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第1章
第1話 パン屋の朝と、声の記憶
しおりを挟む朝五時のパン屋は、まだ世界から切り離されている。
オーブンの予熱音と、粉の匂いだけが、私の現実だった。
小麦粉を量りながら、私はふと、レジ横に置いた雑誌に目をやる。昨日、常連のお客さんが「これ、置いていっていい?」と笑って置いていったものだ。表紙には、最近増えたVTuber特集の文字。
無意識にページをめくり、そこで、私は立ち止まった。
雷牙。
雷牙?!
懐かしい名前が、写真付きで載っていた。
売れている、とは言い難い。でも、確かに“残っている”存在。声優兼VTuberとして、細く、長く、しぶとく。
不思議なことに、胸は何もざわつかなかった。
怒りも、悲しみも、後悔もない。ただ、「ああ、まだやっているんだ」と思っただけだ。
私は二年前、二十二歳で全国出版を経験した。
ペンネームは Amane。
本名は雨音だからバレそうなものだけど、顔出ししなかったので全くバレなかった。
今はパン屋を続けながら、細々と書いている。派手さはない。でも、誰かの夜に、そっと寄り添える文章を書きたいと思っていた。
雷牙と付き合っていた頃、私は彼の“声”に縛られていた。
褒められると嬉しくて、沈黙されると不安で、試されている気がして眠れなくなる。恋は、いつの間にか競技になっていた。
勝ったか、負けたか。
選ばれたか、捨てられたか。
別れは、はっきりしたものじゃなかった。フェードアウトに近い。
連絡が減り、言葉が軽くなり、気づいたときには、もう戻れない距離ができていた。自然消滅、という言葉が一番近い。
雑誌を閉じ、私は生地をこねる。
手の感触は正直で、嘘をつかない。
その夜、私は深夜ラジオをつけた。
眠れないわけじゃない。ただ、静かな声が欲しかった。
「こんばんは。今夜も、ゆっくりいきましょう」
低く、落ち着いた声。
番組名より先に、私はその声を覚えた。
パーソナリティの名前は、なくる。三十歳。ベテラン声優。
番組の途中、彼は一冊の本を紹介した。
「新人作家、Amaneさんの作品です」
一瞬、息が止まる。
……わたし?
自分の名前が、他人の声で呼ばれる感覚。
でも、不思議と怖くなかった。
なくるの声には、踏み込まない距離があった。
評価しすぎない。持ち上げすぎない。
ただ、作品を“そこに置く”。
私はラジオを聴きながら思った。
ああ、これは――疲れない。
恋は、もう勝ち負けじゃなくていい。
選ばれなくてもいい。
私の中で、何かが静かに切り替わっていくのを感じていた。
恋愛フィルター。
まだ言葉にはならないけれど、確かに、私はそれを持ち始めていた。
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