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第7章
第7話 過去と現在の輪郭
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過去と現在の輪郭
雨音の言葉には、いくつかの“抜け”があった。
過去形になると、急に主語が消える。
人の話をするとき、名前を使わない。
なくるは、それに気づいていた。
気づいたからといって、確かめるつもりはなかった。
確かめた瞬間、関係の形が変わってしまうことを、彼は知っている。
ラジオの打ち合わせで、二人きりになる時間があった。
台本の端に書かれたメモを、雨音が静かに指でなぞる。
「……声の仕事って、大変ですよね」
それは、雑談としては少し唐突だった。
「大変、ですね」
なくるは、それ以上を足さなかった。
正解を言おうとしない。
理解を示そうともしない。
雨音は、少しだけ安心したように笑った。
「私、声が強い人、ちょっと苦手で」
理由は語られない。
でも、それで十分だった。
なくるの中で、いくつかの線がゆっくり結ばれていく。
声の仕事。
過去。
距離への敏感さ。
――ああ、そういうことか。
共演者の顔が、一瞬だけ浮かぶ。
声を使って、相手の感情を揺らす男。
悪気があるわけじゃない。
でも、境界線を軽く扱う。
なくるは、そこで思考を止めた。
答え合わせは、必要ない。
「聞かない」という選択も、尊重の一つだ。
収録後、雨音は「ありがとうございました」とだけ言って帰っていった。
追いかける理由は、どこにもない。
彼女は、今の距離を守っている。
それを壊す権利は、自分にはない。
夜、番組が終わってスタジオが静かになる。
なくるはマイクを外しながら、思う。
過去は、輪郭だけで十分だ。
中身に踏み込まなくても、今の在り方は選べる。
もし彼女が、かつて誰かに傷つけられたのだとしても。
自分は、その続きを繰り返さない。
恋になるかどうかは、まだ分からない。
でも、信頼は、確かに積み重なっている。
スタジオを出たあと、雨音は夜風に肩をすくめた。
胸の奥に、ざらつきは残っていない。
代わりに、静かな余白が広がっている。
何も聞かれなかった。
何も踏み込まれなかった。
それが、こんなにも楽だとは思わなかった。
大切にされるという感覚は、
言葉や態度で証明されるものだと思っていた。
けれど今日は、
触れられなかったことが、いちばんの証のように思える。
雨音は、スマートフォンを握りしめ、画面を見ないまま歩いた。
今はまだ、過去を語る必要はない。
語らなくても選べる未来が、ここにはある。
気になる、けど。
いまは。ゆっくり。私のことを待ってくれるかわからないし。
仲良しの異性の友人、から。
進められたらいい、とおもった。
どう発展するかわからなくても。
それでも。
壊さずに、大切にできる関係があることを、
雨音は、はじめて知った。
雨音の言葉には、いくつかの“抜け”があった。
過去形になると、急に主語が消える。
人の話をするとき、名前を使わない。
なくるは、それに気づいていた。
気づいたからといって、確かめるつもりはなかった。
確かめた瞬間、関係の形が変わってしまうことを、彼は知っている。
ラジオの打ち合わせで、二人きりになる時間があった。
台本の端に書かれたメモを、雨音が静かに指でなぞる。
「……声の仕事って、大変ですよね」
それは、雑談としては少し唐突だった。
「大変、ですね」
なくるは、それ以上を足さなかった。
正解を言おうとしない。
理解を示そうともしない。
雨音は、少しだけ安心したように笑った。
「私、声が強い人、ちょっと苦手で」
理由は語られない。
でも、それで十分だった。
なくるの中で、いくつかの線がゆっくり結ばれていく。
声の仕事。
過去。
距離への敏感さ。
――ああ、そういうことか。
共演者の顔が、一瞬だけ浮かぶ。
声を使って、相手の感情を揺らす男。
悪気があるわけじゃない。
でも、境界線を軽く扱う。
なくるは、そこで思考を止めた。
答え合わせは、必要ない。
「聞かない」という選択も、尊重の一つだ。
収録後、雨音は「ありがとうございました」とだけ言って帰っていった。
追いかける理由は、どこにもない。
彼女は、今の距離を守っている。
それを壊す権利は、自分にはない。
夜、番組が終わってスタジオが静かになる。
なくるはマイクを外しながら、思う。
過去は、輪郭だけで十分だ。
中身に踏み込まなくても、今の在り方は選べる。
もし彼女が、かつて誰かに傷つけられたのだとしても。
自分は、その続きを繰り返さない。
恋になるかどうかは、まだ分からない。
でも、信頼は、確かに積み重なっている。
スタジオを出たあと、雨音は夜風に肩をすくめた。
胸の奥に、ざらつきは残っていない。
代わりに、静かな余白が広がっている。
何も聞かれなかった。
何も踏み込まれなかった。
それが、こんなにも楽だとは思わなかった。
大切にされるという感覚は、
言葉や態度で証明されるものだと思っていた。
けれど今日は、
触れられなかったことが、いちばんの証のように思える。
雨音は、スマートフォンを握りしめ、画面を見ないまま歩いた。
今はまだ、過去を語る必要はない。
語らなくても選べる未来が、ここにはある。
気になる、けど。
いまは。ゆっくり。私のことを待ってくれるかわからないし。
仲良しの異性の友人、から。
進められたらいい、とおもった。
どう発展するかわからなくても。
それでも。
壊さずに、大切にできる関係があることを、
雨音は、はじめて知った。
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