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その十八 雪華
しおりを挟む市井が美貌の女凶賊のことで騒いでいる一方で、のちに江戸幕府の命運を左右することになる、ある出来事が起こっていた。
大老、井伊直弼によって幕府の方針に逆らう者たちへと行われた執拗な弾圧。
帝の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したことに対して、声高に異議を唱える者たちを、強権力によって問答無用にねじ伏せたのである。
それは後世に「安政の大獄」と呼ばれた。
隠居や蟄居となった藩主らは十を超え、お役御免、遠島、追放、所払、押込となった者は優に百を超える。
斬罪や獄死となった者も多く、あたら未来ある有能な士を失うことになる。
もしもこのとき、幕府が彼らの話に少しでも耳を傾ける程度の度量を持っていれば、あるいは……。
◇
竜胆が去り、江戸はまるで祭りのあとのような寂しさとなる。
かわって幕府の言論弾圧が苛烈となり、市中の雰囲気がどんどんと重く、息苦しくなっていく。
曇天が降りてくるような世の中、とんでもない何かが起ころうとしている。
誰もがそれを肌で感じながら欝々と日々を過ごす。自分の知らないところで、ぞろりと巨大なモノが動いている気配に怯えながら。
そんな中、わたしの日常はさしてかわらない。
ただ首を刎ね続けていた。
不安は増殖し、伝播し、人心を腐らせる。
世の中が不安定になれば、刹那的な生き方をする者が増える。
それすなわち、罪を犯す者が増えるということだ。
もっともそれだけが、わたしの忙しい理由ではない。
奇怪なことに、「ぜひ山部三成に斬ってもらいたい」と願う罪人があとを絶たない。
夜空の花火に己が人生をなぞらえて、パッと絢爛に咲いて、サッと華々しく散る。
太く短く心のおもむくままに。
そんな最期を飾るのならば、見栄えがする方が望ましい。
なんぞと考える、自惚れ屋の悪党どもがとにかく多い。
おそらくは竜胆の毒気にあてられたのであろう。あれはあまりにも鮮烈で強烈すぎた。死してなお色濃く影響を残すほどに。
そして散々に不義不正のかぎりをつくしてきたくせに、悪党ほど仲間内の上下や横のつながりがやたらと堅固だったりして、いろんな伝手を駆使しては、わたしのとろこにまで話を持ってくる。
べつに都合がつけばいくらでも斬ってやろうが、さりとて我が身はひとつきり。
どうしたって無理な時がある。
なのに、いざ首を斬られる段になって「ちっ、ついてねえ。はずれかよ」とか、他の討役の当番同心の前で言わないでもらいたい。
めぐり巡ってこちらに愚痴や嫌味が飛んでくるのは、まっこと迷惑につき。
わたしは死んだ亡者が化けて出てくる分にはとっくに諦めているが、生きた人間の祟りは恐ろしいのだ。
◇
ゆっくりとかわりつつある世界。
まるでかわらないわたしの日常。
その日常にひとつの大きな変化が訪れた。
牢屋奉行の山脇正行さまが倒れられた。
馬に乗っておられたところ、ふいにぐらりとしたかと思ったら、そのまま落ちてしまう。
意識を失うこと三日。
どうにか目を覚ますも、起き上がることは二度とかなわないお体となっていた。
だというのに、見舞いに顔を出したわたしに山脇さまは奇妙なことを言う。
「わしは果報者よ。いいところで倒れられたわい」と。
理由をたずねれば、昨今の情勢についての危惧をつらつらと口にされた。
大老は優秀な方だが、いささか強引がすぎる。徳川の世を、幕府を守ることに偏重するあまり、視野がおそろしく狭くなっている。
当人は必死なのだろうが、あれではいたずらに敵を増やす一方。
「井伊さまは扇動する者どもを潰せば、おのずと事態が収束すると考えたようだが、それはあまりにも短絡がすぎる。人の心は蛇とはちがう。頭を潰せば動きを止めるわけではないのだ。斬るべきではなかった。死なすべきではなかった。燻っていた火を乱雑に踏み消そうとして、かえって火の粉をまき散らすことになった」
おそらくは誰にも語ったことのない秘めた胸の内を、山脇さまはいま吐き出している。
こんなことは家人や身内相手でも話せないだろうし、話すべきことでもない。うっかり外に漏れたら、たいへんなことになる。
唯一話せたであろう友、荻原丘隅さまはすでに亡く、これをのぞけば、子どもの頃からの特殊な関係にあるわたしぐらいしかいない。
「大火事になりまするか?」
わたしの問いかけに、しばし目をつぶっておられた山脇さま。そのまま「ああ、まちがいなく大炎上よ。かつておぬしに話した江戸の大火の話なんぞとは、比べものにならぬぐらいの火勢にて、きっとこの国は焼かれることになる」とおっしゃられた。
そして「ゆえにわしは『いいところで』と言ったのよ」とにやりと笑う。
忠義を尽くした相手が倒れるところも、ずっと守ってきた場所が壊れていくところも、そして武士たちが死んでいくところも見なくてすむ。
栄枯盛衰が世の習いにて、その栄盛のうちに逝けるがゆえの果報者。
すでに自分の末期を悟られて、その覚悟もすませている山脇さまを前に、わたしは何も言えなかった。
すると、そんなわたしに山脇さまは朱色の鞘に入った一本の小刀を差し出す。
「抜いてみよ」
言われるままに抜いてみると、刀身に透かし彫りされてあったのは、見事な雪華模様。
切っ先から柄へ向かって、大小の雪が舞い散るようにして、しんしんと降る。
つい見惚れていると、山脇さまが言った。
「この脇差は、その方がはじめて我らの前で技を披露したときに用いたものを、打ち直した品よ。なかなかわしと丘隅のめがねにかなう刀工が見つからぬでな。ずいぶんと時間がかかってしもうたわ」
「これを……わたしめに?」
「あぁ、本来なれば女の身にて、雅な打掛の一枚、あるいは帯の一本、もしくは小物やかんざしでも贈るべきなのだろうが。その方は喜ばぬであろう? だからずいぶんと色気のない品になってしもうたわ」
そう言って「カカカ」と笑った山脇さま。
いつになくわたしが喜色を浮かべている姿に満足した様子にて、しばらく目を細めていたが、急に真顔となって告げた。
「いいか、三成。いや、白雪よ。よく聞け。この先、おそらく世は大火どころか獄炎に包まれる。もしものときには、とっととお役目を返上して、何処となりへ落ちのびよ」
去り逝く者が、ひとり残される娘に残した最期の言葉。
はじめて女の名前で呼ばれ、何があっても生きよと言われたわたしは、ただ両手をついて平伏していることしかできなかった。
これより十九日ののちに、山脇正行さまはお隠れになった。
わたしはついに三人目の父を失くし、本当の意味でひとりとなった。
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