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chapter,1
01. はじまりは一枚の絵
しおりを挟む五月の第三月曜日は朝から雨が降っている。週間予報ではしばらくぐずついた天気が続くとの見解が出されていた。今年は例年よりも梅雨入りするのが早いかもしれない。ジメジメ蒸し暑くなるのはイヤだなと、街路樹の新緑を潤す雨粒がキラキラとアスファルトを弾く姿を窓の向こうから更紗は見下ろす。
昨夜はおおきな月の自己主張が激しかったがこの様子だと今夜は顔を出しそうにない。もうすぐ満月なのに残念である。
ここは都内某所にある画廊”キィ・フォレスト”。明治時代後期に活躍した画家、森金連城が生前に遺した日本画を展示、販売している都内随一の画廊で、提携先である複数の私設美術館と作品展示の契約を行っている。雑居ビルの一階と地下に画廊があり、社長の趣味で蒐集された鉱物や工芸品が並ぶ二階と三階が美術商のオフィスとして稼働している。
なにかと特殊な業界だが、更紗は大学卒業後、美術商としても名高い株式会社森鍵に就職し、美術工芸品分野の学芸員兼総合事務員としてまもなく三年目を迎えようとしていた。
午前十一時、画廊“キィ・フォレスト”の開館準備が整う。憂鬱な雨雲は途切れたのか、雲間から薄日が顔を出している。床に差し込む柔らかな陽光が、一時的に磨き上げた大理石の床を淡く照らしていた。
カウンターの前でパソコンを開き、展示物の整理を始めた更紗は昨日の夜のことを思い出す。
闇に紛れて鉱石を取り戻したあの緊張は、夢の中の出来事のようだ。旧鍵小野宮が所持していた帯留めに配されたあの翡翠に似た孔雀石はいま、もとある場所に封印されている。あとひとつ、ふだんは表に出ることのない”虹”の鉱石がある。あれを揃えるまでは、怪盗稼業をやめられない。
――いまはまだ騒がれていないが、そろそろしびれを切らした警察が動き出しかねない。その前にどうにかして取り戻さなくては。
ひとしきりパソコンでの作業を終えた更紗は白手袋をはめ、展示ケースの内側を静かに拭いながら、壁に飾られているひとつの絵画の前で足を止める。
”夜桜”と題されたその日本画に描かれているのは夜の水面に映る淡い桜の花々だ。薄紅色の花を優しく包み込むように揺れる水面は夜空を彷彿させる。これらはすべて天然岩絵の具で描かれたものだ。
かつて光を虜にしたと言われている森金連城。彼は明治期の画家にして、鉱石研究者でもあった。
絵具に自ら砕いた鉱物を混ぜたその画風は光を閉じ込めたような艶を放ち、百年以上を経た今も色褪せることがない。
「この、蒼というか藍の色彩……コバルトやラピスにも見えるけれど、これも“連城鉱石”でできた顔料なのよね」
更紗は誰に言うでもなく呟く。彼が扱っていた鉱石コレクションのなかには”連城鉱石”と呼ばれる稀有なものが残されていた。だが、震災や戦争のいざこざによって多くが紛失し、行方をくらませている。呪いの鉱石などと囁かれた稀少な鉱石は戦後、とあるコレクターの手によってまとめられていた。それが株式会社森鍵の創業者で先代社長、森鍵錠之助――更紗の母の義理の兄、つまり伯父である。
彼が生きている間は何事もなかったが、二代目となる森鍵新蔵が就いてから、”連城鉱石”に関するきな臭い動きが再びみられるようになっていた。
――貴重な天然岩絵の具のなかでも最上級の価値を持つのが”連城鉱石”。そう簡単に外に持ち出すこともましてや勝手に売買に流すことも許されない。
古びた絵の具の粒子の中で、微かに光が揺らめき乱反射する。
それは彼女だけが見分けられる、特別な光だ。
「鑑賞したものは心を奪われ惑わされる、ね……」
だとしたら毎日鑑賞している自分はどれだけ惑わされているのだろう。自嘲の笑みを浮かべる更紗は展示室の奥から響いた同僚の声に顔を向ける。
「霧島さん、例の契約書、森鍵本社にまわしておきました!」
「あ、ありがとうございます。午後からKUJOのセキュリティ担当が来るから、資料の確認をお願いします」
「今日は直々に取締役がいらっしゃるんでしたっけ」
「そうみたい。メインの展示会が近いからね。御曹司の相手なんて気が気じゃないわ」
はぁ、と更紗はため息をつく。
株式会社KUJO。社名である九条と苦情を掛け合わせた『KUJOは受け付けない』というキャッチコピーで打ち出したインパクトあるCMが有名な、業界では最大規模を誇る国内屈指のセキュリティ企業である。
美術商として成り上がった森鍵との付き合いも長い。なかでも毎年夏に開催される提携私設美術館四館と共催の”森金の子どもたち”展で特別契約を結んでいる。そのこともあって取締役の九条黎が直々に現場確認に来るというのだ。
昨夜の私設美術館の常設展示の警備を担っていたのもKUJOである。警察とも手を組んでいるはずだが、雇い主の森鍵が何も言わないからか、怪盗キャリコのことは現時点では有耶無耶になっているようだ。だが、この夏メインとなる複数館同時開催の展示会となると、そうもいかなくなるはずだ。
九条黎――その名前を聞くだけで、胸の奥が微かに疼くのはなぜだろう……会うのは初めてのはずなのに。
ケースの中で帯留めのような小さな宝石が静かに輝いている。
それは”森金連城の愛した鉱石”として展示されていたが、更紗は知っている――ここにあるのは偽物の”連城鉱石”だ。
そしてかつて画家が生涯かけて集めた“封印された石”は別の場所に封じられている、はずだった。
――九条……旧鍵小野宮家の守護者一族ふぜいが、いまじゃ財閥気どりでセキュリティ会社の最大手か。主の没落を防げもしなかったくせに。
だからこそ、夜になると――彼女は仮面をつけ、別の名前で動くようになったのだ。
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