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第86話 存在の消滅

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『リリン。それは我に対しての言葉か?』

「はい、その通りです魔王様」

 殺気にも近い感情が、イリアスから放たれる。

 しかしその対象は俺ではない。

 本来イリアスの親でもある、魔王に対して、イリアスは敵意を抱いていた。

「人間に対して人質を取る、というのはみっともなくとも仕方のないことかもしれません。相手がナオヤさんですから。しかし――」

 イリアスは目を細めてヴァイダの背中を見つめる。

 魔法によって格納された、魔石を見通しているかのように、俺には思えた。

「ご自身の一部を捨てると? 捨てて自らの命を優先すると?」

『我だけでもこの世界に確実な滅びをもたらせる。多少力が減ったとて――』

「ナオヤさんに、人間たちに敗北しておいてよく言えたものね」

 イリアスは、敬愛の仮面を殴り捨てる。それだけではない。彼女の視線には明らかな侮蔑の色が浮かんでいた。

「やはりあなたは魔王の力を持っていても、ベゼュフィアス様ではないのね」

『何を言うか! 我は魔王。我こそがベゼュフィアスだ』

「そうだとしたら尚更失望したわ。私が願い求めていた存在がこの程度なんてね」

 イリアスは言っていた。魔王は無へと誘ってくれる存在だと。

 しかし、自分の存続を求める目の前の魔王は、それとはむしろ真逆とも言える生への執着を見せたのだ。

 これはあくまで俺の想像で仮の話だ。

 魔王という存在はとても強大だった。

 神様に魂を13つに分かたれ、別個に封印されたところで未だこうして復活できる力を残せるほどに。

 だが、もしも、だ。

 13つの魂それぞれが、永い刻の中で独自の自我を持ってしまったとしたらどうだろうか。

 もしくは、力を失った事で人格が変質してしまったとしたら?

 それはきっと、イリアスの望みを満たせる存在ではないのではないだろうか。

『貴様、裏切るつもりかっ』

 魔王に対する返答は――。

「ねえ、ナオヤさん。助けてあげよっか」

 イリアスは、俺との約束で未だ着けていた、魔力を乱す腕輪を外し、魔石を穴の中心に通す様に置く。

 それがどう作用したのかはわからないが、魔王の言葉が一切聞こえなくなってしまった。

 アウロラの苦しそうな表情が変わらないため、浸食は続いているのだろうが。

「また、俺に選択しろと?」

「そ」

 イリアスは笑顔で頷くと、左右の人差し指を、自らの眼前で立てる。

 俺と彼女の間で交わされる選択はこれで2度目だ。

 前回は俺の地球への帰還とイリアスの未来が天秤に乗せられた。

 今度も同じく天秤の片方には俺に関わりのある何かが乗るのだろう。だが、反対側の皿に乗せられたものがアウロラの命ならば、俺の返事は決まっている。

「なら答えはイエスだ。アウロラの命を救ってくれ。俺は何でもお前にくれてやるよ」

「そう。……あなたの命でも?」

 俺の膝に落ちていたアウロラの手がギュッと握り締められる。

 きっとアウロラは俺の選択を受け容れない。それでも俺は――。

「もちろんだ」

 答えを一秒たりとも迷う事は無かった。

 もともとはアウロラに助けられた命なのだ。それを彼女の為に使うのは当たり前の事だ。

 ふーんと、イリアスが目を細めて少し不満そうに鼻を鳴らす。

 前回は俺の帰還を投げ出したことでずいぶんとご機嫌になったのだが、今回は違うらしい。

「……お前なら俺がどういう選択をするか分かってくれると思ったんだがな」

「分かってたからつまらないの。人間が魔族を倒すなんて楽しいものを見られなくなるじゃない」

 それを聞いて、俺は思わず失笑してしまった。

 イリアスは虚無主義者で快楽主義者だ。目の前のおもちゃで遊べるのならば、一瞬を楽しめるのならば、未来すら捨てる。そんな女性・・だ。

 本当に、魔族としては変わっていて……。

 俺はそんなコイツの事を、かなり気に入っていた。

「大丈夫だ。お前も見てただろ? アウロラが魔王に一泡吹かせたの。アウロラなら――」

 俺はアウロラの顔に視線を落とし、長い艶やかな黒髪を、梳く様に撫でる。

「アウロラなら、どんな魔族だって倒してみせるよ」

 愉快極まる性格をした知の天使であるヴァイダも、男勝りでちょっと不良っぽい口調をしているのに中身はとてもまじめで乙女な盾の天使ゼアルも居る。

 彼女達とアウロラが組めばきっと、俺なんかよりも強くなれるはずだ。

「まあ、期待だけはしておいてあげるわ」

「きっと飽きないさ」

 さあ、とイリアスに何を捧げるべきなのかと促した。大丈夫、覚悟はとっくの昔にすんでいる。

 俺の目を見てその覚悟を察したのだろう。イリアスはため息をつくと、

「これから私のすることで、あなたの存在そのものが消えるわよ」

 なんてぶっきら棒に言って来た。

「そっか」

「……あなたの頭の中には封印の力が在る」

 イリアスは昔言っていた。俺の頭の中に封印があると。

 そしてヴァイダも言っていた。俺がこの世界に来るために、神様が何かをしたのだと。

「それが貴方の存在をこの世界に繋ぎとめている。それを使えば、魔王様の封印は戻るけれど……」

「俺はこの世界に存在することが出来なくなる、か」

 多分、俺が地球に帰るなんてものじゃあないだろう。

 他所の世界から飛び出してしまった俺を、神様がこの世界に入れてくれたのだ。

 例えるなら、接着剤で板に棒をくっつける感じだろうか。接着剤が封印の力で板がこの世界。そして棒が俺。

 その接着剤を使って虹の魔石に出来た裂け目を塞ぐのだが、接着剤を失った俺は板から剥がれ落ちてしまう。元の位置に戻されるわけがない。

 世界と世界の狭間。イリアスが言う、可能性の霧の中でずっと漂い続けるのだろう。

「……だめ」

 アウロラが息も絶え絶えになりながら、必死に手を伸ばしてくる。

 俺はその手を掴むと――。

「アウロラ、好きだよ」

 こんな風に俺から行ったのは初めてじゃないだろうか。

 俺たちは会ってまだ一カ月しか経っていないはずなのに、ずっと一緒に生きて来た存在のように錯覚してしまうほど、濃密な時間を過ごして来た。

 そんな俺たちが、互いを自らの命よりも大切に想う事は、必然だったのかもしれない。

 俺はアウロラの額に乗せられた腕輪を落とさないよう、彼女の体を押さえながら――。

「大好きだ」

 彼女の唇に、俺の唇を押し付けた。

 初めて口づけを交わした時とは違って、胸が高鳴ったりはしない。不思議と鼓動が静まり、ただ、この娘の事が大切なんだと、それだけで頭の中がいっぱいだった。

 顔を離すと、涙でぐしゃぐしゃになったアウロラが目に入る。

「……やだ……やだ」

 俺はイリアスに準備を頼みながら、スマホを操作して指紋認証を解除する。そして、アウロラの手を取ると、彼女の親指を登録しておく。

 これでこのスマホはアウロラしか起動できなくなった。

 これから先、アウロラが上手く使ってくれるだろう。

 それから――。

「ヴァイダさん。俺、ヴァイダさんの事も好きです。すっごく愉快な人で、毎日が楽しかったです」

「…………」

 あれほど騒がしかった彼女が、全く言葉を返してくれなかった。

 でも、構わない。それこそが一番の返事なのだ。

「それからゼアルにも、好きだぞって。お前すっげー可愛いくって魅力的な女の子だなって言っといてください」

 さよならは、言わないでおこう。

 勝手かもしれないけど、言いたくないから。

 大好きなみんなに、俺の事を覚えておいてほしかったから。

「じゃあ……頼む、イリアス。やってくれ」

 って、なんで仏頂面してんだ?

「私には無いの?」

「……お前は面白い奴だと思う。ってかいいやつだと思ってるから、アウロラ達とは争わないで居て欲しいな」

「……それだけ?」

 何を求められてるんだ……? 全然分からん。

「……結構お前の事は気にいってるぞ?」

 探る様にそう口にしたのだが、イリアスの唇が更にとんがってしまった。

 これじゃあなかったのか……。

「ふんっ、いいわよ。ほらやるから出来る限り頭を近づけて」

 俺は言われるままに、アウロラと額をぶつけそうなほど顔を寄せる。

 間近で見るアウロラの瞳は、真珠のような涙の粒で飾り付けられていて、こんな状況だというのに見惚れるほど綺麗だった。

 こんなものを最期に見られたのだから、俺の人生は悪いものじゃなかったはずだ。

「ねえ、ナオヤさん」

「ん?」

 ずっと、イリアスの手が俺の後頭部に差し込まれ、そのまま貫通してアウロラの額に張り付いている魔石を掴む。

「もし私が裏切ってナオヤさんにこれを植え付けたらどうするの?」

「それは……」

 彼女が裏切るなんて事は、思いつきもしなかったな。

 そんな沈黙を返答だと取ったのか、イリアスは何度目かのため息を吐いて、

「そんなあなたの事。私は――」

 最後までその言葉を聞くことは出来なかった。

 イリアスの手が引き戻され、魔石が俺の額を通り抜けて頭の中に在る何かを奪っていく感覚を最期に――。

 俺という存在は、この世界から消滅した。
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