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ラグナード公爵邸に身を寄せることになってから、まだ数日。
けれど――その日々は、今までの人生では考えられないほど落ち着かないものだった。
「エレナ、朝食は召し上がったか」
「……ええ、公爵様」
「ラグナード、と呼べ」
「……!」
食卓での会話すら、心臓を落ち着けるのに必死だ。
公爵――いえ、ラグナード様は、冷酷無比と恐れられた人物とは思えないほど、ことあるごとにわたしを気にかけてくださる。
「食が細いな。好みのものを作らせよう」
「い、いえ、これで十分ですから!」
「……遠慮するな」
彼はわたしの返答を聞き流すように、すぐさま執事に指示を飛ばした。次の瞬間、豪華なデザートが追加される。
(……これでは、まるで……)
囁かれる噂が脳裏をよぎる。
――冷酷公爵は、気に入ったものを手放さない。
「甘いものを食べると、頬が柔らかくなるな」
「っ……」
不意に告げられた言葉に、スプーンを落としそうになる。
からかわれているのだろうか。それとも……。
わたしが視線を逸らしたとき、ラグナード様はふと立ち上がり、わたしの椅子の背後に回った。
「っ、な、何を――」
「髪に……クリームがついている」
低く囁きながら、彼の指が頬をかすめる。すぐに離れたけれど、指先の熱は消えない。
思わず息を呑んだわたしに、彼は僅かに微笑んだ。
「……やはり甘いものは似合うな」
その一方で。
王城では、王太子アルベルトが苛立ちを募らせていた。
「どういうことだ! “無能”と捨てた女が、公爵の妻になるなど!」
「お、落ち着いてくださいませ殿下! 噂に過ぎませんわ!」
「いや、確かだ」
王の側近たちが顔を曇らせる。
ラグナード公爵は軍を掌握し、国の防衛を担う要の人物。その彼が、婚約破棄された令嬢を娶るとなれば……。
「……王太子の判断力を疑われかねませんな」
「っ……!」
アルベルトは奥歯を噛みしめ、傍らのミレーユを見た。
「エレナなど、ただの無能だ! それをわざわざ拾うとは……あの冷酷公爵、一体何を考えている」
「殿下、あんな女、どうでもよろしいではありませんか! 私の方が――」
「黙れ!」
王太子の怒声に、ミレーユは青ざめた。
しかし彼の苛立ちは収まらない。
“無能”と捨てた女が、今や国の英雄と並び立つ存在になろうとしているのだから。
「……エレナ」
「は、はいっ!」
夜会用のドレスを選んでいる最中、突然名前を呼ばれて心臓が跳ねた。
ラグナード様は珍しく口元を緩め、手にしていた深紅のドレスを差し出す。
「これを着ろ」
「赤は……派手すぎるのでは?」
「いいや。お前にはこれが似合う」
低く断言され、言葉を失う。
彼がドレスを選ぶなんて、意外すぎて。
「……公爵様のご趣味で?」
「そうだ」
即答された。
その声音があまりに自然で、頬が熱を帯びる。
「……では、着てみます」
夜会の場。
赤いドレスに身を包んだわたしがラグナード様にエスコートされて姿を現した瞬間、会場がざわめきに包まれた。
「……あれは……」
「婚約破棄された令嬢では……?」
「冷酷公爵が隣に……!」
視線が集中する。
けれど、ラグナード様の腕に支えられていると、不思議と怯えはなかった。
「堂々と歩け。お前は私の妻となる女だ」
「っ……」
囁きに背を押され、一歩ずつ前へ進む。
すると、正面に――アルベルト殿下とミレーユが現れた。
「エレナ……!」
殿下の顔が引きつる。
ミレーユは笑顔を取り繕いながらも、その目は嫉妬に燃えていた。
「……殿下。ご機嫌よう」
「なっ……」
わたしは涼しい顔で礼を取る。
ラグナード様の隣に立ちながら。
(――見せつけて差し上げますわ)
“無能”と蔑まれ、切り捨てられた令嬢が。
今や最強の公爵に隣立つ存在であるということを。
王太子の顔が苦々しく歪んでいくのを、わたしはしっかりと見届けた。
夜会が終わり、公爵邸に戻る馬車の中。
ラグナード様は珍しく楽しそうに笑った。
「いい顔をしていたな、エレナ」
「……わたくし、そんなに?」
「ああ。誇り高く、気高く――あの愚かな王太子には眩しく映っただろう」
胸が熱くなる。
その言葉に、これまでの悔しさが溶かされていくようで。
「……ですが、まだざまぁが足りませんわ」
思わず零した呟きに、ラグナード様が目を細めた。
「ほう……? では、もっと後悔させたいと?」
「ええ。殿下が自らの過ちを、骨の髄まで悔やむように」
その瞬間、彼は笑った。冷酷でありながら、どこか甘やかすような笑みで。
「いい。お前の望みは、私がすべて叶えよう」
馬車の中、彼の指がわたしの手を包む。
熱が伝わり、鼓動が跳ね上がる。
(……これが、本当に冷酷公爵なの?)
囁くような甘さに、戸惑いながらも、抗えなかった。
王城では、王太子が焦燥に駆られていた。
冷酷公爵とエレナの婚約話が事実ならば――彼の立場は揺らぐ。
「……どうしても、取り戻さねばならぬ」
アルベルトは初めて気づき始めていた。
“無能”と見下していた令嬢が、どれほど価値ある存在だったかを。
だがもう、その手は二度と届かない。
――彼女の隣には、冷酷公爵がいるのだから。
けれど――その日々は、今までの人生では考えられないほど落ち着かないものだった。
「エレナ、朝食は召し上がったか」
「……ええ、公爵様」
「ラグナード、と呼べ」
「……!」
食卓での会話すら、心臓を落ち着けるのに必死だ。
公爵――いえ、ラグナード様は、冷酷無比と恐れられた人物とは思えないほど、ことあるごとにわたしを気にかけてくださる。
「食が細いな。好みのものを作らせよう」
「い、いえ、これで十分ですから!」
「……遠慮するな」
彼はわたしの返答を聞き流すように、すぐさま執事に指示を飛ばした。次の瞬間、豪華なデザートが追加される。
(……これでは、まるで……)
囁かれる噂が脳裏をよぎる。
――冷酷公爵は、気に入ったものを手放さない。
「甘いものを食べると、頬が柔らかくなるな」
「っ……」
不意に告げられた言葉に、スプーンを落としそうになる。
からかわれているのだろうか。それとも……。
わたしが視線を逸らしたとき、ラグナード様はふと立ち上がり、わたしの椅子の背後に回った。
「っ、な、何を――」
「髪に……クリームがついている」
低く囁きながら、彼の指が頬をかすめる。すぐに離れたけれど、指先の熱は消えない。
思わず息を呑んだわたしに、彼は僅かに微笑んだ。
「……やはり甘いものは似合うな」
その一方で。
王城では、王太子アルベルトが苛立ちを募らせていた。
「どういうことだ! “無能”と捨てた女が、公爵の妻になるなど!」
「お、落ち着いてくださいませ殿下! 噂に過ぎませんわ!」
「いや、確かだ」
王の側近たちが顔を曇らせる。
ラグナード公爵は軍を掌握し、国の防衛を担う要の人物。その彼が、婚約破棄された令嬢を娶るとなれば……。
「……王太子の判断力を疑われかねませんな」
「っ……!」
アルベルトは奥歯を噛みしめ、傍らのミレーユを見た。
「エレナなど、ただの無能だ! それをわざわざ拾うとは……あの冷酷公爵、一体何を考えている」
「殿下、あんな女、どうでもよろしいではありませんか! 私の方が――」
「黙れ!」
王太子の怒声に、ミレーユは青ざめた。
しかし彼の苛立ちは収まらない。
“無能”と捨てた女が、今や国の英雄と並び立つ存在になろうとしているのだから。
「……エレナ」
「は、はいっ!」
夜会用のドレスを選んでいる最中、突然名前を呼ばれて心臓が跳ねた。
ラグナード様は珍しく口元を緩め、手にしていた深紅のドレスを差し出す。
「これを着ろ」
「赤は……派手すぎるのでは?」
「いいや。お前にはこれが似合う」
低く断言され、言葉を失う。
彼がドレスを選ぶなんて、意外すぎて。
「……公爵様のご趣味で?」
「そうだ」
即答された。
その声音があまりに自然で、頬が熱を帯びる。
「……では、着てみます」
夜会の場。
赤いドレスに身を包んだわたしがラグナード様にエスコートされて姿を現した瞬間、会場がざわめきに包まれた。
「……あれは……」
「婚約破棄された令嬢では……?」
「冷酷公爵が隣に……!」
視線が集中する。
けれど、ラグナード様の腕に支えられていると、不思議と怯えはなかった。
「堂々と歩け。お前は私の妻となる女だ」
「っ……」
囁きに背を押され、一歩ずつ前へ進む。
すると、正面に――アルベルト殿下とミレーユが現れた。
「エレナ……!」
殿下の顔が引きつる。
ミレーユは笑顔を取り繕いながらも、その目は嫉妬に燃えていた。
「……殿下。ご機嫌よう」
「なっ……」
わたしは涼しい顔で礼を取る。
ラグナード様の隣に立ちながら。
(――見せつけて差し上げますわ)
“無能”と蔑まれ、切り捨てられた令嬢が。
今や最強の公爵に隣立つ存在であるということを。
王太子の顔が苦々しく歪んでいくのを、わたしはしっかりと見届けた。
夜会が終わり、公爵邸に戻る馬車の中。
ラグナード様は珍しく楽しそうに笑った。
「いい顔をしていたな、エレナ」
「……わたくし、そんなに?」
「ああ。誇り高く、気高く――あの愚かな王太子には眩しく映っただろう」
胸が熱くなる。
その言葉に、これまでの悔しさが溶かされていくようで。
「……ですが、まだざまぁが足りませんわ」
思わず零した呟きに、ラグナード様が目を細めた。
「ほう……? では、もっと後悔させたいと?」
「ええ。殿下が自らの過ちを、骨の髄まで悔やむように」
その瞬間、彼は笑った。冷酷でありながら、どこか甘やかすような笑みで。
「いい。お前の望みは、私がすべて叶えよう」
馬車の中、彼の指がわたしの手を包む。
熱が伝わり、鼓動が跳ね上がる。
(……これが、本当に冷酷公爵なの?)
囁くような甘さに、戸惑いながらも、抗えなかった。
王城では、王太子が焦燥に駆られていた。
冷酷公爵とエレナの婚約話が事実ならば――彼の立場は揺らぐ。
「……どうしても、取り戻さねばならぬ」
アルベルトは初めて気づき始めていた。
“無能”と見下していた令嬢が、どれほど価値ある存在だったかを。
だがもう、その手は二度と届かない。
――彼女の隣には、冷酷公爵がいるのだから。
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