心に染みた。今ここにある心を的確で研ぎ澄まされた言葉に置き変えるという点では、尾崎豊より洗練されている気がする。尾崎の歌が個であることの混乱そのものを言葉に変えて唄っているのに比べて。
もちろんカセットテープにもダビングして、煙草一つ買いに行くにしてもイヤホンを耳にしていた。
『SOMEDAY』という曲がお気に入りになり、たった二日で唄えるくらいになっていた僕は、誰もいない家でギターを出してはコードを探して口ずさんでいた。なのに、金曜日の夜は雨になった――。
「尋生! 中村さんから電話!」
夕食の直後、一階から母の大声が響いた。高校の彼女には、もう一か月会っていない。会う気も失せていた。しょせん、彼女、という存在が欲しかっただけの、それだけの恋だったのだ。
居間とドア一枚の隙間から受話器のコードを伸ばして、小声の会話が始まる。
「もしもし――」
『尋生君? どうして学校出て来んと? このままじゃ留年になるって』
すでに涙声の彼女に、僕は黙り込む。彼女へは「辞めたい」という言葉はまだ伝えていなかった。
『ねえ、明日にでも会えん? 午後から、部室にも出らんで待ち合わせられるけん』
当時、学校の土曜日といえば午前中授業が普通で、その放課後に会いたいと彼女は言った。僕は、一か月待たせているという負い目が襲い、渋々承知した。場所は高校のそばの小さな公園。どんな顔で会えばいいのかと思えば憂うつだった。それよりも僕には今からニーナとの約束があるのだ。そのことで頭がいっぱいだった。
「いなづまのけん」の入手を評価されて、兄貴からのお小遣いはいつもの倍額の千円だった。その千円を財布に、ギターケースのサイドポケットには尾崎豊のファーストアルバム『十七歳の地図』をしのばせた。
そぼ降る雨の中、ベランダから脱出するのは無理と判断して、僕はギターを担ぐと忍び足で玄関へ向かった。運よく弟たちが風呂に入っていた声で遮られ、まんまと家を出る。
傘を差して夜のバス停へ立つ。「こんばんは」がいいのか「この間はどうも」がいいのか彼女への第一声を悩んでいたけれど、実際に顔を合わすと、
「CD、聴きました――」
に落ち着いた。
「うん。よかった。それより雨になったね。ヒロキは雨が降ったらどうするの?」
ニーナは髪をポニーテールに結んでいて、少しだけ少女の顔を見せていた。初見では二十歳過ぎに見えていた。
「アーケードの銀行前があるんですけど――警備員が十時に回ってきて、それが終わらないと座れないんです」
「そっかあ」
しばらくあごに人差し指を当てて迷っていた彼女が言う。
「すぐそこにバーガーショップあるよね。そこで時間つぶそうよ。うん、それがいい」
それくらいの持ち合わせはあると安心して、二人で傘を並べて場所を動いた。傘の触れ合う距離を、今はお互いの親密さだということにした。
「そうなんだ。ヒロキは『SOMEDAY』が好きなの? 有名曲なんだよ。ファンもいっぱいいる」
当然の顔で灰皿を手に取り、コーラのMをストローで飲んでみせる彼女は、青い目で瞬きを繰り返した。
「僕も――CD、持ってきたんですけど」
濡れたギターケースのサイドを探り、尾崎のCDを取り出す。ニーナへそっと手渡すと彼女はジャケットをじっくり眺めて、
「『SEVENTEEN`S MAP』か。すごくよさそうなタイトル。ジャケットの感じもいい。名曲が入ってる予感がする。ありがとう」
彼女は大事そうに二枚のCDをバッグへしまう。僕はホットコーヒーの残りを揺らして、周囲を見回して煙草に火をつける。それを見て、
「気になるの? 周りが」
ニーナは右手で頬杖をつく。いつもならば気にしない。ただ、今は金髪碧眼の少女と一緒で、嫌でも目立ってしまう。それが気になっていた。
ニーナは言う。
「決まり事って、ある意味破るためにあると思うの。ベルギーの飲酒年齢だってそう。場所が違えばルールが変わるし、時代が違えばモラルも変わる。そんな中で、自分なりのルールを主張したって構わないと私は思ってるの。日本はいい国だけど、窮屈なとこも多い。私、中学の時に『髪を黒く染めなさい』って言われたの。でも、おかしいよね。これが生まれたままの姿なんだから。ママに話したら怒り心頭で、学校に怒鳴り込んでったわ。融通が聞かないのよ。生まれつき片腕がない子に『両腕で登校しなさい』って言う? 私の髪の色はハンディキャップじゃないけれど、時々そう思えてしまうのが日本って国なの。偏見とかバイアスとかはやっぱり存在してて、外国人のなりをして生きていくには、日本は少し難しいとこがある」
それは僕にも理解できる部分がある。高校生らしくない高校生がいることを、世間はなかなか許してくれない。煙草を吸えばアウトローと切り捨てられて、学校に行かなければ落ちこぼれだ。落ちこぼれに関しては否めない部分もあるのだけれど。
ニーナが壁の時計を見て立ち上がる。
「ねえ。十時になったよ。行ってみようよ、そこ――」
半分ほど明かりの落ちたアーケードには少しばかりの歩行者と自転車。並んだシャッターを辿って歩くと、夜になるほどいかめしい佇まいの石造りの建物がある。座ってくれと言わんばかりの石段。そこが僕の二番目のお気に入りだ。
「そっか。十七なんだ。一個しか違わないんだから、なんか気を遣った喋り方しなくていいよ」
道すがら学年の話をすると、彼女もまた十七歳だと言った。ただし誕生日が三月なのだと。九月入学の国ならば同級生だと彼女は言う。だとして、話し方はそう簡単に変えられない。なので次回から、ということに決めた。その次回のあることが、僕の中ではすでに楽しみだった。
早速座り込んでギターを出した僕に、ニーナは言う。
「私も隣に座っていいのかな」
「いい――ですけど」
「分かった。じゃあ今夜の演奏代買ってくる」
傘を手に、フレアスカートをひるがえしては、アーケードを駆けていった――。
今夜は何だか人の目が痛いなと思いつつギターのチューニングをしていると、警官が二人並んで巡回しているのが見えた。僕は顔を伏せることもなく堂々とギターを弾き下ろす。ビクビクしていても仕方がないのだ。そう見えてしまえば彼らはきっとこちらへ向かってくる。そういうものだった。
ニーナがムダに駆け足で戻ってくる。
「はい。まずは乾杯」
言うと彼女はひと缶を僕に手渡し、プルタブを開ける。
「わ。走ったから溢れちゃった。そっち気をつけてね」
言うが遅く、僕もシャツを濡らした。
「いいよ、ギターは無事だから」
「そう? それでヒロキの『SOMEDAY』はどんな感じなの? 覚えたんでしょ?」
僕はすでにイントロのコードを押さえて、
「覚えたっていうかアレンジした感じで――」
「うん。それでいい。聴かせて」
多少の緊張は隠せず、何度かコードを弾き鳴らして、練習したイントロに入った。ニーナが隣からギターをのぞき込む。
練習不足でハイコードの音が出ていなかったけれど、彼女は僕のギターに合わせてハミングしていた。きれいなソプラノが僕の左耳をくすぐる。その心地よさに酔いながら演奏を終えた。
「すごい。ヒロキ、三日で覚えたんだ」
「本当はもうちょっと練習が必要なんですけど」
「ううん、よかった。でもね、欲を言えば歌も欲しいなって。ヒロキは唄わないの?」
誰もいない部屋でならば、軽く唄わないこともない。実際、この佐野元春も小さく唄いながら練習した。
「あのね、東京ではいろんな駅前とかでストリートミュージシャンいるよ? 皆、すごい声で唄ってる。ヒロキも唄えばいいんだよ。たくさん人が集まるよ?」
けれど僕は知っている。
「この街は、そういう街じゃないんです。観光客に対してはすごくオープンに見えるけど閉鎖的なとこもあるし、例えばそういう人がいても遠目に通り過ぎるだけです」
ニーナは力強く言う。
「だったら私が聴く。私のために唄って」
僕には答えられない。さすがにそこまで目立つことはしたくないし、警察に目をつけられれば今後は自由に街を出歩けなくなる。
「僕は――ギターが弾ければいいだけだから」
そう答えると、彼女は顔を真正面に戻して、
「そうだね。ヒロキはヒロキの好きなやり方があるんだもんね。じゃあ、次の曲聴かせて」
缶ビールを手に、彼女は笑顔を作った。作った、というのが伝わってきて切なかった。
尾崎とは違ってポップなメロディーが多かったけれど、情緒を持った詩的な歌詞の一つ一つの切なさや真っすぐさがとてもストレートで心に染みた。今ここにある心を的確で研ぎ澄まされた言葉に置き変えるという点では、尾崎豊より洗練されている気がする。尾崎の歌が個であることの混乱そのものを言葉に変えて唄っているのに比べて。
もちろんカセットテープにもダビングして、煙草一つ買いに行くにしてもイヤホンを耳にしていた。
『SOMEDAY』という曲がお気に入りになり、たった二日で唄えるくらいになっていた僕は、誰もいない家でギターを出してはコードを探して口ずさんでいた。なのに、金曜日の夜は雨になった――。
「尋生! 中村さんから電話!」
夕食の直後、一階から母の大声が響いた。高校の彼女には、もう一か月会っていない。会う気も失せていた。しょせん、彼女、という存在が欲しかっただけの、それだけの恋だったのだ。
居間とドア一枚の隙間から受話器のコードを伸ばして、小声の会話が始まる。
「もしもし――」
『尋生君? どうして学校出て来んと? このままじゃ留年になるって』
すでに涙声の彼女に、僕は黙り込む。彼女へは「辞めたい」という言葉はまだ伝えていなかった。
『ねえ、明日にでも会えん? 午後から、部室にも出らんで待ち合わせられるけん』
当時、学校の土曜日といえば午前中授業が普通で、その放課後に会いたいと彼女は言った。僕は、一か月待たせているという負い目が襲い、渋々承知した。場所は高校のそばの小さな公園。どんな顔で会えばいいのかと思えば憂うつだった。それよりも僕には今からニーナとの約束があるのだ。そのことで頭がいっぱいだった。
「いなづまのけん」の入手を評価されて、兄貴からのお小遣いはいつもの倍額の千円だった。その千円を財布に、ギターケースのサイドポケットには尾崎豊のファーストアルバム『十七歳の地図』をしのばせた。
そぼ降る雨の中、ベランダから脱出するのは無理と判断して、僕はギターを担ぐと忍び足で玄関へ向かった。運よく弟たちが風呂に入っていた声で遮られ、まんまと家を出る。
傘を差して夜のバス停へ立つ。「こんばんは」がいいのか「この間はどうも」がいいのか彼女への第一声を悩んでいたけれど、実際に顔を合わすと、
「CD、聴きました――」
に落ち着いた。
「うん。よかった。それより雨になったね。ヒロキは雨が降ったらどうするの?」
ニーナは髪をポニーテールに結んでいて、少しだけ少女の顔を見せていた。初見では二十歳過ぎに見えていた。
「アーケードの銀行前があるんですけど――警備員が十時に回ってきて、それが終わらないと座れないんです」
「そっかあ」
しばらくあごに人差し指を当てて迷っていた彼女が言う。
「すぐそこにバーガーショップあるよね。そこで時間つぶそうよ。うん、それがいい」
それくらいの持ち合わせはあると安心して、二人で傘を並べて場所を動いた。傘の触れ合う距離を、今はお互いの親密さだということにした。
「そうなんだ。ヒロキは『SOMEDAY』が好きなの? 有名曲なんだよ。ファンもいっぱいいる」
当然の顔で灰皿を手に取り、コーラのMをストローで飲んでみせる彼女は、青い目で瞬きを繰り返した。
「僕も――CD、持ってきたんですけど」
濡れたギターケースのサイドを探り、尾崎のCDを取り出す。ニーナへそっと手渡すと彼女はジャケットをじっくり眺めて、
「『SEVENTEEN`S MAP』か。すごくよさそうなタイトル。ジャケットの感じもいい。名曲が入ってる予感がする。ありがとう」
彼女は大事そうに二枚のCDをバッグへしまう。僕はホットコーヒーの残りを揺らして、周囲を見回して煙草に火をつける。それを見て、
「気になるの? 周りが」
ニーナは右手で頬杖をつく。いつもならば気にしない。ただ、今は金髪碧眼の少女と一緒で、嫌でも目立ってしまう。それが気になっていた。
ニーナは言う。
「決まり事って、ある意味破るためにあると思うの。ベルギーの飲酒年齢だってそう。場所が違えばルールが変わるし、時代が違えばモラルも変わる。そんな中で、自分なりのルールを主張したって構わないと私は思ってるの。日本はいい国だけど、窮屈なとこも多い。私、中学の時に『髪を黒く染めなさい』って言われたの。でも、おかしいよね。これが生まれたままの姿なんだから。ママに話したら怒り心頭で、学校に怒鳴り込んでったわ。融通が聞かないのよ。生まれつき片腕がない子に『両腕で登校しなさい』って言う? 私の髪の色はハンディキャップじゃないけれど、時々そう思えてしまうのが日本って国なの。偏見とかバイアスとかはやっぱり存在してて、外国人のなりをして生きていくには、日本は少し難しいとこがある」
それは僕にも理解できる部分がある。高校生らしくない高校生がいることを、世間はなかなか許してくれない。煙草を吸えばアウトローと切り捨てられて、学校に行かなければ落ちこぼれだ。落ちこぼれに関しては否めない部分もあるのだけれど。
ニーナが壁の時計を見て立ち上がる。
「ねえ。十時になったよ。行ってみようよ、そこ――」
半分ほど明かりの落ちたアーケードには少しばかりの歩行者と自転車。並んだシャッターを辿って歩くと、夜になるほどいかめしい佇まいの石造りの建物がある。座ってくれと言わんばかりの石段。そこが僕の二番目のお気に入りだ。
「そっか。十七なんだ。一個しか違わないんだから、なんか気を遣った喋り方しなくていいよ」
道すがら学年の話をすると、彼女もまた十七歳だと言った。ただし誕生日が三月なのだと。九月入学の国ならば同級生だと彼女は言う。だとして、話し方はそう簡単に変えられない。なので次回から、ということに決めた。その次回のあることが、僕の中ではすでに楽しみだった。
早速座り込んでギターを出した僕に、ニーナは言う。
「私も隣に座っていいのかな」
「いい――ですけど」
「分かった。じゃあ今夜の演奏代買ってくる」
傘を手に、フレアスカートをひるがえしては、アーケードを駆けていった――。
今夜は何だか人の目が痛いなと思いつつギターのチューニングをしていると、警官が二人並んで巡回しているのが見えた。僕は顔を伏せることもなく堂々とギターを弾き下ろす。ビクビクしていても仕方がないのだ。そう見えてしまえば彼らはきっとこちらへ向かってくる。そういうものだった。
ニーナがムダに駆け足で戻ってくる。
「はい。まずは乾杯」
言うと彼女はひと缶を僕に手渡し、プルタブを開ける。
「わ。走ったから溢れちゃった。そっち気をつけてね」
言うが遅く、僕もシャツを濡らした。
「いいよ、ギターは無事だから」
「そう? それでヒロキの『SOMEDAY』はどんな感じなの? 覚えたんでしょ?」
僕はすでにイントロのコードを押さえて、
「覚えたっていうかアレンジした感じで――」
「うん。それでいい。聴かせて」
多少の緊張は隠せず、何度かコードを弾き鳴らして、練習したイントロに入った。ニーナが隣からギターをのぞき込む。
練習不足でハイコードの音が出ていなかったけれど、彼女は僕のギターに合わせてハミングしていた。きれいなソプラノが僕の左耳をくすぐる。その心地よさに酔いながら演奏を終えた。
「すごい。ヒロキ、三日で覚えたんだ」
「本当はもうちょっと練習が必要なんですけど」
「ううん、よかった。でもね、欲を言えば歌も欲しいなって。ヒロキは唄わないの?」
誰もいない部屋でならば、軽く唄わないこともない。実際、この佐野元春も小さく唄いながら練習した。
「あのね、東京ではいろんな駅前とかでストリートミュージシャンいるよ? 皆、すごい声で唄ってる。ヒロキも唄えばいいんだよ。たくさん人が集まるよ?」
けれど僕は知っている。
「この街は、そういう街じゃないんです。観光客に対してはすごくオープンに見えるけど閉鎖的なとこもあるし、例えばそういう人がいても遠目に通り過ぎるだけです」
ニーナは力強く言う。
「だったら私が聴く。私のために唄って」
僕には答えられない。さすがにそこまで目立つことはしたくないし、警察に目をつけられれば今後は自由に街を出歩けなくなる。
「僕は――ギターが弾ければいいだけだから」
そう答えると、彼女は顔を真正面に戻して、
「そうだね。ヒロキはヒロキの好きなやり方があるんだもんね。じゃあ、次の曲聴かせて」
缶ビールを手に、彼女は笑顔を作った。作った、というのが伝わってきて切なかった。
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