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第一章
7 神子の証 1
しおりを挟む部屋に張り詰める静寂。
驚愕の空気に包まれて、俺はハッと我に返った。
そして、ほんの数秒前に自分がしでかしてしまったことの重大さに気づき、背中を冷たいものが流れ落ちていく……。
ま、まずい……完全に不敬罪だろ……これ……。
これ程「後悔先に立たず」を実感したことなどなかった。
すぐに謝罪をすべきなのか、それとも勝手に口を開いたらまずいのか……?
俺は正解が見えず、考えが無意味に絡まるだけで焦るばかり。
ところが、俺が一人色を失う中、その場の空気はアントンさんのひと言で、まるで何事もなかったようごくごく自然に流れを取り戻していったのだ。
「皆様、お茶の支度が整いました。どうぞお掛け下さい。」
目の前の殿下は驚いてはいたけど怒った様子は見えず、むしろちょっぴり嬉しそうだ。
それはそれで疑問が残るけれど、殿下はすっかり脱力してしまった俺をまたエスコートして、ソファーに座らせてくれた。
ひ、ひとまず、大丈夫……なのかな……?
気のせいかも知れないけど、ジャニス様やソルネスさんたちの瞳の色からも、何だかこう……慈愛を感じてむず痒い。
そしてそわそわと腰を下ろした俺の隣に、今度はエルネス殿下だけではなく、騎士様まで座ってきた。
だから、何で!?
二人とも一九〇センチを優に超える長身で身体が大きいし、整った美しい顔立ちに、纏うオーラと色香が段違いすぎて、俺の心臓はドキドキと壊れそうに早鐘を打ち始める。
お、男同士だよね?別に、普通のはずだよね!?……あ、あれ?でも俺……さっき殿下と……キ……。
俺は二人の間で更に小さくなって、青くなったり赤くなったりと忙しなかった。
そんな俺の状態を見て穏やかに口元を緩めた殿下が、俺を落ち着かせるように話しかけてくる。
何度聞いても、耳に心地よく内側に染み込んでくる彼の声……。
「そうだハヤト。先程、任務で遅れている者がいると言っただろう?」
「はい。……あっ!もしかしてこの方が?」
「ああ、そうだ。この者はレオ・ロドリス・ステルクス。我がヴェントナス王国が王都に置く三つの騎士団のうちの一つ、近衛騎士団の団長を務めている。」
殿下の言葉に立ち上がったレオ様は、悠然と笑みを浮かべ俺に礼をしてくれた。
王太子殿下に宰相閣下。それに、大神官、魔導師長、騎士団長……。
次第に俺は感覚が麻痺し始めて、驚く気力も削がれていたのだった。
「さて、紹介は全て終わったな。せっかくだ。冷めないうちにお茶を楽しもうか?アントンの淹れたお茶は格別なんだ。ハヤトもぜひ味わってみてくれ。」
「はい。ありがとうございます、殿下。」
俺は午前中にルカから教えてもらったことを思い出しながら、そっとカップに手を伸ばした。
レオ様がまた俺の隣に腰掛け、殿下もルナスさんとソルネスさんに向かいのソファーに座るように促してから、優雅にカップを傾ける。
ジャニス様は窓辺で壁に寄りかかり、立ったままでサーブされたソーサーを持ってカップを手に取りお茶を飲んでいて、アントンさんに行儀が悪いと叱られている姿は、とても一国の宰相とは思えなかった。
緩やかに時間が流れる穏やかな光景。
間違いなくそんな空間のはずなのに、何故だろう?
俺の中には言いようのない違和感がポツリ、ポツリと広がっていったのだ。
「アントン、もう下がっていいぞ。必要があれば呼ぶ。」
「かしこまりました。」
殿下の指示でアントンさんが他の侍従も引き連れ部屋を出て行く。
そして、俺の違和感を現実のものとするように、ドアがカチャっという小さな音と共に閉まった瞬間、室内の空気が一変し、緊張の音へと変わったんだ。
俺が慌てて殿下を見上げれば、優しい笑顔のまま真剣な眼差しで、俺の唇に人差し指の指先をそっと当ててくる。
やっぱり……。さっきの警戒の色と言い、何かあるんだ……。
殿下は俺が理解したのを確認すると、ルナスさんを一瞥した。
それに頷き応えた彼は静かに立ち上がり、まず入口のドアの前で右手をかざす。
そしてその手からぼんやりと薄いオレンジ色の光が溢れ出してドアを覆い、そこから壁や天井、床へと部屋中をくまなく包むように広がっていったのだ。
──すごい!これが魔法?
やがて光を確認しながら部屋を見渡していたルナスさんが何かに気付き、さっきまで侍従達が控えていた壁際へと歩いていく。
彼が向かう先の壁には、何故かオレンジではなく、黒く染まる場所があったんだ。
──なんだろう?あれ……。
好奇心に誘われ、俺が親指の先程の大きさの黒をジッと見つめた瞬間、俺の耳の中をゾワゾワと気持ちの悪い音が耳鳴りのように広がりだす。
その音があまりに気持ち悪くて吐き気をもよおした俺は、慌てて口に手を当てた。
──……ヤ、バい、気持ち……悪い……吐きそう……。
ソルネスさんが慌てて駆け寄って来る。
そして彼の両手で俺の耳を塞いでくれ、その手から鼓動を伝えるように優しい音がトクトクと響いてくると、ゾワゾワしたものが次第に小さくなっていった……。
そうして吐き気が引き始め、俺が安堵した、その瞬間──。
バンッ!!
耳の奥で直接感じた凄まじい破裂音に、自分の鼓膜が破れたのかと思い、俺の身体は震えが止まらなくなったんだ。
──な…んだ……これ……!?怖いっ……!
俺はどうしたらいいのかわからなくて、ただ歯を食いしばりキツく目を瞑る。
身体が強張り過ぎているからなのか、クラクラと眩暈までしてきた。
『……神子様。……ハヤト様、もう大丈夫です。ゆっくりと、目を開けてみて下さい。』
一人震える俺の中に、ソルネスさんの優しい声が昨日と同じように直接届いてくる。
俺が怖々目を開け、怯えた子供みたいにコクコクと頷くと、彼は耳から離したその手で俺の背中を優しく擦ってくれた。
一体、何が起きたのか?吐き気と眩暈がなかなか治まらない。
「ハヤト様、呼吸を止めてしまっています。ゆっくりと息を吐いて下さい。」
ソルネスさんにそう言われてハッとした俺は、慌てて息を吐き出し、その反動で喘ぐように息を吸い込んだ。
「ゆっくり、ゆっくりですよ。」
彼の穏やかな手が、呼吸のリズムを思い出させるように、トン…トン…と背中を叩く。
『そう、上手ですよ。もう大丈夫。』
あれ?また?
ゆっくりとした息遣いになった俺を見て、ソルネスさんが安堵の息を吐いた。
視線だけ動かし周りを見れば、いつの間にか部屋の光は全て消え去っている。
「殿下、もう大丈夫です。予定通り盗聴孔を消し、結界を張りました。」
ルナスさんが殿下の前に戻り、恭しくそう言った。
その言葉を聞くやいなや、殿下は苦しげな表情で俺の身体を強く抱きすくめてくれたんだ。
「ハヤト、すまない!辛い思いをさせてしまった!」
殿下の腕の温もりから、まるで泣きそうな声が流れてくる。
エルネス殿下の声……何でこんなに落ち着くんだろう?なんかリョウの声を聞いた時みたいだ……。不思議だな……。
いつの間にか吐き気も眩暈も全部消え去っていて、俺は静かな呼吸を繰り返していた。
「ハヤト様、横になられますか?」
ジャニス様が気遣わしげに側に来て、温もりのある声で聞いてくれる。
「だい、じょうぶ……です。落ち着いて、来ました。……あの、水があったらいただけますか?」
殿下の腕が少し緩んで、俺はそっと身体を離した。
今この部屋には侍従がいないとはいえ、何の違和感もなくレオ様が立ち上がり、水を取りに行ってくれる。
「ほら、持てるか?」
グラスを差し出してくれたルビーの双眸にも、心配の色が滲んでいて、俺は周りの優しさに安らぎながらゆっくりと喉を潤した。
そしてミントの香りに後押しされ、大きく一つ深呼吸をしてみる。
俺を真っ直ぐに見つめる琥珀の双眸が、そこで待っていたから……。
逃げ出したい気持ちが全く無かったなんて言えば嘘になる。
これが夢ならいいのにって、思ってしまう自分もいたんだ。
だけどやっぱり、知りたいと思った。
俺が小さく頷き、殿下が語りだしたのは、彼自身と王家の『今』……。
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