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4・手紙

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 鼻の奥で感じた風に、秋の匂いが混じっていた。まだ街路樹の紅葉も先の話だったけれど、心の奥底では早くそれを望んでいた。鮮やかなフレイムレッドの絵の具が灰色のビル街を塗りつぶしてゆくことを夢想していた。色のない毎日の中で。


 乗客の少ない午後八時のバスへ乗り込み、最後列の席へ座る。

 ウォークマンで耳をふさげば、考えるのはニーナのことばかりだった。僕はまだ彼女の何も知らない。それを知りたいと思う理由には、鈍感でありたかった。


 月曜日の街はどこか澄ましていて、飾り気がない。今日から仕事始まりの大人たちが疲れた顔で、笑顔も少なく歩いてゆく。そう見えてしまうのは僕の勝手な思い込みなのだろう。それぞれがどんな職場で働いて、どれだけの仕事を終えて帰宅しているのかは高校生の身では想像がつかなかった。


 そんなことに心を奪われていると、自分が世界中のどんな職業にも就けない気がした。いつまでもどこまでも逸れ者で、社会に馴染めない大人になってゆくのだろうかと、不安を超えて恐怖を感じた。そんな大人が生きてゆけるほど世間は甘いだろうか。

 まだアーケードから人の流れがあるうちに、くろがね橋の、川の方へと丸く突出した欄干の場所でギターを置いた。朝になれば行商のオバちゃんたちが野菜や漬物を並べる場所でもある。
対峙する歩行者の流れと、心の中に抱えた十七歳の子供なりの葛藤。それらを一度夜のダークブルーで塗りつぶして、僕はギターを構える。それは心をふさぐ行為に似ている。
秋の夜空へと吸われてゆくギターの音色。FメジャーセブンからEマイナーセブン。灰皿にしたコーヒーの空き缶。そんなもので一時間を過ごした。


 煙草をポケットから取り出していると、バス通りの方を巡回のミニパトがゆっくりと通り過ぎてゆく。けれど構わない。それより、小さなトランシーバーのような電話があればいいのにと、そんなことを考えていた。ニーナへ、先日からの振る舞いを詫びたかった。けれど、そんな気分はすぐに吹き飛んでしまう。奇跡はいつも必然のように訪れるのだ。

「いた――。いると思ってたよ。だからハイネケン二本」

 青い目に映る街明かりをいたずらっぽく揺らして、彼女がジーンズに秋物の赤いブレザー姿で現れた。僕は空想の中で繰り返していた言葉を実際に口にする機会を得た。なのに、唇が素直に動かない。

「僕といると、また捕まるよ」

 そんなことしか口を突いて出ない。思いが上手く言葉にならない。

 ニーナは気にしない顔で、ビールの一つを僕の前へ置く。

「言ったでしょ。ギターバッグは目の前。それから姿勢は胸を張って堂々と。世間はキミを夜の街で淋しそうにギターを鳴らす少年だなんて見てくれないんだから。何か目的があって演奏してるんだって、そう見るんだよ。期待に応えなきゃ」

 彼女はビールを開けて、橋の上に立ったまま口元へ持ってゆく。白いのどが上下する。そんな仕草だけで、僕の胸には甘い痛みが走る。

「それで、モトハル・サノ。新曲は覚えたのかな?」

 彼女は細い、夜風にキラキラと透き通る髪をそのままに、バレリーナのようにつま先で一回りしてみせた。僕は目を伏せる。

「ニーナは……例えば何を覚えて欲しいの?」

「うん、そうね。『アンジェリーナ』とか『ガラスのジェネレーション』とか。そんなポップな感じかな。ヒロキができればの話だけど」

「練習すればできるとは思うけど……。でもニーナが言ってるのはインストじゃなくて、ボーカルなんだよね」

 十七歳の可憐な少女は、またビールをのどへ流す。とてもナチュラルに。

「だって、せっかくだもん。唄えるなら唄った方がいいよ。人だって来る」

「人は来なくてもいいんだよ。ギターが弾けるなら」

「ウソ。そんな人は夜の街で淋しそうにギター弾いてたりしない。ヒロキは本当は人と関わり合いたいんだって。誰だってそうだよ。人は誰かがいなくちゃ生きていけないんだから。それを口にするのは恥ずかしいことじゃないんだよ?」

 僕はまた心をふさぎそうになる。彼女に本当のことを話せればどんなに楽だろう。学校のこと、分かり合えない親のこと、本当はやりたいことなど何も見つからない焦り。けれど、果たしてそれらはたった一つしか歳の違わない彼女へ伝えてしまっていい事柄なのか。それを迷っていた。


 握ったギターも弾かず、もらった缶ビールに手をかける。どれだけ大人ぶってみても、それは今の僕に似合わない。美味しい、というビールを飲んだことがない。そう思えた時が大人だろうか。つまらない答えだ。

「ねえヒロキ。何か弾いて。なんでもいい」

 僕はギターの音色だけで答える。三分ほどの短い曲で――。

 それが終わると当然、彼女は尋ねてくる。

「いい感じ。なんていう曲?」

「タイトルはない。いつの間にかできてた曲なんだ。中学生の時によく弾いてた」

「すごい。自分で曲も作れるんだ。この世にまだ存在しないものを新しく作り上げられるなんて素敵」

 僕は缶ビールを口に含む。

「慣れたコードをつないだだけの、誰にでもできるレベルのギターだよ」

「どうして? どうしてヒロキは自分を否定するの? できることには胸を張っていいのに」

「ギターなんて弾けても、何の役にも立たないよ」

「そんなことない! それはすごく素敵なことだよ? 誰にでもできることじゃない。少なくとも私はそう思う。そうだ、借りてたCD、返そうと思ってたの」

 肩にかかった髪を払ったニーナが、バッグを探る。

「はい、ありがと。ダビングしたからいっぱい聴くね。いつか『十七歳の地図』唄ってね。期待してる。それからね、さすがに門限十時になっちゃった。だから、これからはお昼の駅前で会おうよ。また聴かせて、私にも皆にも」

 彼女はCDを差し出して微笑む。そこに面倒くさい何をも隠さない笑顔で。

「それから――」

 彼女は一度ビールを傾けると、続けた。

「それから、今日は帰るね。土曜は学校終わったらすぐ駅に行くから。ちゃんといてよ」

 言うと、本当に横断歩道へ向けて駆けていった。彼女のイメージの一つに、すぐに走り出す、というのがある。



 もらった缶ビールを半分に減らして、神無月夜へと音色を奏でる。

 バスの帰宅ラッシュ前。不思議と、ニーナが動かしたギターケースの上に小銭を入れてくれる人が続く。僕は一人一人に頭を下げて、それが九百円を超えたところで今夜はバスのあるうちに帰ろうと決める――。



 下りるのは簡単でもよじ登るのは大変で、ベランダまでの到達は難航した。コンクリートの門柱の上に上り、鉄柵に手をかけて、壁に足をかけて、思い切り身体を引き上げる。傍から見れば不法侵入間違いない。

 カーテン越しの部屋明かりはまだついていて、僕がサッシを開けて入ると兄貴がまだドラクエを続けていた。

「珍しか。帰ってきたとや」

「うん。煙草代になったけん」

 僕は部屋の隅の机の横へギターケースを立てかける。サイドポケットからCDを取り出すと、ジャケットが厚く膨らんでいるのが分かった。取り出してみると折りたたんだ便箋が一枚入っていた。急に顔が熱くなり、恥ずかしいものでも隠すように机の棚へ潜ませた。


 煙草に火をつけて畳の上に座り込むと、そのまま兄貴の進めるドラクエを眺める。

「おー、疲れたぞ」

 兄貴が言うと、僕の出番だ。次回プレイ時のパスワードになる「ふっかつのじゅもん」をノートに書きとめる役だ。ドットの粗いひらがな五十一文字の長いパスワードで、よく「ね」と「れ」と「わ」を間違えるので要注意だ。「る」と「ろ」も。これを間違えていると翌日の兄貴の機嫌がすこぶる悪く、同じ位置まで無償でストーリーを進めておくことになる。重責だ。

 電気を消して布団に転がる兄貴を背中に、僕は机の椅子へ腰掛け、スタンドをつける。彼女からの手紙をそっと取り出すと、胸をはやらせながら薄いセルリアンブルーの便箋を開いた。女性らしい、きれいな文字が、横に数列並んでいた。


 ――Hello ヒロキ 今日も会えてよかった
 ――今夜はきっと尾崎の『OH MY LITTLE GIRL』を聴きながら寝ます
 ――ヒロキは何を聴くのかな
 ――いつかヒロキのギターを録音したいな どうやって録るのか調べとくね
 ――今が朝なのか夜なのか分からないけど とりあえずおやすみ Nina
 ――P.S.今度 尋生の家の電話番号 教えてよ じゃあね


 六行の、短いメッセージ。それを何度も読み返す。いつも便箋三枚にびっしりと文字が埋められた中村貴子の手紙とは違う、さりげない手紙。

 僕は次に彼女へ貸してあげるCDを考える。何よりも、そこへ添える手紙の内容を――。



 翌日はしっかり朝七時に起きて、家族が家を出払ったあと、インスタントコーヒーを淹れて三か月ぶりにギターの弦を張り替えた。ダダリオのライトゲージ。ケースにワンセット入っていたものだ。

 ネックが一気に緩むのが嫌なので、六弦から一本ずつ替えてゆく。真っ新な弦の輝きは彼女の髪の色と同じで、その髪に触れてみられたらどんな気分だろうとぼんやり思う。


 替え終わった古い弦を丸めて燃えないゴミに捨てて、一緒に二杯目のコーヒーを淹れる。腹は減らないので午後まで何も食べない。それより新しい弦の鳴り具合を確かめる。シャリシャリという、巻き弦の音にくすぐったくなる瞬間でもある。それをそっとフレットに沿って押さえて、右手の指で爪弾いてやる。澄み切った濁りのない、高音域と低音域のメリハリの効いた音。張り替えたあとには必ず弾く曲、ニーナが昨夜タイトルを尋ねてきた曲、それを五分でも十分でも弾いてあげる、弦の鳴りがギターのボディーとシンクロし始めると少し強めにストロークして、馴染んでゆくのを感じる。
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