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酸性雨の街
□
しおりを挟むどこだろう、ここは……。
雨の音が聞こえる。耳に馴染みのある、優しい雨音。
腕が痛い。足も痛い。腰も、肩も……、身動きができない。
足元に何かの気配がする。
何か、小さくて、そわそわと落ち着きがなくて、暖かな気配を持った物。
何だろう、私は、今、どこに何をして……。
(大丈夫か、ヴェロニカ!)
(大丈夫か‼︎)
ああ、そうだ、私は……。
バッファローの群れにぶつかって、落ちて、腕を車に轢かれたんだ。
それで義手になったんだったな……。懐かしい……。
小さな気配がまた、モゾモゾと傍で動く気配がする。
私は目を開けようとして、少しだけ開いた瞼の隙間から、幾つもある小さな顔を見た。
どこかで似たような光景を見た気がするが、どこだったのか思い出すことができない。
私は目を閉じる。
どっしりとした重い眠気が、再びやってきて、意識が消え去った。
考え事をしていたのが間違いだったのだ。
キコと会い、私は運転をしていながら、どこか上の空だった。バイクの運転では致命的な、あってはならない状態だ。
あれから二、三日が経って、別の国へ行こうとしていた所だった。
降り出した雨は止み、世界が陽光によって再び照らし出され、暖かみが戻りつつあった、そんな頃。
商隊達が作った天然の砂利道の傍に大きな石の塊が幾つも並んでいるような岩石エリアで、私は一際注意を払うべきだったのだ。
石の傍から、何頭ものバッファローが突然姿を現し、私は急ブレーキを掛け、勢いそのままにドリフトし、そしてそのままーー……転倒したのだろう。
その先の記憶が全くない。そしてここがどこなのかも。
私は手渡された透明な液体の入った、ヒビの入ったマグカップを見つめながら、物思いに沈んでいた。
私がいるのは、小さなテントのような所で、テントはいかにも古びていて、何箇所もつぎはぎしたような跡が見られる。角の方は雨漏りしているが、自分が寝ている所は無事だった。
外では間断なく雨が降り続いている。ただの雨ではない。雨がアスファルトで出来た道路に落ちると、シュッという音と共に、小さく湯気を上げる。
恐らく酸度の非常に高い雨なのだろう。そういう場所があることは噂で聞いたことがある。だが、詳細な場所までは知らなかった。
ここがそういう場所だとして、私は何故こんな所にいるのか。それは、このマグカップを手渡してくれた者達が知っている筈だった。
テントの外に、人間の気配がする。一人ではない。歩幅は小さく、軽妙な衣擦れのような音がする。
私は顔を上げて、テントの入り口付近を見る。
すると、幾つもの足音の気配がし、それから、雨ガッパを被った背丈の小さな子供達が、覗き込むようにして入り口に顔を見せた。
その内の一人が私に声をかけた。
「調子はどう? お代わりはいる?」
私は目下のマグカップを見つめて、それから首を横に振った。
落ち着いた声音のその少年は、にこりと微笑んで、それから振り返って、「集合!」と叫んだ。
テントの外で大勢の人間の気配がし、私は気配から、それらが皆子供達である事を知る。
ここはどういう場所なのだ。
何故子供達だけで、こんな所にいる?
私は抱いた疑問を誰かにぶつけたくなったが、そんな相手もおらず、私はとりあえず、与えられたマグカップの中の液体に口を付け、気を紛らわせようとする。
少しだけ舌を付けてみたが、鉱物のような匂いがするだけで、他に味のようなものはない。どうやらただのお湯のようだ。
少し口に含み、口の中を濯ぐ。それから飲み込まないように気をつけながら、地面の見えている角の辺りに吐いた。
酸性雨の街で出る水は迂闊に飲む事は出来ない。
そう思い辺りを見回すが、自分の荷物が一つもないことに気づく。
一瞬、恐慌状態に陥り、立ちあがろうとする。
だが、足が上がらない。いや、そもそも腰が痛くて動かせなかった。
腕や足をゆっくりと確かめるように動かしていく。動かすたびに痛みが走ったが、骨折はしていないようだった。怖いのはヒビだけだ。
私は大きく息を吸い、吐いた。気のせいか、空気の中に酸味が感じられる気がする。
しとしとと降り頻る雨雫の線の先に、天井が破壊され、鉄骨が剥き出しになった建物が見える。そしてその奥の倒壊した建物も。その先も皆、瓦礫と化していた。
伸びをしようと思うが、痛くて腕も持ち上がらない。
私が上体を起こしたまま、暫くそのままの姿勢でいると、再びあの気配がする。
私は入り口に目を向け、それを待ち受ける。
先程の落ち着いた声音の少年だった。どうやら彼がリーダー格らしい。傍に二人程伴っている。そちらは気弱そうにこちらを伺うような瞳を向けていた。
「大丈夫ですか? 体、動かせそうですか?」
私は事務的に答えた。
「見ての通りだよ。体は何とか起こせるけど、立ち上がれそうにもない。腕も伸ばせないし、まあ、顔は掻けるけどさ。ほら」
そう言って私は、左腕で顔を掻いて見せる素振りを見せる。そこで初めて、自分の左腕が剥き出しになって、義手が露わになっているのに気付いた。
私は思わず言った。
「脱がしたの?」
私がそう言うと、少年は申し訳なさそうな表情を顔に浮かべて、答えた。
「ごめんなさい……。悪いかとも思ったんだけど、血も出てたし、包帯を巻かなくちゃと思ったから。気に障ったのなら、謝ります。ごめんなさい」
私は慌てて言う。
「いや、いいよ。そんな隠すようなものじゃないし。まあ、こいつのおかげで、こっちの腕は動かせるからありがたいんだけどね。出血は結構あった?」
少年は戸惑った表情を浮かべながら言った。
「殆どが打身だった。小さな擦り傷が幾つもあって、それで、その……」
私は言い淀む理由が分からず、目を丸くする。
「なんだい?」
「その、む、胸の方とかも、巻かせてもらいました……」
ああ、と私は得心がいって、ニヤリと微笑む。
「いいよ、別に。意外とオマセさんなんだ。……ふーん」
少年は顔を真っ赤にさせて、慌てた素振りで言う。
「い、いや、本当に、そんなつもりじゃなくてですね……。治療しなくちゃって思って」
私がからかい混じりの事をして楽しんでいると、少年の傍にいた子供が突然、声を出した。
それを聞いて、少年は気付いたように真顔に戻り、「ああ」と言って、子供の一人から何かを受け取り、入り口の辺りに置く。
そして、途中まで透明な液体が入ったペットボトルも。
「これ、痛み止めです。抗生物質とかはないけど、多分お姉さんの傷なら、暫く休んでいれば大丈夫だと思います。じゃあ、これで……」
私は慌てて呼び止める。
「ちょ、ちょいちょい」
少年が行きかけた足を止めて、こちらを振り返り、不思議そうな顔で言う。
「何ですか?」
私は努めて平静を装いながら、言った。
「ここはどこなのか、どうして私がここにいるのか、それだけ教えてもらってもいい? 多分、私、事故しちゃったんだよね。でも、あの辺りには人の住んでるような場所なんてなかった。
……どうやって私を見つけたの? あと、どうして私を助けたの? それだけ聞きたいんだ」
少年は暫くの間、考え込むようにして沈黙していたが、やがて顔を上げて、後ろにいる二人の子供達に向かって、何かを言った。子供達は頷くと、少年を置いて走っていった。
それから少年は、テントの入り口に入ってきて、カッパのような物を脱ぐ。
テントの中には一本、部屋を横切るように紐が渡されており、ハンガーを掛けられた私のコートがその下に吊るされていた。少年はカッパのような服を、一つだけ余っているハンガーに掛け、私のコートから距離を空けて吊るした。
「一応、お話させて貰うとですね……」
前屈みになりながら、少年は話し始めた。
私も出来るだけ上体を起こしながら、真剣にその話を聞いた。
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