アンドレイド妃

その２０

「ハドソン川に棲む獺には、育児放棄をするのが多いらしいですね。普通、自然界では発生率は五％、人間なんかに飼育されると三十％を超えるようですが、ハドソン獺は半分近くが子育てをせず、それでも繁殖し続けているのは動物界の七不思議、自然の驚異の最たるものと言われています」
「人間では子育てできないのが十五％程度だと見積もられています。これは他の動物から見てもそれ相応の数字なんでしょうが、人間の場合、理性とやらもある程度働いて、自分の意志で作ったものが大半ですから、無責任と申しますか、まるでやる気なしと申しますか、無謀と申しますか、無思慮と申しますか、これにはいろいろと議論の余地があるところですが、人間はなにしろ一応選ぶことができるのですから、近年、子育ての社会化とか言われるものは、こうした風潮に掉さすものか、はたまた単なる世の浮き沈みに便乗した悪乗りに過ぎないのか、児童虐待の定義も刻一刻と変化し続けておりますからして、」

「親が好き勝手に作って産み落としたのだから、育ててもらったことに感謝する必要はまったくない」
　ゆとり世代の妻は、そう断言できる業の強い人間であった。
「種違いの妹とか、腹違いの弟とかは？」
「でも、妊娠も出産も、もう二度と御免だわ」
　妻は、自信たっぷりに返事して見せる。
　かすかな疑念がよぎる、田舎国道のように。
「互酬が基本だからね、この世では。もしかするとあの世とでも」
　少なくとも自分で児をもうけたからには、身を削ってでも育てあげるのが親たる者の務めではないか。それがあの選択の意味するところだろう。お告げのようにそう囁く。
「とりもなおさず回向とは声のお返し。神、佛に救われたのであれば、たれかを救わずしてはおられぬはずと声に出して見る。できれば色紙などに書き殴り、柱にでも貼り付け、日に三度はそいつを拝む。与えられれば与えかえす、奪われたればゆえなく奪うことの悲しみを奪いし者に譲りわたす、失われればそっと失いし者のその手にする」

「わたし、犬のようにあなたになついているの」
　すり寄り、匂いをくんくん嗅ぎ廻し、あちこち手当たり次第に触り、さすり捲り、髪をこすりたてる。うーと脣を突き出し、何やら要求しているが、運転中でもそうでなくても。危険運転致死傷罪の構成要件寄越せやい。エイリアンの豚面め。
　病人ならそれらしく静かに横になっていればいいのに、やれ、産後の肥立ちがどうのとか、低用量ピルを服用するのだとか、ダイエット・ヨガもしなけりゃだとか。
　食欲不振感は特にない。ばかばか喰い散らかして、酒飲み放題。不眠症に関する予兆なし。ただし、日がなのんべんだらりぐうすか昼寝、昼近くまで朝寝坊、朝風呂は常態化。気分は、落ち込みよりもジェットコースター並みの乱高下を繰り返し、やがて頂上に。育児への不安など早々とかなぐり捨て、もはや育児放棄のレベルに到達か。愛情＝対象喪失、子どもに対する愛はないとかねてより断言している。夫に対しては、これは愛ではない、恋なのだと変な絡み具合で、人の時間と金と気分まで浪費しまくり。自分ではコントロールできないことに開き直り、胡坐を掻き直し、蟒蛇化する。女王蜂気取りの。やりたい放題。ちょいとぐずれば何とかなると。甘い顔し過ぎたつけが。諸事万端よきにはからえ。
「あなた、わたしのことこわいの」
　妻には言えないだろう、このことは、永遠に。
　君が生き霊となって僕に取り憑きはしないかと、だいぶ前から僕が警戒しているなんてことは。だから、最大限の譲歩をしてでも、君を怒らせることは避けてきたのだ。

　いい加減、自分の都合だけではしゃぎだすのはやめてにしてくれ。こっちもずいぶんと産後鬱になりかけてるのだから。ちょいとばかり静かにしてくれ。おれにもおれのため時間がいるのだから。
　身を削って産んだる児なればその身を賭してでも。されど、そは幻想皇帝駅に留め置かれし脱線列車のものわびしき残骸なりき。
　あはれといふもおろかなる諸行無常の日は暮れる。

　旅に出よう。さすらひの旅に
　見知らぬままのわが身のままで、あてどなく尋ね歩く、あのあられもなき旅に