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94 幸せいっぱい

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 あれからアビゲイルは、アレキサンダーが帝都滞在中は二日に一度は顔を出しに行って、帝都の商業ギルドとの打ち合わせだのと仕事に行って、夕方戻って来たアレキサンダーを新妻の練習と称してヘーゼルダイン家の使用人たちとともに迎えるということもあった。

 ヘーゼルダイン家の帝都タウンハウスの使用人たちは、当初こそアビゲイルの古い噂「放蕩娘」だというのを聞いていたので若干引いていたこともあったけれど、今のアビゲイルの人柄を垣間見て、主人であるアレキサンダーと本当に愛し合っているのを理解してくれ、「姫様」「おひい様」と呼んで慕ってくれたのも嬉しい。

 遊びに行って温かく迎えてくれた使用人たちは、アレキサンダーの好物などを教えてくれたりもした。
 今現在母ニーナに師事してお菓子作り修行中だというと、アレキサンダーの好物である洋酒を使用していないパウンドケーキのレシピを教えてくれたので、今度母と一緒に作ってみようかと思った。

 商業ギルドとの交渉が難航していて、当初十日間程度と見越していたアレキサンダーの帝都滞在が二週間近く伸びたのも、アビゲイルには嬉しい誤算である。

 その間にまたお泊りをしてアレキサンダーと愛を交わし合った。明け方まで一度も離れずに朝を迎えて、そのまま泥のように眠ったこともある。いやはや若さとは恐ろしい物である。

 アレキサンダーが帝都を離れる日の前日などがまさに離れ難くて、午後イチで会いに行って早々にアレキサンダーとともに寝室へ籠り、明日の別れに涙を流しながら、身体に刻み付けるみたいに性を貪った。何度も、何度も。

 もちろん次の日のアレキサンダーの旅立ちの時など、折角施した化粧が全て流れ落ちるくらいまで号泣してアレキサンダーを困らせてしまった。きっと泣き腫らし過ぎてすごいブスだったに違いない。

 ヘーゼルダイン家の使用人にも慰められ、フォックス家に帰ってからは両親や弟、ルイカら使用人たちと、その後弟ヴィクターとの正式な見合いの為にフォックス家を訪れていたラクリマ姫にも何故か慰められた。

 アビゲイルがヘーゼルダイン家に嫁ぐまであとひと月ぐらいで、婚礼衣装ももう間もなく仕上がると連絡がきている。
 だからあとほんの少しの辛抱であるのだが、恋は盲目とはよく言ったもので、毎日決まった時間にアレキサンダーと魔石通信をして、彼の元気な姿を目におさめないと眠れないという弊害があるほどになっていた。

 そんな月日が流れて、ヘーゼルダイン行きまであと少し、という時期。あの時の別れの悲しみが、再会へのワクワク感に変化したころ、アビゲイルは母とともに孤児院へのプレゼントとしてのお菓子作りを教えてもらいながら挑戦していた。

 ヘーゼルダイン家のタウンハウスのコックから教えてもらったパウンドケーキと、母が得意なナッツ入りのクッキーを作っているところだ。

「お母様、バターが白くなってきましたわ」
「あらそう、それじゃあお砂糖を入れてよく混ぜて」
「はい」

 クッキーは何度か教えてもらって自分一人でも作ってみたことがあるのだが、どうにも上手くいかなくて、こうして母と一緒でなければ美味しく作れないので、まだまだ修行不足である。

 そしてパウンドケーキだが、アレキサンダーが好みだという洋酒不使用の物のほかに、母ニーナはもう一種類作ろうとしていた。

「ケインのニンジン嫌いを克服させようと思って」
「ああ、あの一番小さい男の子」

 フォックス家の支援する孤児院の子供たちの中で、医師の見立てでもアレルギーとかでなく単なる好き嫌いでニンジンがどうしても食べられない男の子がいる。
 その子のために、ニンジンを細かくすりおろして、オレンジのケーキ生地に混ぜてしまおうというチャレンジである。
 なるほど、これならニンジンが嫌いでもわからなくて食べてくれるかもしれない。

「アビーと一緒にこうしてお菓子作りができるなんて思いもしなかったわ」
「その言葉に、『あの頃は』って付くんでしょうねえ」
「あら、よくわかっているじゃない。すっかり淑女らしくなって、安心しているのよ」

 まあ、阿婆擦れた放蕩時代に比べたら、各段にそうなっただろうなあと、アビゲイルは苦笑した。
 あの頃を思い返すと、本当に自分だったのかと思うほどに生活が乱れていて、よくアレキサンダーに捧げるまで処女を守れていたと思わざるを得ない。
 最たる事件があのシズ元侯爵の起こした麻薬乱交サロンの摘発だ。あの時騎士団の捜査が入っていなかったら、自分もあの新種麻薬に犯されて、誰とも知らぬ男らと淫らな行為をしていたかもしれない。そう考えると本当に恐ろしい。

「……孤児院の子供たちも寂しくなるわね。お姫様、お姫様って、アビーのこと慕っていたもの」
「うふふ、そうですねえ。絵本の読み聞かせがほとんどでしたけども」
「あら、あの演技派の読み聞かせが子供たちは大好きなのよ」
「顔芸で大爆笑してましたけども」
「うふふ。あれがなくなると、きっと寂しいと思うわ」
「……里帰りしたときにでも、また孤児院にご一緒させてくださいね」
「そうね。……アビーももうお嫁にいっちゃうのねえ……」

 私も寂しくなるわと、母ニーナはそう言うと、エプロンの裾でそっと涙を拭った。

「大丈夫ですよ、お母様にはもう一人娘ができるじゃないですか」

 アビゲイルも母の涙につられそうになったけれども、それを振り切って努めて明るく返す。
 もう一人の娘というのは、この度正式にヴィクターと婚約したラクリマ姫のことである。あれから見合いが順調に進んで、正式に婚約をして皇帝陛下にも認められた。
 ラクリマ姫も子供が好きなようで、母ニーナの孤児院へのボランティアにも興味を示してくれていて、たまに自分で刺繍を施したハンカチや巾着袋などの小物を提供してくれている。
 明日、今作っているお菓子と一緒に、ラクリマ姫も伴って、三人で孤児院を訪問する予定なのだ。

 それはそうと、ヴィクターは婚約まで一度も父の指導での娼館で閨の勉強をしにいくことが無かった。
 潔癖な弟は、いくら勉強のためとはいえそういうことは結婚まで一切したくないと頑なに拒んだためだ。
 もちろんラクリマ姫とも何度かお互いの家や街へ出たりなどデートをしているようだが、いずれも夕方には確実にラクリマ姫を送っていき、規則正しい時間にヴィクターも家に戻って来る。
 もっとイチャイチャすればいいのに、と余計なアドバイスをすると、

「私は姫を大切にしたいんです。彼女を姉上と一緒にしないでいただけますか」

 ……などと怒られてしまった。ツンケン弟は未だ健在である。

「ふふっ、アビーとは大違いね」
「だ、だって……あたしはアレク様への愛が止められなくて」
「まあいいことじゃない。色んな愛があるものよ」

 きっと弟はこのまま、彼女のために自分自身もまっさらで綺麗な身体のまま結婚を迎え、その後はラクリマ姫とマイペースに静かに愛を育んでいきたいのだろうなと思うし、二人でフォックス家の愛の庭を並んで歩いている姿を見かけると、どちらも幸せそうなのでそれはそれでいいと思える。

 アビゲイルの結婚式が済み次第、ヴィクターとラクリマの結婚準備も始まるという。色々バタバタするだろうが、きっとそれも幸せいっぱいで楽しいはずだ。

 そんな幸せな気分になりながら、母の指導で型に流し込んだパウンドケーキを窯に入れ、焼き加減をコックに見てもらいながらようやく休憩だ。

 ほんのりとしたバターの甘い香りが漂う厨房の片隅でお茶にすることになった。母は厨房に漂う香りを胸いっぱいに吸い込んではあ、とため息を漏らした。

「ん~、このバターの香りは、自分でケーキを焼かないとわからないわよね」
「そうですね……ん、んん……?」

 アビゲイルは同意しようとして、自分も香りを吸い込んだところで、異様に込み上げるような不快感を覚えた。バターの香りは大好きなのに、今はこの香りが脂っこすぎて吐き気がこみあげてくるのだ。おかしい。さっきバターを混ぜていたときは平気だったのに。
 思わず口元を押さえたアビゲイルを見て、どうしたのと近寄る母。

 アビゲイルは真っ青になって立ち上がって、申し訳ないと思ったけれども、洗い場に走って行ってシンクの中にそれまで食べた物を全て吐き戻してしまったのだ。

「おひい様!」
「おひい様大丈夫ですか!」

 慌てて背中をさすったり、吐き戻した物を処理してくれた使用人たちも、アビゲイルの突如とした体調不良に驚いている。

 使用人と母ニーナの力を借りて椅子に力なく座り込むと、母はおもむろに訪ねてきた。

「アビー、貴方……」
「……?」
「赤ちゃんが、できたのじゃないの?」
「…………」

 ああ。そうか。そりゃあ、そうだ。ひと月前にあれだけしていれば。しかもほぼ二日に一度、婚約者だからといって避妊もせずにしていれば、自明の理である。

 吐き戻して真っ青になっていたアビゲイルは、母の言葉を反芻し、とたんにボッと真っ赤になった。
 母はクスクスと笑いながら、使用人に向かって医師を呼んでくるように指示を出し、アビゲイルを部屋に戻らせた。
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