実話怪談集『境界』

烏目浩輔

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右隣

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 これは二十代後半の男性、竹中さんのだんである。

 印刷会社で営業職に就いている竹中さんは、仕事ではもっぱら私鉄を利用している。職場の最寄駅は私鉄のものであり、営業に出るさいの交通手段だった。

 その日も竹中さんは私鉄の駅にいた。急行が停まらない小さな駅は、平日の昼間というのもあって、ホームに立つ人影がまばらだった。

 竹中さんはホームの端にひとりでぽつんと立って、電車がやってくるのを待っていた。すると、右隣に誰かか立ったような気配を感じた。しかし、そちらに目を向けても人の姿は認められない。錯覚かと前に向き直ったのだが、どうにも右隣が気になる。
 やはり、そこに誰かが立っているような気がするのだ。

 奇妙に思って右隣に目をやっていると、左側でパアーンと大きな音が響き渡った。音につられて左側に顔を向けると、急行電車がホームに近づいてきている。さっきのパアーンという音は急行電車のけいてきだったらしい。

 そのとき、なぜか竹中さんはひやりとして、ホームの端から一歩後ろにさがった。さがった理由は自分でもよくわからなかったが、とにかくさがらなければならないと、反射的に一歩足を引いたのだった。

 それとほぼ同時になにかが竹中さんの右手首を掴んだ。なにも見えないのだが、確かに掴まれている。そして、右手首を掴んだ見えないそれは、竹中さんを前にぐいっと引っぱった。
 竹中さんはその弾みでバランスを崩して前につんのめった。転倒しそうになったものの、咄嗟に足を踏ん張って耐えた。その直後に急行電車がホームに入ってきて、風を巻き起こしつつすぐ目の前を通過する。
 竹中さんはぎょっとして身を起こし、慌てって後ろに数歩さがった。急行電車はホームを通り過ぎ、どんどん小さくなっていった。

 竹中さんは今しがたのことを思い返して恐ろしくなった。

 急行電車が警笛を鳴らしてホームに入ってくる直前に、ホームの端に立っていた竹中さんは、なぜかひやりとして一歩後ろにさがった。
 もし、あのとき一歩後ろにさがっていなければ、手首を引っぱられてバランスを崩したさいに、その弾みでホームの下に転落していたかもしれない。
 転落していれば、通過する急行電車との接触は免れず、命を失うという最悪の事態もあったはずだ。

 見えなかったなにかに手首を引っぱられた。
 あれはいったいなんだったのだろうか。

 正体はよくわからないが、強い悪意を孕んでいると思われた。いや、悪意というより殺意だろうか。

 この日以降、竹中さんは職場の最寄駅を使わないようにしているそうだ。どうしても仕事で電車に乗る必要があるときは、ひとつ先の駅まで歩いってから乗るのだという。

     了

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