白羽の檻、黒翼の導き

篠雨

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第2章:泥を啜る夜

第1話:体温の輪郭

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天界の追撃を振り切り、二人が辿り着いたのは、枯れた森の奥深くにひっそりと佇む廃屋だった。

「……おい、しっかりしろ、ベルフェ!」

エルリエルは、自分よりも一回り大きな男の身体を支え、冷たい床に横たえた。

ベルフェの背中には、天界の兵士たちが放った光の矢が何本も突き刺さっている。黒い衣は血で重く濡れ、荒い呼吸と共に鉄の匂いが狭い部屋に充満した。

「……あ、……あァ? ……うるせえな、聖人様。勝手に、喋るな……」

ベルフェは焦点の定まらない瞳でエルリエルを睨みつけるが、その手には力が入っていない。

エルリエルは迷わず、ベルフェの衣服に手をかけた。

かつての彼なら、男の肌に触れることさえ躊躇しただろう。だが今は、自分を守って傷ついたこの男を救いたいという衝動だけが、彼を動かしていた。

「……傷を見せてくれ。このままでは死んでしまう」

「……は、死なねえよ……。あんたのことを気が済むまで弄んでやるって言っただろ……」

強がりを吐きながらも、ベルフェは力尽きたように瞳を閉じた。

エルリエルは震える手で、ベルフェの傷口を清め始める。

天界の魔力を持たない今の彼にできるのは、ただ泥臭く、人間のように手当をすることだけだ。

濡らした布で血を拭うたび、ベルフェの逞しい肉体が露わになっていく。

そこには、かつて自分が刻んだであろう「審判の傷跡」と、今日自分を守るために受けた「新たな傷」が混ざり合っていた。

(この男は、ずっと……。こんな痛みを抱えて、私を待っていたのか)

エルリエルの目から、一筋の涙が溢れ、ベルフェの胸元に落ちた。

その瞬間、ベルフェの大きな手が、エルリエルの手首を弱々しく、けれど逃がさないように掴んだ。

「……泣くなよ。反吐が出る」

ベルフェが薄く目を開け、低く掠れた声で毒づいた。掴まれた手首から、彼の激しい動悸と熱が伝わってくる。

「泣いてなどいない。……ただ、あなたの血が熱いから……」

エルリエルは咄嗟に嘘をつき、顔を伏せた。

自分を「完璧な正解」としてしか扱わなかった天界の者たちの、あの冷ややかな視線とは違う。ベルフェのこの、火傷しそうなほどの熱量。それは憎しみであれ執着であれ、初めてエルリエルという「個」に向けられた確かな情熱だった。

「……ふん。勝手にしろ」

ベルフェは毒づきながらも、掴んだ手首を離そうとはしなかった。

エルリエルは、ベルフェの背中に深く突き刺さっていた光の矢の残骸を、一本ずつ慎重に抜いていく。肉が裂ける音、ベルフェの短い呻き。そのたびにエルリエルの心臓も同じように痛んだ。

ようやくすべての矢を抜き去り、傷口を清潔な布で縛り終える頃には、外は深い夜の帳に包まれていた。

「……終わったよ。少し休んで」

エルリエルが立ち上がろうとすると、ベルフェがその腕をぐいと引き寄せた。

バランスを崩したエルリエルは、ベルフェの逞しい胸板の上に倒れ込む。

「……っ、ベルフェ? 傷に触る……」

「……寒いんだよ。……そこにいろ」

ベルフェの腕が、エルリエルの腰を強く抱え込む。

翼を失った背中が、ベルフェの体温に直接触れる。

天界では、誰かと肌を合わせることなど「不浄」の極みとされていた。だが、この廃屋の冷えた空気の中で、重なり合う互いの体温は、何よりも生々しく、そして心地よかった。

「あんたの『正しさ』は、俺を救わなかったが……」

ベルフェがエルリエルの項に顔を埋め、微かな吐息を漏らす。

「その情けねえ涙と、このぬるい体温は……悪くねえ」

「……私は、あなたに酷いことをした。あなたを地獄に落としたのは、私だ」

「ああ、そうだ。だから一生かけて償えよ。俺の隣で、泥を啜りながらな」

ベルフェの指先が、エルリエルのうなじをゆっくりと辿る。

復讐だ、と彼は言う。

けれど、エルリエルを抱きしめるその腕の震えが、何よりも饒舌に彼の本心を物語っていた。

エルリエルもまた、ベルフェの背中にそっと手を回した。

かつては「悪」と断じた漆黒の翼が、今は自分を世界から守る、唯一の安らぎに感じられた。
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