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第3章
第3話 名前を呼ばれる距離
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名前を呼ばれる距離
収録が終わったあと、ブースの中には一瞬だけ、余白が残る。
なくるはその時間が好きだった。言葉が消えて、相手の輪郭だけが残る瞬間。
「今日はありがとうございました」
彼女――雨音は、そう言って軽く頭を下げた。
いや、違う。
Amane。作家として呼ばれる名前。
なくるは、あえて本名を使わなかった。
作品を紹介するときも、対談の最中も、最後まで。
苗字までいうか、下の名前だけいうかの違いだが。
彼女の話し方は、慎重だった。
質問に答えながら、どこかで一線を引いている。
深く踏み込まれないように、無意識に距離を測っている人の癖。
それが、なくるには分かった。
声優の仕事をしていると、人の反応に敏感になる。
声が強すぎると、相手が身構える。
近づきすぎると、空気が硬くなる。
彼女は、声に慣れている。
同時に、声に傷ついたことがある。
それは、確信に近かった。
「また、番組でご一緒できたら」
なくるがそう言うと、雨音は一瞬だけ、驚いた顔をした。
誘いに慣れていない人の反応だった。
「……はい」
短い返事。
でも、拒絶ではない。
収録後、スタッフが片付けを始める中、なくるは彼女を追いかけなかった。
連絡先も聞かない。
食事の話もしない。
それが、正しい気がした。
彼女は“試される恋”を、もう十分に経験している。
そういう人は、押されると壊れる。
帰りのエレベーターで、雨音がぽつりと呟いた。
「ラジオ、好きなんです」
「……そうなんですね」
「無理して話さなくても、いいから。話せることを話して」
なくるは、その一言で話しやすくなればいいと思った。
彼女が欲しいのは、説明でも共感でもない。
安全な沈黙。
そんな気がした。
エレベーターが一階に着く。
扉が開く。
「今日は、本当にありがとうございました」
今度は、さっきより少しだけ柔らかい声だった。
なくるはその背中を見送りながら、自分でも意外な感情に気づく。
――大切にしたい。
恋、とはまだ呼ばない。
でも、雑音を立てずに近づきたいと思う相手は、久しぶりだった。
彼は、自分の中でそっと確認する。
この人は、奪う相手じゃない。
周波数を合わせるには、まだ早い。
けれど――チューニングは、始まっていた。
収録が終わったあと、ブースの中には一瞬だけ、余白が残る。
なくるはその時間が好きだった。言葉が消えて、相手の輪郭だけが残る瞬間。
「今日はありがとうございました」
彼女――雨音は、そう言って軽く頭を下げた。
いや、違う。
Amane。作家として呼ばれる名前。
なくるは、あえて本名を使わなかった。
作品を紹介するときも、対談の最中も、最後まで。
苗字までいうか、下の名前だけいうかの違いだが。
彼女の話し方は、慎重だった。
質問に答えながら、どこかで一線を引いている。
深く踏み込まれないように、無意識に距離を測っている人の癖。
それが、なくるには分かった。
声優の仕事をしていると、人の反応に敏感になる。
声が強すぎると、相手が身構える。
近づきすぎると、空気が硬くなる。
彼女は、声に慣れている。
同時に、声に傷ついたことがある。
それは、確信に近かった。
「また、番組でご一緒できたら」
なくるがそう言うと、雨音は一瞬だけ、驚いた顔をした。
誘いに慣れていない人の反応だった。
「……はい」
短い返事。
でも、拒絶ではない。
収録後、スタッフが片付けを始める中、なくるは彼女を追いかけなかった。
連絡先も聞かない。
食事の話もしない。
それが、正しい気がした。
彼女は“試される恋”を、もう十分に経験している。
そういう人は、押されると壊れる。
帰りのエレベーターで、雨音がぽつりと呟いた。
「ラジオ、好きなんです」
「……そうなんですね」
「無理して話さなくても、いいから。話せることを話して」
なくるは、その一言で話しやすくなればいいと思った。
彼女が欲しいのは、説明でも共感でもない。
安全な沈黙。
そんな気がした。
エレベーターが一階に着く。
扉が開く。
「今日は、本当にありがとうございました」
今度は、さっきより少しだけ柔らかい声だった。
なくるはその背中を見送りながら、自分でも意外な感情に気づく。
――大切にしたい。
恋、とはまだ呼ばない。
でも、雑音を立てずに近づきたいと思う相手は、久しぶりだった。
彼は、自分の中でそっと確認する。
この人は、奪う相手じゃない。
周波数を合わせるには、まだ早い。
けれど――チューニングは、始まっていた。
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