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9・Teenage Blueー②
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変化があったのは九時を回ったところで、スーツ姿の男性と女性が立ち止まって耳を傾けてくれていた時だ。心臓が止まったのは、橋の向かいに立つ、金色の髪が目に飛び込んできたからだ。
すんでのところで演奏は途切れなかったが、スーツの男女と話している間も、心はそこになかった。
やがて二人がチップを置いて離れると、彼女は不思議な歩幅で近寄って来た。
「唄ってたんだ――」
その目は街明かりに潤んで見えて、僕の胸には切なさだけが込み上げる。
そんな僕に、
「話が、あるんだけど――隣、いい?」
ニーナは微笑むこともなく右隣に腰を下ろした。ひざに穴の開いたジーンズで。
「私ね――」
前置きもなく話し始める彼女に、僕はどうしてもうつむいてしまう。
「私ね、ヒロキのこと責める資格ないんだ」
「そんなことない――僕はニーナを確かに利用した。けど――」
「ううん、聞いてヒロキ。それはお互い様。私ね、東京に彼氏がいるんだ。でもね、『こっちで好きな人ができたから別れよう』って、ヒロキのこと話しちゃった」
黙る僕に彼女は続ける。顔の角度を少し上げて。
「ママがね、四月から仕事でオランダに行くの。向こうの日本大使館で働くことが決まって。だから私ね、もう日本に思い出は残さないで海を渡ろうって決めたんだ」
複雑という言葉では言い表せない心情だった。しいて言うなら混乱していた。
「意外とオープンなんだよ。心は広いの、私のママ。だから私もこっちで大学に入学して一人で残ることも考えた。でもダメなの。『家族はいつも一緒にいなきゃ』って人で。それだけは譲らないんだ」
その声は何かをあきらめた人特有のトーンだった。
「でもね――だからね――ヒロキとも理由をつけて離れようと思ったんだけど。けどダメだった。押し殺せなかった。私、このままじゃヒロキのこと好きになっちゃいそうでさ。向こうには、持っていけない気持ちなのに……どうしよう」
そこまで言うと、彼女は抱きかかえたひざに顔をうずめた。細い肩が小刻みに揺れて、それはいつまでもやまなかった。僕がその肩に手を添えるまで。
「ヒロキ、唄って。『SOMEDAY』」
僕は彼女の肩から指を離し、ギターに手をかける。僕にできることはそれくらいしかなかった。
彼女は笑顔にこそならなかったけれど、歌が終わるとこう告げた。
「ママはね、今日は仕事で東京に行ってるの。パパも学会で福岡。だからね、ヒロキとずっと一緒にいられるのはきっと今日だけ。ねえ、ずっと一緒にいて」
僕を見る彼女は弱々しい子猫のようだった。僕は何も答えきれず、尾崎豊を奏でるだけだ。『群衆の中の猫』――。
「ニーナ――」
呼びかけたのはもちろん僕で、瞼を赤くした彼女がボンヤリと僕を見つめる。
「面白いところがあるんだけど、一緒に行こう。途中でビールも買って」
彼女は口を開かず、首をゆっくり縦に振る仕草で答えた――。
コンビニに立ち寄り、思案橋の交差点を渡ると、彼女は僕に身を寄せてきた。
「こんなとこ、来たことないよ」
「大丈夫。香月さん、いたよね。あの人に教えてもらったんだ」
僕はアーチを抜けて奥へ進む。怯えていそうな彼女の手を取って。
ビルの前へたどり着くと、ギターケースを置いた。
「ねえ、こんなとこで唄うの? ホントに大丈夫なの?」
缶ビールの袋を下げて彼女は戸惑っている。その目は上下左右に忙しなく動き、何事にも動じないと思われた彼女のイメージを変えた。
「もう、二回も唄ってる。だから大丈夫なんだよ」
「そう言われても……」
さすがの彼女も立ち見はできなかったようで、ギターを取り出す僕の後ろ、ビルの壁に背中をつけて座り込んでいた。ギターを取り出すとチューニングを確かめて、彼女の存在を味方にして、一曲目を唄い始める。僕にしても、彼女なしではやって来れる場所ではなかった。そこに彼女がいるだけで心が強くなれた。
「おう、またやっとるとか。演歌の兄ちゃんはどげんした」
早速飲み屋街の洗礼を浴びる。
「僕は先輩の弟子なんで、まだそこまで勉強してないんです。お任せでよかったら」
「おう。なんでんよか。唄うてみろ」
僕はなるべく賑やかに、『ハイスクールRock`n Roll』を披露する。立ち止まる人が増える。僕は思い切り笑顔で唄う。唄いきると拍手が鳴った。
「なんか分からんけど、まあ頑張れ。演歌も練習せろよ」
リクエストのオジさんが千円札を一枚投げてゆくと、僕はすかさず次の曲へと入る。ニーナお気に入りの『SOMEDAY』は若いビジネスマンにウケがよく、ひと晩で三回唄った。
「ニーナ、ビールある? また買ってくる?」
手を休めて訊くと、彼女は苦笑いで首を横に振る。そして、
「ヒロキ、人が変わったみたい」
「世間に揉まれて少し成長したんだよ。まだ唄うけど、いい?」
「うん。いっぱい聴かせて。今日は特別な日だから」
人の流れは絶えない。右へ左へ。それでもやがて二時に近づくとまばらになってくる。
「ヒロキは、今日は帰らないの?」
尋ねるニーナへ、答えを悩んだ。ジュリさんのところへ行くとも言えない。
「ニーナは、どうするの――」
彼女の答えは早い。
「ヒロキと一緒にいるよ。どこにでもついて行く」
それでも何も答えられない僕は、
「じゃあ、最後の歌を唄って考えようか」
僕のラストソングは、尾崎の『I LOVE YOU』だった――。
空き缶を袋に入れて居場所もなさげに立ち尽くすニーナを気にしつつ、僕はケースの清算に入る。香月さんと一緒の時ほどではなかったけれど、千円札だけで九枚にはなった。
「ニーナ、お腹空いてない? いつものコンビニの隣のちゃんぽん屋さん、朝まで開いてるよ」
「けど――」
「大丈夫だって。もうこの時間に他人を気にする人はいないって、香月さんも言ってた」
「じゃあ――じゃあ行く」
土曜深夜のちゃんぽん屋は繁盛していた。それでも二人で座れる場所は空いていて、僕は食券を買う。僕は餃子とちゃんぽんのセットにして、彼女は小さめのスナックちゃんぽんを頼んだ。
「こんな時間にお店に入るの初めて」
「僕も初めてだけど、なんか最近は夜の街に慣れてきて。なんでもチャレンジかなって」
食事は楽しく終わったけれど、その後の沈黙が、ゆっくり歩くアーケードで続いていた。あとはすることがなくなっていたからだ。
「ヒロキ、家に来る? 誰もいないから」
「無理だよ――もしもってことがあるから」
「じゃあ――どうするの――」
難問だ。本気で考え込んでいたところに、ニーナが言いづらそうに口を開いた。
「あのね……中華街あるでしょ。そこのね、抜けた公園の横に……ホテルがあるんだって」
おおよそ彼女が口にしなさそうな単語が出た。
「ホテルって……普通の、旅行とかで行くホテルじゃないよね……」
「そう……だけど。他にないかなって――」
二人きりの行き場があるならどこでもよかった。
「そうか。じゃあ、そこに行ってみよう。別に時間つぶすだけならどこでもいいんだし」
精一杯の強がりで言ってみせた。
電車通りを抜けて、彼女が言うホテルの場所まで歩いた。中華街はまだ明かりもあったけれど、それすら通り過ぎると闇だった。木々に囲まれた湊公園。その向こうにネオンのついた背の高いビルがある。いつの間にかニーナが僕の左腕を取っていた。何かを誘っている訳じゃない。その気持ちは察していた。
そうなると僕は彼女を案内しなければならなかった。灯の乏しい通りを歩き、タクシーのライトに照らし出されては怯え、ホテルの前に立つと入り口がどこか分からずしばらく困った。
と、暗いシートのかかった奥からカップルが突然現れた。向こうも気まずかったようで背を向けるとさっさと消えた。
「ここ、入り口なんじゃない?」
やっと口を開いたニーナに頷いて、洞窟に挑む探検隊のような慎重さでガラス扉を抜ける。
ホッと息を吐く間もなく、今度はシステムで悩んだ。フロントのような誰かの影もない。あるのは部屋を示したようなパネル。そのいくつかが光っている。どうすればいいのかとまた悩んでいる僕の隣で、ニーナが手を伸ばした。
「どこでもいいよね」
彼女がパネルのボタンを押すと、部屋を示す明かりが消えた――。
すんでのところで演奏は途切れなかったが、スーツの男女と話している間も、心はそこになかった。
やがて二人がチップを置いて離れると、彼女は不思議な歩幅で近寄って来た。
「唄ってたんだ――」
その目は街明かりに潤んで見えて、僕の胸には切なさだけが込み上げる。
そんな僕に、
「話が、あるんだけど――隣、いい?」
ニーナは微笑むこともなく右隣に腰を下ろした。ひざに穴の開いたジーンズで。
「私ね――」
前置きもなく話し始める彼女に、僕はどうしてもうつむいてしまう。
「私ね、ヒロキのこと責める資格ないんだ」
「そんなことない――僕はニーナを確かに利用した。けど――」
「ううん、聞いてヒロキ。それはお互い様。私ね、東京に彼氏がいるんだ。でもね、『こっちで好きな人ができたから別れよう』って、ヒロキのこと話しちゃった」
黙る僕に彼女は続ける。顔の角度を少し上げて。
「ママがね、四月から仕事でオランダに行くの。向こうの日本大使館で働くことが決まって。だから私ね、もう日本に思い出は残さないで海を渡ろうって決めたんだ」
複雑という言葉では言い表せない心情だった。しいて言うなら混乱していた。
「意外とオープンなんだよ。心は広いの、私のママ。だから私もこっちで大学に入学して一人で残ることも考えた。でもダメなの。『家族はいつも一緒にいなきゃ』って人で。それだけは譲らないんだ」
その声は何かをあきらめた人特有のトーンだった。
「でもね――だからね――ヒロキとも理由をつけて離れようと思ったんだけど。けどダメだった。押し殺せなかった。私、このままじゃヒロキのこと好きになっちゃいそうでさ。向こうには、持っていけない気持ちなのに……どうしよう」
そこまで言うと、彼女は抱きかかえたひざに顔をうずめた。細い肩が小刻みに揺れて、それはいつまでもやまなかった。僕がその肩に手を添えるまで。
「ヒロキ、唄って。『SOMEDAY』」
僕は彼女の肩から指を離し、ギターに手をかける。僕にできることはそれくらいしかなかった。
彼女は笑顔にこそならなかったけれど、歌が終わるとこう告げた。
「ママはね、今日は仕事で東京に行ってるの。パパも学会で福岡。だからね、ヒロキとずっと一緒にいられるのはきっと今日だけ。ねえ、ずっと一緒にいて」
僕を見る彼女は弱々しい子猫のようだった。僕は何も答えきれず、尾崎豊を奏でるだけだ。『群衆の中の猫』――。
「ニーナ――」
呼びかけたのはもちろん僕で、瞼を赤くした彼女がボンヤリと僕を見つめる。
「面白いところがあるんだけど、一緒に行こう。途中でビールも買って」
彼女は口を開かず、首をゆっくり縦に振る仕草で答えた――。
コンビニに立ち寄り、思案橋の交差点を渡ると、彼女は僕に身を寄せてきた。
「こんなとこ、来たことないよ」
「大丈夫。香月さん、いたよね。あの人に教えてもらったんだ」
僕はアーチを抜けて奥へ進む。怯えていそうな彼女の手を取って。
ビルの前へたどり着くと、ギターケースを置いた。
「ねえ、こんなとこで唄うの? ホントに大丈夫なの?」
缶ビールの袋を下げて彼女は戸惑っている。その目は上下左右に忙しなく動き、何事にも動じないと思われた彼女のイメージを変えた。
「もう、二回も唄ってる。だから大丈夫なんだよ」
「そう言われても……」
さすがの彼女も立ち見はできなかったようで、ギターを取り出す僕の後ろ、ビルの壁に背中をつけて座り込んでいた。ギターを取り出すとチューニングを確かめて、彼女の存在を味方にして、一曲目を唄い始める。僕にしても、彼女なしではやって来れる場所ではなかった。そこに彼女がいるだけで心が強くなれた。
「おう、またやっとるとか。演歌の兄ちゃんはどげんした」
早速飲み屋街の洗礼を浴びる。
「僕は先輩の弟子なんで、まだそこまで勉強してないんです。お任せでよかったら」
「おう。なんでんよか。唄うてみろ」
僕はなるべく賑やかに、『ハイスクールRock`n Roll』を披露する。立ち止まる人が増える。僕は思い切り笑顔で唄う。唄いきると拍手が鳴った。
「なんか分からんけど、まあ頑張れ。演歌も練習せろよ」
リクエストのオジさんが千円札を一枚投げてゆくと、僕はすかさず次の曲へと入る。ニーナお気に入りの『SOMEDAY』は若いビジネスマンにウケがよく、ひと晩で三回唄った。
「ニーナ、ビールある? また買ってくる?」
手を休めて訊くと、彼女は苦笑いで首を横に振る。そして、
「ヒロキ、人が変わったみたい」
「世間に揉まれて少し成長したんだよ。まだ唄うけど、いい?」
「うん。いっぱい聴かせて。今日は特別な日だから」
人の流れは絶えない。右へ左へ。それでもやがて二時に近づくとまばらになってくる。
「ヒロキは、今日は帰らないの?」
尋ねるニーナへ、答えを悩んだ。ジュリさんのところへ行くとも言えない。
「ニーナは、どうするの――」
彼女の答えは早い。
「ヒロキと一緒にいるよ。どこにでもついて行く」
それでも何も答えられない僕は、
「じゃあ、最後の歌を唄って考えようか」
僕のラストソングは、尾崎の『I LOVE YOU』だった――。
空き缶を袋に入れて居場所もなさげに立ち尽くすニーナを気にしつつ、僕はケースの清算に入る。香月さんと一緒の時ほどではなかったけれど、千円札だけで九枚にはなった。
「ニーナ、お腹空いてない? いつものコンビニの隣のちゃんぽん屋さん、朝まで開いてるよ」
「けど――」
「大丈夫だって。もうこの時間に他人を気にする人はいないって、香月さんも言ってた」
「じゃあ――じゃあ行く」
土曜深夜のちゃんぽん屋は繁盛していた。それでも二人で座れる場所は空いていて、僕は食券を買う。僕は餃子とちゃんぽんのセットにして、彼女は小さめのスナックちゃんぽんを頼んだ。
「こんな時間にお店に入るの初めて」
「僕も初めてだけど、なんか最近は夜の街に慣れてきて。なんでもチャレンジかなって」
食事は楽しく終わったけれど、その後の沈黙が、ゆっくり歩くアーケードで続いていた。あとはすることがなくなっていたからだ。
「ヒロキ、家に来る? 誰もいないから」
「無理だよ――もしもってことがあるから」
「じゃあ――どうするの――」
難問だ。本気で考え込んでいたところに、ニーナが言いづらそうに口を開いた。
「あのね……中華街あるでしょ。そこのね、抜けた公園の横に……ホテルがあるんだって」
おおよそ彼女が口にしなさそうな単語が出た。
「ホテルって……普通の、旅行とかで行くホテルじゃないよね……」
「そう……だけど。他にないかなって――」
二人きりの行き場があるならどこでもよかった。
「そうか。じゃあ、そこに行ってみよう。別に時間つぶすだけならどこでもいいんだし」
精一杯の強がりで言ってみせた。
電車通りを抜けて、彼女が言うホテルの場所まで歩いた。中華街はまだ明かりもあったけれど、それすら通り過ぎると闇だった。木々に囲まれた湊公園。その向こうにネオンのついた背の高いビルがある。いつの間にかニーナが僕の左腕を取っていた。何かを誘っている訳じゃない。その気持ちは察していた。
そうなると僕は彼女を案内しなければならなかった。灯の乏しい通りを歩き、タクシーのライトに照らし出されては怯え、ホテルの前に立つと入り口がどこか分からずしばらく困った。
と、暗いシートのかかった奥からカップルが突然現れた。向こうも気まずかったようで背を向けるとさっさと消えた。
「ここ、入り口なんじゃない?」
やっと口を開いたニーナに頷いて、洞窟に挑む探検隊のような慎重さでガラス扉を抜ける。
ホッと息を吐く間もなく、今度はシステムで悩んだ。フロントのような誰かの影もない。あるのは部屋を示したようなパネル。そのいくつかが光っている。どうすればいいのかとまた悩んでいる僕の隣で、ニーナが手を伸ばした。
「どこでもいいよね」
彼女がパネルのボタンを押すと、部屋を示す明かりが消えた――。
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