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84 夜の歌
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夜の街をぶらついていたら、メイド長のエメラさんに捕まった。
ここはアンケル爺の管轄区内にある街の、とある区画。
夜が賑やかな地域で、飲食店の種類と数が多いのが特徴。
脳筋どもがバカ騒ぎが出来る酒場から、静かに酒を愉しめる大人のお店、性別や種族限定のお店、ディスコのように踊れるところや、若いお姉ちゃんがお酌をしてくれる店に、全室個室の会員制高級クラブまで揃っている。とにかく明け方近くまで、街から灯りと人の姿が途絶えることがない。
疲れた大人たちが酔いに身をゆだね、明日への活力を取り戻す場所。
そんな大人の社交場に、オレが稀に出没しているのは、この界隈のちょっと爛れているけれども、どこか郷愁を誘う雰囲気を味わうため。
残念ながらこの高性能スーラボディでは酒に酔えない。酔えない酒はとにかく味気ない、楽しくない。ほろ酔いで機嫌が良くなるからこその酒の味であり、香りであるということを思い知らされた。酔えない酒はただの消毒液だ。だからご機嫌な連中に混じって、雰囲気だけ愉しむ。連中の呂律の怪しい口から零れる愚痴に付き合いつつ、たまに芸の一つでも披露してやれば、みな大喜び。味の濃いツマミを駄賃にくれる。オレはそれをモグモグしながら雰囲気に酔うのさ。
さて、今夜はどこのお店にお邪魔をしようかな。
そんなことを考えながら移動していたら、後ろからひょいと抱え上げられた。
この街ではたまにこんなことがある。酔っているのはなにも男たちばかりじゃない。ここでは女性の酔客もまま見られる。そんな彼女たちがときおりオレを抱きしめるのだ。ケラケラと陽気に笑いながら、寂しい辛いと嘆きながら、オレをぎゅっとする。
じっとして心ゆくまで彼女たちに身を委ねる、彼女たちの気が済むまで。しばらくすれば女たちは礼を言って去っていく。なんだかんだで、みんな強いのだ。この場所に来て酔いに身を任せているのは、ほんの少し疲れたから。英気を養えば再び立ち上がって、また歩き出す。それがわかっているから、オレはされるがままに任せている。
そんな次第で今夜は誰かいなー、と思ったらエメラさんだった。
「たまに抜け出しているとは聞いていましたが……」
外灯の明かりに照らされ彼女の銀の髪が鈍く艶めく。
いつもの黒と白のメイド服ではなくて、紺のシンプルなワンピース。私服姿がとっても新鮮。
「まぁ、いいでしょう。せっかくなので貴方も付き合って下さい」
オレを抱いたまま歩き出すエメラさん。
どうやらお目当ての場所があるようだ。
ちなみに彼女がどうしてこんな時間に、こんな場所にいるのかは、容易に想像がつく。
なにせ屋敷からこの街へと直通の乗合馬車が出ているからな。
アンケル爺が個人的に運営している乗合馬車で、これは家人らのためのモノ。
なにかと忙しい家人たち。たまの休みには外で羽を伸ばしたい。そんな彼らを運ぶために、わざわざ爺が設けたのがコレ、福利厚生の一環とのこと。夕方から明け方にかけて三時間おきに往復している。なお利用料金は無料。至れり尽くせりだな。
しかしオレは気づいている。一見すると優しい雇用主だが、ここは奴の管轄地。ここで飲み食いすれば、それは回り回って税収という形で爺のところに還元される。
自分で給料を払って、自分で浪費を促し、自分で回収する。見事な集金システム、さすが爺、ただの良い人じゃねぇ。
地下へと続く階段を降りていく。
最後の段の先には更に奥へと続く廊下、その突き当りに飾り気のない扉が見えた。
少々薄暗い店内に音楽が流れる。
静かでどこか重たい音が満たされていた。それらがゆっくりとしたリズムで背後から這い寄ってきては、耳元に纏わりついて離れない。でもけっして不快じゃない。黙って身を委ねたい。そんな気分にさせられる不思議な音色。
客たちも目を閉じて、グラス片手に静かに身を委ねている。
しめやかに音楽と酒を愉しむお店。ここがエメラさんの目的地であった。
音楽が止んだ。
演奏がひと区切りついたらしい。それに合わせて店内がほんの少しだけざわめく。
カウンター席に座ったエメラさんに近づいてくる女性。
「お久しぶりね」
気安げにエメラさんに声をかけたのは、赤いドレスの熟女。少し草臥れた感はあるが、それがどこか退廃的な雰囲気をまとわせ、芳醇なワインのような魅力を醸し出している。一言でいえばいい女。泣きボクロまで標準装備しているなんて反則だろう。
「いつもの」とだけ注文する客に黙って応えるバーテン。
そっと差し出されたのは、白みがかった瑪瑙色の液体の入ったグラス。
口をつけて舌の上で味わう彼女の隣に腰かける熟女。
この人はマダムと呼ばれている女性で、この店のオーナー。
エメラさんとのやりとりからして、二人はかなり古い馴染みなのかもしれない。
「それにしても貴女が男連れだなんて珍しい、というか初めてよね」
「……そうでしたか。……ところで、ムーさんは男性なのでしょうか」
「あら、こちらムーさんっていうのね。以後お見知りおきを。と、そうよねぇ。スーラって性別あるのかしら。でも名前からして男性じゃないの」
「名前はお嬢様がお付けになったので」
「お嬢様ってクロアさまのことよね。じゃあ、この子が噂の?」
「どのような噂かは存知ませんが、たぶんそうかと」
アンケル・ランドクレーズが、物好きにもスーラを飼っているという噂。
使役するにしろペットにするにしろ、他に有益なモンスターなんていくらでもいるというのに、奇特にもほどがある。
スーラは野良猫のようだが、とにかく気まぐれで、懐かない、居着かない、言うことを聞かない、とないない尽くしな生き物で有名。まともに相手をするだけ疲れるので、無視するのがこちらの世界の標準対応。
それでも人間たちはまだマシな方で、森のモンスターどもときたら、露骨に存在そのものを無視しやがるからな。総スカンってやつだ。世界規模のイジメに、何度オレの心が折れかけたことか。
いつもアンケル爺や孫娘にくっついているし、そこかしこに出没しているので、街でもすっかり噂になっていたようだ。まぁ、注目度は押して量るべし。せいぜい金持ちの貴族が道楽でヘンなペットを飼ってるぐらいのもの。一部、芸達者ぶりが話題になってるかもしれないがな。
二人は他愛のない話をしつつ、酒を酌み交わす。
紡がれる言葉は思いのほか少ない。
元々エメラさんは口数が多いほうじゃない。
マダムにしたって無理に会話をつなげようとしない。むしろぽっかりと沈黙している間が際立つ。だが不思議とその間が妙に心地いい。
話上手、聞き上手はいれども、黙り上手とは……。沈黙を共有できる希少な相手だからこそ、彼女もわざわざ足を運んでいるのかもしれない。
おもむろに席を立ったマダムが言った。
「せっかくだし、ムーさんのために一曲歌ってあげる」
なんとも嬉しいことを言ってくれるマダム。思わず青いスーラボディもビビビと震えた。
彼女がステージ立つのは気まぐれ、その場に居合わせた幸運な客たちから歓迎の拍手が上がる。それを軽く受け流しながらステージへと向かうマダム。
遠ざかる赤いドレスの後姿を見送りながら、エメラさんが彼女の経歴に触れる。
「あの人は、かつて王都でも評判の歌姫だったのですよ。大聖堂での記念式典に招かれたこともあるんです。誰かのために歌うなんて、いつ以来でしょうか……良かったですね。ムーさん」
創世の女神と聖女を祀る大聖堂。そこに招かれて歌を披露する。およそ音楽に携わる人間にとっては、もっとも栄誉なことの一つ。ある意味、王城に招かれて披露するよりも難易度が高い。なにせ人気、実力だけでなく人柄やプライベートに渡る諸々までをも加味されて、お眼鏡に適った人物にしか開かれない狭き門なのだから。
ステージ立ったマダムは、先ほどまでとは違った顔を見せる。
どこか気だるげであった空気を脱ぎ、その中から現れたのは、まごうことなき歌姫の顔。
途端に鎮まり返る店内。
そして彼女が歌いだす。
もう会えなくなった恋しい人を想う歌。
女性にしては低いバリトンボイス。
聞く者の心の水面に、ポツリと落ちて小さな波紋を作る。それがいくつも生まれては消えるを繰り返し、やがて大きな波となり、心を震わす。ときに弱い声音が優しく撫でたかと思えば、激情のままに吐き出される歌声が胸を抉り、ぽっかりと穴を開けてはスルリとどこかへ落ちて消えていく。
やがてマダムが歌い終える。
店内は静寂に包まれていた。観客たちは拍手をするのも忘れて放心している。涙を流している者も少なくない。
魂に響く、そんなありきたりな誉め言葉しか零せない。オレはそんな自分が恥ずかしい。
最初にパチパイと手を叩いたのは、隣にいたエメラさんだった。
釣られてそこかしこから拍手が起こり、ついには居合わせた客の全員がスタンディングオベーション。店内は万雷の拍手に包まれた。
もちろんオレも青いスーラボディをぶるんぶるんと震わせたさ。
それから一時間ほどしてから、エメラさんとオレは店を後にした。
帰り道もずっと彼女の胸に抱かれたまま。
少しだけ酔っているのか、いつもより饒舌だった彼女。
スーラ相手に勝手に語りかけてくる。
「凄かったでしょう? あの人の歌。その気になれば今でも王都の一番大きな劇場を、きっと一杯に出来るでしょう」
《そうだな。あれだけの実力だ。容姿だってまだまだ健在。どこの美魔女だよって感じだし。むしろアレがいいって人も多いんじゃないかな》
「でも捨ててしまった。名声も富も地位もなにもかも」
《うん。そこは気になっていた。あれだけの実力の持ち主が、言い方は悪いが、どうしてこんな場末に店を構えているのか》
「忘れられないのでしょう。あの人のことが……」
あの人のこと……、そう言ったのを最後にエメラさんは口を噤んだ。言葉の響きから、たぶん彼女にとっても近しい人であったのだろうことは伺える。しかし今のオレにはそれ以上は知る由もない。
停留所にて待っていると乗合馬車がやってきた。
時間が中途半端なせいか他に利用客の姿はない。
一人と一体には広すぎる車内。
結局エメラさんが屋敷に戻るまでオレを腕の中から放すことはなかった。
ここはアンケル爺の管轄区内にある街の、とある区画。
夜が賑やかな地域で、飲食店の種類と数が多いのが特徴。
脳筋どもがバカ騒ぎが出来る酒場から、静かに酒を愉しめる大人のお店、性別や種族限定のお店、ディスコのように踊れるところや、若いお姉ちゃんがお酌をしてくれる店に、全室個室の会員制高級クラブまで揃っている。とにかく明け方近くまで、街から灯りと人の姿が途絶えることがない。
疲れた大人たちが酔いに身をゆだね、明日への活力を取り戻す場所。
そんな大人の社交場に、オレが稀に出没しているのは、この界隈のちょっと爛れているけれども、どこか郷愁を誘う雰囲気を味わうため。
残念ながらこの高性能スーラボディでは酒に酔えない。酔えない酒はとにかく味気ない、楽しくない。ほろ酔いで機嫌が良くなるからこその酒の味であり、香りであるということを思い知らされた。酔えない酒はただの消毒液だ。だからご機嫌な連中に混じって、雰囲気だけ愉しむ。連中の呂律の怪しい口から零れる愚痴に付き合いつつ、たまに芸の一つでも披露してやれば、みな大喜び。味の濃いツマミを駄賃にくれる。オレはそれをモグモグしながら雰囲気に酔うのさ。
さて、今夜はどこのお店にお邪魔をしようかな。
そんなことを考えながら移動していたら、後ろからひょいと抱え上げられた。
この街ではたまにこんなことがある。酔っているのはなにも男たちばかりじゃない。ここでは女性の酔客もまま見られる。そんな彼女たちがときおりオレを抱きしめるのだ。ケラケラと陽気に笑いながら、寂しい辛いと嘆きながら、オレをぎゅっとする。
じっとして心ゆくまで彼女たちに身を委ねる、彼女たちの気が済むまで。しばらくすれば女たちは礼を言って去っていく。なんだかんだで、みんな強いのだ。この場所に来て酔いに身を任せているのは、ほんの少し疲れたから。英気を養えば再び立ち上がって、また歩き出す。それがわかっているから、オレはされるがままに任せている。
そんな次第で今夜は誰かいなー、と思ったらエメラさんだった。
「たまに抜け出しているとは聞いていましたが……」
外灯の明かりに照らされ彼女の銀の髪が鈍く艶めく。
いつもの黒と白のメイド服ではなくて、紺のシンプルなワンピース。私服姿がとっても新鮮。
「まぁ、いいでしょう。せっかくなので貴方も付き合って下さい」
オレを抱いたまま歩き出すエメラさん。
どうやらお目当ての場所があるようだ。
ちなみに彼女がどうしてこんな時間に、こんな場所にいるのかは、容易に想像がつく。
なにせ屋敷からこの街へと直通の乗合馬車が出ているからな。
アンケル爺が個人的に運営している乗合馬車で、これは家人らのためのモノ。
なにかと忙しい家人たち。たまの休みには外で羽を伸ばしたい。そんな彼らを運ぶために、わざわざ爺が設けたのがコレ、福利厚生の一環とのこと。夕方から明け方にかけて三時間おきに往復している。なお利用料金は無料。至れり尽くせりだな。
しかしオレは気づいている。一見すると優しい雇用主だが、ここは奴の管轄地。ここで飲み食いすれば、それは回り回って税収という形で爺のところに還元される。
自分で給料を払って、自分で浪費を促し、自分で回収する。見事な集金システム、さすが爺、ただの良い人じゃねぇ。
地下へと続く階段を降りていく。
最後の段の先には更に奥へと続く廊下、その突き当りに飾り気のない扉が見えた。
少々薄暗い店内に音楽が流れる。
静かでどこか重たい音が満たされていた。それらがゆっくりとしたリズムで背後から這い寄ってきては、耳元に纏わりついて離れない。でもけっして不快じゃない。黙って身を委ねたい。そんな気分にさせられる不思議な音色。
客たちも目を閉じて、グラス片手に静かに身を委ねている。
しめやかに音楽と酒を愉しむお店。ここがエメラさんの目的地であった。
音楽が止んだ。
演奏がひと区切りついたらしい。それに合わせて店内がほんの少しだけざわめく。
カウンター席に座ったエメラさんに近づいてくる女性。
「お久しぶりね」
気安げにエメラさんに声をかけたのは、赤いドレスの熟女。少し草臥れた感はあるが、それがどこか退廃的な雰囲気をまとわせ、芳醇なワインのような魅力を醸し出している。一言でいえばいい女。泣きボクロまで標準装備しているなんて反則だろう。
「いつもの」とだけ注文する客に黙って応えるバーテン。
そっと差し出されたのは、白みがかった瑪瑙色の液体の入ったグラス。
口をつけて舌の上で味わう彼女の隣に腰かける熟女。
この人はマダムと呼ばれている女性で、この店のオーナー。
エメラさんとのやりとりからして、二人はかなり古い馴染みなのかもしれない。
「それにしても貴女が男連れだなんて珍しい、というか初めてよね」
「……そうでしたか。……ところで、ムーさんは男性なのでしょうか」
「あら、こちらムーさんっていうのね。以後お見知りおきを。と、そうよねぇ。スーラって性別あるのかしら。でも名前からして男性じゃないの」
「名前はお嬢様がお付けになったので」
「お嬢様ってクロアさまのことよね。じゃあ、この子が噂の?」
「どのような噂かは存知ませんが、たぶんそうかと」
アンケル・ランドクレーズが、物好きにもスーラを飼っているという噂。
使役するにしろペットにするにしろ、他に有益なモンスターなんていくらでもいるというのに、奇特にもほどがある。
スーラは野良猫のようだが、とにかく気まぐれで、懐かない、居着かない、言うことを聞かない、とないない尽くしな生き物で有名。まともに相手をするだけ疲れるので、無視するのがこちらの世界の標準対応。
それでも人間たちはまだマシな方で、森のモンスターどもときたら、露骨に存在そのものを無視しやがるからな。総スカンってやつだ。世界規模のイジメに、何度オレの心が折れかけたことか。
いつもアンケル爺や孫娘にくっついているし、そこかしこに出没しているので、街でもすっかり噂になっていたようだ。まぁ、注目度は押して量るべし。せいぜい金持ちの貴族が道楽でヘンなペットを飼ってるぐらいのもの。一部、芸達者ぶりが話題になってるかもしれないがな。
二人は他愛のない話をしつつ、酒を酌み交わす。
紡がれる言葉は思いのほか少ない。
元々エメラさんは口数が多いほうじゃない。
マダムにしたって無理に会話をつなげようとしない。むしろぽっかりと沈黙している間が際立つ。だが不思議とその間が妙に心地いい。
話上手、聞き上手はいれども、黙り上手とは……。沈黙を共有できる希少な相手だからこそ、彼女もわざわざ足を運んでいるのかもしれない。
おもむろに席を立ったマダムが言った。
「せっかくだし、ムーさんのために一曲歌ってあげる」
なんとも嬉しいことを言ってくれるマダム。思わず青いスーラボディもビビビと震えた。
彼女がステージ立つのは気まぐれ、その場に居合わせた幸運な客たちから歓迎の拍手が上がる。それを軽く受け流しながらステージへと向かうマダム。
遠ざかる赤いドレスの後姿を見送りながら、エメラさんが彼女の経歴に触れる。
「あの人は、かつて王都でも評判の歌姫だったのですよ。大聖堂での記念式典に招かれたこともあるんです。誰かのために歌うなんて、いつ以来でしょうか……良かったですね。ムーさん」
創世の女神と聖女を祀る大聖堂。そこに招かれて歌を披露する。およそ音楽に携わる人間にとっては、もっとも栄誉なことの一つ。ある意味、王城に招かれて披露するよりも難易度が高い。なにせ人気、実力だけでなく人柄やプライベートに渡る諸々までをも加味されて、お眼鏡に適った人物にしか開かれない狭き門なのだから。
ステージ立ったマダムは、先ほどまでとは違った顔を見せる。
どこか気だるげであった空気を脱ぎ、その中から現れたのは、まごうことなき歌姫の顔。
途端に鎮まり返る店内。
そして彼女が歌いだす。
もう会えなくなった恋しい人を想う歌。
女性にしては低いバリトンボイス。
聞く者の心の水面に、ポツリと落ちて小さな波紋を作る。それがいくつも生まれては消えるを繰り返し、やがて大きな波となり、心を震わす。ときに弱い声音が優しく撫でたかと思えば、激情のままに吐き出される歌声が胸を抉り、ぽっかりと穴を開けてはスルリとどこかへ落ちて消えていく。
やがてマダムが歌い終える。
店内は静寂に包まれていた。観客たちは拍手をするのも忘れて放心している。涙を流している者も少なくない。
魂に響く、そんなありきたりな誉め言葉しか零せない。オレはそんな自分が恥ずかしい。
最初にパチパイと手を叩いたのは、隣にいたエメラさんだった。
釣られてそこかしこから拍手が起こり、ついには居合わせた客の全員がスタンディングオベーション。店内は万雷の拍手に包まれた。
もちろんオレも青いスーラボディをぶるんぶるんと震わせたさ。
それから一時間ほどしてから、エメラさんとオレは店を後にした。
帰り道もずっと彼女の胸に抱かれたまま。
少しだけ酔っているのか、いつもより饒舌だった彼女。
スーラ相手に勝手に語りかけてくる。
「凄かったでしょう? あの人の歌。その気になれば今でも王都の一番大きな劇場を、きっと一杯に出来るでしょう」
《そうだな。あれだけの実力だ。容姿だってまだまだ健在。どこの美魔女だよって感じだし。むしろアレがいいって人も多いんじゃないかな》
「でも捨ててしまった。名声も富も地位もなにもかも」
《うん。そこは気になっていた。あれだけの実力の持ち主が、言い方は悪いが、どうしてこんな場末に店を構えているのか》
「忘れられないのでしょう。あの人のことが……」
あの人のこと……、そう言ったのを最後にエメラさんは口を噤んだ。言葉の響きから、たぶん彼女にとっても近しい人であったのだろうことは伺える。しかし今のオレにはそれ以上は知る由もない。
停留所にて待っていると乗合馬車がやってきた。
時間が中途半端なせいか他に利用客の姿はない。
一人と一体には広すぎる車内。
結局エメラさんが屋敷に戻るまでオレを腕の中から放すことはなかった。
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