極上御曹司は仮面の怪盗令嬢の素顔を暴きたい

ささゆき細雪

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chapter,1

02. 雨の午後、光のなかで

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 雨の匂いがする。ちらりと顔をのぞかせた昼前の晴れ間はつかの間のものだったらしい。陽光はすでに雨雲に遮られしまった。暗雲立ち込める空模様はどこか不吉な気配すら感じられる。
 憂鬱な気分でガラス越しに降りしきる雨粒を眺めながら、更紗は展示室の照度を微調整していた。
 絵にとって光は友であり、敵でもある。ほんの数ルクスの違いで、色彩の印象がまるで変わってしまうから。

 ――まるで、人の心みたいに。

 その男が現れたのは、来客の予定時刻より十五分ほど早かった。道が狭いので駅前のパーキングに車を停めてここまで歩いてきたらしい。なんとも律儀なことだ。
 扉の前に立った瞬間、凛とした空気に気圧されそうになる。上質な黒のスーツに、渋みのある灰銀のネクタイ。
 無駄のない所作で名刺を差し出した男は、その名よりも、沈黙に力を宿すような気配をまとっていた。

「株式会社KUJO、セキュリティ統括部取締役の九条黎です」

 さほど大きいわけでもないのに、低い透き通った声がよく響く。
 それだけで、画廊内の静謐な空気が鋭利な刃物のように澄み渡った。

「霧島更紗と申します。このたびはご足労ありがとうございます」

 更紗は慣れた笑顔を浮かべ、軽く会釈する。けれど、男の目を見た瞬間に呼吸が止まる。
 気のせいだろう……昨晩、仮面の向こうで対峙してきた“あの目”に似ているのは。
 更紗は一瞬、脳裡に浮かんだ懸念に囚われてしまったが、彼は彼女の反応など気にすることなく淡々と作業についての説明をはじめていた。

「ということですので……展示物の配置とセンサー位置を確認させていただけますか」
「あ、はい。もちろんです。こちらへどうぞ」

 ハッと我に返って更紗は九条を奥へ案内する。
 歩き出すと、彼の足音は床に吸い込まれるように静かだった。
 観覧エリアを抜け、特設展示室へ向かう途中、更紗は一枚の絵の前で足を止める。森金連城の代表作で、非売品の”夜桜”だ。

「この作品だけ、照明角度を変えてあります。鉱物の反射が強すぎるので、監視カメラに干渉してしまうんです」
「……興味深いですね」

 九条が一歩近づき、わずかに身を傾けた。ライトの反射が彼の瞳に淡くきらめき、まるで絵の中の光を宿したように見える。

「霧島さん……こちらの照明はすべてあなたが調整を担当されているのですか?」
「ええ。絵によって最適な照度が違うので」
「素晴らしいですね。光の扱いを理解している人は、案外少ない」

 九条の言葉の選び方は丁寧で、どこか詩的だった。美術への造形を感じさせるその姿に、更紗は既視感を抱く。
 彼――ただの技術者ではない。九条一族の御曹司とのことだから、自分と同じ立場の者なのかもしれない。
 そんなことを更紗に疑われているとはつゆとも知れず、九条は展示室をゆっくり歩きながら並んだキャンバスを見つめている。
 その横顔には、理論では測れない“なにか”がある。すべてを見通しているような――あの漆黒の瞳。

「……不思議ですね」

 九条が首を傾げながら立ち止まる。それは”素赤”というタイトルがつけられたちいさな日本画。森金連城が好き好んで描いた複数ある金魚の絵のなかのひとつだ。
 真っ赤な金魚が雨のなかを優雅に泳ぐ姿を捉えた構図は幻想的で、日本国内だけでなく海外からの評価も高い。画廊に飾られているものはすべて本物で手に入れようとするとかなりのお値段がするが、近隣の美術館では彼の絵をもとにしたポストカードや複製原画も売られている。
 不思議なことに連作”金魚”の絵には”連城鉱石”が使用されていない。そのため希少価値の点では劣るが、絵そのものの美しさから森金連城の作品としての認知度が高い。

「この”金魚”、雨の光に映えるように描かれている。けれど本当のテーマは“影”でしょうね」
「どうしてそう思うんですか?」
「理由なんてないですよ。光が、影を求めているように見えるんです」

 ”素赤”とは金魚の品種のひとつである。それも”琉金”のなかの赤一色の魚だけに使われている。紅白だと”更紗”、三色だと”キャリコ”……さすがに品種名まで網羅はしていないだろうが、心臓に悪い――更紗は自分のことを指摘されたわけでもないのにうろたえる。
 怪盗としての彼女なら、もっと上手く隠せたはずだ。森金連城が鉱物同様に金魚を愛したことは有名だし、品種名になっている更紗はよくある布のこと、三毛猫にもキャリコという名の品種がある。金魚ひとつですべて暴かれるほど物事は単純ではないのだ。
 けれど、彼があえて琉金の絵を”金魚”と口にしているように見えたから、更紗は悟ったのだ。やはり彼は同じものを、同じ角度で見てしまう人だ、と。
 更紗が彼に警戒心を抱く隣で、彼は無邪気に口を開く。

「鉱石の構成をご存じですか?」
「詳しくは。ただ、光を閉じ込めるための“特殊な層”があると聞いています」
「閉じ込める、ですか」

 黎はその言葉を繰り返し、小さく笑った。その微笑に、なぜか胸の奥が熱くなる。
 封印、秘密、そして――燻っていた疑惑。やっぱり。昨晩盗みの場にいた”彼”だ。

「……霧島さん。あなたは、この”金魚”の絵を好きですか?」
「え?」

 不意を突かれて更紗は瞬きをする。

「仕事柄、価値を測ることはあっても、“好き”を口にするのは難しいです」
「それでも、好きなものには気配が宿るものです」

 更紗を見つめる九条の視線はまっすぐだった。すべてを見抜いてしまいそうなほどに。

「守るべきものほど、美しく脆い……人間の手で交配を繰り返された後に生まれた金魚みたいに、ね」

 そう呟くと、彼は再び歩き出す。
 その背中を見送りながら、更紗は息を潜める――その”金魚”がすぐ傍にいることに彼は気づいているのだろうか。気づいていて、あえて泳がせているのだろうか。
 彼の意図はわからないが、夏が来れば自分は再び仮面をつけることになる。その夜を思い描きながら、更紗はかすかに身震いするのであった。
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