実話怪談集『境界』

烏目浩輔

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裸足の足音

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 これは三十代半ばの男性、中村さんのだんである。

 中村さんはシステムエンジニアとしてフリーランスで働いている。取引先や顧客と打ち合わせをするさい、現在はリモート会議という形態を取ることもあるが、四、五年前までは相手先に出向くというのが当たり前だった。
 出張の滞在先として選ぶのは安価なビジネスホテルが多かったが、稀に贅沢をしてそこそこ立派な旅館に泊まることもあったという。
 以下はそんな頃の話である。
 
 その日に宿泊した旅館は古色を帯びてはいたものの、清潔な状態が保たれていた。どこも掃除が行き届いており、部屋の備品も真新しくて綺麗だった。
 やまあいに建つ旅館は川魚中心の夕食をウリにしており、焼魚に加えて刺身もだされたが、川魚にありがちな生臭さはいっさいなかった。山菜を用いた他のメニューも、素朴なうまさがあって好ましかった。

 中村さんは夕食を食べ終えると温泉に入り、それから部屋でビールをちびちびやった。
 時刻は午後十一時を少し過ぎていた。

 テレビを観るともなく観ていた中村さんは、奇妙な音がしているのに気がついた。
 ペタ……ペタ……
 音が聞こえる部屋の出入り口に目を向けた。閉じている引き戸の向こうから聞こえてくる足音だ。誰かが板張りの廊下を裸足で歩いているらしい。

 足音は部屋の前を右から左へゆっくりと通り過ぎると、そのまま徐々に遠ざかっていき、最後は完全に聞こえなくなった。
 ペタ……ペタ……タ……

 他の部屋に宿泊している客に違いない。
 中村さんは特に気に留めなかったのだが、数分後にまた同じ足音を廊下に聞いた。

 ペタ……ペタ……
 しかし、今度は進む方向が逆だった。足音は部屋の前を左から右へゆっくりと移動していった。
 ペタ……ペタ……
 さっき部屋の前を通った宿泊客が戻ってきたのだろう。中村さんはこの時点でも、足音を気にしていなかった。
 ところが、しばらくしてまた足音が聞こえたのである。

 ペタ……ペタ……
 板張りの廊下を裸足で歩く足音が、引き戸の向こうに聞こえる。右から左へゆっくりと通り過ぎていき、数分してからまた戻ってきた。
 左から右へ通り過ぎていく。 
 ペタ……ペタ……
 
 その後も裸足とおぼしきその足音は、何度も部屋の前を通り過ぎていった。
 ペタ……ペタ……
 右から左へ、左から右へ。
 ペタ……ペタ……

 廊下を行ったり来たりして、なにをしているのだろうか。だんだん足音が気になりはじめた中村さんは、足音が部屋の前を通り過ぎた直後に、引き戸にそっと近づいて数センチだけ開けてみた。
 どんな人物が足音を立てているのか、なんとなく確認してみたくなった。

 そうやって引き戸をそっと開けた時点では、遠ざかる足音がまだ小さく聞こえていた。
 ペタ……ペタ……
 だが、引き戸を開けた途端に、なぜか足音はぴたりとやんだ。
 引き戸の隙間から部屋の外を覗き見ると、薄暗い廊下に誰かがいるようすはなかった。

 どうしようかとしばらく考えたのち、中村さんは思い切って廊下に出てみた。すぐに左右を確認したのだが、人の姿はどこにも認められない。廊下は左にいっても右にいっても、少し先で直角に曲がっている。足音の主はもう廊下を曲がったのかもしれない。 
 などとし計りながら部屋に戻った中村さんは、数分後にまたも廊下を歩く裸足の足音を聞いた。

 ペタ……ペタ……
 今度も足音が通り過ぎた直後に、引き戸を数センチだけ開けて廊下を覗いた。だが、途端に足音はぴたりとやんで、誰かがいるようすはなかった。廊下に出てみて周囲を確認してみても、やはり人の姿は認められないのである。

 足音の主をどうしても知りたい。意地になってきた中村さんは、足音が聞こえるのを部屋の中で待った。今度は最初から引き戸を少しだけ開けておき、足音が通り過ぎる瞬間を見てやるつもりだった。

 やがて、足音が遠くから聞こえてきた。
 ペタ……ペタ……
 板張りの廊下を裸足で歩く足音が、右手側からゆっくりと近づいてくる。中村さんは引き戸の隙間から薄暗い廊下にじっと目を凝らした。

 ペタ……ペタ……
 廊下を進む足音の速さが、これまでよりずいぶん遅い。通り過ぎるのを待っているせいで、遅く感じるのかもしれなかった。

 ペタ……ペタ……
 足音がもうすぐこの部屋の前を通る。中村さんはじっと廊下を見据えていたが、その視界がいきなり真っ暗になった。まばたきをした瞬間に、瞼が動かなくなったのだ。つまり、目を閉じたまま瞼が固まってしまった。

 また、固まったのは瞼だけではなく、手も足もぴくりとも動かない。中村さんは金縛りにみまわれていた。

 金縛りを経験するのははじめてだった。息が詰まるような圧迫感があり、生ぬるい汗が頬につたうのを感じた。
 足音はゆっくり移動している。
 ペタ……ペタ……
 金縛りで視界が遮られた影響なのか、足音がやけにはっきり聞こえた。
 ペタ……ペタ……
 部屋の前を右から左へゆっくり過ぎていく。

 そのかんも中村さんは金縛りにみまわれたままだった。視界は戻ってこず、さらに息が詰まる。生ぬるい汗が頬をつたって、顎から滴るのを感じる。

 ペタ……ペタ……タ……
 やがて足音が完全に聞こえなくなったとき、固まっていた瞼がいきなり開いた。同時に手足も自由になる。
 金縛りが解けたのだ。

 中村さんは反射的に引き戸を閉めて、詰まっていた息を思いきり吸いこんだ。
 強く吸い込みすぎたせいで、ひどくせ返ってしまった。

 中村さんは咽せながらも恐怖を覚えていた。あの足音を立てていたのは、きっと生身の人間ではない。見てはいけないものだった。
 咽せ返っていた息がようやく落ち着いても、恐怖が首筋にひんやりと残っていた。

     *

 翌朝。
 四十代半ばとおぼしき仲居が、朝食の準備で部屋にやってきた。中村さんはその仲居に昨晩の出来事を伝えて、言葉を濁さずに思い切って尋ねてみた。
「もしかして、この旅館は霊が出たりしますか?」

 仲居は朝食の膳を運びながら、中村さんの問いを否定した。だが、否定の仕方がぎこちなかったため、しつこく尋ねてみると、仲居はおずおずと話はじめた。

「先々代の女将おかみのことなのですが……」
 その年の夏は旅館の周辺地域で何度も大雨が降った。その雨によって地盤が緩んだのが原因だったのか、旅館からさほど遠くはない場所で、大規模な土砂崩れが発生した。
 当時の女将は五十代半ばだったのだが、その土砂崩れに巻き込まれたのだという。

「巻き込まれた経緯は私も存じておりませんが、女将は両足にひどい怪我を負ったそうです」
 女将の両足はその怪我の影響によって壊死しはじめた。現在であればほかに方法があったかもしれないが、当時の医療技術では両足の切断という選択肢しかなかった。

「足を失ったのがショックだったのでしょう。女将は足の切断後に心をんだと聞いております」

 その頃の支配人家族は旅館に住みこんでおり、一階に家族の住む部屋が設けられていた。女将と支配人であると夫、それからふたりの娘がそこに住んでいたそうだ。
 両足を失ったうえに精神を病んだ女将は、旅館の仕事から離れて部屋に閉じこもった。だが、ときどき部屋から抜けだして、旅館の中を徘徊したのだという。

「両足を失っておりますから、うようにして徘徊していたそうです」
 徘徊する理由は特にないようだった。精神を病んでしまった女将は、意味もなく、ただ這うように旅館内を徘徊していた。

 そんなことが一年ほど続いていたある日、女将が旅館の厨房で自殺を図った。真夜中に包丁で頸動脈を切り、発見された朝にはもう冷たくなっていた。

「それからときどきあるのですよ。中村さまが経験されたような奇妙なことが……」

 中村さんは昨晩のことを思い返した。

 ペタ……ペタ……

 板張りを歩く裸足の足音だと認識していた。だが、それは勘違だったらしい。両足を失った女将は廊下を這うさいに、板張りの床にペタ……ペタ……と手をついていた。
 あれはそういう音だったのだろう。

     了

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