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第10話
しおりを挟むハルの温もりを手放してから、柊はしばらく何も考えられなかった。
手元に残った指輪が、確かにハルはここにいたのだと教えてくる。
紅葉はそんな柊を、ただそっと見守るだけだった……。
時の流れも曖昧な中、気付けば柊はあの公園に足を運んでいた。
『桜が咲いたら、一緒に見に来ような。』
──ハルは俺の陽だまりだった……。
「菜々……ハル、ママのところに行くって言ってたぞ……。ちゃんと、会えたか?」
切れた結婚指輪の内側。彫られた『S&N』の文字を見つめ、掠れた声で問いかける。
結婚して一年経ってやっと、二人で選んだシンプルな指輪。なんの装飾もないプラチナリングだが、指にはめた時のフィット感が二人共気に入って、迷わず決めた物だった。
「指輪を切断する必要があるって……どんな時、だろうな……。」
一人ベンチに座り、柊は天を仰いで頭上の緑に目を細める。
──俺が何かを思い出せば、戻れるって言われた……。紅葉さんは、菜々が待ってるって……そう、言ってたな……。
「俺が、菜々を一人にしてるんだ。……菜々を守るって、おばあちゃんと約束したのに……。」
膝の上でジーンズをグッと握りしめ、柊は奥歯が軋むほどに食いしばった。
──思い出せ……菜々に、何があった!?
目を閉じ目の前の景色を手離して、彼は瞼の裏に祖父の遺した我が家を映す。
幼い自分と祖父……一人で暮らした時間……そして、菜々との幸せな日々……。
「思い出せ、俺っ!菜々に何かあったんなら……。」
そこまで口にして、柊はハッとした。
「……菜々、じゃ……ない?……何かがあったのは……俺……か……?」
ずっとずっと、菜々のことばかり気にしてきた。
菜々を……かけがえのない家族を自分が守っていくんだと、そう考えてきていた。
『柊はいつも自分を後まわしにしちゃうから……心配だよ。』
不意に、彼女の懐かしい声が柊の中に蘇る。
──自分のことがどうでもいいなんて……そのせいで、もし菜々を泣かせてなんていたら……。
柊は憑き物が落ちたように、軽やかな呼吸で真っ直ぐに前を見た。
公園の景色がぼやけ始め、なんの違和感もなく、当たり前に紅葉が柊の前に立っている。
「そろそろ、みたいだね……。」
「紅葉さん、俺……。」
──『柊?聞こえる?』
「っ!?菜々ッ!!」
幻聴ではない。思い出でもない。
やっと聞こえた、大切な人の声。
「柊くん、最後にお願いがあるんだ。」
「紅葉さん、紅葉さんは?」
「言ったでしょ?私はさくら荘が今の居場所なの……。」
穏やかな紅葉の声に、重なるように柊の心へと響く切なげな声。
──『柊?いつまで寝てるの?今日ね、とっても幸せなことがわかったんだよ?』
何故自分が立っていられるのか不思議な程に、柊の体から力が抜けていく。
そして、今にも消えそうな公園の桜たちが一斉にピンク色の花を開かせ、ハラハラとその花びらが風に舞った。
「私の名前は都築紅葉……。もしまた柊くんがこの桜を見ることがあったら、夫に……夏彦さんに伝えてくれないかな……?」
──『こんなに幸せなことなのに……ねぇ、柊……私一人じゃ嫌だよ……。』
「どうか幸せに生きてって……。大切に大切に、今を積み重ねてから、会いに来てねって……そう……。」
紅葉が嬉しそうに笑う。
柊の耳に、それ以上彼女の声が届くことはなかったけれど、最後のその時、「幸せに」と……そう言ってくれていた。
そして──。
次に柊が聞いた声は、すぐ隣から届いた菜々の声だった。
「柊……お願いだよ……お願いだから……早く起きて……。赤ちゃんがいるんだよ……。ちゃんとね、心臓も動いてて……生きてくれて……。柊が守ってくれたから……あの車から私を庇ってくれたから……。だから、柊、ちゃんと見てよ……私達の赤ちゃん、一緒に……しゅう……。」
──あぁ、ハル……偉いぞ……ちゃんと、ママのとこ行けたんだな……。今度は……俺の……番だよな……ハル……。
瞼は張り付いて、鉛のように重かった。
目を開けるという行為はこんなにもしんどいのかと、柊は必死にこじ開ける。
ぼやける視界の中、やっと会えた愛しい人は、下を向き声を押し殺して泣いていた。
「……な……な……。」
その息をもらしただけのような微かな声に、彼女が震えながら顔をあげる。
次の瞬間、真っ赤なその目から大粒の涙が止めどなく溢れ始めた。
病室に菜々の安堵と喜びに満ちた泣き声が響き渡る。
その日、妻を庇い車にはねられた牧野柊は、一月振りに意識を取り戻したのだった──。
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