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9.喧嘩した日は悲しみの塩にぎり【後】

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僕は繋がらない電話に焦りを感じながらも必死に和戸くんを探した。
アーサーから走っていったのなら繁華街もそう遠くない。僕は騒がしい街に向けて走っていく。
その間も電話を何度もかけた。電源を切っているらしく、無機質なアナウンスしか聞こえない。
時間は21時を過ぎ、週末の繁華街は程よい酔っ払いで賑わっていてその雑多な世界に和戸くんがまぎれこんでしまったら中々見つけられないかもしれない。焦りでじんわりと汗を掻きながら街中を見渡すと、人並みの中で一人、ゆっくりと歩く和戸くんの背中が見えた。

「和戸くん!!!」

僕の声にハッと振り返った彼が走って逃げていく。待って!!!そう呼びかけても和戸くんはスルスルと人混みを抜けていく。僕もそれなりにフィジカルに自信はあったけど、元々和戸くんはスポーツ万能な青年で、ウェイトがモノを言う競技なら僕の方に分があるだろうけど、単純な足の速さだったら和戸くんの方が圧倒的だった。
息を切らし、それでも僕は彼の背中を追う。あと少し、肺が潰れそうだ。こんなに全速力で走ったのなんて学生の頃以来かもしれない。

「巽ッ!」
「……!」

僕の呼びかけにようやっと彼が足を止める。振り返ってはくれなったけどもう逃げるのはやめてくれたようだった。
駆け寄って、いつもより小さく見える背中に手を触れさせる。弾かれたようにこちらを向いた彼の茶色の瞳は涙で埋もれていて、白い肌は走ったのに青ざめていた。
僕の迂闊さで彼を傷付けたことをまざまざと痛感する。あまりに悲しそうな顔に僕は抱きしめることも出来ず向かい合ったまま立ち尽くした。

ぐずりと和戸くんが鼻を鳴らす。堪えていた涙がぽろりと頬を伝い、僕はようやっと金縛りから解けたように彼に手を伸ばした。だけど、彼はそんな僕の手を弾き飛ばすと、ぐっと息を飲んでから僕を睨むように見つめた。

「……僕が、居ない間、いつもあの人と会ってた?」
「会ってない」
「どうして、あんなことになったの?」
「……僕の油断が故です」
「ぐずっ…はーっ…あの人、誰、なんですか」

和戸くんの問いかけに僕はグッと喉が締まる。彼の古傷をえぐることになるのではないかと、少しだけ怖かったが
彼をこんな悲しみと怒りの表情のままではいさせたくなかった。


「立華かなえさん」
「え!!!??嘘だ、だって、僕、ずっと彼女が帰宅してからマンションに張ってたのに…」

和戸くんが驚きに目を見開く。涙の痕が残ってしまった頬を擦りながら、ちゃんと見張っていたはずなのにと狼狽えているから僕は涙を拭って湿っている彼の手を握って歩き出す。
人混みに紛れ、歩きながら「あの姿だよ、気が付かなくてもしかたがない」と呟いた。
とても初めて会った時と同一人物になんて思えないような変化だった。
和戸くんも確かに…と嫌な光景を思い出したのかグッと眉をしかめながら小さく呟いた。

僕達は繁華街の喧騒を抜け、自宅への道のりを歩く。そのまま家に帰る気分にはお互いならず、近くの公園により、自販機でお茶を買うとベンチへと腰を下ろした。
和戸くんも横に座り、しばらくの間沈黙が走る。どう切り出そうかと考えていると、和戸くんが話しかけてきた。

「……あの人、壮太さん目的の依頼だった?」

和戸くんとお付き合いしたあとでもそういう目的の依頼人がいた。大抵は分かりやすく、依頼の相談の段階でお断りしていたのだが、今回はミーハーな依頼人と違い本気で何かに怯えているように僕にも和戸くんにも見えていたから
和戸くんが驚くのも無理はなかった。それほどまでに立華かなえ……いや、金田の演技力は完璧だったのだ。

僕は和戸くんの問いかけにふるりと首を振った。キスまでされていたのに、違うの?と和戸くんが疑問の視線を僕へと向けた。僕はお茶を一口飲むと、深く息を吐き、それからゆっくりと和戸君の手を握り直した。

「あの人の目的は……君なんだ」
「……え……ぼ、僕?」

和戸くんがあからさまに狼狽えていた。彼女とはまるっきり初対面だし、なんで僕なの?と和戸くんはさらに困惑したようだった。

「……僕なのに、なんで壮太さんにキスをしたの?僕に対する、いやがらせ…とか?」
「いや……」

凄く悲しそうな声で呟きながら視線を足元に落とす和戸くんの頭を自分の肩に引き寄せ、頭を撫でる。
僕と和戸くんが公私共にパートナーであることはまだ刑部さん以外は知らない事で、和戸くんにいやがらせをするために僕にキスをするなんてまずありえない事なのだが、申し訳ないことに僕のステータスを狙ってモーションを掛けてくる女性も多いから、僕に言う事はなかったが不安を抱えていたのだろう。
それが今日、僕が他人とキスをしているのを見たことで爆発したのだろう。和戸くんの体が小さく震えていた。

「いやって、何?どう考えたって、貴方狙いで、僕にいやがらせしたんでしょう?なんで違うっていうの?」

あの人を庇ってるの?和戸くんが声を荒げる。僕は悲しそうな声でそういう和戸くんを抱きしめて、違うんだともう一度大きな声でハッキリと伝えた。


「僕が、キスをされたのは本当に僕の落ち度だったけど、君に対するいやがらせじゃない。僕へのいやがらせなんだ」
「壮太さん、に?嘘だ、だって凄く綺麗な人だった。そんな人が……」
「あの人はっ!!!あの人は……金田なんだ」
「……えっ」

僕があの男の名を口にした瞬間、腕の中で和戸くんの体が硬直した。不安そうに視線が動いている。

「だ、だって全然顔も、違った。だって女の子だった…声だって……どう、して」
「僕と話したとき、一瞬だけ素の金田が見えたけど……恐らく、君を諦めきれなくて整形と女装までしたんだと思う。僕とキスをしたのは、君が来るのを見計らって浮気でもしているように見せて僕と別れさせようとしたんだと思う」

僕の言葉に和戸くんは、カタカタと唇を震わせていた。今だにそんな執着を持たれているなんて思っていなかったのだろう。僕だってもう解決したと思っていた。だが、ストーカーというのは再犯率も高いもので、金田の和戸くんへの執着は僕や和戸くんが思った以上に強いものだったのだ。

「顔まで、変えて……なんで……」
「僕と君がこれで万が一別れたら、そのあと立華かなえとして君に近づくつもりだったみたい」
「……っ」

和戸くんがぎゅっと僕にしがみ付いてくる。身体も冷えてきたし、僕は帰ろうと彼の耳元に囁いた。
彼はこくんっと頷いて、震える手で僕の手を握った。暗闇が気になるのか、和戸くんはあたりを警戒するようにぎゅっと身体を寄せてくる。刑部さんからの連絡はまだなく、僕もあたりを気にしつつ話を続けながら歩き出した。

「接近禁止も出しているから、もう一度警察に引き渡されたら彼は少なくても1年は懲役するから」
「そう……ですね」

罰金で逃れる場合もあることは僕も和戸くんも分かっているからそのことはあえて口に出さなかった。
重苦しい沈黙がいつのまにか深夜に近づいた夜道にずんっと圧し掛かった。

「和戸くん……本当に、ごめんね」
「ぁ……」
「君を悲しませるようなことをすることになるなんて」
「っ、そうですよ。油断しすぎです」
「ごめんなさい」
「明日の朝は、おにぎりしか出しません」
「…………………え!!!!???」

和戸くんが唇を尖らせてぽそっと呟いた言葉に、僕は深夜近い夜道を歩いているというのに思わず大きな声を出してしまった。僕のあまりの反応に、不安そうだった和戸くんはクスクスと笑いだし、少しだけ肩の力が抜けたようだった。それはいい。それはいいのだけど……

「お、おにぎり……だけ?え、Just ONIGIRI?」
「ふっ……なんで英語発音になるんですか、ええ、Just おにぎりです」
「あ、えと、み、みそ汁」
「ないですね」

余りのショックに息が止まりそうだった。和戸くんの朝ごはんは一日の僕の活力だ。和食の時はいつも朝なのに御飯に味噌汁、焼き魚や卵焼きがある。おにぎりの朝ごはんの時だって、ちゃんと味噌汁に副菜はあるのに、おにぎりだけ…いや、作ってもらえるだけありがたい、ありがたいんだけど……ここ最近、一緒にご飯を取る時間も少なかったし、ひさびさにゆっくり2人で朝ごはんと思っていたからものすごいショックを受けてしまって、僕はぐずっと鼻が鳴った。

「反省してください」
「う、ぅ……反省はもうしてるんだけど」
「じゃぁ、禊ですね。明日までキスもしません」
「へっ!?うそ、うそでしょ!?お、おやすみのキスしないの?」
「しませんよ」

口紅、まだついてますよ?と和戸くんに言われて慌てて手の甲で拭う。しかしそこには何もついていなくて、和戸くんにいじわるを言われたと気が付いた。僕のそんな行動に和戸くんは少しだけ溜飲が下がったのか満足そうにしている。さっきまで恐怖で青ざめていた顔に少しだけ血の気が戻ってくれたから、良し……と思いたいのに、頭の中が明日の食卓を思うとつい僕はしょぼくれてしまう。

和戸くんが、あえてこうやって少しおどけて柔らかい空気を出してくれるから本当にありがたい。
本当にいい子だ。そんな彼に悲しい思いをさせてしまった事が僕は本当に申し訳なかった。だから、だから。


*****

「和戸くん、和戸くんっ、ごめん、ごめんよぉ」

ぐずっ、ぐずっと泣きながらキッチンにいる和戸くんの背中に声を掛ける。
帰宅して結局やっぱりおやすみのキスもなく、でも抱き着いて寝てくれるというちょっとかなり僕にとっては拷問のような夜を明け、着いた朝食の席は宣言どおりの状態で、具すらなかったのはさすがに狼狽えた。昨日空気を和らげてくれたがちょっと、いやかなり怒ってたんじゃないかと今更ながら彼に甘えたことを後悔した。
甘んじて禊として受けますなんていうのは僕の甘えでしかなかったのだ。

いい塩梅の塩にぎりは美味しい。海苔もパリパリで美味しい。でも、でも、一緒の食卓にも着いてくれないし、
サーブされた後は背中を向けられている。そういえば、許してあげますって言われていないことを今になって思い出し、一口食べてはごめんなさいをしているが、和戸くんからの反応がない。

「和戸くん~ほんとにごめんなさいっ、あの、せ、せめて一緒に食べよう?」

ぐすん、ぐすんっと泣きながら和戸くんに声をかけ続けると、ようやっと彼が振り返ってくれた。
キッチンから食卓にくる彼の手にはお盆が握られていて、その上には僕と同じ楕円のお皿に……紫蘇が巻かれたおにぎりと、綺麗に海苔が巻かれたうえに艶々の明太子が乗っているおにぎりが二つと味噌汁、それからだし巻き卵にパリッと焼き目のついたウィンナーが置かれていた。

「……え、えっ!」
「いいですよ、食べましょう?」
「そ、それ……」
「あぁ、カリカリ梅と焼き鯖の紫蘇巻きおにぎりと、明太子おにぎりですね。あ、それからだし巻きにーー」
「僕がっ、僕が一番すきなおにぎりっ!!!!」

わっと思わず泣いてしまう。和戸くんだけいつも通りの食卓で、それを塩にぎりを食べる僕の眼の前で食べるなんて……

「うぅ、和戸くん……いい、拷問師になれるよっ……ぐずっ、うぅ…おはようのキスもない、おかずも味噌汁も具もない…僕が、僕が悪いんです、油断して唇を奪われた僕がっ、ぐず、ぅうっ…和戸くんの味噌汁っ…」


自分の油断が招いた結果だし、僕だって和戸くんが誰かと事故でもキスしているシーンを見たら人には見せられない人相になる自信しかないから、和戸くんが僕にこういうお仕置きをするのも当たり前だ。
だけど、だけど、28歳児の僕には本当にキツイお仕置きすぎて、和戸くんがこのまま僕に愛想をつかすんじゃないかという思考回路にすらなり始めていた。

「壮太さん」
「はい゛ッ」
「もう29歳になりますよね?」
「ぐずっ、はい……」
「それなのにそんなに泣いてごめんなさいしてるんですか?」
「う゛ぅ゛、な、情けないよね、ご、ごめんね。でも、あの、僕は和戸くんしか目に入らないから」
「ふぅん?」
「僕の身体は、もう和戸くんに作られてるようなものだから……い、今更別れるって言われたら、正直僕はもう飢え死にするかもしれない」

心底本気でそういえば、和戸くんはぷっと噴き出した。

「それって、僕が好きなんですか?それとも僕のご飯が目的?」

身体目的?みたいな聞かれ方をして僕は全力で首を振る。そんなわけがないのだ。


「ご飯だけなわけじゃないの、知ってるでしょ?僕、いまだに君の初準備できなかったの根にもつような奴だよ?
巽自身が大好きなんだよ。愛してるんだ。本当は……公表だってしたいんだ、巽が僕のものだって世界に言いたい」

僕はぐずつくのをやめて、まっすぐに和戸くんを見る。和戸くんが嫌がるかと思ったし、ストーカーの兼もあったからあえてお付き合いを公表はしていなかったけど、そこそこメディアに顔が知られている僕だから、僕の私生活のパートナーを探ろうという人達は少なくない。フリーだと思われている今はアプロ―チしてくる人間もいる。そのたびに和戸くんを傷付ける事態がおきないとも限らないから、ずっと考えていたことだった。

もちろん、和戸くん自身への虫よけもしたいからでもある。
和戸くんはスポーツマンだからスタイルもいい、色白で所作が綺麗だからちょっとした動作で見惚れる人も多い。しかも兎に角優しいし、笑顔が可愛いから金田のようにちょっとの優しさで勘違いをする奴が一定数いる。
あそこまで執着しているのは金田くらいだが、街中で声を掛けられることも多い。僕が調べただけでも彼を思う同級生も男女ともに大学を卒業した今も多くいる。だから、世間様に彼は僕のものだと言いたいという気持ちは彼と付き合った時から抱えていた。

そんなことを思っていると、僕の唇にふにりと柔らかい感触がした。
鼻先に出汁のいい香りがする。僕の口元に出汁巻き卵が一つ、押し付けられていた。


「……分かってますよ、ホントは」

食べていいです、それっと唇を突かれて僕は彼の橋先から出汁巻き卵を口の中に入れる。じゅわっと優しい風味の出汁と卵の甘味が口の中に広がって、美味しくて、美味しくて悶絶しそうだった。


「美味しい~~~~っ、和戸くん、美味しいっ」
「はいはい」
「うぅ、和戸くんの出汁巻き卵は世界一美味しい」
「……大げさですよ、もう」

ふっと優しい顔で笑いながら和戸くんは味噌汁を啜る。箸の運びもお椀を上げ下げする姿も、見惚れるくらい綺麗だ。じっと和戸くんを見惚けていると、彼がおにぎりを一口齧る。その仕草に、不謹慎にもムラっとしてしまう。
今は反省してる時だろ、僕はーーー!と自分に喝を入れて、口の中に残る出汁巻き卵の味を思い出していると和戸くんがフッと笑った気がした。


「公表、してもいいですよ」
「!」
「……だって、最初で最後の男になるんですよね、僕の」
「うん、うん!!!」
「じゃ、いいです。僕も、これ以上貴方にモーションかける人…みたくないし」
「し、嫉妬して……」
「しますよ、嫉妬。だからお仕置きしてるんです」

ふいっと反らされた和戸くんの耳は真っ赤で、僕は嬉しさでくらくらと眩暈がした。

「壮太さん」

和戸くんが優しい声で僕の名前を呼ぶ。僕は犬だったら尻尾がちぎれんばかりに振ってるような様子で「なぁに」と応える。和戸くんが僕の顔に手を伸ばし、口の端から米粒を取ってパクリと食べた。

「あとで、仲直りのキスしましょうか」

僕の和戸くん、最高にかっこいいしエッチだし、可愛い。
フッとほほ笑んでくれた彼に心臓を射貫かれて天を仰ぐ。あまりに可愛すぎて泣けてくるくらいに和戸くんへの重量級の愛情が僕の中で暴れまわる。


「あの、それ、その……仲直りエッチじゃだめ、かな?」

余りに愛おしくて、素直に欲望を口にしてしまえばキョトンと瞬きをした和戸くんの目尻がじわっと桃色に染まった。

「……、お腹休めたら」

駄目とは言わなかった和戸くんに僕は今日のスケジュールを頭の中で一気に組み立てる。
ぽぽっと恥ずかしそうにしながらチマチマとご飯を食べる小動物みたいな和戸くんからお箸をとり、僕は彼の口元に置かずを運ぶ。


「巽、早く食べさせて」
「……食べさせられてるの、僕なんだけど」


もう、しかたないなぁと言いながらもまんざらでもなく口を開けてくれる雛鳥のような和戸くんに僕はまた天を仰いだ。
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