紅湖に浮かぶ月

紅雪

文字の大きさ
上 下
7 / 51
紅湖に浮かぶ月1 -這生-

5章 闇と生命の楔

しおりを挟む
1.「物言えぬ肉塊と、物言わぬ盲者」


窓から陽射しが射し込み始めていた。夜が完全に明けて世界が白んでいく。私
は寝たのか寝ていないのかわからない。意識があったのか無かったのかわから
ない。何かを見ていたのか見ていなかったのかわからない。目を開けていたの
か閉じていたのかわからない。
気付いたら床で足を抱えて座り込んでいた。バランスの崩れたソファーに軽く
もたれかかっている。
頬が突っ張る感じがする。どうでもいい。
部屋が滅茶苦茶だった。
しらない。
「喉・・・乾いた。」
床に手を付く。腰を上げて四つん這いのまま冷蔵庫まで進む。冷蔵庫を開けて
麦酒を取り出す。また膝を抱えて座ると栓を開ける。飲む。
なんとなく、炭酸が舌を刺激するのを感じた。
味、しない。
口の中で、温度も感じない気がした。
胃の中に流れ込んだ液体が、冷蔵庫はちゃんと機能していたと主張するように
胃の中で冷たさを広げた。
時間が飛んだ気がした。思考が停止していたのか、寝ていたいのかわからない。
時間が経過したのか、殆ど経過していないのか。どうでもいい。
時計、壊れている。
しらない。
缶を持ちながら、またソファーの元まで四つん這いで移動する。ソファーと向
き合ったら左の肘掛が無く、足が一本欠けていて不格好。
しらない。
背中を軽く預け、また膝を抱えて座る。麦酒を飲む。飲みきって無くなった。
時間が飛んだ気がした。飛んだのは意識かもしれない。経過した時間はどれく
らいなのかわからない。時計。
壊した。
しらない。
麦酒の缶に口を付け、上に傾ける。
空だった。
もう一本飲もうと思ったけど、動きたくない。空き缶を右手で握りつぶして窓
に投げつける。カツンと窓に当たった後、床に乾いた音を立てて転がった。ど
うでもいい。
投げた手を戻して膝を抱える。足を何かが伝う感触がした。見ると赤い筋が伝
っている。どこからか出血しているのだろう。
興味ない。
「え・・・血?」
その赤色に意識が向いた。出血していたのは右手。さっき缶を握りつぶした時
に裂けた缶で切ったか、刺さったかしたのかな?掌を見つめる。出血は止まり
始めていた。
出血。血?右手を染める赤色。誰の?わたしの。染まっている右手。何に?
しらない。
しらないしらないしらないしらないしらないしらないしらないしらないしらな
いしらないしらないしらないしらないしらないしらないしりたくない。
「ぅ・・・ぁ・・・」
声が零れた。
「あ、ぁぁぁ・・・」
涙が溢れた。
涙で滲んだ視界が、窓から入る陽射しを拡散させる。歪んだ光は、爆光となっ
て兵を飲み込んでいく。脳裏の光景か、目の前の光景か。
わからない。
ごめんなさい。




ヌバリグス街道とソルアアラ枝道の交点に人影が二つあった。その二人を見つ
けたのは街道に合流しようとしていた教吏従士隊の先頭にいた教徒である。先
頭の教徒が止まったことで、後続の行軍も次々と停止していく。
先頭を進んでいた教徒が、後ろにいた教徒と顔を合わせ頷き合うと、近づき始
めていた二人へ向かって四人ほどが向かっていく。
近づくにつれ、二人の容貌が普通ではないことに気が付いた。一人は鋭い眼光
を教徒に向けていたが、右手はだらりと下げ手首より先は赤黒くなっていて、
左足は血塗れでまともに歩けていなかった。その眼光の鋭い男に左腕を肩に掛
け支えていた男も、顔の左眼窩から大量の血の涙を流したように顔を赤黒く染
めている。
「何者だ!?」
声を張れば届く距離から、その異様な二人に教徒が足を止め声を掛ける。声を
掛けられた二人のうち、肩を貸している男が口を開こうとしたが、隣の男が怪
我をしている右手を上げて言う。
「俺はペンスシャフル国の五聖騎リャフドーラ・コルエリヌスだ。そちらに居
るマニグ・ラウッティ若しくは指揮官と話がしたい。」
名前を聞いた時には、先頭に居た教徒たちは既に男二人に銃口を向けていた。
先に敗退させたペンスシャフル国と聞いて警戒したからなのか、大怪我をして
いて肩を借りないと歩けないような状態のリャフドーラに気圧されて武器を取
らされたのかはわからないが。
「銃は降ろして構いません。」
少しの膠着状態はあったが、銃を構えている教徒の背後から、別の教徒が声を
掛けて単身リャフドーラへ向かい先頭に居た教徒を抜いて歩み寄っていく。敵
意が無いことを示すためか、両手を上げて近づいていた教徒は、リャフドーラ
の五メートル程手間で歩みを止めた。
「あんたが指揮官か?」
リャフドーラが先に問いかける。
「いえ、私は隊長の一人ですが、昨日マニグ様と話をしたので私が出向きまし
た。教吏長と話した結果、それが一番都合がいいだろうという結論になり私が
出向きました。」
「教吏長?」
隊長の説明にリャフドーラが疑問を投げた。
「失礼致しました。教吏長はこの教吏従士隊の、総責任者になります。」
「まぁ、その辺はどうでもいいが、マニグはどうした?」
疑問を投げておきながら、どうでもよさそうにリャフドーラは目的の人間が現
れていないことへの質問に切り替えた。その質問に隊長の教徒は表情に影を落
とす。
「結論からいいますと、何者かに暗殺と言っていいのかわかりませんが、行軍
中に殺されました。」
「なんだと!」
隊長の言葉に目尻を吊り上げリャフドーラは怒鳴った。その怒声に隊長は臆し
て一歩下がる。
「いや、すまねぇ。どういうことか説明してくれ。」
隊長は下がったまま、これまでの経緯を簡単に説明した。リャフドーラからの
情報により、ペンスシャフル国軍の進行を奇襲を以てほぼ被害もなく退けたこ
と。その後、当日の野営地まで行軍したこと。そろそろ野営にしようとした時
突然首が無くなってマニグが倒れたこと。行軍時、自分が隣でマニグと話して
いたこと。
「マニグだって練達の剣士だ、気づかずに殺すだと。」
リャフドーラは驚きを隠せなかった。広くない道だが、教徒が、しかも戦争に
向かうため隊列を組んで行軍している中、気づかれずにマニグの首だけを取っ
ていくなど、離れ業だと。
「・・・あの女か!」
「え、女?」
リャフドーラが突然顔を上げ、表情に怒りを露わにしながら放った言葉に隊長
は疑問を口にした。それは気にせず、ハイリと一緒に現れてさっさと反対方向
の林へ駆け抜けていった女を、リャフドーラは思い出してた。
「ハイリがあの調子じゃぁ、それを出来る奴がいても不思議じゃねぇか。」
独り思案と独り言を続けているリャフドーラに、隊長はどうしていいかわから
ず、ただ疑問の顔を向けていた。
「いや、すまねぇ。気にしないでくれ。」
リャフドーラはやっと気づいたらしく、隊長に申し訳なさそうに言った。
「それで、マニグ様から伺ったのですが、今回の作戦にはリャフドーラ様とそ
の配下の騎馬五百が加わって頂けると。」
その言葉にリャフドーラはばつの悪そうな顔すると、静かに言った。
「本当にすまねぇと思うが、途中グラドリアの軍事顧問に奇襲を受けて俺はこ
の様になっちまった。挙句、配下もこいつ以外は居なくなっちまった。この状
態じゃ協力出来そうにない。」
「そう・・・ですか。」
隊長は落胆を隠そうともしなかった。それを見てもリャフドーラは、現実とし
てどうしようもないので、ただ申し訳なさそうに立っていた。
「わかりました。教吏長に報告して今後の方針を決め・・・」
その時、教吏従士隊の中ほどからざわめきが広がった。その音の波濤はほぼ時
間をかけることなく、先頭まで押し寄せた。そして、隊長の元に一番先頭に居
た教徒の一人が駆け寄ってくる。
「報告するまでもなく、決まったようです。」
教徒が駆け寄るまでもなく、その音は隊長の耳にも届いていた。隊長はリャフ
ドーラへそう告げた。リャフドーラにもその音は当然届いていたようで、苦い
顔をしている。
「じゃぁ、ここまでだな。」
リャフドーラの言葉に、隊長は軽く会釈すると背中を向け、駆け寄ってきた教
徒から報告を受けた。隊長はそのまま教徒と一緒に教吏従士隊へと戻ろうとし
たが、足を止め振り返る。
「マニグ様のことは、お悔み申し上げます。」
「あいつの事も、こっちも、気にすることはない。」
深々と頭を下げた隊長に、リャフドーラは力なく言った。が、悔やんでいる訳
でもなく、現状に対して力が抜けただけだった。隊長はもう一度軽く会釈をす
ると教吏従士隊へと戻って行った。教国への撤退準備に。

撤退準備をしているラウマカーラ教徒を余所目に、リャフドーラは街道の脇に
座り込んだ。張っていた気が緩んだせいか、右手と左足の激痛が増したことに
顔を歪ませる。
「今痛み止めを。」
「いや、いい。マフエラート、お前が使え。」
小銃を抜いて、薬莢を込めようとしていたマフエラートにリャフドーラは左手
を振りながら言った。
「しかし。」
「あとなぁ、目、悪かった。」
マフエラートは首を左右に振った。ハイリに会った後、兵を国に引かせリャフ
ドーラの元へ駆けつけた時、リャフドーラは激痛と憎悪の混じった凄まじい形
相をしていた。それを助けようと近づいた時に容赦なく左目を抉られたが、マ
フエラートは激痛に耐えながらも小銃でリャフドーラに痛み止めを撃ち、止血
して増血作用の薬莢も使った。目に関してはただの八つ当たりだとわかってい
たが、そんな事を気にするぐらいであれば助けになど行かない、と自分の行動
も理解していた。
もとより、死を覚悟で忠誠を誓ったのだから。リャフドーラ個人に。
「これからどうすっか・・・」
独り言か、それとも自分に話しかけられたのか、判断のつかない言い方だった
が、マフエラートはその言葉に応えた。
「しっかりと療養が出来る場所へ移動した方がよいかと。」
「だよなぁ。痛ぇし。」
リャフドーラは軽く笑って見せたのだろうが、痛みに歪んでいる顔では微妙な
笑い顔にしかなっていなかった。
グラドリア国、ラウマカーラ教国、どっちもちょっかい出してるから行きずら
いし、当然裏切ったペンスシャフル国に還れるわけもない、と考えていたリャ
フドーラはマフエラートを見て言った。
「妥当なところで、サールアニス自治連国か。」
「確かに妥当、ですな。」
そう呟き、見えはしないがサールアニス自治連国の南方へと、マフエラートは
残った片方だけの目を向けた。




「撤退の指示は?」
「先程出した故、撤退準備へ移行しておるだろう。」
早朝から、楕円の円卓を十数人の人間が囲っていた。誰もが似たような服装で
ある。ラウマカーラ教国を運営しているであろう議席であるが、今までと違っ
て部屋の中は騒然としていた。
「まさかたった一日で半分も教徒を減らされようとは。」
ハナノグが唸るように言った。ホワトスもそれに続く。
「三万も上回っていて、なお搖動部隊までも用意しておったのに。」
「その揺動部隊は戦地にすら着いておらぬ。」
「三万も上回ったなど、問題にすらならぬ。あれは悪魔の所業だ。」
唸る二人の教使の間で、カンサガエは考えるように目を瞑っていた。それは考
えているのか、現実からの逃避かは定かでない。
開戦初日で弄した策が功を奏すこともなく軍は半壊、兵の士気や教徒の心境は
半壊どころではないだろう。グラドリア国内での暴動は半分も成功しなかった。
それは範疇ではあったが、何も軍を出動させることだけが目的ではない。国民
に動揺の波紋を与えるのも目的の一つだった。その動揺と伴に戦争となれば、
更なる動揺や不満を抱える国民が増えるはずと。
揺動部隊に関しても間違ってはいなかった。グラドリア国との戦争の隙を狙い
進軍してきていたペンスシャフル国の部隊を壊滅させ、更にその足でグラドリ
ア国へ横撃を行う。だが、ペンスシャフル国の部隊を退けた報告以来、揺動部
隊からの連絡はその後未だ来ては無い。
「すまぬ、あれは読めなんだ。」
目を瞑ったままカンサガエは静かに言葉を零した。黙していたカンサガエが口
を開いたことにより、部屋の中が静まり返った。
あんな呪紋式の兵器が存在する等、想像もしていなかった。呪紋式自体は存在
はするだろうが、効果が大きければ大きいほど呪紋式は複雑になり、準備や記
述に時間を要する。それは警戒していたが、まさかあれほどの威力を持った呪
紋式が銃から放たれるなど、とカンサガエは苦い思いをしていた。
「誰にもわかりません。教皇の所為ではないです。判っていたらむざむざ死地
に教徒を送るなんてことしていません!」
どんっと円卓を叩いて、若い司祭グラダが涙を溢れさせながら行き場の無い怒
りを円卓に叩きつけた。
「グラダ司祭!言葉が過ぎるぞ。」
ホワトスが声を大きくして睨みつけるが、グラダは涙が溜まった瞳でホワトス
を睨み返す。
「やめよ。」
カンサガエはそれまで閉じていた目を開き静止した。その静止にグラダは視線
を俯くように円卓に向けた。視線が下がったため、頬を伝う涙は直接司祭服へ
と落ちていく。若い司祭に向けられたホワトスの表情は変わらず、グラダを睨
んだままでいた。
「グラダ司祭の言うとおり、儂が教徒を死地に送り込んだのだ。」
「何を仰いますか。」
「それは違います!」
ハナノグとグラダが同時にを声を上げる。カンサガエはそれを軽く手を上げて
制した。
「儂もグラダ司祭と同じく、教徒の、教国の行く末を憂いているのは同じだと
思っている。しかし、儂はその憂いを教国の栄華を目指し舵を切ったが、その
舵取りにより多くの教徒を死に追いやってしまった。」
カンサガエは軽く拳を握り、再び瞼を降ろした。
「しかし、あれは想像外の代物かと。」
ホワトスがカンサガエの言葉を否定するように、結果しかたがなかったのでは
ないかと思いながら言った。だがその否定は違うとばかりにカンサガエは軽く
頭を振ると目を開く。
「結果は結果として存在しているのだ。故に、儂が教徒を死地に送り込んだ。
こればかりは変えようもない。」
その言葉でホワトスも言い返せず黙ってしまう。部屋の中にはまた沈黙の時間
が訪れた。それが長かったのか、数秒程度だったのかはわからないが、沈痛な
空気が流れる部屋では皆長く感じたかも知れない。
「カンサガエ教皇。」
「何かな、ロッカル司祭。」
沈黙を破り口を開いたロッカルに、カンサガエは顔を向けながら発言を促した。
「確かに敗戦の結果でしたが、それに乗じて教国に奇襲を掛けようとしたペン
スシャフル国に、下手をすれば教国は窮地に陥っていた可能性もあります。し
かしその計画を頓挫させたのも結果。」
「何が言いたいのだロッカル司祭。」
ホワトスが割って口を開く。ロッカルの口ぶりに苛立ちを露わにしながら。カ
ンサガエがそれを煩わしそうに制する。
「遠征から帰還する教徒も相当疲弊しているかと思われます、心身ともに。そ
れに教徒の不安も募っているでしょう。それ故、早急な立て直しが必要かと思
われますが、今後の展開をお聞かせ頂けますか。」
「我らも疲弊しておる。」
淡々と語るロッカルをホワトスが恨めしそうに見る。カンサガエはホワトスの
ことを無視してロッカルに向かって頷く。
「帰還した教徒へは労いをせねばならない。殉死した教徒の葬儀、家族の者へ
の悼みもせねばならぬ。当然、教徒への説明、今後教国の運びも考えねばなる
まい。」
カンサガエはそこで軽く手を上げた。
「今からの話を、終わるまで聞いてほしい。」
その仕草、発言に一同が息を飲む。
「まず、儂は教皇を降り、次の教皇へはアルマイア様をと考えている。大変な
時期としてしまったが、儂が教皇であるより教徒は納得するであろう。」
カンサガエは一呼吸置く。
「儂は一教徒して、帰還した教徒への対応をしたいと考えておる。具体的な内
容はこの後の議題として話したい。」
カンサガエは上げていた手を下げる。
「皆には苦労を掛けるが、どうだろうか。」
緊張が解けたように室内に呼吸の音が、衣擦れの音が、静寂を破ったように広
がる。
「教皇は司祭に戻り、今後の音頭を執られるので?」
今まで黙っていたハナノグが疑問を投げた。
「先も言ったように、一教徒としてだ。司祭にも戻らぬ。」
そこで室内が多少ざわついた。責任の在りかとして、教皇の地位には居られな
いだろうと列席者にとって予想がつくところではあったが、司祭に戻ることす
ら捨てるとは思いもしなかった事が、音になったようだった。
「空いた司祭の穴も埋めねばならぬな。」
「私の分の空席も埋めて頂けますか。」
カンサガエの言葉に、グラダが静かに続いた。円卓に座っていた一同の視線が
グラダに集まる。
「どういう事かな、グラダ司祭。」
ハナノグが一同の疑問を口にした。
「今回、戦争には納得していない部分もありましたが、結果的には同意しまし
た。なので、司祭を辞し一教徒から教国の立て直しに協力したいと思いまして
。」
静かに語ったグラダの目は、涙は止まり赤くなっていたが意思の強さを持って
いた。
「ならぬ。お主のような者が今後の教国には必要だ。憂う気持ちが在るのであ
れば、ここは食いしばってもらえぬか。」
カンサガエの言葉にグラダは食い下がろうとしたが、唇を噛むようにして少し
考えた後静かに頷いた。目は再び雫を零しそうになっていた、悔しさで。
「カンサガエ教皇の提案に関して、現実として早急に対処する問題であると思
いますので異論はありません。また、グラダ司祭への配慮は賢明かと。」
ロッカル司祭の言葉にカンサガエは頷いた。他に意見があるか一同を見渡すが
無言だったため、肯定と受け取り言葉を発する。
「まず司祭の選定から行おうと思う。これから行う事について足並みを揃えて
もらう意味でも。その後直ぐに帰還する教徒への具体的な案を検討したいと思
う。新司祭は今すぐ参加は無理だが、刻は待ってはくれぬのでこの場で草案だ
けでも起こし備えたいと思うが、どうだろうか。」
再び円卓の列席者を一瞥すると、否定の色は無かった。




「特に抵抗の意思は無いようなので、リャフドーラの騎兵は主を失った館に軟
禁しました。」
肩まである長い髪を全て後ろに流し、いつも通り円卓に肘をついた手に顎を乗
せながらオングレイコッカは報告を受けていた。今は目を閉じているため、普
段の鋭い眼光は見られない。特になんの反応も無いようだったので、ウーラン
ファはそのまま報告を続けることにした。
「隊長であるマフエラートが、リャフドーラを探しに行ったようですが、その
後消息は不明。ラウマカーラに進軍していた兵士からも、敗走の際見かけたと
いう情報はありませんでした。」
「そりゃ、一方的な虐殺から逃げるのに必死だった兵達が、ましてや状況もわ
からないのだから見かける以前の問題だと思いますが。」
それまで黙っていたポルカットゥーが横槍を入れたことに対して。ウーランフ
ァが苛立ちの視線をポルカットゥーに投げる。
「今は現状の報告をしているのだ、状況の推察等混じえていたら話が進まぬ。
後にしてもらおうか。」
はいはい、というようにポルカットゥーは軽く両手を上げて肩を竦めて見せる。
そのやりとりの間も、オングレイコッカの態度には変化は無かった。
「斥候部隊であるこちらの百騎はリャフドーラにより全殺。ラウマカーラへ進
軍した兵四千のうち、無事帰国したものは千にも満たない状況です。また、帰
還した兵の話によれば、ギジフ、ドゥッカリッジィフの両五聖騎は応戦して討
たれたとのことです。」
ウーランファは一旦言葉を切って、深呼吸をする。その間沈黙が流れたが、ウ
ーランファそれを破るように静かに続けた。
「現状は、以上になります。」
それまで目を閉じて黙して聞いていたオングレイコッカが、目を開きウーラン
ファを見る。相変わらずの鋭い眼光だったが、何処か翳りのようなものをウー
ランファは感じたような気がした。
「すまぬ、苦労を掛ける。」
オングレイコッカはまず、ウーランファに労いの意味を込めて言った。ウーラ
ンファが軽く頭を垂れると、オングレイコッカは続ける。
「ギジフ、ドゥッカリッジィフには英葬を行う。併せて、戦死した者たちの碑
をこの城塞都市へ。」
「かしこまりました。」
ウーランファが返事をした後、オングレイコッカは考える素振りをして暫し沈
黙した。
「リャフドーラの兵は国外追放とする。」
リャフドーラに従っていただけなのだろう。何処に忠義があったからわからな
いが、帰国したことを考えれば、そこまで意識していなかったのではないか。
リャフドーラの裏切りは明白の元になる。そうすれば、仕えていた兵は裏切り
者として見られ、迫害を受ける可能性もある。だが、けじめは付けなければな
らない。であれば国外追放が、断罪と庇護を与えられるのではないかとオング
レイコッカは考えた。
「は、その様に手配致します。」
ウーランファが事務的に返す。
「しかし、リャフドーラがラウマカーラと繋がっていたのですかね。」
それまで退屈そうにしていたポルカットゥーが疑問を口にした。一応、報告と
オングレイコッカのやり取りを確認して、そろそろ割り込んでも問題ないでだ
ろうという判断のもと。
「こちらの進軍に対しての奇襲、その手際の良さを考えれば可能性としては高
いだろう。」
ウーランファが苦々しく可能性を肯定した。
「あるとすれば野心、か。」
確かめることは出来無さそうだとはわかっていたが、普段の態度からみての予
想をオングレイコッカは口にした。
「自国を疲弊させて、ですか?」
最もな疑問をポルカットゥーが口にした。敢えてラウマカーラに協力して自国
を危機に晒すだろうかと。
「あながち間違いとも言えませんな。」
「というと?」
ウーランファの意味ありげな言葉に、ポルカットゥーが疑問を重ねる。
「進軍から帰還した兵士によれば、マニグ・ラウッティをラウマカーラ軍の中
に見たという報告があったことを思い出した。」
「あの男か。」
マニグの名前を聞いたオングレイコッカの表情が険しくなり、瞳に鋭さを宿す。
「なるほど、ラウマカーラと内通していたと言うよりは、マニグと組んでいた
と考える方がしっくり来ますね。」
ポルカットゥーがやっと合点がいったような表情をした。
「復讐、か。」
オングレイコッカは苦い顔をした。同じくウーランファも似たような顔をして
いるのを見て、ポルカットゥーは疑問に思う。
「ネブーラン閣下に切りかかって国外追放になったから復讐ですか。そんな理
由で国の兵が何人未来を亡くしたのか。」
オングレイコッカはその言葉に目を瞑った。ウーランファの苦い顔も変わらな
いままだった。

当時、リャフドーラが五聖騎になる前その地位にいた<聡剣>ロールフ・アパ
リア。聡明な若者であり、剣の腕前もかなりのものだった。十年程前、オング
レイコッカに反する革命軍、と言っても学生も多く学生運動のようなものだっ
たが、過激派の者たちは容赦なく国民を巻き込み何度も剣聖の館へ突入しよう
と暴動を繰り返していた。
それを鎮圧しようと動いてたロールフだったが、その後過激派の主導者とロー
ルフが繋がっており、大きな暴動を起こそうとしていた。その前夜集会に乗り
込んで鎮圧したのが当時ロールフの右腕とも言えるマニグ・ラウッティだった。
マニグがロールフに抱く尊敬は、周りから見ても明らかだったが、その反動か
ロールフ含むその場に居た殆どの出席者がマニグによって殺害された。
その後に判明した情報によれば、ロールフが過激派と繋がっているという情報
は嘘で、前夜集会と言われていた集まりも、ロールフと過激派が和解のために
集まっていたのだと判明した。
ウーランファは当時の出来後ことを思い出していた。それ故に、苦い顔が変わ
らない。
その事実を知っていたのはウーランファだけだった。
何処から知ったかは不明だが、マニグがその情報を知ってオングレイコッカの
館に乗り込んで来て、会議中だったこの部屋で、オングレイコッカに斬りかか
った。当然、その場で殺されなかったものの取り押さえられ、国外へ永久追放
となった。
他の五聖騎はオングレイコッカに剣を向けたのだから、極刑を求めた。だが、
ロールフを自分で殺したことから、精神的にも不安定でそこまですることはな
いと温情を求めたのはウーランファだった。
殺さないことで、自分を擁護したかっただけだと、ウーランファは今になって
悔やんでいた。年月が経ち、その出来事に対する思いも希薄になっていたが、
今回の戦争で痛感させられた。

「どうしたのだ、ウーランファ。」
オングレイコッカの問いかけにより、思いから現実に戻ったウーランファ。怪
訝な視線をこちらに向けている。長考していたようだった。ポルカットゥーも
大丈夫か?という目を向けてきている。
「失礼致しました。」
「苦労を掛けるが、暫くは体制の立て直しに尽力してくれ。」
ウーランファの態度をさして気にもせずオングレイコッカは二人に言った。お
そらく疲れているのだろうと。
「この会議室も広くなってしまいましたし、出来るところまでは踏ん張ってみ
ますよ。」
「承知しております。」
ポルカットゥーとウーランファがそれぞれ応える。頷いたオングレイコッカを
確認すると、そこで会議が終わりと悟り、二人は席にを立って部屋の扉へ向か
う。部屋を出ようとしたところで、静かな声でオングレイコッカが口を開いた。
「我は、愚王だったのだろうか。」
独り言とも、問いかけとも取れなかった。が、聞こえて立ち止まってしまった
手前無言で出ても行けず、二人はそれを否定してから部屋を後にした。





四つん這いで冷蔵庫の前まで移動してきた。立ち上がるのが酷く億劫だったの
か、もうその気力が無いのかわからない。そんなに広くない部屋の中では四つ
ん這いで移動してもソファーから冷蔵庫の位置は遠くない。足が一本欠けた不
格好なソファーは不格好なまま。どうでもいい。
「のど、かわいた・・・。」
さっき飲んだ?少し前?もっと前?いつ飲んだか憶えていない。窓から射し込
んでいる陽の光は眩しくなったような気がする。前飲んだ時も陽射しはあった
気がするからそんなに時間は経っていない?
わからない。
けど、壊れた時計は時間を教えてくれない。時間の流れ、わたしは知りたい?
どうでもいい。
冷蔵庫を開けて水を取り出すと、透明なプラスチック容器の蓋を開けて喉を潤
していく。水を飲んだらぼーっとしていた。
なんで水飲んでいるの?喉が渇いたから。なんで?
意識が飛んだのか飛んでいないのかわからない。ただ、射し込んでいる光を見
ていた。室内を照らしている陽射しの下、窓の下には潰れた空き缶が転がっい
た。
「さっき・・・のんだやつ。」
近くには昨夜テーブルから落ちて、中身を零していた缶が落ちている。床は未
だ乾いていない。どうでもいい。
わたしは冷蔵庫をまた開けると、麦酒の缶を取り出す。蓋を開けて喉に流し込
むと炭酸が刺激していく。
「こっちのが、いい。」
陽射しに目が向く。いやだ。
眩しいのは、きらい。
夜の方が落ち着く気がした。また麦酒を口に運ぶ。
カーテンをちゃんと閉めたら少し落ち着く気がした。けど、窓際まで移動する
のが億劫なのか、動く気力が無いのかわからない。近づきたくないのか、別の
理由なのかわからない。身体は動こうとしない。
光に近づきたくない?
しらない。
「おなか・・・すいた?」
本当にお腹が空いたのか、空いていないのかわからない。でも空いたから言葉
が漏れたの?わからない。
冷蔵庫を開ける。
水と麦酒しかない。のを、知っていたような気もするけど、忘れていたのか、
無いことを再確認したかったのかわからない。
冷凍庫を開ける。袋の開いた枝豆があった。いつ開けたんだっけ?中身はまだ
残っていたので冷凍庫から出し、床に置く。流水にさらす、面倒なので床に放
置。
ボロネーゼパスタがあった。
「さむい・・・」
冷凍庫を閉める。パスタ、温めるのが面倒。フォークをを用意するのも面倒。
加熱器に行くのも面倒?麦酒を飲む。
「さむい・・・」
未だ残って漂っている冷気と、麦酒の冷たさが体温を奪っていくような気がし
た。冷凍庫から出した枝豆、思い出したように目に入ったので手に取ってを齧
る。だけど、まだ凍っていて殻から中身が出て来ない。出してそんな時間経っ
てないんだっけ?
時間を刻むのを奪われた時計は答えてくれない。
しらない。

気付いたら枝豆の袋、中身の枝豆が触れている部分が結露して水滴が付いてい
る。床には小さな水たまりが出来て、その上に袋が浸かっているようだった。
意識が飛んだのか、何も考えてなくぼーっとしていたのかわからない。
麦酒は右手に持ったままだった。
思い出したように口に運んで飲む。缶を傾けた時、結露で缶に浮かび上がって
いた水滴は集まるように流れ、わたしの足に零れ落ちた。
「つめたい・・・」
えだまめ。
齧る。殻から中身が出てきて食べれた。けど、中身はまだ冷たくて少し固い。
おいしい。
味がわからない。
どっち?
「もっと。」
次の枝豆を齧る。お腹が空いていたのか、空いていないのかわからない。けど
枝豆を食べてもっと食べたいのは、空いている?わからない。少し食べてから
流し込むように麦酒を飲む。
よく組み合わせて飲食していたような気がする。今はそれが美味しいかどうか
わからない。味を感じているのどうかわからない。
なんでだろう。
「さむい・・・」
枝豆と麦酒が、奪われた体温を更に奪っていくような気がした。わたしの体温
を奪って。食べたから奪われた?食べることを奪われた?
食べることを奪った?
しらない。
体温を失ったら、死ぬ?
いやだ。
死んだから、体温なくなった?
しらない。
あの人たちはもう、食べる権利を永遠に奪われた?だれに?
わたしは喉が渇いたから、飲み物を飲んでいる。お腹が空いたから、食べ物を
口にしている。あの人たちはもう二度とそれは出来ないのに。
考えたくないのに。
あの人たちは永遠にそれを奪われたのに。
いやだ。
窓から射し込んでいる爆光が視界に入る、爆光?光の中で、熱で肺が焼け皮膚
が焼け爛れ酸素を取り入れられない、苦悶の表情が、熱に溶けた眼球が、暗黒
に窪んだ眼窩が、こちらを見ている気がする。
いや。
奪ったのはわたし・・・。
いや!
「ぉ・・・」
身体が勝手に動いた。
動くのも億劫だった。動きたくないのか、動けないのかわからなかった身体が
右手に持っていた麦酒の缶を放り出し、自然にトイレに向かった。
ドアをあけ便座型の便器に顔を入れる。
「ぅ・・・おぇ・・・」
嗚咽とともにさっきまで食べていた枝豆と、飲んでいた麦酒が食道を逆流して
便器の中にぶちまけられる。
「ぁはっ・・・」
な、んで?
嘔吐した所為か鼻水が垂れた。
「ぁ・・・あぁ・・・」
また涙が溢れてくる。トイレに備え付けている紙をむしり取り、顔中を吹いて
便器に捨てる。閉じた瞼の裏にはさっき見えた気がした光景がまた浮かんだ気
がした。
わたし、描いただけだよ。
うばおうなんておもってなかった。
あななたちをころそうなんておもってなかった。
「ぁぁぁあああああああああ・・・・・」
止まらない。涙。わからない。
ごめんなさい。
どうなりたいのか、わからない。
いきることがなんなのか、わからない。
ごめんなさい。




執政統括、そう書かれたプレートが乗る机に置いてあるグラスから、リンハイ
アは水を口に含んだ。普段と変わらない笑み、とはいかず少し引き攣っている
のを感じていた。
「どうかされましたか?」
アリータが怪訝な顔で聞いてくる。屈託のないその疑問顔は、まさか自分が原
因だとは思っていないようである。頭の回転も速く機転もきく、それでいて実
力もあるがどこか、天然なのか融通がきかないのか、そんなところがあるとリ
ンハイアは思っていた。
「いや、それね。」
ただ、そういうところがあるのも魅力の一つだろうと思うのだが、今回に関し
ては遠慮したいと心底思いながら、アリータが左に抱えている箱を指差す。
「はい、リンハイア様の仰る通りソルアアラ枝道での戦場に参加しておりまし
たので、首を取って来ました。」
機転はきく娘なんだが、今回は融通がきいてないなと思いながら返す。
「実際に首を持ってこいという意味ではなかったのだけどね。」
花が綺麗だから摘んできたみたいに、人の首を持ってこないで欲しいものであ
るとリンハイア思った。
「あ、あぁ・・・申し訳ありません!」
突然、何かに気付いたように赤面しながら大きく頭を下げるアリータ。部屋を
慌てて後にする。それを見ながら、少し暇を出した方がいいだろうかと、リン
ハイアは本気で考えた。

その後少しして戻ってきたアリータは、何事も無かったようにリンハイアに既
に決した戦争の結果を報告していった。





コートカ駅から十五分程離れたところにある、閑静な住宅街。その中にある古
くさい民家の玄関を開け、ベイオスは家の中に入った。
「あ、ゴミあるの忘れてた。別のところ探すか。」
平屋の一階建て家屋だが、家族で住めるような広さもなく、玄関からすぐ右に
台所があり、反対側にはトイレと風呂場がある。台所の奥には広くもない居間
が広がり、風呂場の先には寝室。だけの家だったが、一人で過ごすにはむしろ
快適ですらあったのだが。
「以外と良い物件だったんだがな。」
とはいえ、空き家に勝手に居座っているだけなのだが、と胸中でベイオスは付
け加えた。
駅の傍にはアイキナ市警察局があるが、この閑静な住宅街は犯罪率も低く治安
が安定しているためか、警察局の見回りは殆ど来ない。血眼になって探してい
るかのかどうか、警察局前のデモで人員が割かれているからなのかは不明だが、
今のところは行動するにあたりさして支障はない。
ただ、昨日の今日であっけなく敗退したラウマカーラ教国のことを考えると今
後の制限が厳しくなることは予想できた。人手を割く先が減ったのだから。ア
イキナ市の暴動はどうせすぐ鎮火するだろうことは判りきっていた。
「俺に嫌がらせする暇があったら、もう少し警察局引っ掻きまして欲しいとこ
ろだったんだがな。」
戦争前夜、一昨日の夜ティリーズが仲間を二人引き連れて訪ねてきた事を思い
出す。問答無用で殺しにかかってきたが、取るに足らない相手だった。そもそ
も以前ラウマカーラ教国のアイキナ支部で、口論になった時から来るだろうこ
とは予想していたし、何時来たところでティリーズ如きに殺られるとも思って
いなかった。
つまり、混乱を招くための機能が、ここアイキナ市においては戦争前に破綻し
ていたことになる。
死体を始末するのも面倒なので、寝室に三人放置している。あと数日もすれば
腐臭が漂い始めるだろう。教国のためという理想を押し付け、私欲のために自
分の保身を考え、当たってくる者の末路なんてこんなもんだろうと、思う程度
だった。
「死んじまったら、ただの生ゴミなのにな。」
特に感慨もなく、ベイオスは呟いてその平屋を後にした。警察局の動きがこっ
ちに集中する前に別の住処を探さなければと。




朝からの会議、対応、会議、対応・・・繰返しの慌ただしい業務がひと段落着
いたとは言えないが、夜になりやっと休憩時間となったカンサガエは、教皇室
の椅子に深く座り込んで溜息を吐いた。
「所詮、器ではなかったってことよな。」
瞼を深くおろし、最近の慌ただしさを思い起こす。野心により司祭から教皇に
なったものの、その野心により半月も経たずに司祭に戻るどころか一教徒にな
った。間もなく、この教皇室からも出ることになる。
名残惜しくはない。と言えば嘘だ。
だが、独善的にまではなれなかった。
教皇庁に務める教徒は、併設されている共同住宅棟では、家から遠い者、また
希望があればで共同生活を送ることとなる。二十年近く前、自分もそこから始
めたことを思い出した。また、同じ生活が出来るだろうかと不安が浮かぶ。
現在、教皇庁付近にある自宅は、一教徒が維持できるものでもないので手放さ
なければならない。司祭になってから用立てた家だったが、広すぎるその自宅
にはさして未練は感じなかった。
コンコン、部屋のドアがノックされた。
「開いている。」
と入室を促す。
「失礼します、教皇。」
疲れているのだろうか、閉じた瞼を開く時やけに重く感じた。ゆっくりと視界
の焦点が合うと、その目は部屋に入ってきたトマハを確認した。
「トマハ司祭か、休憩はしなくて大丈夫か?」
自分の言っていることに違和感を感じた。普段は虚栄心からでしか使わないよ
うなことを、そんな思考もせずに出てきた言葉に。人を気遣うなど。
「儂は、なんともない。教皇こそ、お疲れであろうに取り合ってもらって、す
まないと思っている。」
「気にするな。」
今更、司祭一人相手にしようがしまいが、大差ないと思っていた。死地に追い
やった教徒に比べれば。
戦争で人が死ぬのは当たり前のことであり、それを承知で政をしている。いち
いち感傷に浸ったりなどしていては舵取りすら覚束ないだろうと。自分の器は
そんなものではないと、思っていた。
だが、敗戦という結果は、いろんなものを破壊し、曲折させた。おそらく、自
分も影響を受けたのではないかと思えた。
「座ったらどうだ。」
部屋の中に入ってから、入口に立ち尽くしたまま口を開かないトマハに、カン
サガエは応接用の椅子に座るよう促した。トマハは無言のまま椅子に座るが口
は閉ざしたままだったし、目を合わせても来なかった。
「毒殺の件か?」
訪ねて来ておいて、口を開こうとしないトマハに、カンサガエは痺れを切らし
確認した。このタイミングで来るなど、その事だろうと。その言葉に、トマハ
は少し驚いたように視線をカンサガエに向けた。
「そうか、ハナノグに始末してくるようにでも言われたか?使い道の無くなっ
た儂を。」
「いや、そのようなつもりで来たわけでは。」
トマハは慌てて両手を振った。
トマハに毒殺の情報を流したのは、ハナノグだろうとカンサガエは予想はして
いた。他にもハナノグの子飼いはいるのかもしれないが。議席でトマハを焚き
付けてきたのは、自分を試していたのだろうと。
「どちらかと言えば、不安からか判らぬが、様子を見たいと思ったのだろう。
自然と足が向いていた。」
何処か困惑した表情をしながらトマハが言った。カンサガエは嘘ではないだろ
うと察した。部屋まで来たはいいが、どうしていいか判らず言葉も出なかった。
そう考えれば部屋に来てからの態度も得心が行く。ここまでが演技、それだけ
の策士であったならば、教皇にはトマハがなっていただろうと。
「そうか、まあ今更儂を殺したところで、口封じにしかならんしな。」
ハナノグにとって重要な話かもしれないが、カンサガエにとって最早どうでも
いいこととなっていた。
「安泰。儂にとってはそれが魅力であり、うまく唆されたわけだが、飛びつい
た時点でそんなものとは無縁となっていたわけだ。」
トマハはそう言って、力ない苦笑を浮かべ席を立つ。
「邪魔をした。」
「いや、お互いやれることをやるしかない。」
頷いて扉へ向かったトマハが、扉を開けようとして止まる。
「儂らの現状はマハトカベス教皇の、お怒りかもしれんな。」
「あの方は、そんな事はせんだろう。」
「確かに。」
一瞬、微笑を浮かべた顔を見せると、トマハは部屋を出て行った。カンサガエ
はもう一度瞼を閉じると、自分が殺されたことはさておき、教徒を死地へ向か
わせたことはお怒りだろうな。
世迷い言だな。
カンサガエは思考を断ち切るように席を立つと、休憩を終えて教皇室を後にし
た。




「ここ・・・トイレ・・・?」
なんで便器の横に横たわっていたのかわからなかった。トイレに来た時に寝て
しまったのだろうか。意識が飛んだのか、わからない。
起き上がって便器の中を見ると、緑色の粒が浮いていた。
えだまめ、吐いたんだっけ。
鼻が詰まっていて臭いはよくわからない。けど、記憶の底では、嘔吐物の臭い
はいいものではないと言っていた。
水を流す。
気持ち悪い。
口の中が変な味。
顔中の表面が突っ張ってる。
気持ちがよくわからない。気持ち悪い。
トイレから出る前についでに用を足した。
「きもち、わるい。」
台所につくと、水道の水で口を漱いで、顔を洗った。近くのバスケットに入っ
ていたタオルを取って顔を拭く。流しの下にある扉に背をあずけて。
部屋の中を見渡すと暗かった。いつか部屋に射し込んでいた陽射しはもうなく
なっていた。今は夜なのかな。どれくらい時間が経ったのかわからない。
時計、もう教えてくれない。
知らない。
流しの扉から背を離すと、四つん這いになって居間の方に移動する。手が何か
の液体に触れた。暗くてよくわからない。
近くに麦酒の空き缶が落ちている。手が触れた液体は、その缶から零れていた
ものだった。なんで中身が残っていた缶が転がってるのだろう。わからない。
視線を少し動かすと、枝豆の袋があった。
「あ・・・」
嫌な気分になった。なぜだろう。
わからない。
袋を持ちあげると、近くのゴミ箱にそのまま捨てた。袋が作っていた水溜りの
せいで、持ちあげた時水滴が点々と床に跡を付けた。
「のど・・・かわいた?」
乾いたのだろうか。乾いていないのだろうか。わからない。
乾いたのは喉なのだろうか。気持ちなのだろうか。わからない。
冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の扉から、内蔵灯の光が、部屋の闇を切り裂いて溢れ
だす。
いやだ。
なにが?
わからないけど、身体が拒否反応するように冷蔵庫の扉を叩きつけるように閉
めた。よくわからなかったけど、目を閉じたまま冷蔵庫をまた開ける。手探り
で飲み物を掴むと扉を閉じる。
いつも触っている容器。目を閉じていてもわかる感触。取り出した麦酒の缶を
開けて飲む。
仕事終わり、風呂上り、そうでなくても美味しい。
好きな味。
慣れた味。
「なんで・・・。」
なんで、美味しくないんだろう。
なんで味、わからないんだろう。
「う・・・ぅぅ・・・。」
涙がまた溢れる。わからないけど。涙は乾いてくれない。
麦酒の缶を持ったまま、冷蔵庫の扉に背を預け、両手で膝を抱えて身体を丸め
る。膝の上に額を付ける。

意識が飛んだのか、そうでないのかわからない。落ちたのか落ちていないのか
わからない。両手で抱えた膝、手には麦酒の缶。思い出したように口に運んで
麦酒を飲む。
「さむい・・・」
気が付いたら、枝豆の袋が作った水溜りを左足が踏んでいた。思い出したよう
にお腹が空いた。空いた?わからない。
何も食べたくない。
「よこ・・・なりたい・・・」
麦酒の缶を持ったまま、四つん這いで寝台の方へ向かう。寝台の前にはソファ
ー。一本足と片方の肘掛が無くなった、不格好なソファーが変わらずその場所
に在る。
知らない。
ソファーの裏に置いてある寝台は、手前側が窪んだように歪んでいる。変な形。
しらない。
寝台の壁側の角が、壁紙を削り中の石膏も砕けて穴が開いている。
しらない。
寝台に乗ると、奥へ行き壁にもたれかかる。床より寒くない。麦酒の缶をまた
口に運んで流し込む。
なんでわたし、ずっとこれ飲んでんだろう。わからない。
また一口飲む。

ぼーっとしていた気がする。わたしなにしてるんだろう。
わからない。
かんがえたくない。
手に持ったままだった麦酒に気づき飲む。暗い部屋を見回す。暗いからよくわ
からない。でも、酷い有り様になっているのは知っている。現実は何も変わら
ない。
麦酒の缶を口に運ぶ。空、入ってない。
空き缶を床に転がす。わたしも寝台にそのまま横になった。横になっても現実
は何も変わらない。
散乱した部屋も。かわらない。
「ぁ・・・うぁぁ・・・」
声も涙も溢れる。
かんがえたくない。
でも、現実は変わらない。
散って逝った命も。
考えたくなくても脳裏に焼き付いた。
忘れたくても視界に焼き付いた。
逃れたくても精神に焼き付いた。
「あ・・・ああぁ・・・あぁぁぁあ・・・」
嗚咽と涙も変わらず出てくる。あの人たちはそれすら出来なくなってしまった
のに。
なんで、とまらないの。
わたし、いやしい。
ごめんなさい。
もう、やだ・・・




2.「思想のゴミと、些末な思い」


「なんで俺らはここまで来て、待機なんだろうな。」
聳えたつマンションを見上げ、入口に視線を戻して黒い短髪でスーツを着た体
格のいい男が、腕を組みながら怪訝な顔で呟いた。隣にいる同じくスーツ姿だ
が髪は金髪で長め、両手はズボンのポケットに入れている男に言ったわけでは
無かったが、その男がその呟きに返事をするように言う。
「そりゃ、先輩みたいな国家指定有害細菌保有人型哺乳類が玄関の前に居たら
、一般の女性は即倒もんだからでしょう。」
金髪の男、シルギーがズボンから出した右手を顎に当て、厳しい表情をしてい
った。黒い短髪の男、ボンツがシルギーを睨みつける。
「シルギー、珍獣国際対策研究本部では生体を欲しているそうだ。お前だった
ら喜んで買い取ってくれるだろう。」
そんな有害指定も研究組織も存在しないが、お互い睨みあう。聞こえていた通
行人は、危ないものを見るような目で避けて通るが、それには気付いていない。
朝、通勤時間帯、住宅街であるここの人通りはそこそこあった。

警務二人を路上に放置して、危険物放置には問われないよなと思いながら、ザ
イランはマンションの一室の前に居た。扉の前では、もう一人の男が工具箱を
開きいろいろ準備を始める。
「本当に許可はもらってるんですよね、ザイラン警務。」
「ああ、問題無い。」
先週家に帰ってから一度も外出の気配がない。郵便受けも溜まったまま放置さ
れているし、小型端末を呼び出しても一切応答がない。さらに昨日からは電源
さえ入ってないようだった。マンションの呼び出しを何度も行ってみたが、一
度も応答はなかった。
最初は警察局が巡回、または監視している中、隙をついて抜け出したかのかと
思ったが、マンションや道路にある防犯カメラを確認したが部屋から出た記録
は確認出来なかった。本気でやろうと思ったら、ミリアならやってのけるだろ
うと思ったが、現状それをする理由はザイランには思い当たらなかった。
「未許可だったら有事でもないと、我々でも不法侵入ですからね。」
「だから大丈夫だって言ってるだろう。いいから早く開けろ。」
苛立つザイランに、不服な表情で扉の前に居た別の警務が開錠作業を続ける。
むしろ、ただ連絡が取れないからという理由で、一般人の個人宅を苛立ちと伴
に開錠させられるこっちの方が腹立たしいと、開錠作業しながら警務は思った。
ただ、係は違えどザイランの方が上役なので渋々従う。
「よし、一個開いた。」
「流石マリカーノ、もう一つも早く開けてくれ。」
ザイランは逸る気を抑えることも無く、開錠しているマリカーノに言う。
「いや、鍵開けが本職ではないんですがね。」
流石本職の鍵開け、みたいに言われた事にマリカーノは不平を漏らしながらも、
二つ目の開錠に取り掛かっていた。
ザイランは防犯課の一係で主に犯罪の予防と実際の事件捜査を担当するが、マ
リカーノは二係に在籍する。二係も犯罪予防は変わらないが、あくまで予防が
主であり巡回や市民への予防促進、そして一係のサポートになる。
各種機器類や銃火器の整備点検、当然車両も含まれるし、現代で使用されてい
るセキュリティシステム等、古いものから最新の物まで常に確認し勉強してい
る。二係にとってそれは自負であり、自分たちが居なければ一係等何も出来な
いだろうと思っている。
今回の鍵開けに関してもその一環であり、一般の住居に使われいる鍵などは苦
にもならない範囲であった。
「開きましたよ。」
一つ目を開けてからさして時間もかからず、マリカーノは二つ目を開けた事を
ザイランに告げる。
「早いな。俺はこういうのには疎いから、二係様々だ。」
「こういう時だけは調子いいな。」
調子のいい事を言うザイランに、マリカーノは眼鏡の位置を直しつつ扉の前か
ら退いて器具を片付け始める。
「許可書の写しは後でくださいよね。忘れずに。」
言わないとすぐに忘れて持ってこないことが日常茶飯事のため、マリカーノは
念を押すように言った。
「あぁ、わかってる。貰ったらな。」
「な!・・・ちょっと!」
慌てふためくマリカーノにザイランは右手を軽く振ると、開錠された扉を開け
る。横で何か喚きたてていたが無視して部屋の中に入ろうとしたが、開けた扉
から漏れ出て来る淀んだ空気は何かの異常を感じさせた。
生温く生ごみ置き場のような、腐臭とも言えそうな匂いが混じった空気が漏れ
出て来たことで、騒いでいたマリカーノも無言になって行く末を見守る。
「なんだこれは。」
足を踏み入れたザイランはその匂いと、微かに見えた部屋内の状況に言葉を漏
らした。
「ミリア、勝手に入るぞ!」
嫌な予感がして、靴を脱ぐのも忘れ部屋に上がる。カーテンを閉め切られ光の
入らない部屋は視界が悪いので、電気を点けた。
目の前、すぐ右手のトイレの扉は開きっぱなしで、その前には麦酒の缶が転が
っている。視線を伸ばすと左手に冷蔵庫があり、その前に該当であろう人物が
冷蔵庫を背に、両手で膝を抱えた状態で存在した。
「いやぁっ!」
電気を点けた直後、その人物は悲鳴を上げて顔を床に付け、両手で頭を押さえ
て亀のように丸まった。
「お・・・まえ。」
電気の灯りに晒されたそれは、髪はべたついたように乱れ、白いシャツとショ
ートパンツは至る所に黒や茶色い染みや汚れでまるで浮浪者のようだった。目
の下には隅が出来、生気がなく虚ろだった。そのあまりにもの変わり果てた状
態を見て、ザイランはミリアだと少しばかり判別がつかなかった。
よく部屋の中を見れば、床には麦酒の空き缶がいくつも転がり、家具という家
具は全て壊れていた。一体どうしてこの状況になったのか判別もつかないが、
話さないことには進まないので声を掛ける。
「俺だ、ザイランだ、わからないのか?」
直ぐに反応は無かった。少し待っている間に部屋を観察する。部屋内の異臭は
散らかされた麦酒の缶と、ごみ箱に無造作に捨てられた枝豆の袋だろうと推測
できた。
そして、おそらく風呂に入っていない本人と。
「ざいらん・・・?」
少しするとミリアが弱々しい声を漏らす。ゆっくりと体を起こして、顔をこち
らに向けるがその目は生きているとは思えなかった。
「いったい・・・何があった?」
窶れた印象だった。数日で体型が激変するなど普通に生活していればありえな
い。例え食べなかったとしても。だが、顔色が悪く頬はこけ、力ない四肢は明
らかにそう感じさせた。
虚ろな視線は、何処を見ているのかわからない。顔はこちらに向けてはいるが
色の無い瞳は何も映していないようだった。
「何があったんだ?」
顔をこちらに向けたまま暫く無言だったミリアに、ザイランはもう一度静かに
聞いた。だが、その問いに何の反応もなく、身体も顔も視線も変化は無く、瞳
も無反応だった。
(どうなってんだ、これは。一体何があったらこんなになるんだ。)
ザイランは自問したが答えは出なかった。当の本人が何一つ答えないのに、判
るはずもないが、あまりの豹変ぶりに自問しか出て来なかった。
(とりあえず、このまま放置は出来ないよな。)
相変わらず動かないミリアを眺めていても変化は無かった。この状態を見て放
置して帰ろうという気にもなれないが、どうしていいかもわからなかった。
「ミリア、どうしたんだ?」
ザイランはもう一度だけ聞いてみた。これで変わらないようだったら、病院に
運んだ方がいいだろうと考えた。放置は出来ない、このままにしていたらミリ
アは死に至るだろう。
暫く待ってもやはり変化は無かった。何がここまで変えたのか、どうやったら
ここまで壊れるのか、ザイランには見当もつかなかった。
(こいつは、無理にでも病院連れていかないとまずい気がする。)
経験や勘などではなく、目の前の存在自体がそう感じさせた。こいつは放って
おいたら死ぬ。仕事上の付き合いもあってか、死なせてはならないと心が訴え
ている気がした。
「事情はわからんが、とりあえず病院に連れてくぞ。」
自分で動こうとはしないだろう。無理やりにでも車に詰め込んで連れて行くし
かないと思い、ザイランはそう言ってミリアに近づきながら手を伸ばす。
「こないでっ!」
弱々しい声だったが強く拒否されたのはわかった。目と顔には恐怖の色が浮か
んでいる。部屋の奥の方へ、身体はこちらへ向けたまま、手と足を使って身体
ごと後退りする。
「だがお前っ・・・」
「ころしちゃう・・・ぅ・・・」
ザイランの言葉は続かなかった。今のままじゃ死ぬぞ、無理にでも連れて行く
からなと言いたかったが、ミリアの言葉と同時に溢れ出した涙は確実に拒絶を
示していた。
それまで無反応だったミリアは、嗚咽と涙を零しながら、部屋の奥にある窓ま
で退ると壁に当たっているのにも気づかないのか、後退りする動きを止めず顔
を小刻みに、震えるように左右に振っていた。
(くそっ、なんだってんだ。)
どうしようもない。どうしていいかもわからない。自分でも、この状況はどう
対処していいのか、ザイランには判らなかった。無理矢理でも連れて行くつも
りだったが、近づけなかった。触れた瞬間、更に壊れてしまいそうな気がした。
(何があったかわからんが出直すしかないか。)
一旦警察局に戻り、局内にいる女性警務を連れてきて対応してもおうと考えた。
自分よりも女性の方が安心してくれるんじゃないだろうか。原因がわからない
ので、それくらいの事しかわからなかった。
女性の警務には通り魔に襲われた女性が、連続殺人の標的にもなってしまって
パニックを起こしているが、自分だと怯えて近づけなく困っている、とでも伝
えれば、手伝ってはくれるだろうと考えていた。
(後は、医者に直接・・・ってのは難しいか。)
医者も慈善団体じゃない、原因もよくわからない状態で簡単に訪問診察など行
ってくれないだろう。ましてや、症状がよくわからないからどの医者に頼めば
いいのかわからない。
(警察局の病院じゃ万年人手不足でつっぱねられるのは明らかだしな。)
その線ははなから当てには出来ない。心療あたりかとも思ったが、その伝手は
無い。一警務が頼んだところで動いてもらえるとも思えなかった。が、女性警
務でも駄目だったら探して頼み込んでみるかと思い始めた。
取り敢えず動かないと、とザイランはミリアに向かって声を掛ける。
「後で、また来る。少し待っててくれ。」
既に後退るのはやめていたが、膝を抱えて座っているミリアから嗚咽は微かに
聞こえていた。ザイランの声に反応はない。
「いいか、待ってろよ。」
ザイランはそう言って部屋を出た。

「どうでした?」
部屋を出るとマリカーノが声を掛けてくる。部屋には入らずに、律儀に部屋の
外で待機していたようだった。
「駄目だ、錯乱状態で話も出来ない。」
一度局に帰るにしても、無施錠で離れるのは出来ない。かといって、都度マリ
カーノに開錠と施錠を頼むのも気が引ける。
「マリカーノ、もう一つ頼まれてくれないか。」
ザイランは思いついたようにマリカーノに言う。
「お断りです。」
マリカーノは眼鏡のブリッジを人差し指で上げながらきっぱりと断ってきた。
「何かあるなら、外で待機させてる二人にやらせればいいでしょう。」
「あぁ・・・。」
ザイランはボンツとシルギーが居たことを思い出したが、気のない相槌を打つ。
「鍵はどうするんですか?」
そっちの都合はどうでもいいが、マリカーノはもう解放してくれと露骨な態度
を含めて言った。そもそも許可も取っていない仕事に巻き込まれたことそのも
のが不服だった。が、そんな思いも全て無視して別の事を口にしてくる。
「合鍵作れるか?」
「あのね、犯罪だってわかって言ってます?」
一係はなんでこう自分勝手で人の話を聞かないんだ、と呆れているマリカーノ
の思いは気付かなかったザイランだが、返事に否定は入っていないことには目
敏く気付いた。
「全部俺の責任で、それだけやってくれないか?」
マリカーノは右手を側頭部に軽く当てて頭を振る。こっちが何言っても聞かず
に自分の都合だけは主張してくる。こういったタイプは何言っても無駄だろう
なと。人の揚げ足は目敏く拾うくせに、人の思いは気づかない。質が悪いと本
気で思っていた。
「わかりました。これでこの件にはもう関わりませんからね。それと、後出し
でも許可書はか・な・ら・ず、出してくださいね。」
マリカーノは眼鏡の奥から睨んで言った。
「ほんと助かる。俺は一旦局に戻るが、ここには下の二人置いてく。鍵が出来
たらそいつらに渡しといてくれ。」
ザイランはそう言いながら、片手を軽く上げて去って行った。強く言っても睨
んでも暖簾に腕押し、マリカーノは疲れただけだった。

ザイランはマンションの前に出ると、ボンツとシルギーにミリアの部屋前で待
機を押し付け、局へ急いで向かった。二人には絶対に部屋には入るなよ、と念
を押して。




金細工で縁取られたガラスのテーブル、その美麗なテーブルの奥にあるソファ
ーで煙管を片手に紫煙を燻らせている女性が足を組んで座っている。白いシャ
ツにアイボリーのタイトスカート。映える紅い髪が象徴であるハクリオル商会
の社長であるアムリフィ・ユズハは、向かいに直立するスーツを来た部下に鋭
いアンバーの瞳を向けていた。
男は部屋に入って来たばかりで、ユズハの前に直立したところだった。
「姐さん、ベイオスの潜伏先情報が入ったんで、既に数人向かわせてます。」
ユズハは組んでいた上の方の足を上げると、踵をガラステーブルに落とす。甲
高い音を立てたガラスの音に男はびくりとした。
「おまいさんらは、何度言やぁわかってくれるんだろうねぇ。うちは、社長だ
と。」
そういうと煙管を軽く男の方に振る。煙管の先端にあった火種が、男の眉間に
当たって床に落ちた。ユズハは器用に火種を男の眉間に飛ばしていた。
「し、失礼しました社長!」
男は咄嗟に言いなおすと、落ちた火種を急いでハンカチを出して拭い取ると鎮
火するまで揉み消した。その後、既に足を組みなおしているユズハの前に移動
して、別のハンカチを取り出すとガラステーブルを丁寧に拭く。
「で?」
新しい葉煙草を煙管に摘めなおし、既に火を付けていたユズハが紫煙とともに
疑問を吐く。
「ベイオスの潜伏先が・・・」
「阿呆か。」
男がもう一度報告しようとした矢先、ユズハが一喝する。元に位置に戻ってい
た男は直立のまま緊張して言葉を失っている。
「どこに居る、居らんはどうでもえぇ。」
ユズハは煙管に口付けし、その妖艶な唇から紫煙を吐き漏らしながら続ける。
「餓鬼の使いじゃぁないんだ。いちいち途中経過報告せんと、仕事出来ないわ
けでもあるまい?」
男は直立したまま動かない。額にはうっすら汗が浮かび始めたが、強張った顔
は変わらずにいる。
「そんな与太話する暇あったら、うちの前に当人引きずって来ぃや。」
一旦言葉を切って、ユズハは男をアンバーの瞳で睨め付ける。
「うちの前に居らんのなら、なんもせんと遊んどるのと変わらぬ。」
「は、はい!」
口調は静かだが、その迫力に男は上擦った声で返事をした。
「わかったのなら、さっさと去ね。」
「はい!」
男は慌てて部屋を走り去った。内開きの扉を引くと、扉の外側に社長室と書か
れたプレートが見える。その扉を素早く、静かに閉めながら男は一礼して姿が
見えなくなった。
「うちの社員は、もう少し会社人として頭廻らせてもらわんと困るわぁ。」
紫煙を天井に向かい吐き出しながら、ユズハは独り言葉を漏らした。




出庁の際に、カンサガエは自宅から教皇庁にある共同住宅棟で自分に割り当て
られた部屋に荷物を運んでいた。既に教皇室は引き払い、自宅も整理しながら
荷物を少しずつ運び出している。
現在、教皇室は空室となっていた。敗戦の混乱真っ只中で、新教皇の戴教式が
出来るわけもなく、殉教とその家族への対応、新体制への移行と目まぐるしい
日々に追われていた。
生活に対しては不安はあった。利己主義から齎した結果を考えれば、当たり前
とも思うが、この生活に慣れなければならない。今となっては教国を思っての
利己主義だったのか、利己主義に教国を付き合わせたのかは、自分でも定かで
はなかった。
それ故、器ではなかったのだろうと、結果が語っていると思えた。
しかし、一教徒に戻ったはずなのに、変わらず議席に出席しているのは不思議
な気分ではあった。不思議ではあったが、渦中の自分がやらなければという意
思は汲んでもらえているのだろうと思っていた。
いずれ落着き、アルマイア様が教皇と成る日が決まれば、自分はもうその議席
に関わることも、関われることも無いとわかってはいた。
「ふむ、荷物運びももう少し掛かりそうだ。」
両手に収まる程度の荷物を床に置き、まだ荷物も少ない閑散とした小部屋を眺
めてカンサガエは呟いた。部屋には入口付近にトイレとシャワー室。奥の窓際
に寝台と机が置いてあるだけの部屋。中央には小さい丸テーブルと椅子が一つ
あり、窓と反対の隅には小さな冷蔵庫がある。クローゼットは壁に埋め込み式
の小さいのが在るだけだが、これ以上部屋に置こうと思ってもそんなスペース
は無い程の小さな部屋。
複数の部屋があり、家族数人と暮らしても狭くないであろう今までの家に比べ
れば差は激しかったが、何故だかあまり気にならなかった。
「さて、議席に向かわねば。」
カンサガエは独り呟くと、小部屋の扉を開け、鍵を閉めて教皇庁へ向かった。

教皇庁に向かいながら、カンサガエはここ数日の議席を思い出していた。自分
がその輪を抜けることで見えてきたものがある。ロッカル司祭は頭の回転が速
く冷静に物事を判断でき、グラダ司祭は行動力と情熱に溢れていた。他の司祭
も司祭になるべくしてなったのだろう、自分に比べれば優秀な気がした。ただ、
教使二人は老害にしか感じなかった。あの二人を挿げ替えればもっと議席は良
くなるだろうと思ったが、自分には既にその発言権すら無いなと自嘲気味に、
心の中で苦笑した。
「・・・、これはすまない。」
考え事をしながら教皇庁に向かっていたカンサガエは、目の前に居た若者に気
付かずぶつかってしまった。
「いや、気にしなくていい。」
若者は無表情のままそう答えた。よく見れば、若者の後ろにも複数の教徒が居
たが、それは中年の女性だったり、少年だったり、老人だったり、男女問わず
年齢層も別々だった。気づけば、その老若男女二十人程に囲まれていた。
「これは?」
カンサガエは疑問が口から洩れる。
「あんたの所為で兄貴が死んじまったんだよ。」
目の前の若者が、激情を堪えるように言った。おそらく先日の遠征に参加して
いた教徒の遺族なのだろう。
「すまない。」
素直にその言葉が出てきた。
「謝ったってうちの息子は還って来ないのよ!」
若者の後ろにいた中年女性が悲痛な叫びを上げる。その目からは既に涙が溢れ
だしていた。幾度となく泣いたであろうことは容易に想像できた。
「本当にすまない。今、教皇庁では遺族のかたあがっ・・・」
カンサガエは一瞬目の前が真っ白になり、何が起きたかわからなかった。
「悪いと思ってんのか?なんだその上から見下すような言い方は。」
自分が地面に倒れていることに気付いた。後から後頭部に鈍い痛みを感じ始め
る。今喋った若者の手には、角材が握れらていたのを見て、自分が後ろから殴
られたのだと、カンサガエは気づいた。
よく見れば、丸棒や角材等それぞれが得物を手にして倒れた自分を取り囲んで
いる。
「な・・・にを。」
痛みを堪えて、カンサガエは声を絞り出す。
「すまない?何様のつもりだ。」
「こんだけの事して、いつまで上から見下ろしてんだ。」
「散々人殺しておいて、遺族のためにだ!?」
「勝手に戦争やって、殺して!?」
「奪われたのは儂らなんじゃよ。」
「みんな今の生活でいっぱいいっぱいなんだよ。」
「そうだ、自分の事だけで必死なんだ!」
「どこに戦争なんかする余裕があんだ!」
「戦争なんかに使う金あんなら、こっちに回せ!」
「誰も戦争なんかやりたいと思ってないよ!」
「お前一人で行けば良かったんだ。」
「お父ちゃんかえしてよぅー。」
「息子殺して、私に今後独りで生活しろって?遺族のためって言うなら返して
よ、息子!」
「私のお腹の子、誰が面倒見んのよ!」
「兄貴殺して、なんでてめぇーはのうのうと生きてんだよ!」
「彼を返してよ、この人殺し!」
「人殺し!」
一気に溢れ出した憎悪の波濤に触れ、カンサガエは今初めて理解した。野心も
なくなり一教徒になり、殊勝になった?そんな事ではなかった。そもそも世界
が違ったのだ。
教皇庁の事などどうでもいいのだ。自分の生活範囲が世界なのだ。一教徒にな
ったからと言って、自分は教皇庁側に居たのだ。だから、彼らの思いが解らな
かったのだ。
当たり前のことだと言うのに。
マハトカベス教皇を殺した時から、ただの人殺しでしかなかったのだと、カン
サガエは痛感させられた。
「本当に、もうしわけ・・・ありませんでした。」
カンサガエは地面に頭を擦りつけるように付け、声を絞り出した。泣いたこと
などあったか憶えていないから、余程昔のことなのだろうが、今は勝手に涙が
溢れていた。
「謝ったって遅ぇって言ってんだろうが!」
「っぐぅ!」
左足の脹脛に激痛が走った。誰かが手に持った何かで殴ったのだろうと、痛み
の中でカンサガエは思った。得物を持った教徒に囲まれているんだ、考えるま
でも無かったと思い左足の方が心配になった。
「儂は孫がどうやって死んで逝ったのかすら判らないんじゃ!」
「がっ!」
今度は右の脹脛に痛みが走った。
「もうすぐ結婚する予定だったのよ!」
「うあっ!」
次は右の太腿部に。
「兄貴はどんな苦しみ方したんだろうなっ!」
「っ!!」
一際強い痛みが右肩を襲う。
「お父ちゃんを返せぇぇぇっ!」
左の手の甲へ激痛、骨が折れた。左手を右手で庇い、左半身を上に痛みで身体
を丸める。
「人の生活乱すだけ乱しやがって!」
左脇腹に衝撃、肋骨が折れ一瞬呼吸が止まる。
「今後の生活どうしてくれんだよっ!」
左腰に激痛。
「なんでお前が生きてんだよっ!」
左肩に。
「夫は生まれてくる子供の顔を見ることも出来なくなったのよ!」
何処?
「お前がみんな殺したんだよっ!」
身体への衝撃が来るが、全身の痛みで何処を殴られているのかわからなかった。
「息子返して!息子返して!息子返して!人殺し!」
連続する衝撃が身体を揺らす。
痛みで意識が朦朧としてくる。
「もう二度とあいつと遊びに行けねぇじゃねぇかっ!」
また衝撃が走った気がしたが、もうわからない。
「てめぇの独り善がりのために生きてんじゃねぇ!」
もう動かなかった。殺到した教徒たちは、構わずに代わる代わる不満をぶつけ
ながら殴り続けた。動かなくなったカンサガエは、カンサガエではなくただの
肉塊になっていたが、そんなことは関係なかった。
只管、嘆きを。只管、悲しみを。只管、絶望を。只管、憎悪を。只管、憤激を。
その塊に叩きつけた。やがて誰かが虚しさを漏らすまで。

教皇庁から、ハナノグはその様子を冷めた眼で、ただ眺めていた。土や泥、皮
膚が裂けて赤黒く染まった教徒服、死んだ際に垂れ流した自らの糞便に塗れた
ぼろ雑巾を。
やがて教徒が散っていくと、興味も無さそうにその場を後にした。




「ギーツェ警務。」
長丁場になりそうだと、アイキナ市に賃貸物件を借りて捜査を行っていたギー
ツェの元に、ルルフェットからの音声通信が入っていた。
「まだ交代の時間にゃ早いだろうよ。」
煙草を咥えながらギーツェは面倒くさそうに言った。
「ギーツェ警務の方が休憩長いじゃないですか!・・・じゃなくて、ハクリオ
ル商会が動き出しました。」
「マジか!」
「はい、商会からスーツを来た連中が五人程慌てて出て行きました。今追って
ますのでギーツェ警務も来てください。」
「何処だ?」
「方向としてはアイキナ市警察局の方です。」
「わかった、向かい先が変わったらまた連絡しろ。」
「了解です。」
ギーツェは小型端末の音声通信を切ると、吸っていた煙草を灰皿に押し付けて
部屋を飛び出す。

ギーツェとルルフェットは、警察局だけでなくハクリオル商会もベイオスを探
している情報に目を付け、ロンカット商業地区の安アパートを借りていた。警
察局の動きは聞けばわかるので、ハクリオル商会の動向を交代で探ることにし
た。人数が二人しか居ないので人海戦術は取れないため、あたりを付けて賭け
に出る方向にしたのだった。
警察局の協力があればもっと手はあった筈だったが、ギーツェがザイランと関
わることを頑なに拒否したため、ルルフェットは諦めて現状を受け入れるしか
無かったが、交代での休憩時間にアイキナ市を観光出来る点では、今回の捜査
を楽しめていた。ハクリオル商会のあるロンカット商業地区は開けているので
見て回るところはまだ尽きない、と。

「あの家か。」
「の、ようですね。」
ルルフェットと合流したギーツェは、物陰からハクリオル商会の男たちが一軒
の平屋前に集合したのを物陰から見ていた。アイキナ市警察局から少し離れた
閑静な住宅街だったが、スーツ姿の男が五人も、しかも一軒の家の前に集まる
など異様だった。
「場違いな雰囲気だな、あいつら。」
そう言いながらギーツェは煙草を咥えると同時に火を点けて吸い込む。
「ちょ、目立ちますからやめてくださいよ。」
ルルフェットが慌てる。
「なぁ、ここ何処だと思う。」
家の前に居た男たちは、直ぐ様包囲するように二人が家の両脇に展開し、一人
が裏手に回る。玄関前に二人が待機する動きから、横目で目線は離さずにギー
ツェがルルフェットに聞く。
「アイキナ市の地名はあまり憶えてないですが。」
質問の意味がわからなかったが、ルルフェットはとりあえず現在自分たちがい
る場所の事かなと無難な想像したが、初めて来た場所なので地名がわからない
ことを口にした。
「いや、単純にアイキナ市でいいんだ。」
「?」
ルルフェットは疑問顔をギーツェに向ける。横目では、玄関を勢いよく開けた
二人が銃を手に突入したところだった。
「俺らはアイキナ市の人間じゃない。煙草吸いながら雑談してる方が不自然じ
ゃないってことだ。ブルナッカ市の、しかも警察局員と特定される可能性はま
ず無いだろう。」
ルルフェットは何を言いたかったのか理解した。アイキナ市警察局が近いのも
あるかもしれないが、市内に居れば局員の顔を知っている人もいる筈だ。だが
自分たちが別の市警察局員ということは、アイキナ市の局員ですら知らない方
が多いだろう。
ましてや、見た目だけならギーツェ警務の方はよく言っても柄が悪い。路上で
煙草吸いながら雑談でもしていたら、尚更身分の特定には至らないだろうし、
しようとも思われないだろうとルルフェットは思案した。
「逆に柄が悪くて通報される可能性の方が・・・」
「おい。」
静かな声でギーツェが睨んでくる。
「いや、独り言です。気にしないでください。」
思考で済ませるつもりが、うっかり声に出してしまったことを慌てて取り繕う。
「そんなに俺に休憩してて貰いたいなんて思わなかったなぁ。」
「あぁ、いや、すいません。お願いです、それは勘弁してください。」
これ以上休憩時間を減らされてはたまったものではないと、ルルフェットはニ
ヤニヤと笑うギーツェに懇願した。
そこで、家から二人の男が出てきて、残りの三人が集まった。家から出てきた
うちの一人が力なく首を左右に振ると、家の玄関扉を蹴りつけて閉める。そし
て五人は撤収して行った。
「居なかったみたいですね。」
「だな。」
真面目な顔に戻っているギーツェが短く同意すると、ハクリオル商会が立ち去
った先程の家に歩を進める。
「しかし、警察局の目と鼻の先みたいな場所に潜伏とは。」
後を付いて来たルルフェットが呆れたように言う。
「間抜けな話だな。」
ギーツェが同意する。ベイオスの大胆さにではなく、まんまと穴に付けこまれ
た警察局の失態に。
「まぁ、どこも人手不足なのは変わりないですよね。治安の良いところはどう
しても警戒が薄くなりますし。」
「そんな言い訳、市民には関係ないがな。」
ギーツェは家の前まで来るとドアに手を伸ばしながら言った。
人手が無い、警戒が薄れる、そんな理由は警察局の都合であるだけだ。それで
仕方がない、それが当たり前なんて思える人間は稀有だろうと思う。大半の人
間は自分や自分たちの都合で動いているが、お互いにそれは理解しようとしな
い。と考え始めたが、どうでもいいことだと霧散させた。
「ああ、ここにはもう居ねぇな。」
ギーツェ玄関扉に開けようとしてやめた。こんなところに好き好んで潜伏する
奴は居ないだろう思った。だからさっきの奴らも帰り際、八つ当たりのように
扉を蹴って去って行ったんだなと。
「うっ。」
ギーツェの隣でルルフェットは吐きそうな顔をしていた。
「張り込みに戻るぞ。」
「はい。」
玄関を離れ、青い顔になっているルルフェットは気にせず、ギーツェは煙草に
火を点けると、腐敗臭漂う家を後にした。




もともと黒髪だったのだろう頭髪が、八割方白くなっているが、長すぎず切り
揃えられ小奇麗にしてあった。頭髪の殆どが白くなったその男は、皺が出始め
ているが精悍な顔立ちをしている。
鼻の下に蓄えられた口髭もほぼ白髪だったが、その顔立ちによく似合っていた。
年齢は五十程だろうその男が、右手に薬莢を持ち眺めている。左目に付けたモ
ノクルの奥では、薬莢を品定めするように鋭さを増す。
ある程度その薬莢を確認すると、男は左目に付けたモノクルを外す。フレーム
から伸びた鎖は首に掛けられ、外されたモノクルは首からぶら下がった。応接
用のソファーに座っていた男は、薬莢を目の前のテーブルに置くと、座りなお
して左足の上に右足を乗せ、足を組んだ。
「精度的には、私と大差ありませんな。」
男は薬莢を置いたテーブルの先にある机、その机の更に向こうで椅子に座って
いる青年に、今し方確認した薬莢についての感想を言った。その青年、執政統
括のプレートが置いてある机に座っているリンハイアは、特に表情も変えず微
笑んだままだ。
「私も同じ感想でした。」
リンハイアは机にあるグラスから水を一口飲んで、口を潤して続ける。
「結果は、もう出ていますが。」
「それは承知していますが、一体誰がこれの記述を?」
男は薬莢の記述を誰が行ったのか気になった。自分と同程度の技量を持つ呪紋
式師はそれほど居ないと思っているし、何人かは知っているが城内には居ない
人間である。城内というよりは、国内と言った方が正解か、なにより自身が国
内では一番の呪紋式師だと思っているのだから。
「既知の人物であれば、カマルハーが国内一だろうと、私も考える。」
「これだけの技量を持つものを、私が知らないと?」
リンハイアの口ぶりに、カマルハーは多少苛立ちを込めて聞き返す。無名でこ
れ程の技術を持っている者が居たとしても、不思議ではないが、その場合何か
理由でもない限り一国に与することなどないだろうと思う。
「ろくに記述経験の無い、二十代前半の娘。」
カマルハーはその言葉に苛立ちを募らせ目の前のテーブルを叩くように手を置
く。振動で薬莢がカチカチとテーブルとの衝突を訴えた。
「私は記述者のことを聞いている。突然若い娘の話などして・・・」
カマルハーはそこで言葉を詰まらせる。一瞬の逡巡をしたが、リンハイアが話
を逸らしたわけではないことに気づく。
「馬鹿な。」
漏れた言葉はそれだけだった。記述はどうしても経験が伴う。
まず呪紋式を記憶しなければならない。円筒の薬莢に記述するにあたり、見な
がらの記述はまず収まらないことが多い。平面に記載されている呪紋式を円筒
に記述するのだから勝手が違う。何度も円筒に記述して、慣れて初めて一つの
呪紋式が刻まれた薬莢が出来上がる。
今回の呪紋式に関して言えば、十年の経験があるものでも無理だろう。数日か
けてやっと薬莢への記述が安定し始める。それを五十も記述するとなれば一か
月作業だろう。故に経験がどうしても必要だ。
それを、半生の大半を呪紋式師として過ごしてきた自分と、殆ど経験が無い小
娘の記述に然程差がないなどありえない。そんな思考が駆け巡ったが言葉には
ならなかった。
「何者ですか。」
困惑は隠しきれなかったが、カマルハーは冷静を装い聞いた。当然、興味が沸
いたのもあったが、どちらかと言えば恐ろしかった。
「名前はアクライル・フー・ミリア。」
「聞いたことがありませんな。」
カマルハーにとっては全く知らない名前だった。その名前が本当なら、確かに
リンハイアの言った通り知らない人物のようだ。
「ちなみに、司法裁院の末端構成員でもある。」
「なっ!」
カマルハーは驚きを隠せなかった。司法裁院の末端構成員と言えば、荒事が多
い。当然死と隣り合わせの仕事だ。司法裁院にとって、悪い言い方をすれば使
い捨ての駒でしかない。
「押さえた方がいいのでは?」
司法裁院の仕事など辞めさせて、こちらで囲った方が遥かにいいとカマルハー
は思った。そもそも、呪紋式師の技術者は圧倒的に少ない。しかもこのレベル
であれば何処の国でも欲しがる筈だ。それに荒事で失くしてしまうには惜しい
とさえ思った。
「声は掛けてみたんですけどね、断られました。」
「あなたの事だから、軽く言ってみた程度なのでは?」
この執政統括のことだから、そんなものだろうとカマルハーは察した。だが、
そんな技術者が居れば、自分の激務が少しでも緩和されるだろうと思うと、是
非欲しいところではある。
「おそらくですが、彼女は奔放だから縛られるのが嫌だろうと思って、敢えて
強くは言ってない。」
「断られるのが判っていたと?」
「おそらく、ですけどね。」
リンハイアがそう思ったのならば、そうなのだろうと思った。であれば、自分
が出向いて口説いたところで徒労に終わるだろうとカマルハーは渋々納得する
しかなかった。
司法裁院の末端構成員も国の仕事だと思うが、奔放だと言うのであれば、依頼
が無ければ自由にしていて問題無いそちらの方が好みなのだろう。しかし、未
だにそんな者が居たとは、信じられない気持ちは消えなかった。
「惜しいですな。」
カマルハーは本心からそう零した。
「ところで、どうやって見つけました?」
驚きに忘れていたが、それだけの人材を見つけた経緯がカマルハー気になって
いた。
「たまたまですよ。」
いつもと変わらない爽やかな笑顔で答えるリンハイア。
「計りましたな。」
カマルハーは視線を鋭くしてリンハイアに投げつける。が、表情は変わらない。
「今回の私の遠征、わざとですな?」
その娘の話で忘れかけていたが、そもそも戦争はとうに予想していた筈だ。ミ
リアという女性に記述させた呪紋式も予め用意していたのも間違いないだろう。
それは自分ではなく、ミリアに記述させるために。自分が遠征していて、記述
する技術者が居ないという既成事実を作るために、敢えてこの時期でなくても
いい遠征に行かされたわけだ、とカマルハーは推測した。
「お察しの通りです。」
カマルハーの考えを見透かすようにリンハイアが言った。
「では、たまたま見つけたのも嘘ですな。」
「いや、気づいたのは偶然からです。これは本当です。」
「なるほど。」
カマルハーは素直に受け取った。それはリンハイアがそういった嘘は言わない
のを知っているからだ。不確定な情報を口にしないのもそうだが、人に何かを
伝える事に関しては誠実な男だと信じていた。
「偶然気づいた。その経緯は?」
このカマルハーの質問には、リンハイアは少し困った顔をした。
「申し訳ないですが、今は言えません。」
「何故ですかな?」
この理由については直ぐに返答が来た。
「彼女の素性についてですが、完全に私の推察です。本人に確認を取った訳で
もないし、記録に残っている事でもないので。その内容を、流石に本人の知ら
ない所でひけらかす事は、私には出来ません。」
リンハイアの顔から微笑が消えて、真面目な顔になっていた。これ以上の情報
を聞くことは出来ないと、カマルハーは察した。
「機会が出来たら、その時はお話します。」
その機会が来るかどうかは未だ判らない。一個人ではあるが、記録に残されな
かったアラミスカ家のこと、ハイリ老が関わっていること、そして今回の記述
の件、迂闊に話してしまえば、彼女は政治にも巻き込まれてしまうだろう。そ
の種を蒔くのは、リンハイアにとって本意ではなかった。
「では、その機会を楽しみにするとしよう。」
カマルハーは席を立ち、執政統括の部屋を後にした。席を立った時には、リン
ハイアの顔がいつもの表情に戻っていることを横目に確認しながら。



「いつつ・・・」
シルギーは首の後ろを摩りながら起き上って胡坐をかく。道路上で気絶してい
たようだが、気絶する前の首筋に走った衝撃を思いだしていた。
何者かに突然襲われたのだろう。隣で横たわっているボンツを見ると、まだ意
識は回復してないようだった。
(現職の警察員を気づかれずに、二人同時に気絶させるとか何者だ?)
そう思ったが、相手の力量よりも現職二人が何も出来ずに伸される。という事
実の方が恥ずかしかった。
シルギーは、はっとすると身体を調べ始める。上着の内ポケットに入れている
長財布、左脇のホルスターに挿しこんだ銃、家の鍵、警察局の手帳、犯人を拘
束するための手錠、などなど調べたが何一つ盗られていない。
(ただの愉快犯か?)
考えたところで結論は出ない。局に戻る途中だったことを思い出し、とりあえ
ずボンツを起こして戻ろうと思った。
「先輩、先輩。」
声を掛けながら揺さぶってみたが、起きる気配はない。
(少し様子見てから、もう一度起こしてみるか。死んではいなようだし。)
道路に横たわっているボンツよりも、ザイランの方がシルギーは気になってい
た。何故あそこまで一般の一女性に関わるのだろうか。局の女性警務を連れて
来ても何も変わらなかった。明日にはなんとか心療の先生を連れてくるとまで
言っていたのを思い出す。
(無理やり緊急車両に乗せて、病院に放り込めばいいだけじゃないのか?)
ベイオスはまだ所在も掴めない。ただ、あのミリアとかいう女性が標的になっ
ていることを考えれば、関わっているのも無駄ではない気がするが。それにし
たってあそこまで関わろうとするザイランも珍しかった。
(さては惚れたか・・・おっさん過ぎて振られんだろ。)
などと一瞬考えたが、典型的な朴念仁のようなザイランには無さそうだと、ど
こかつまらない思いをした。
「先輩、先輩!」
そんなことより、何時までも路上に転がっているのも恥ずかしいので先程より
も強く揺さぶって声を大きくした。
が、起きる気配はない。
「こうなったら、特定危険指定されている人語保有人間捕食類人猿を捕縛した
とあの研究機関に連絡して引き取ってもらうか。」
そんなものは存在しないが。
「超快適安眠枕・改 久遠の安らぎ(永眠バージョン)に今すぐ寝かしつける
ぞ、シルギー。」
身体はうつ伏せのまま声だけ聞こえてくる。
「うぉっ。起きてるなら返事してくださいよ。」
「何故こんなことになっているのか、考えていてな。」
むっくりと起き上がりながらボンツが行った。
「誰かに襲われたんだと思いますが、あ、所持品大丈夫ですか?」
シルギーに言われ、ボンツは一通りスーツ上下のポケットやらホルスターの銃
やら確認する。
「うむ、局からの貸与品も私物も全部揃っている。物盗りではないということ
か。」
「よく判らないですよね。」
二人は路上で胡坐をかいて向かい合い、少し考え込んでいた。駅が近いためか
通行人が多いが、何故か皆避けて通って行く。考え込んでいることに意味が無
いな、とシルギーは思い立ち上がった。
「局、戻りますか。」
「そうだな。」
ボンツは同意すると、同じく立ち上がり二人はフラドメル駅へと向かった。




ベイオスはマンションの一室の扉の鍵を開けると、部屋の中に入る。部屋の中
に停滞していた空気が動き、その空気が鼻に刺激を齎す。ゴミ置き場のような
臭いに不快感を覚えた。
部屋の中程に、窓から入り込んだ薄い月明かりにぼんやりと浮かぶ人物、ミリ
アを見つけてうんざりした。
「こんばんは。」
ベイオスはいつもと変わらない微笑で声を掛ける。その声にミリアがゆっくり
と振り向いた。玄関開けて入られても反応しないミリアを見て、ベイオスの不
愉快さが増した。
「生ごみ直前だな。」
窶れた身体、汚い髪、こけた頬、生気の無い瞳。ベイオスにとっては言葉通り
の感想しか思い浮かばなかった。
「だれ?」
ミリアが細い声で聞いた。
「気配どころか、人の顔の判別も付かなくなってんのか。ベイオスだ。」
ミリアの映っているのか映っていないのか判らない瞳は、無反応だった。当然
身体も微動だにしない。いくら部屋の電気を点けていないとはいえ、月明かり
で多少見える筈、いや、そもそも部屋の前に来た時点で以前のミリアなら存在
に気付いている筈、なのになんだこれは。とベイオスは苛立ちを感じた。
「べいおす?」
まさか、こんなになっているとは想像もつかなかった。警察局の動向を見てい
て不信に感じ侵入してみれば、こんな状態とは。名前するら憶えていないのか
と、ベイオスの苛立ちは憤りになってきた。
「べいおす。」
今度は先程よりははっきりした言葉になっていた。思い出したのだろうか。一
瞬、瞳が揺らいだように見えた。
「ベイオス・・・そうか、私を殺しに来たの。」
やはり、特に感情の無い瞳と動かない身体は変わらない。
「俺はあんたを殺すのが目的だったが、今の死人同然のあんたを殺したいわけ
じゃない。あの工場の続きを、あの昂揚感の中、あんたを切り刻みたかった。」
静かな声だったが、その言葉には怒気が含まれていた。
「こんなことなら、もっと早く殺っておけばよかったな。」
ベイオスが溜息のように後悔の言葉を吐き出す。
「殺してよ。」
「死にたきゃ勝手に死ねよ。」
ベイオスは声を荒げる。ここまで苛つかされるとは思ってもみなかった。
「死にたいくせに自分を殺すことは出来ないってか。人殺し稼業やって、散々
他人は殺して来たくせに。」
くだらない発言をしたと思った。対象が他人から自分に変わるだけ、そんな簡
単な話なら人間はもっと単純だろうと。そんな発言が出るほど、ベイオスにと
って今の目の前の存在は酷くむかついた。
「ころした。わたしがころした。みらいを、たくさん、うばった。」
ミリアの目から涙が溢れだしていた。紅い瞳はゆらゆらと揺れていたが、それ
は溢れるの涙のせいなのかはわからない。
「まさか、殺した殺さないの葛藤でこんななってんじゃねぇだろうな。今まで
いくらでも殺して来ただろう。何を温いこと言ってんだ。それとも、仕事で殺
した奴は仕事上駆除した害虫か何かで人じゃなく、今度は本当に人殺してしま
ったとかか。」
ミリアの瞳がベイオスに向けられた。
「ちがう。そんなこと・・・」
何かを言おうとしたが、そこでミリアは黙ってしまった。
「そんなこと解ってるよな。何が違うのか知らないが、俺ら人殺しは殺そうと
思って殺した時から人殺しなんだよ。刑罰の問題じゃねぇし、殺した数も関係
ねぇ、死ぬまで人殺しでしかねぇんだよ。」
ミリアはベイオスから視線を外した。会話が一応出来ているということ、今の
ように視線を動かすということは、まだ見込みがありそうだとベイオスは思い
始めていた。
「俺とあんたの何処に差がある。仕事?快楽?なんにしろ、死んだ人間はもう
ゴミでしかない。殺した動機なんてもんは生きている側の都合、殺した経過に
生きている人間が感情で結果を押し付けているに過ぎない。」
それが社会で、その社会の殆どの人間が同調して生活している。創り上げられ
た都合のいい生活に。
「崇高な思想、高潔な理想、何を騙り何を思うのかは自由だがあんたなんか勘
違いしてねぇか。人殺しに正当な理由や正義、美談でも求めてんじゃねぇのか
?。」
「ちがう。」
ミリアが目を閉じて否定する。現実を拒否するように閉じた眼は、何を拒否し
ているのかはわからなかった。自分が生きている現実か、人殺しの現実か、そ
れとも正当性を求めていたのか、ミリアはわからなかった。
「考え甘過ぎなんじゃねぇの。人殺し以外の何物でもないって判ってんだろう
。」
ミリアがベイオスに再び視線を向ける。
「言われなくても、わかってる。」
「だったらなんなんだ。」
ミリアは視線を、また背ける。
「戯言言いに来ただけなら、帰ってよ。」
「あんたが戦える状態になるって確約が取れるなら、直ぐにでも帰るさ。」
「じゃぁ今相手するわよ。」
ミリアは手を床に付いて立ち上がろうとする。腰を浮かせたところで、ベイオ
スの足払いを手に受け、バランスを崩して尻もちをついた。
「万全とまでは言わねぇが、最低でも工場で戦ったくらいにはなってもらわな
いとな。今のあんたは相手する価値もないって言ったよな。」
「・・・」
「何日要る?」
「知らない。」
ベイオスは回復までの時間を聞いてみたが、何処を見ているかわからない視線
は部屋の何処かへ向けたままミリアは答えた。
「警察局に見つかるのも時間の問題だろうからな、悠長には待ってられない。」
「知らない。あなたの都合なんて。」
ミリアの返事はしっかりしてきているが、それ以外の反応は部屋に入って来た
時と変わってはいないようだった。ベイオスはこれ以上、本人にどうこう言っ
たところで変化はないだろうと察した。
「月並みな方法は取りたくないんだが。」
ベイオスは一旦、言葉を区切って冷徹な視線をミリアに向ける。その視線に気
づいたのか、ミリアがベイオスの方に視線を向けた。それを待っていたかのよ
にベイオスは続ける。
「あんたの同僚。ヒリルだったか。」
「ヒリル・・・」
ミリアは懐かしいような感覚がして同僚の名前を呟いた。綺麗なブロンドのロ
ングヘアー、透き通ったダークブルーの瞳、人懐っこい笑顔。記憶の片隅に浮
かび上がる。
「あんたがやらないなら、そいつを公衆便所にしてその辺の男どもの性欲の掃
き溜めにしてやる。最後にミリアに頼まれたって言ったらどんな顔するだろっ
・・・」
初動は見えなかったが、ミリアが自分の首を右手で掴んだのはすぐわかった。
直後に膝蹴りを吹き飛ばすように入れて引き剥がす。
「っ・・・」
ベイオスは左の首筋に痛みを感じたので触ると、手に液体が付いた。皮膚を爪
で抉り取られていたようだった。そこからの出血が触れた手を黒く汚した。
「やれば出来るじゃねぇか。三日後だ。」
ベイオスは鋭い視線をミリアに向けて威圧する。ミリアはよろめいて窓の方ま
で下がったが、窓枠を掴み体勢を保つと、ベイオスの視線を睨み返す。この部
屋に入ってきて初めての殺気だった。
「それまでに準備するんだな。場所は後で連絡する。」
その殺気は、確実に言ったことを実行するだろう思わせた。連続殺人もした経
緯を考えれば躊躇なく実行するだろうとミリアは思った。
「間に合わなかったり、間に合っても手抜きと感じれば実行する。退社時間は
十六時だったな、会社を出た直後に公衆の面前で即公衆便所にする。精神崩壊
もんだろうな。」
ミリアは自分の中から沸き立つ殺気を感じた。ベイオスも同様に感じていたよ
うだった。
「それは肯定の返事と受け取っておく。」
そう言いながら玄関の方に、後ろ向きでゆっくり下がっていく。ミリアを警戒
しての事だったが、ミリア本人は体力が無く身体も重く、思うように身体が動
いてくれない状態だった。
「あと、これを渡しておく。」
ベイオスが玄関の扉に手を掛けた時、そう言ってミリアに何かを放り投げた。
ミリアの足元にガチャッと音を立てて落ちたそれは、二本の鍵だった。
「この部屋の合鍵。昼間警察局が作ったやつ頂戴したんだ。あと、鍵は自分で
掛けてくれ。」
それだけ言うと、音も立てずに扉から出て行った。
緊張していたのかわからない。緊張が解けたのかわからない。が、足の力が抜
けたようにミリアはその場に座り込んだ。実際に抜けたのだろう、身体が思う
ように動かなかった。

自分の立場を無理やり思い出させられた感じだった。
人殺しは人殺しでしかない。
その通りだ。仕事で人は殺す。でも、それ以外は傷ついて欲しくない。それが
矜持だった。人殺しがそんなことを言った所で人殺しには変わらない、普通の
人から見れば。そんな矜持持ったところでただの偽善としか言われない。殺し
以外のところで自分を正当化しようしているだけだ。そう思われても仕方がな
い。
私の手は、何万の命を奪ったのだろう。
作り手は作るだけ、作られたものに意思は無い。ようは使う側の問題で左右さ
れるなんて話はある。
でもそれは当事者じゃないから言えるんだ。
そこに作った者、使用した者の意思は介入していない。
苦悩は存在しない。
「自分が作ったもので・・・人が沢山死んで逝く様を・・・実際に目の当たり
にしてみろ。」
床を殴る。
ただの八つ当たり。
御託を考えたところで、事実は変わらない。何処まで行っても、私の問題だ。
私が、殺したんだ。
「ぅ・・・ぅぅ・・・」
また、涙が溢れてくる。どうにもならない。
「ごめんなさい・・・」
その言葉は、なんのために吐いているの?
わからない。
還らない事実は、変わらない。
変えられない。
ごめん・・・なさい・・・
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

リンの異世界満喫ライフ

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:539pt お気に入り:3,414

異世界転生雑学無双譚 〜転生したのにスキルとか貰えなかったのですが〜

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:1,265pt お気に入り:33

異世界ライフは山あり谷あり

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:1,385pt お気に入り:1,552

規格外で転生した私の誤魔化しライフ 〜旅行マニアの異世界無双旅〜

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:1,627pt お気に入り:139

魔王を倒して故郷に帰ったら、ハーレム生活が始まった

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:363

娘と二人、異世界に来たようです……頑張る母娘の異世界生活……ラブ少し!

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:1,415

処理中です...