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52 待ち時間に神隠し
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皇帝オーガスタからヘーゼルダイン西辺境伯との縁談を勧める推薦状が届いてから四日後、ついにアレキサンダーが帝都レクサールへと出発した。
その期間、それまで毎晩していた連絡が途切れるかもと思っていたのだが、アレキサンダーは例の針水晶の通信用魔石を携帯してくれているらしく、途中宿に着いて落ち着いた時間にアビゲイルに連絡をくれた。
アレキサンダーが「今日は○○の宿に着いた」と報告をくれては、アビゲイルは図書室へ行って帝都周辺の地図を見て、大体ここら辺かと、着々と彼と距離が近づいているのが嬉しく感じる。
通信で毎日顔を見ているのに、会いたくてたまらない。
しばらく忘れていたような恋焦がれる気持ちを、久々にピリリとした痛みとして胸に感じ、なんて乙女な、と自分自身に苦笑する。
今生では、前の人生を思い出すまで、不特定多数の男性と浮名を流していたアビゲイルであるけれど、そのお相手誰一人とっても本気になったことはなく、恋焦がれるというより、疑似恋愛に酔っているだけだったと今なら思う。
その証拠に、数多くの夜会で交流していた貴族男性たちはアビゲイルに対して見合いの釣書の一つも送ってこない。所詮は遊び相手の女、彼らにとってのアビゲイルはそういう立ち位置だったのだ。
どれだけ美しい容姿をしていようと、あれほど気が多いなら結婚しても放蕩を繰り返すだろうと、とっくに見限られていたというわけだ。どうりで金はあれど後の人生の楽しみは若い女だけという年配男性からの後添いへの誘いしか来ないわけである。
前世を思い出して生き方を正さなかったら、こんなことに気付きもしなかったのだろうかと、やや遠い目をして振り返っていた。
あのまま放蕩を繰り返していたら、きっと誰かにグサッと刺されていたかもしれない。
あの、「ゆりり」のファンだったベルボーイのように。
嫌なことを思い出してしまって、アビゲイルはプルプルと頭を振る。
けれど、前世では、演技に没頭して家族に迷惑をかけて、結局夢をつかむ寸前であっけなく終わってしまった人生だったけれども、その前の人生があったからこそ、今生でもろくでもない人生で終わるところだったものを変えることができた。
前世なんて皆持っているだろうけれど、思い出さずに一生を終える人ばかりの世界で、それを思い出せた自分はかなりチートな存在だと思う。
何はともあれ、今度こそまともに恋をして、結婚して、という女性としての人生を全うできたらと、アレキサンダーに恋をしてから思うようになってきた。
前世であれほどのめりこんでいた演技に対しては、もうそれほど執着はしていない。最初こそ自分は女優だから、と意気込んでいたけれど、貴族の姫として社交界を生きるのも女優が演技をするのも、形の上では一緒かもしれないと思い始めていて、前世の女優根性はこういうところで活かせているなあと思うだけだ。
まあ、前世とは違い、こちらはノンフィクションであるのだけれども。
ぼんやりとそんなことを考えながらルイカの淹れてくれたお茶を飲み、ふう、と一息ついた。
アレキサンダーが帝都レクサールへ向けて出発をして、早三日が過ぎようとしている。
あと一日半もすれば、瞼の裏に焼き付いているあのウルトラマリンブルーの瞳を間近で見ることができるのだ。
そういえば図書室から借りてきたヘーゼルダイン地方の地図やら歴史書、地方新聞などが置いてある。事前勉強と称して読み漁っている最中だったのを思い出す。
婚約成立は確実とはいえど、まだ見合いの段階であるから、少し気が早いのではと、両親やルイカら侍女たちにも笑われたけれども、アレキサンダーに嫁いだら、辺境伯夫人としてやりくりをしていかねばならないのだから、夫となるだろうアレキサンダーに恥をかかせないためにも、少しでも頭に入れておかねばならなかった。
それに何より、アビゲイルがヘーゼルダインのことを勉強して、ちょっとした覚えた知識を披露すると、あのウルトラマリンブルーの瞳をへにゃりと細めて喜んだ表情をしてくれるのがたまらなくクるものがある。
いつも険しい表情をして口をへの字口に引き締めている、厳つい熊のような大男が、へにゃりと目尻を下げて微笑むと、そのギャップに心臓をわしづかみにされてしまう。
ああいうのに、弱い。それこそ、前世から。
厳ついだの怖いだのと言われるアレキサンダーの顔は、美形でもないけれど決して不細工じゃないから、尚更である。
なんというか……下品な話だが、子宮にクるのだ。生殖器と恋愛感情はどういう繋がりがあるのかと、誰か偉い人に教えてもらいたかった。
いや、何となくわかっているけども。
恋愛感情は言ってみれば子孫を残すための大事な行動原理だってことは。
だからこそ、自分の子宮は彼を欲して訴えているのだと、生々しい結論に至ってアビゲイルは苦笑した。
給仕をしながらそんなアビゲイルを見ていたルイカが、
「おひい様、また思い出し笑いをしていますね」
と指摘した。
「思い出し笑いをする方ってエッチなんですよ~、おひい様」
「あら、バレたかしら。ちょっと艶々したことを考えてしまっていたわ、あたし」
「えっ、ちょ、ちょっとした冗談でしたのに。そんなことお話ししなくても」
「いいじゃない。そういうの少しも話さない人のほうがかえってエッチだっていう意見もあるわよ」
「そ、そうなんですか?」
ちょっと艶っぽい話に発展しそうになると、ルイカは顔を真っ赤にする。
そういえば、ルイカはこの前大道芸人のキャラバンを見に一緒に出掛けたとき、ヴィクターの侍従であるレイにちょっといい雰囲気の視線を投げていたような気がする。
よろしいよろしい。うちは社内恋愛オッケーだから、いくらでも恋の花を咲かせて大丈夫よルイカちゃん!
何となく微笑ましい目でルイカを見て「おひい様、なんですかその生暖かい目は」と突っ込まれながらお茶を飲んでいると、部屋をノックする音が聞こえてきた。ルイカとは別の侍女が応対すると、来たのは今アビゲイルが頭の中で思い出していた顔がそこにあった。
ヴィクターの侍従であるレイ青年だった。
「レイじゃないの。どうしたの?」
「おひい様、ヴィクター坊ちゃまはこちらにいらっしゃいませんでしたか?」
やや焦った様子のレイは、既に方々走り回ったのか、耳に掛けていた金髪の後れ毛がはらりと前に垂れるのも構わずそう言った。
「ヴィクター? 来ていないわ。というか……最近避けられてしまっていて」
「え、そのようなこと」
「何というか、先日からへそを曲げているのよね……あら、もしかしてあの子レイにまでへそを曲げているの? しょうがない子ね……」
「……いらっしゃらないのです」
「え?」
「ご昼食のあと、書斎に向かわれて、そのとき、お茶の準備をしに一瞬坊ちゃまから離れたとき、戻ったらもう、どこにもお姿が……。書斎の書庫にも、旦那様の執務室にも、奥様のお部屋にも、どこにもいらっしゃらなくて……! もしかしておひい様のところへ向かわれたのではと思ったのですが……」
「そんな……」
「おひい様、もしかして、今度はヴィクター坊ちゃまが『神隠し』とやらに遭われたのでは……!」
咄嗟に頭に浮かんだのはラリマールだった。
けれど、ラリマールがヴィクターとそんなに親しかったわけでもないし、どちらかというとヴィクターは避けていたような気がする。
神隠しなんて、アビゲイルがでっち上げた嘘のはずだ。
嘘から出た真なんてことわざ、今のアビゲイルには笑えなかった。
文机の抽斗から通信用魔石を取り出して、少し早いけれどもラリマールに連絡をとってみることにした。
しかし、いつものように魔石に触れてピュイ、と出てきたホログラムのようなビジョンには、ざざざ、という砂嵐画面が映し出されているだけで、いつもなら時間外でも文句を言いながらも応対してくれるラリマールの姿は、髪ひと筋ほども見当たらなかった。
その期間、それまで毎晩していた連絡が途切れるかもと思っていたのだが、アレキサンダーは例の針水晶の通信用魔石を携帯してくれているらしく、途中宿に着いて落ち着いた時間にアビゲイルに連絡をくれた。
アレキサンダーが「今日は○○の宿に着いた」と報告をくれては、アビゲイルは図書室へ行って帝都周辺の地図を見て、大体ここら辺かと、着々と彼と距離が近づいているのが嬉しく感じる。
通信で毎日顔を見ているのに、会いたくてたまらない。
しばらく忘れていたような恋焦がれる気持ちを、久々にピリリとした痛みとして胸に感じ、なんて乙女な、と自分自身に苦笑する。
今生では、前の人生を思い出すまで、不特定多数の男性と浮名を流していたアビゲイルであるけれど、そのお相手誰一人とっても本気になったことはなく、恋焦がれるというより、疑似恋愛に酔っているだけだったと今なら思う。
その証拠に、数多くの夜会で交流していた貴族男性たちはアビゲイルに対して見合いの釣書の一つも送ってこない。所詮は遊び相手の女、彼らにとってのアビゲイルはそういう立ち位置だったのだ。
どれだけ美しい容姿をしていようと、あれほど気が多いなら結婚しても放蕩を繰り返すだろうと、とっくに見限られていたというわけだ。どうりで金はあれど後の人生の楽しみは若い女だけという年配男性からの後添いへの誘いしか来ないわけである。
前世を思い出して生き方を正さなかったら、こんなことに気付きもしなかったのだろうかと、やや遠い目をして振り返っていた。
あのまま放蕩を繰り返していたら、きっと誰かにグサッと刺されていたかもしれない。
あの、「ゆりり」のファンだったベルボーイのように。
嫌なことを思い出してしまって、アビゲイルはプルプルと頭を振る。
けれど、前世では、演技に没頭して家族に迷惑をかけて、結局夢をつかむ寸前であっけなく終わってしまった人生だったけれども、その前の人生があったからこそ、今生でもろくでもない人生で終わるところだったものを変えることができた。
前世なんて皆持っているだろうけれど、思い出さずに一生を終える人ばかりの世界で、それを思い出せた自分はかなりチートな存在だと思う。
何はともあれ、今度こそまともに恋をして、結婚して、という女性としての人生を全うできたらと、アレキサンダーに恋をしてから思うようになってきた。
前世であれほどのめりこんでいた演技に対しては、もうそれほど執着はしていない。最初こそ自分は女優だから、と意気込んでいたけれど、貴族の姫として社交界を生きるのも女優が演技をするのも、形の上では一緒かもしれないと思い始めていて、前世の女優根性はこういうところで活かせているなあと思うだけだ。
まあ、前世とは違い、こちらはノンフィクションであるのだけれども。
ぼんやりとそんなことを考えながらルイカの淹れてくれたお茶を飲み、ふう、と一息ついた。
アレキサンダーが帝都レクサールへ向けて出発をして、早三日が過ぎようとしている。
あと一日半もすれば、瞼の裏に焼き付いているあのウルトラマリンブルーの瞳を間近で見ることができるのだ。
そういえば図書室から借りてきたヘーゼルダイン地方の地図やら歴史書、地方新聞などが置いてある。事前勉強と称して読み漁っている最中だったのを思い出す。
婚約成立は確実とはいえど、まだ見合いの段階であるから、少し気が早いのではと、両親やルイカら侍女たちにも笑われたけれども、アレキサンダーに嫁いだら、辺境伯夫人としてやりくりをしていかねばならないのだから、夫となるだろうアレキサンダーに恥をかかせないためにも、少しでも頭に入れておかねばならなかった。
それに何より、アビゲイルがヘーゼルダインのことを勉強して、ちょっとした覚えた知識を披露すると、あのウルトラマリンブルーの瞳をへにゃりと細めて喜んだ表情をしてくれるのがたまらなくクるものがある。
いつも険しい表情をして口をへの字口に引き締めている、厳つい熊のような大男が、へにゃりと目尻を下げて微笑むと、そのギャップに心臓をわしづかみにされてしまう。
ああいうのに、弱い。それこそ、前世から。
厳ついだの怖いだのと言われるアレキサンダーの顔は、美形でもないけれど決して不細工じゃないから、尚更である。
なんというか……下品な話だが、子宮にクるのだ。生殖器と恋愛感情はどういう繋がりがあるのかと、誰か偉い人に教えてもらいたかった。
いや、何となくわかっているけども。
恋愛感情は言ってみれば子孫を残すための大事な行動原理だってことは。
だからこそ、自分の子宮は彼を欲して訴えているのだと、生々しい結論に至ってアビゲイルは苦笑した。
給仕をしながらそんなアビゲイルを見ていたルイカが、
「おひい様、また思い出し笑いをしていますね」
と指摘した。
「思い出し笑いをする方ってエッチなんですよ~、おひい様」
「あら、バレたかしら。ちょっと艶々したことを考えてしまっていたわ、あたし」
「えっ、ちょ、ちょっとした冗談でしたのに。そんなことお話ししなくても」
「いいじゃない。そういうの少しも話さない人のほうがかえってエッチだっていう意見もあるわよ」
「そ、そうなんですか?」
ちょっと艶っぽい話に発展しそうになると、ルイカは顔を真っ赤にする。
そういえば、ルイカはこの前大道芸人のキャラバンを見に一緒に出掛けたとき、ヴィクターの侍従であるレイにちょっといい雰囲気の視線を投げていたような気がする。
よろしいよろしい。うちは社内恋愛オッケーだから、いくらでも恋の花を咲かせて大丈夫よルイカちゃん!
何となく微笑ましい目でルイカを見て「おひい様、なんですかその生暖かい目は」と突っ込まれながらお茶を飲んでいると、部屋をノックする音が聞こえてきた。ルイカとは別の侍女が応対すると、来たのは今アビゲイルが頭の中で思い出していた顔がそこにあった。
ヴィクターの侍従であるレイ青年だった。
「レイじゃないの。どうしたの?」
「おひい様、ヴィクター坊ちゃまはこちらにいらっしゃいませんでしたか?」
やや焦った様子のレイは、既に方々走り回ったのか、耳に掛けていた金髪の後れ毛がはらりと前に垂れるのも構わずそう言った。
「ヴィクター? 来ていないわ。というか……最近避けられてしまっていて」
「え、そのようなこと」
「何というか、先日からへそを曲げているのよね……あら、もしかしてあの子レイにまでへそを曲げているの? しょうがない子ね……」
「……いらっしゃらないのです」
「え?」
「ご昼食のあと、書斎に向かわれて、そのとき、お茶の準備をしに一瞬坊ちゃまから離れたとき、戻ったらもう、どこにもお姿が……。書斎の書庫にも、旦那様の執務室にも、奥様のお部屋にも、どこにもいらっしゃらなくて……! もしかしておひい様のところへ向かわれたのではと思ったのですが……」
「そんな……」
「おひい様、もしかして、今度はヴィクター坊ちゃまが『神隠し』とやらに遭われたのでは……!」
咄嗟に頭に浮かんだのはラリマールだった。
けれど、ラリマールがヴィクターとそんなに親しかったわけでもないし、どちらかというとヴィクターは避けていたような気がする。
神隠しなんて、アビゲイルがでっち上げた嘘のはずだ。
嘘から出た真なんてことわざ、今のアビゲイルには笑えなかった。
文机の抽斗から通信用魔石を取り出して、少し早いけれどもラリマールに連絡をとってみることにした。
しかし、いつものように魔石に触れてピュイ、と出てきたホログラムのようなビジョンには、ざざざ、という砂嵐画面が映し出されているだけで、いつもなら時間外でも文句を言いながらも応対してくれるラリマールの姿は、髪ひと筋ほども見当たらなかった。
応援ありがとうございます!
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