上 下
10 / 11

第10話

しおりを挟む

 ハルの温もりを手放してから、柊はしばらく何も考えられなかった。
 手元に残った指輪が、確かにハルはここにいたのだと教えてくる。
 紅葉はそんな柊を、ただそっと見守るだけだった……。


 時の流れも曖昧な中、気付けば柊はあの公園に足を運んでいた。


『桜が咲いたら、一緒に見に来ような。』


 ──ハルは俺の陽だまりだった……。


「菜々……ハル、ママのところに行くって言ってたぞ……。ちゃんと、会えたか?」


 切れた結婚指輪の内側。彫られた『S&N』の文字を見つめ、掠れた声で問いかける。
 結婚して一年経ってやっと、二人で選んだシンプルな指輪。なんの装飾もないプラチナリングだが、指にはめた時のフィット感が二人共気に入って、迷わず決めた物だった。


「指輪を切断する必要があるって……どんな時、だろうな……。」


 一人ベンチに座り、柊は天を仰いで頭上の緑に目を細める。


 ──俺が何かを思い出せば、って言われた……。紅葉さんは、菜々が待ってるって……そう、言ってたな……。


「俺が、菜々を一人にしてるんだ。……菜々を守るって、おばあちゃんと約束したのに……。」


 膝の上でジーンズをグッと握りしめ、柊は奥歯が軋むほどに食いしばった。


 ──思い出せ……菜々に、何があった!?


 目を閉じ目の前の景色を手離して、彼は瞼の裏に祖父の遺した我が家を映す。
 幼い自分と祖父……一人で暮らした時間……そして、菜々との幸せな日々……。


「思い出せ、俺っ!菜々に何かあったんなら……。」


 そこまで口にして、柊はハッとした。


「……菜々、じゃ……ない?……何かがあったのは……俺……か……?」


 ずっとずっと、菜々のことばかり気にしてきた。
 菜々を……かけがえのない家族を自分が守っていくんだと、そう考えてきていた。


『柊はいつも自分を後まわしにしちゃうから……心配だよ。』


 不意に、彼女の懐かしい声が柊の中に蘇る。


 ──自分のことがどうでもいいなんて……そのせいで、もし菜々を泣かせてなんていたら……。


 柊は憑き物が落ちたように、軽やかな呼吸で真っ直ぐに前を見た。


 公園の景色がぼやけ始め、なんの違和感もなく、当たり前に紅葉が柊の前に立っている。


「そろそろ、みたいだね……。」
「紅葉さん、俺……。」


 ──『柊?聞こえる?』


「っ!?菜々ッ!!」


 幻聴ではない。思い出でもない。
 やっと聞こえた、大切な人の声。


「柊くん、最後にお願いがあるんだ。」
「紅葉さん、紅葉さんは?」
「言ったでしょ?私はさくら荘が今の居場所なの……。」


 穏やかな紅葉の声に、重なるように柊のなかへと響く切なげな声。


 ──『柊?いつまで寝てるの?今日ね、とっても幸せなことがわかったんだよ?』


 何故自分が立っていられるのか不思議な程に、柊の体から力が抜けていく。
 そして、今にも消えそうな公園の桜たちが一斉にピンク色の花を開かせ、ハラハラとその花びらが風に舞った。


「私の名前は都築紅葉……。もしまた柊くんがこの桜を見ることがあったら、夫に……夏彦さんに伝えてくれないかな……?」


 ──『こんなに幸せなことなのに……ねぇ、柊……私一人じゃ嫌だよ……。』


「どうか幸せに生きてって……。大切に大切に、今を積み重ねてから、会いに来てねって……そう……。」


 紅葉が嬉しそうに笑う。
 柊の耳に、それ以上彼女の声が届くことはなかったけれど、最後のその時、「幸せに」と……そう言ってくれていた。


 そして──。
 次に柊が聞いた声は、すぐ隣から届いた菜々の声だった。


「柊……お願いだよ……お願いだから……早く起きて……。赤ちゃんがいるんだよ……。ちゃんとね、心臓も動いてて……生きてくれて……。柊が守ってくれたから……あの車から私を庇ってくれたから……。だから、柊、ちゃんと見てよ……私達の赤ちゃん、一緒に……しゅう……。」


 ──あぁ、ハル……偉いぞ……ちゃんと、ママのとこ行けたんだな……。今度は……俺の……番だよな……ハル……。


 瞼は張り付いて、鉛のように重かった。
 目を開けるという行為はこんなにもしんどいのかと、柊は必死にこじ開ける。
 ぼやける視界の中、やっと会えた愛しい人は、下を向き声を押し殺して泣いていた。



「……な……な……。」



 その息をもらしただけのような微かな声に、彼女が震えながら顔をあげる。
 次の瞬間、真っ赤なその目から大粒の涙が止めどなく溢れ始めた。
 病室に菜々の安堵と喜びに満ちた泣き声が響き渡る。



 その日、妻を庇い車にはねられた牧野柊は、一月ひとつき振りに意識を取り戻したのだった──。










しおりを挟む
1 / 4

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

ある日愛する妻が何も告げずに家を出ていってしまった…

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,235pt お気に入り:5,787

【完結】さよならのかわりに

恋愛 / 完結 24h.ポイント:4,758pt お気に入り:4,421

そちらから縁を切ったのですから、今更頼らないでください。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:6,759pt お気に入り:2,078

【完結】わたしの好きな人。〜次は愛してくれますか?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,199pt お気に入り:1,887

優秀な妹と婚約したら全て上手くいくのではなかったのですか?

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:66,459pt お気に入り:777

メイドを妊娠させた夫

恋愛 / 完結 24h.ポイント:9,728pt お気に入り:253

ヒロインが私を断罪しようとしていて、婚約破棄確定です

恋愛 / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:18

処理中です...