雪のように、とけていく

山吹レイ

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とけた雪が、水に変わるまでに(中編)

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「ええ、わかってます。ですが……正直驚きました。もっと強かで計算高い男かと思っていたら、至って普通の男だったので拍子抜けしました。どこに組長が惹かれるものがあるのか私には理解できませんでしたが……ええ、はい。ええ……馬鹿でない男ならここに来るでしょう。……失礼、来たようです。切ります」
 伊摘は目の前を歩く大柄な男の後について歩きながら、一つのドアの前に着いた。
 男は背後に立った伊摘の姿を視界に捉え、ドアを軽くノックする。
「入れ」
 室内から声があると、男はドアを開けて、伊摘を目線で促した。
 伊摘は軽く頭を下げ、襟を正し、室内へと入っていった。
「失礼します」
 ドアは静かに背後で閉められた。
「やはり来ましたね」
 伊摘は窓を背に立つ嶋の姿を見てその前に進み出ると、ぎゅっと拳を握りしめて口を開いた。
「ええ、かなり迷いましたが」
 どれだけ悩んでも伊摘の出す結果は決まっていた。
 嶋は決意の滲む伊摘の表情を見て、眼鏡を押し上げる。
「では、早速あなたはやるべきことをしてください」
 時間を無駄に使わない嶋の言葉に、伊摘は戸惑うように見つめる。
「何をすれば?」
「まずはこの部屋の掃除から。塵一つなく綺麗に。一時間以内に終えてください。八時から書類の整理です」
 どんなに屈辱的な仕事だろうと、なんでもする覚悟で来た伊摘は、従順に頷いた。
「わかりました。道具はどこに?」
「こちらです」
 部屋を出て颯爽と大股で歩く嶋について歩きながら、伊摘はきついネクタイを少しだけ緩めた。
「では、はじめて下さい」
 掃除用具が入ったロッカーを開けて、嶋は伊摘に促した。
 伊摘はスーツの上着を脱いで、シャツの袖を捲くる。
 塵一つなく綺麗に、ということは徹底的に掃除をしなければならない。
 ハタキと掃除機を手にした伊摘に嶋は「私は少し出かけてきます」と言い残して、携帯電話を片手に出て行った。
 狭くもなければ広くもない、十五、六畳ほどの事務室のような縦長の長方形の部屋に、ソファとテーブル、奥には大きな机と椅子がある。
 伊摘は埃を叩いてから床に掃除機をかけ、それからテーブルの上やソファなど、丁寧に拭いていった。
 読みかけの書類やパソコンには一切触らず、目に付いた些細なことまで、至るところを磨き、綺麗にした。
 そして無心になって掃除をしていたことに気づき、はっと時計を見たときには八時十分前だったので、慌てて伊摘は掃除を終えて道具を片付けた。
 時間に厳しい人なら、もう現れる頃だと察して。
 案の定、道具を片付けて戻ってくると、嶋は部屋に戻っていて目を細めて室内を見回している。
「終りました」
「よろしい。ではソファに座って下さい」
 嶋がソファに座ったのを見て、向かい側のソファに座る。
「まず、私の出勤時間は八時となっています。そして仕事開始は八時十五分からですが、伊摘さん、あなたは一時間前に来て、ここの部屋を毎日綺麗にしてください。そして八時から仕事に入ります」
「はい」
「次に今日のあなたの仕事の内容を言いましょう」
 伊摘は胸ポケットから手帳を取り出した。
「八時から十時まで書類の整理、十時から正午までは俺の仕事を手伝ってもらいます。正午から一時までは昼休みで、一時から俺は出かけます。伊摘さんはその間、組の仕事をまとめた書類を読んでいてください。戻り次第、また仕事がありますので、そのつもりで。質問はありますか?」
 伊摘は首を横に振る。
「では、はじめましょう。あなたの机はありませんので、私の隣で書類の整理をして下さい。明日までには机を用意しておきます。それから、このビルには組の者が沢山出入りしています。もしあなたが何者か訊かれたら、私の秘書だとお答えして下さい」
 嶋はにこりともしない表情で口早に喋った。そして時計を見て舌打ちをする。
「少し出てきます」
 嶋は部屋から出て行ってしまったので、書類の整理の内容を教えてもらえないままの伊摘は、どうすればいいのか困ってしまった。
 暫くすると嶋は戻ってきたが、伊摘は仕事の手順がわからず、いちいち訊かなければならなかった。
 だが嶋は面倒くさそうな顔はせず、丁寧に一つ一つ伊摘に教えていった。わからないことは自分で判断せずになんでも訊けと言われたので、伊摘はそのつど尋ね、嶋は根気強く説明を加えてわかりやすく教えてくれた。
 面倒見がよさそうには決して見えなかっただけに、意外な一面を知り驚く。
 午前中はあっという間に過ぎていき、昼の休憩に入ろうとしたとき、嶋は分厚い書類を伊摘に手渡した。
「俺はこのまま出ますので、午後はこれを読んでいてください」
 嶋はとても忙しいようだった。それこそ、いつも携帯電話が鳴っていて、脇に置かれたコーヒーには口もつける暇がないようだった。
 伊摘は昼の休憩を終えて、一時十分前には部屋に戻ってきた。
 嶋が座っている立派な椅子とは違い、背もたれのない窮屈な椅子に座り、伊摘は渡された書類を読んでいく。
 それは表紙に社外秘と書かれてあり、会社の規模や事業など細かく書かれてあった。こうして目を通す分には普通の会社と変わりない。それにかなりの大企業であることがわかる。
 伊摘は額にかかる前髪をかきあげてため息をついた。
 十センチはある分厚い書類を一ページ一ページ読まなければならない苦痛からではなく、これらの全ての会社のトップ、つまりCEOが貴昭であることに驚いたからだ。
 あまり小さいことにこだわらない、よく言えば寛大、悪く言えばがさつな貴昭の性格からは、ヤクザのトップとしてならば納得できるかもしれないが、インテリ然とした会社の経営者にはとても見えない。
 あの巨大な肉体を見れば、知力よりも体力が勝っていることを誰もが疑わないだろう。デスクワークより現場に出るほうを好むタイプだ。
 それとも十年という伊摘が離れていた長い間に、貴昭が変わったのだろうか。
 十年前、貴昭の父親は生きていて組長をしていた。当時の貴昭の身分は知らない。跡取りとしてそれなりの地位についていたのかもしれないが、あまり真面目に仕事をしていないイメージがあった。
 日中でも伊摘の勤め先にふらっと現れたり、バイトが休みの日などは一日中貴昭と一緒にいたことが多々あったからだ。
 いつ貴昭の父親がなくなり、貴昭が組長に就いたのか……ふと考えてみて、何も知らないことに気づく。
 それに貴昭の家族構成すら知らないことにも。
 セックスに夢中になり、互いの情報を知りもしないなど、長い付き合いの恋人同士ではありえない。
 もっとも、貴昭にとって伊摘にとって、身分も地位も世間体も何も関係なく、互いしか見えなかったのだから仕方のないことかもしれないが……それにしても今更だ。
 そのとき、伊摘のスラックスに入れていた携帯電話が震えた。
 嶋には携帯電話の番号を教えていたので、なにか緊急の用事があったのかと思い、電話を取り出した。
 だが、画面に出ている名前は貴昭だった。
 伊摘は、出ようか出まいか考えて、これでも仕事中だからとわざと出ないことも考えたが、誘惑に勝てず通話のボタンを押した。
「もしもし?」
『伊摘?』
「うん」
『出るのが遅せえんだよ』
 貴昭の声は苛々しながらも、伊摘がちゃんと電話に出てほっとしたようにも聞こえる。
「俺だって暇じゃないんだ」
『もしかして仕事してんのか? そんなの行かなくてもいいって言ってんだろ?』
 これだから伊摘は貴昭に辟易してしまうのだ。
「そんなわけにはいかないって」
 伊摘は強張った声で答えると、貴昭は少し憤慨しながら言った。
『いいんだよ、伊摘はんなことしなくて』
「貴昭、俺だって……」
『ああ、俺はこのまま行くぞ。別に問題ねえだろ? んな面倒くせえことできるか。悪い……伊摘、なんも変わったことはねえだろ』
 忙しそうに他の誰かと話をしながら伊摘に電話をかけている貴昭に、伊摘は言いたいことが言えなくなってしまった。
 一呼吸置いて、喉に塞がる苦い思いを堪える。
「……ないよ」
『あと二時間ほどしたら、落ち着いて電話できるかもしんねえし、無理なら明日になる』
「忙しいんだから、そんなに……」
『俺が電話してえんだよ、伊摘。声が聞きてえし、やりてえし……くそっ、あと何日だ、会えねえの』
 自分の欲望を素直に吐露する貴昭に、伊摘の苦い思いもとろりと甘く溶けていく。
 こんなふうに言うから、伊摘は貴昭を許してしまうのだ。
「貴昭……」
『あーやりてえ。声聞くと余計まずいんだよ』
 掠れた声で貴昭は囁いた。その声音に、伊摘の下半身が甘く痺れる。
『禁欲、約束したからな。女なんか触ってもいねえから安心しろ』
「わかってる」
『浮気してねえだろうな、伊摘』
「してない」
 しつこく疑う貴昭につい苦笑していた。
『証拠送れ。足広げて、自分で扱いてる姿、写メしろ』
 恥ずかしげもなくそんなことを言う貴昭に、伊摘は絶句し、顔を赤らめる。
「ばっ……」
『いや、やっぱいい。伊摘が、んなことしてると想像しただけで、こっちがいきそうになる。五日間絶対出さないって決めたからな』
 悶えているかのように貴昭はうめき声をあげた。
 伊摘は額に手を当てて、ごくりと生唾を飲みこむ。目は書類に書かれている文字を見ているが、まるで頭に入っていなかった。今まで読んできたことも全部忘れてしまいそうだ。
 たった一日離れていただけで、体が貴昭を求めてしまう己の浅ましさがいたたまれなかった。
 これではセックスばかりする貴昭を責められない。
 伊摘は小さな物音に気づき、はっとして目を上げる。
 すると、ドアのところで嶋が腕を組み、黙って会話を聞いていることに気づいた。
 伊摘は慌てて言った。
「もう切るから」
『お、おい、伊摘』
 貴昭の言葉も途中のまま、電話を切る。
 顔を真っ赤にして携帯電話をしまう伊摘に、嶋は何食わぬ顔で言った。
「別にいんですよ、電話くらい。それに組長からでしょう?」
 嶋はゆっくりと歩いてきて、伊摘の後ろを通り、鞄を机の上に置くと隣の席に腰を下ろす。
 伊摘は何も答えず、書類に目を落とし冷静な振りをしていたが、ページを捲る手が汗ばんでいた。
「組長からの電話でしたら、いつでも話して構いません。逆に電話に出ずに、伊摘さんに何かあったのではないかと焦って、俺たちに電話が来ても困りますので」
 伊摘が顔を上げると、嶋は鞄から書類を取り出して続けた。
「ええ、過去に二度ほどありましたよ。あなたが携帯電話を持たず外出したことによって被った迷惑な行為が」
 伊摘は呆然と嶋を見つめる。
 まさか、そんなことが本当にあったなど信じられない。
「わからなかったでしょう? まあ、わからないようにしていたんですけどね。では、仕事をはじめましょう。その渡した書類は、持って帰らないでください。社外秘なので私が保管しておきます」
 伊摘の手から書類を取って違う書類を代わりに渡した嶋に、伊摘はなかなか頭を仕事に切りかえらずにいた。
 ぼんやりと渡された書類を見る。
「組長のことに関して、あなたが知らないことが沢山あります。裏の顔もね。そのことは俺が話せる範囲で追々話すつもりです。ですが、今は仕事です、伊摘さん」
「は、はい」
「はじめてください」
「はい」
 伊摘は仕事に取りかかったが、合間にそっと嶋の横顔を見つめる。
 貴昭のことをいろいろ教えてくれたり、仕事を親切に指導してくれたり、かと思えば、嫌味も皮肉も口にする嶋の複雑な性格に伊摘はつかみどころのなさを感じていた。
 けれど、その性格がそれほど嫌と思っていない自分がいる。
 最初は仲良くなれそうもないと思っていたのに、今ではその考えが覆されようとしていた。
 仕事もできる、駆け引きもうまい、できる男なのだろう。なにより伊摘にも親切に仕事を教えてくれたのが嬉しかった。
「伊摘さん、俺の顔を見ても仕事は捗りませんよ」
「はい、すいません」
 伊摘は頬を赤らめて、仕事に没頭した。


 その日は定時に仕事を終え、久々にフルで働いた疲れを感じ、マンションに帰るなり、しばらくぼうっとソファで横になってしまった。
 そして早々に食事と風呂を終え眠りについた。
 貴昭から電話がかかってこなかったので、忙しいのだと察した。
 次の日は爽快な朝だった。
 いつも深夜に起こす大男がいないおかげで、ぐっすり朝まで眠れ、目覚めがいい。
 痛い腰を引き摺るわけでもなく、だるい体を持て余してベッドで屍と化すこともない。
 一人で目覚める朝に一抹の寂しさを感じないと言えば嘘になるが、それも期間限定なのだから楽しむだけの余裕もある。
 伊摘はちゃんと仕事に行き、やるべきことをこなし、嶋の側で仕事を覚えていった。
 そしてあっという間に二日、三日と日にちが経っていった。
 正直、嶋の側で仕事を覚えていくのは大変なことも多かったが、やりがいがあり楽しかった。それは嶋の協力が大きい。
 彼は、思った以上に頼れる上司で、まさに完璧といってもいい仕事ぶりだった。
 伊摘はこのままずっとここで働きたいとすら思う。
 だが、貴昭がそれを許してくれるかだ。
 毎日電話をくれる貴昭には、嶋の側で仕事をしているとまだ話してない。
 電話では躊躇われて、帰ってきてから話そうと考えていた。
 そのことを嶋に話すと、そのほうがいいと言われたので、少しほっとする。
 嶋からは貴昭のことを随分詳しく教えてもらった。
 会社の経営者として、そしてヤクザの組長としての貴昭のことを。貴昭がどれほど抜きん出た才能を持っているかを。
「伊摘さん、これから一緒に出ます」
「え、俺もですか?」
 てきぱきと仕事をこなすにはまだ程遠いが、それなりに慣れてきた伊摘が書類から目を上げると、嶋は疲れたように眼鏡を額の方へと押し上げて、目元を親指と人差し指で押さえる。
「ええ、いいところですよ」
 嶋と一緒に外に仕事に行くのははじめてだった。
「何か持って行くものはありますか?」
「体ひとつで大丈夫です」
 嶋はゆっくりと椅子から立ち上がると、スーツの上着を羽織る。
 伊摘も書類をまとめると机の中にしまい立ち上がった。
 一緒に室内から出るとエレベーターに乗り、一階へと降りる。広いエントランスを横切り、正面のオートドアから外に出た。
 すぐ側には黒のベンツが停まっていた。
 嶋が姿を見せると、運転席から男が出てきて後部座席のドアを開けて頭を下げる。
 嶋が先に乗り、伊摘が後に続いた。
 車は静かに発進する。
「組長が帰ってくればほっとするでしょう?」
 嶋は眼鏡を取り胸ポケットに入れると、上を向いて目を閉じる。
 貴昭と伊摘に関する個人的なことにも、嶋は普通に入りこんでくる。
 それが恥ずかしくもあったが、不思議と嫌でないことに気づく。
 思えば、貴昭の関係を誰にも話す人がいなかったので、こうして普通に話せること自体、貴重なことだった。
「少しの間でしたが、羽根を伸ばしていた気分です」
 伊摘は複雑な気持ちで笑った。
 明日貴昭が帰ってくると思えば、嬉しいのに少しだけ気が重い。
「あんな大男が側にいたら、息が詰まるでしょうね。しかも独占欲が半端じゃありませんから。今の仕事はどうしようとお思いですか?」
「貴昭にはちゃんと言います」
「もし反対されたら?」
「それでも頑張ってみようと思います」
「あなた一人の頑張りでどこまで変わるか……」
 嶋は、伊摘が仕事を続けられると思っていない口調だった。
 伊摘は唇を噛みしめる。
 嶋は目を開け、懐から目薬を出すと両目に差した。
「でも正直、あなたがここまで頑張ってくれると思ってもいませんでした。できることなら、このまま続けて欲しいくらいです」
 嬉しい言葉に、伊摘の表情にはじめて笑顔らしい笑顔が浮かんだ。
 伊摘は前からずっと思っていたことを不意に訊いてみたい気に駆られ尋ねた。
「どうして……嶋さんは俺に親切にしてくれるんですか?」
 揺れる車内で、嶋はハンカチで目元を押さえ、目を数回瞬かせた。
「上司は部下に仕事を覚えさせるのも仕事の一つです。親切に教えないでどうします?」
 仕事の意味合いで親切という行為を正当化した嶋に、伊摘は彼らしいと思った。
 仕事でも親切だったが、それ以外でも嶋は優しかった。
「あなたは……あの人の弟さんなのに俺を憎んでもいいはずだ」
 伊摘はあえて自分からそのことに触れた。
 嶋と話して何もならないことを知っていても、自分がたとえ傷ついても話しておきたかった。
 嶋はしばしの沈黙をもって口を開いた。
「……兄はあの後、どうなったか知ってますか?」
 伊摘は首を横に振る。
 コンクリ詰めとか切り刻むとか、信じられない物騒なことを散々言っていたが、その後どうなったかは知らない。
 ただ伊摘の前に二度と姿を現さなくなった、ということだけは確かだ。
「行方不明となってますが、きっと殺されたでしょうね」
 伊摘ははっとして息を飲んだ。顔面が蒼白になる。
「憎んではいませんよ。兄が勝手にしたことを自分の体で罪を購っただけですから」
 嶋は仕事の話でもするかのように、さらりと口にする。
「仲は……よかったんですか?」
「訊いてどうするつもりですか?」
「その……」
「仲は悪かったですよ。俺は腹違いの弟でしたので。これを聞いて安心したでしょう?」
 意地悪げに笑う嶋に、伊摘はそれ以上訊けずに口を噤んだ。
「兄はずる賢いところがあって世渡り上手でした。上の人たちによく可愛がられてましたよ。でも組長にはあまり好かれてませんでしたけど。着きました。降りてください」
 嶋に言われて車から降りると、伊摘はぎょっとして目を瞠った。
 そこはソープ街と言われるような、風俗店が集まる場所だった。
 伊摘の隣に立った嶋はきちんと眼鏡をかけ、疲れた顔を見せないようにしていた。
「伊摘さんも好きでしょう、こういうところ」
 まさか遊びにきたのだろうか、と伊摘が困惑していると、嶋は一つの店の裏口の方へと歩いていった。
 伊摘も慌てて後を追う。
「お疲れ様です、嶋さん」
 店の中に入ると、ボーイの男が深々と頭を下げる。
 嶋は挨拶はせずに、軽く頷く。
「来ているか?」
「いいえ、まだっす」
 下着姿の女性が普通に側を通り過ぎる。伊摘は目のやり場に困り、なるべく見ないようにした。
「そうか……なら伊摘さん、少し遊んでいきますか? 組長がいない間の絶好のチャンスですよ」
 嶋はとんでもないことを言い出した。
「え!? お、俺はいいです!」
「女性なんて久しぶりでしょう?」
 からかうように言った嶋に、伊摘は顔を赤らめた。
 伊摘は貴昭がいないからといって、浮気しようとは思わない。
「あ、あの……し、嶋さん、困ります、俺」
 本当に困り果てている伊摘に、ボーイの男が声を潜めて言った。
「あっ……来ました、嶋さん」
 嶋は眼鏡を押し上げると、客から見えないように顔だけを覗かせて受付に立つ四十代半ばぐらいの男を見つめる。
「伊摘さん」
「はい」
「あの客は我々の会社から借金をしています。けれど、期限が来ても返しもせずに、こんなところに遊びに来ている悪い男です。逃げないように捕まえてくれませんか?」
「ええ? お、俺がですか?」
「ええ」
「でも……」
「店の中を荒らさないように、はい、行ってください」
 伊摘は背中を押されて、フロントの方へ押し出された。
 突然現れた伊摘に、フロントの従業員の男も、目の前にいる客の男もびっくりしている。
 伊摘はこうなったら説明している暇はないとばかりに、カウンターを飛び越えて男の前に立ち、捕まえようとした。
 すると男は、素早く察して身を引く。そしてそのまま店から逃げていってしまった。
 まずった、と思い、伊摘はすかさず後を追う。
 男は人気のない細い路地に逃げ込んでいく。その後を伊摘が必死についていくが、見る見る間に間隔は広がっていった。
 息を切らし、久しぶりに走った足で諦めずに懸命に後を追ったが、このまま逃げられるのは時間の問題だった。
 だが、どうしたことか、男は不意に立ち止まった。
 目の前に杖をついた小柄な老人が立っていたのだ。
 伊摘はやっと追いつき、荒い呼吸をしながら近づいていくと、男はいきなり折りたたみ式の刃の長いナイフを取り出した。
 嫌な予感がする。
 伊摘と老人を交互に見つめている男は、老人に向かってナイフを振りかざした。
「止めろ!」
 伊摘は男の背後にしがみつく。男は乱暴に伊摘を振り払い、その反動で伊摘は尻餅をついた。
 そこに男が伊摘に向かってナイフを突いてくる。
 寸前のところでかわしたが、腕に痛みが走った。
 再びナイフで横に切られて、更に腕を切られたことを知った。
 スーツの袖がざっくりと切れて、そこから赤い血が滴り落ちている。
 男は伊摘に馬乗りになると、躊躇うことなくナイフを突き立てようとした。
 伊摘は恐ろしさと、もうだめだ、という絶望で、きつく目を閉じた。
 だが、暫く待っても痛みは襲ってこない。
 恐る恐る目を開けると、老人が杖でナイフの矛先を止めている。
 男は老人に向かってナイフを闇雲に動かした。
「逃げてください!」
 伊摘はナイフを持つ男の腕を握り、老人にそう叫んだ。
 男は伊摘の手を簡単に振り払い、振り向くと、伊摘の顔面にナイフを振りかざした。
 スローモーションのようにナイフが顔に近づいてくる。
 目を閉じる暇も、逃れることもできなかった。
「伊摘!!」
 貴昭の声が聞こえたような気がした。
 死を覚悟した伊摘に、空耳が聞こえたのだと思った。
 いきなり男は伊摘の体から吹っ飛んでいった。
 あまりに一瞬のことで何が起こったかわからないでいる伊摘の目の前に貴昭が立った。
「貴……昭?」
 呆然と見上げて呟く伊摘は、貴昭がここにいる意味がわからないでいた。
「なにやってんだ、馬鹿野郎! 死ぬつもりか!?」
 貴昭は屈むと乱暴に伊摘の赤く染まった腕を取った。
 嶋が走ってきて、貴昭の背後に立ち、吹っ飛んでいった男を見、次にいまだそこにいる老人へと視線を移した。
「嶋! 何やってんだ、てめえは! 伊摘をこんなことに巻き込みやがって!」
 貴昭の激昂にもたいして悪びれずに嶋は不審そうに目を細める。
「組長、なぜ帰ってきてるんですか? 予定では明日のはずです」
 貴昭は伊摘の袖口を捲り上げると、自分の着ているスーツを脱ぎ、シャツの袖を乱暴に引っ張って引きちぎった。そしてそれを伊摘の傷口に巻きつけていく。
「伊摘が何か隠している気がして早めに帰ってきたんだよ。直さん、あんたがここにいるってことは、あんたも一枚絡んでんだろう」
 貴昭は老人へ鋭い視線を投げる。
「組長、早いお帰りでしたな。もっと外で遊んでくればいいものを」
 まさか、この老人も組の関係者なのだろうかと伊摘は驚いた。
 てっきり間の悪いところにいた普通の通行人かと思っていたのに。
「誰が遊んでくるか。嶋! 説明しろ!」
 貴昭はきつく伊摘の腕を縛ると、伊摘を軽々と抱き上げる。
「その前に片付けるものは片付けてしまいましょう。そいつを連れて行け! 何やってんだ! もたもたするな!」
 嶋は後から駆けつけた男たちにてきぱきと命令していく。
 その姿は、伊摘の上司というより正真正銘のヤクザの姿だった。
「貴昭、下ろしてくれ」
 伊摘は小さな声で貴昭に懇願したが、貴昭は伊摘を睨みつけ、下ろすことはなく嶋に言った。
「覚悟はできてんだろうな、嶋。兄貴の二の舞になりてえのか」
 男たちに命令していた嶋の後姿が少しだけ震える。
「嶋さんは何も悪く……」
 伊摘は咄嗟に嶋を庇おうとしたが、嶋が不要とばかりに毅然とした態度で振り向いて言った。
「兄の二の舞にはなりませんよ。伊摘さんの怪我の手当てをしましょう、若頭」
 貴昭には慇懃な態度を見せなかった嶋が、老人には謙った様子で深く頭を下げる。しかも若頭とは……騙された気分だった。
「儂の屋敷が近いだろう。手当てしてやる」
 老人は杖をついたまま歩き出した。
 その後を伊摘を抱えた貴昭が、その後ろから嶋がついていった。
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