幸せの温度

本郷アキ

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幸せの温度

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プロローグ
 自分のことを不幸だと思ったことはない。
 だって、親がいない子どもなんてたくさんいる。事故や災害で両親共に亡くなってしまった孤児もいれば、生きてはいても愛情を与えてもらえない子どももいる。
 広い家に住んで、学校にも行けて、大切な弟も離れることなく一緒に暮らしている──だから、ずっと一緒に居たいなんて思いは、邪魔になるだけだ。
 二十八歳という若さで黒岩睦月《くろいわむつき》の両親は天国の門を叩くことになったけれど、その後に得た大きな幸せもあった。
 その頃まだ十二歳であった睦月は漠然と〝死〟を理解できていたし、悲しみを感じてはいたが、自分たちの今後を憂う気持ちの方が大きかった。誰も引き取り手のいない子どもは一体どうなってしまうのだろうかと。
 どこか自分のことでないようなそんな感覚。
 だから、そんなに長く続かない幸せだとは分かっていても、毎日一緒に居ることの出来る日々が愛おしい。
 家族になりたい、そう言ってくれた男を裏切るようなこの気持ちは、絶対に知られてはならない。
 大好きな人と、一緒に居られる時間はあと僅か──迷惑は掛けないから、あなたを想って泣くことぐらい許してください。


 やたらと、黒と白のシマシマ模様ばかりが目に入る。あとはたくさんの、黒、黒、黒。行き交う人は多いのに、みんな黒い服ばかり。
 睦月は陰鬱な雰囲気に包まれている式場からそっと抜け出すと、バスが何台か停まる駐車場の一画でホッと息をついた。
 キョロキョロと辺りを見回すが、運転手がバスの運転席で眠っている以外は誰もいない。
 今日が最後のお別れだと言われたけれど、あまりの突然の出来事に頭がついていかない。
 知り合いでもない人からたくさん声を掛けられて、正直息が詰まっていた。大変だったわねとか、これからどうするのとか、そんなのこっちが聞きたいぐらいなのに。
 ちゃんとしないと、しっかりしないと。
 弟を守れるのは、自分だけなのだから。
「大丈夫だよ……お兄ちゃんがずっと一緒にいるから……」
 睦月は真っ白いおくるみに包まれた産まれて間もない小さな弟──葉月《はづき》の身体を、ギュッと抱きしめた。
 どうして、こんなに小さい弟を残して死んでしまったの。どうして自分を残して死んでしまったの。これから、どうすればいいの。
 何もわからない……けれど。
「俺が……しっかりしないと」
 両親が死んだことなど全くわかっていないこの無垢な存在を、どうにか自分の手で守らなければならないんだから。
 悲しんでいる暇なんてない。
 もう二人きりの家族になってしまった。
 普通に朝ご飯を食べて、忘れ物はないのって問いに「大丈夫だよ、行ってきます」って答えた。それが母との最後の会話。
 睦月は腕の中でスヤスヤ眠る葉月をギュッと抱き締めると、大丈夫、大丈夫と繰り返す。
「泣いちゃ、ダメだ」
 両親を思い出したら涙が出そうになる。潤み始める目元をグッと手で拭い、別のことを考える。考えなければならないことなんて一つしかない。これから、自分たちは児童養護施設に行くことになるんだろう、と。現実的な問題を考えていれば、泣いている暇なんてない。
 葉月を抱き締めて、小さな身体に顔を寄せる。
 大丈夫、涙は引っ込んだ。と前を向いていると、背後から声が掛けられた。
「こら、子どもがそんな大人びた顔すんな」
 どこか懐かしいような、低くよく通る、それでいて素っ気ない中に優しさを感じる声だった。
 振り向きざまに現れた手に、クシャクシャと髪を撫で回される。知らない人には着いていかない、なんて親には口酸っぱく言われていたけれど、どうしてだが髪を撫でるその手を振り払えなかった。
 誰だろうと見上げると、まるで周りから浮き出たかのように、夕刻の落ちていく太陽の光を浴びてキラキラと輝く髪色が睦月の目に飛び込んできた。真っ黒くて直毛の自分とは大違い、金色の日本人とは思えない艶やかな髪色が美しく、とても綺麗だ。それに、ビー玉みたいに透き通った琥珀色の瞳から目が離せない。
 ネクタイは黒かったけれど、上着は着ておらず白の清潔そうなシャツ姿に睦月はホッと息を吐いた。大人たちの醸し出す黒くて暗い雰囲気に、心が折れてしまいそうだったのだ。
「お兄ちゃん、誰?」
「その赤ん坊、まだ小せえなあ。生まれたばっかか……那月《なつき》も健吾《けんご》も天国で悔しがってんだろうな」
 睦月の問いには答えずに、男は葉月の頭を優しく撫でる。額を掠めた手のひらは、少しだけ冷たくて気持ちよかった。
「お母さんとお父さんのこと、知ってるの?」
 だいぶ見上げなければならない大きな身体をした男は、少しだけ寂しそうに笑い睦月に向けて頷いた。睦月の顔ほどもある大きな手が伸びてきて、身体が包まれる。
「お前のお父さんとお母さんは、大事な友達だ。でも、大人になると悲しい時もあまり泣けなくなるから……お前が俺の代わりに泣いてくれないか?」
「で、も……ボク、は……お兄ちゃんだから……」
「寂しい気持ちはちゃんと外に出して空っぽにしないと、嬉しい気持ちや幸せな気持ちが入る隙間がなくなっちまう。だからちゃんと全部出しておけよ」
 嬉しい気持ちや幸せな気持ちなど、今の自分にはまるで縁のない感情に思えた。でも、本当は誰かに助けて欲しかったのかもしれない。しっかりしないと、頑張らないとと考えても、どうすればいいのか答えは出ない。
 だからなのか、睦月にとって、男の言葉は少なからず心を温かくするものであったのだ。
「あのね……泣いたこと……誰にも言わないでくれますか?」
 抱き締められた腕の中で俯いていたが、シャツを濡らしている涙に男は気付いていただろう。身体をグッと引き寄せられて、睦月の顔を隠してくれた。
「ああ、約束な」
真っ白く汚れ一つないシャツの中ですぅっと息を吸い込むと、太陽みたいなその人はやっぱり洗い立ての洗濯物みたいに花の香りがして、ポカポカと温かかった。
 懐かしいような香りに、忘れようとしていた寂しさや孤独に襲われる。
 もう父も母もいないことはわかっている。しかし、匂いを嗅いだ瞬間、母の洗ってくれたシャツの匂いは、もう二度と嗅ぐことはないのだと改めて気付かされてしまった。
 何も言わずに背中を優しくポンポンと叩かれると、次から次へと涙が止まらなくなった。
「お、とっ……さん、か……さんっ……やだ、よぉ……」
 微かな寝息を立てて眠る葉月の頬に、睦月の涙がポタリポタリと落ちていく。
 これからは自分がしっかりしなきゃならないのに、頑張らないといけないのに。
 泣いてる場合じゃ、ないのに──。
 そう思うのに涙は止まらなかった。何分過ぎたのか、男は泣き続ける睦月に何も言わずただ抱き締め続けてくれた。
 わんわんと泣いて、瞼が真っ赤に腫れてピリピリと痛くなってきた頃、男が言った。
「俺の家族になるか?」
 ヒックヒックと止まらないしゃっくりにクスリと笑いを溢されて、カァッと頬が赤くなる。この人は誰だろうと思う前に、答えは決まっていた。
 睦月の答えに、はにかんだような微笑みを返される。
 それは、忘れることなどできない、目を見張るほどの綺麗なキラキラ。


「ほら、葉月! 早く起きないと保育園遅れるよ! 兄ちゃん鞄の準備しておくから、お着替えしちゃいなさい」
 葉月の部屋のカーテンを開け、部屋に朝日の光を入れる。遮光カーテンは寝る時に便利だとは思うが、朝になった感覚がないのか葉月がいつまで経っても起きてこないので困りものだ。特に、この時期──冬の朝は六時でもまだ暗いため、睦月も起きるのに苦労する。
「ん~兄ちゃん、おはよ……」
 ムニャムニャと再び夢の世界に落ちそうな葉月の身体をベッドから起こして、用意してあった着替えを手渡す。着替えもまだ後ろ前になったり、裏表逆だったりとあるが、一人で出来ることは一人でが睦月の子育てにおいてのモットーだ。
 ふわっと小さな手であくびをする口を押さえる、そんな葉月の仕草は睦月と瓜二つだ。まるで幼い頃の自分の姿を見ているようだと、鏡に映る自分の顔をチラリと見た。
 サラサラと癖のない真っ黒の髪に、色白の肌、大きな目を縁取る睫毛は女の子に見間違えるほどに長い。さすがに高校に上がってからは黒い学ランのお陰で周囲に男子と認識されているようだが、ほんのりと赤みが指している唇も要因の一つだと自分では思っている。
 高校二年生になっても、睦月の身長は百六十八センチと決して大きいとは言えない。顔は父似だと言われるが、線の細さや身長は母に似たと思われる自分たちの成長曲線は、百七十手前で止まることが読めていた。
 亡き父はまあまあ大きい方だった気がするが、あの人ほどではなかったと記憶している。まあ、もうムキムキマッチョになりたいとは思わないし、まだ五歳の葉月には取り敢えず希望を持って欲しいものだが。
「兄ちゃん、あさごはんなあに?」
 洋服を両手いっぱいに抱えて、葉月が着替えを始めた。
 ついこの間まで睦月と葉月の寝室は同じだった。葉月の部屋のベッドで二人で寝ていた。葉月が一人で寝られるようになったのは最近のことだ。
 しかし、睦月が葉月の生活に合わせるのは辛いだろうと、この家で暮らし始めた時から睦月にも自室を与えられていた。
 孤児である自分たちには贅沢な、駅近高層マンションの二十階、5LDKのこの部屋の契約主に。
 睦月は床暖房の効いた部屋の中央でオタオタと着替える葉月を横目に、保育園の鞄の中に、コップやタオル、歯ブラシを入れていく。連絡帳に書くことは特にない。今日持っていかなければならない物もない、と保育園から配られたプリントに目を通しながら支度を終えた。
「今日の朝ご飯は、葉月の好きなフレンチトーストと、緑のお野菜さんたちです」
「みどりのお野菜さんたち~たべないとないちゃう?」
「そう、食べないと泣いちゃうよ。ほら、手と顔を洗っておいで」
「はあい」
 廊下を出て、パタパタと洗面所へ走る後ろ姿を見送って、睦月の部屋を挟んで右側にあるドアに視線を送る。
「昨日も仕事遅かったのかな……」
 扉の前に立ち、シンと静まり返った部屋のドアをそっと二、三度ノックする。
 扉に耳を当ててみるも、中からは何の物音も聞こえない。キッチンに掛けられたカレンダーには、今日担当と打ち合わせとあった。ならばそろそろ起こした方がいいだろう、と睦月はもう一度だけノックをし鍵のかかっていない部屋に足を踏み入れた。
「陽《よう》さん?」
 このお高い分譲マンションの持ち主である、浅黄《あさぎ》陽を起こす意志を持って呼んだ。
 十畳ある寝室には百八十以上ある陽の身長に合わせたキングサイズベッドとデスク、それに本棚が置いてあり、ベッドはこんもりと盛り上がったまま、微かに上下しているのがわかる。
 睦月はベッドに近寄ると、頭までかぶった羽布団を肩まで剥がし身体を揺すった。
「陽さん、今日編集さんと打ち合わせじゃないんですか? 朝ご飯出来てるんで食べましょ?」
 毎日遅くまで仕事をしているのを知っているだけに、寝かしてあげたいのは山々だが、打ち合わせに遅れてはまずいだろう。
「ん……む、つき?」
 寝返りを打った陽の顔がこちらを向いた。
(寝てても美形とか……っ)
 睦月は見惚れそうになる自分を戒めて、キュッと唇を噛んだ。
 遮光カーテンの隙間から微かに入る太陽光で、陽の髪はキラキラと輝いている。低く一見怒っているようにも聞こえる不機嫌そうで平坦な声色は、慣れればなんてことはない。話し方に抑揚があまりないだけで、声を立てて笑うことだってあるのだ。
 十二歳から一緒に暮らしているが、そういえば陽が怒ったところなど見たことがない。決して甘いというわけではないし、悪いことは悪いと諭すことはあれど、声を荒げたり叩かれたりしたことはなかった。
「昨日遅かったなら、あと三十分くらい寝かしてあげたいですけど、俺学校行っちゃうから、そしたら陽さん起きないでしょ?」
 そう、これから葉月を保育園に送りがてら、睦月は高校へ向かわなければならない。時刻はすでに七時を過ぎている。朝食は作りながらすでに食べ終わっているにしても、洗濯物を干していたら多分ギリギリだ。
「お前……よくわかってんな」
 陽はのっそりと大きな身体を起こし、首を二、三度鳴らしベッドを降りた。
「そりゃ、何年一緒にいると思ってるんですか……じゃあ俺洗濯物干してくるんで、朝食どうぞ」
「サンキュ」
 金色の髪をかきあげる仕草に再びうっとりと見惚れてしまい、慌てて目を逸らす。浅黄陽という男はどこからどう見ても〝イイ男〟だった。
 十二歳の自分もきっと何となくはわかっていたのだろう。しょっちゅう陽の髪に触っては「綺麗ですね」と喜んでいた覚えがあるのだから。
 髪色だけではなく、スッと通った切れ長の目元に高く整った鼻梁、ゴツゴツしているわけではないが、シャープな顎は朝になると薄っすら髭が生えている。小説家という家に引きこもっていることが多い仕事の割には、引き締まった身体つきも相まって、ふとした時に感じる野性味に睦月はいちいちドキドキしてしまうのだ。
(もう、髭とか……ほんと羨ましい)
 己の顎に手を当ててフッと小さなため息をつく。無い物ねだりは好きじゃない。けれど、どうしたって格好いいより可愛いと評される自分の顔、それにヒョロヒョロの自分と、マッチョというわけではなくともほどほどに筋肉のついた身体を比べてしまう。
 ああいう風になれたらな、と思うより、ただただ格好いいなと、まるで芸能人への憧れのような気持ちだ。
「あ、やば……洗濯物干さなきゃ」
 時間を確認して、パタパタと廊下を走る。ダイニングからは葉月のいただきますという声が聞こえて来た。
 衣類を中に入れたまま止まっている洗濯物を取り出して、皺が寄らないように一枚ずつ振っていく。本来このマンションでは洗濯物を外干しすることは禁じられているが、サンルームが備え付けられていて不自由は感じない。広々とした十畳のスペースはガラスが天井まで一面に嵌め込まれていて、洗濯物落下防止なのか窓は薄くしか開けられないが換気には十分だ。休みの日には布団も干せる。睦月はハンガーに一枚ずつ衣類をかけながら、ダイニングで食事をする陽と葉月に視線を送った。
(幸せ、だなぁ……)
 親のいない自分たちが、血の繋がりもない陽と一緒に暮らし始めて五年になる 。 新生児である葉月の世話は言葉で語る以上に大変だった。夜も眠れず休める時間がとにかくなかった。ちょうど中学一年生に上がる歳であった睦月も、環境の変化になかなか馴染めなかったりしていたから、多分大変だったのは自分よりも陽だろう。
 そもそも、母那月と父健吾の葬儀に来ていた陽は、二人の中学、高校の同級生に過ぎない。親友という関係であったと古いアルバムで説明を受けたけれど、陽が睦月と葉月を引き取る義務は全くないし、むしろ引き取ることに違和感を覚えた周囲との軋轢に、大変な苦労があったことは想像に難くない。
 それでも今、住む場所も与えてもらい、食事にも困らず、学校に通わせてもらっている。
 この幸せが長く続くはずのないことは、睦月にだってよくわかっている。
 孤児である睦月と葉月を引き取ってくれた人であるけれど、ただの他人。
 ずっとこのままでいられるわけがないけれど、少しでも長く陽と葉月と共に暮らせないかと切に願ってしまうのだ。
 進んで家事をするのは、出て行けと言われるのが怖いから。
 役に立つように努力するから、せめて高校を卒業するまでは一緒にいさせて欲しい。
 いつの間にか、陽の役立てるようにとそればかりを考えるようになった。そうしたら、少しでも一緒にいられるんじゃないかと。
 我ながらネガティブな思考だ。そんなことを考えながらも手だけは動かし続け、洗濯物を干し終わり食器を洗うべくキッチンに向かうと、陽が二人分の食器を洗い終えたところだった。隣に立つ葉月が嬉しそうに陽から受け取った食器を丁寧に拭いていく。
「あ、すみません」
「ん? 気にすんな……別に何もかもをしなくったっていいさ。ほら、時間ヤバいだろ、葉月も兄ちゃんの手伝いしたいもんな?」
「うん! 兄ちゃん、いつも忙しそうだから、ボク手伝いがんばる」
「偉いな、頑張れ」
 ポンポンと大きな手が葉月の頭を撫でる。いいな、なんて羨ましそうに見つめてしまい、気付いた陽に笑われる。
「お前はこっちな」
 チュッと額に柔らかいものが当たる。カァッと頬が熱くなり、口元が緩む。元々撫でたり抱きしめたりとスキンシップの激しい人であったが、それに喜んでしまう自分も自分だ。わざとらしく唇を尖らせて恥ずかしさを何とか散らす。
「い、行ってきます! 葉月、ほら行くよ!」
「はぁい、じゃあ陽ちゃん行ってくるね~おしごとがんばってね」
「はいはい、行って来い」
 玄関脇にあるコートクロークから茶色のダッフルコートを取り出して着込んだ。その上からマフラーをグルグルに巻くと、少しは体格もよく見えそうなものだが、鏡に映るのはどこまでも細っそりとした中性的な自分の姿だ。
 コートクロークの反対側にあるシューズクロークから、常用しているスニーカーを出して玄関に置く。準備を済ませて葉月を見れば、覚束ない手つきで上着を羽織っている。
「自分で出来る?」
「ん……だいじょうぶ」
 一つずつボタンを留めてリビングにもう一度行ってきますと声をかけて玄関のドアを開ける。不用心な家主のために、しっかりと外側から鍵をかけて葉月と手を繋いだ。
「兄ちゃん、がっこうだいじょうぶ?」
 最近時計の読み方の練習も始めた葉月は、いつもよりも家を出る時間が遅いと気付いたのだろう。睦月はキュッと温かい手を握ると、平気だよと笑顔を見せた。
(ほんとは、遅刻ギリギリだけど)
 大人の足ならばきっと余裕で間に合うだろうが、葉月を急がせるわけにはいかない。葉月に合わせたゆっくりとした足取りで、駅を越えて反対側にある保育園へと向かった。
「葉月くん~おはよう。じゃあお預かりしますね~はい、お兄ちゃんに行ってらっしゃいしましょう」
「兄ちゃん、いってらっしゃい~」
「はい、行ってきます」
 毎日のお馴染みの挨拶を済ませ、保育園の門を出る。周りを見れば、つい十秒前までは子どもを預けるため笑顔で行ってきますと言っていた母親たちが、必死の形相で車や自転車に乗り込んでいる様子だ。
 ついそんな光景にクスリと笑いが溢れる。みんな一緒だ。
「あ、やばっ……俺も急がなきゃ!」
 人の流れに乗るように、睦月も駅までの道のりを走り抜けた。

 マンションから二駅ほど離れた、時間にして十分ほどの場所にある市立桜坂高校はその名の通り、駅から繋がる遊歩道がゆったりとした坂道になっていて、その脇には桜の木が植えてある。
 春には桜の花びらがハラリハラリと舞い上がる美しい景色を見ることが出来るが、冬の時期も、周りの景色を遮るような樹木の枝が連なる姿は壮観だ。
 しかし睦月が景色を楽しむ余裕はないに等しい。保育園から駅まで走り
電車に乗っている間に息を整えると、十分後に再び高校までの道のりをひたすら走る。そんな毎日を過ごしている。
 その光景は見慣れたものだが、閉まりかけた門の隙間を潜るように睦月はもつれそうになる足を前に出す。
「……っ、はぁ……しんど……っ」
 息が切れる。まだ十七の自分は体力ある方だと思うが、それにしたって駅から全力疾走はキツいものがあった。後ろで、鉄製の門がガシャンと閉められる音がする。毎日門に立つ教師も、常連の睦月にやれやれといった様子だ。
 しっとりと汗に濡れた額を手で拭い、息を整えながら教室までを歩いていると、後ろから肩を叩かれた。
「よっ、遅刻常習者……今日もお疲れさん」
「荒地《あらち》……おはよ」
 ニカッと白い歯を見せて笑う同い年の荒地大輝《あらちだいき》とは、中学高校と同じ学校、同じクラスという何の因果か割と濃い付き合いだ。
 初めてその姿を見た時には、若干の恐怖を覚えたほど体躯のいい男で、バスケ部に在籍していると知った時には、きっと諸手を挙げて歓迎されただろうなと感想を抱いたほどだ。見上げる角度が家にいる時と同じであるから、百八十を超える長身の陽と殆ど変わらない身長なのだろう。
「ほら、急がねえとチャイム鳴るぞ」
 そう、時間内に校門を潜れたことに安堵してはならない。それから、予鈴がなるまでに教室に入っていなければ遅刻扱いだ。この辺りで言うところの進学校である桜坂は、ルール違反をする者には案外厳しい。
 グイッと荒地に手を引かれ、下駄箱から教室までをひたすら走る。荒地と仲良くなったきっかけも、中学から遅刻常習者同士だったからという理由だ。毎日のように校門から教室までを競うように走るうちに、どちらからともなく近い存在になっていた。
 荒地と睦月が教室に入ると、殆どの生徒は着席していて、開いた扉の音に注目を集める。が、またかという視線を送られるだけで終わった。
「お前、相変わらず体力なさ過ぎ」
「はっ……はぁ……体力バカの荒地に、言われたくな……っ」
 全く呼吸の乱れのない荒地を恨めしく思いながらも、教室に着いたと同時に予鈴が鳴った。本鈴がなる前、息を整える間も無く、教師が教室へと入ってくる。慌てて席に座り、ジロッと射抜くような担任教師の視線は痛かったが、それももう慣れたものだ。

「ほんと、君たち仲良過ぎだろ……毎日毎日飽きずに、よく遅刻を繰り返すよなぁ~」
 ようやく一時限目の授業が終わった休み時間、隣の席に座る杉崎《すぎさき》に揶揄うような視線を向けられる。
 杉崎もまた荒地同様バスケ部に所属しているため、そう筋肉質ではないものの睦月よりかは腕や足は太い。背は同じぐらいで、睦月が見上げなくとも話せる数少ない友人だった。
 トイレにでも立っていたのか、荒地も自分が話題に登っていることに気付き、睦月の前の席へと腰を下ろし会話に加わった。
「うっせ、仲がいいわけじゃねえよな。ただの腐れ縁だ」
「え、俺荒地と仲良いと思ってたのに……酷い」
 唇を尖らせて拗ねた顔で荒地を睨めば、グッと言葉に詰まり顔を赤らめる姿がある。
「なんで照れてんの?」
 こういうところが憎めない、というか可愛いというか。悪ぶった口調をしていても、好意を示せば途端に照れるところに好感が持てる。
 確かに腐れ縁ではあるかもしれないが、睦月が友人だと思えるのはこの二人を置いて他にはいない。知り合いや上辺だけの話が出来る相手はいても、荒地と杉崎がいない学校はきっとつまらないだろう。
「しかしさ、荒地は自業自得だけど、睦月は事情話せば特例とかで認めてくれんじゃないの? 毎日保育園の送り迎えしてんでしょ? 家のこともやって、弟の面倒も見てって、普通の高校生の生活じゃないぞ、それ」
 睦月の事情を知る杉崎はそれなりに心配してくれていたのだ。荒地には、逆に遅刻常習犯を俺一人にするなと言われているが。
 二人は、陽とも顔を合わせたことがあり、睦月の事情にも詳しい。
「陽さんは別にやらなくていいって言ってくれてるんだけどね……売れっ子作家だし、迷惑かけたくない。それにちょっとでも、役に立ちたいって気持ちもあるしさ」
「相変わらず好きだね~睦月の陽さんラブは今に始まったことじゃないけどさ」
 こうしてしょっちゅう揶揄われているが、睦月の気持ちはそんな軽いものではない。あの人の役に立てるならと、そればかり考えてしまうぐらい深く大切な相手だ。
 そして、刻一刻と離れる時間は近付いてきているのだから、少しぐらい語らせて欲しい。
「ラブ、とかじゃないけどさ。だって、格好いいでしょ? 顔ももちろんすっごい綺麗なんだけど、それだけじゃなくてさ。そばにいると安心するっていうか、泣きたくなるぐらいあったかい気持ちになるっていうか」
「はいはい、惚気はいいです」
 もう聞き飽きたとでも言うように、両手をお手上げのポーズにし呆れ顔で頷く杉崎に聞いてるのと膨れっ面になる。聞いてる聞いてると、流し目で言われたのは言うまでもない。
「でも、中学の頃は家事は陽さんがやってたよな。弁当とかも作ってくれてただろ?」
 荒地とは中学からの付き合いだが、杉崎とは高校で知り合った。家事は睦月がすべてやってきたのだと思っていたのだろう、目を見開いて驚いている。
「マジかぁ、それまで一人暮らししてた男が、急に料理って大変そうだな。しかも弁当。うちの母親、中学の頃超文句言ってたし。でも血が繋がってないのに、そこまでしてくれるって睦月愛されてんなぁ」
 杉崎が感心したように言う。三人の中では弁当を作って持って来ているのは睦月だけで、二人は購買か朝登校前にコンビニに寄っていると聞く。昼食の時間には、大量のおにぎりやサンドイッチが机に並べられるが、月末になると小遣いがピンチだと言っては、家から手のひらよりも大きな握り潰した白米を持ってくるのもよく見る光景であり、日常だ。
 確かに一緒に暮らし始めた当初は、三食全て陽が作っていた。今思えばレシピをネットで検索しながら作るのも大変そうで、俺がやりますと徐々に睦月が家事を手伝うようになった。昔両親が共働きだったこともあり、家の仕事はある程度やらされていたこともあって、慣れるのは早かった。
「俺から見ても陽さんは溺愛だろ。まあ、でもその弁当が結構酷い出来でさ、なのに、こいつ味のない玉子焼きを超美味そうに食ってた。でも三年間作ってくれてたもんな」
 荒地に言われ、睦月は懐かしげに目を細めた。徐々に手伝うようになったと言っても、本格的に家事を始めたのは高校に入ってからだ。中学の頃、睦月に家事を全てやる余裕はなかったからだ。
 新生児の葉月の慣れない育児で、毎日ヘトヘトで、自分が頑張らないととそればかり考えていた。陽は何かを言いたげにしては、口を閉ざし睦月のやりたいようにさせてくれていて、だからこそ弁当を作ってくれていたのだと思う。
 今は、葉月も五歳になりだいぶ自分で出来ることも増えた。あまり我儘といった我儘も言わないため、手がかからない楽な子だ。
「それから家事やろうって思ったんだ?」
「そういうわけじゃないんだけど……甘えっぱなしなのは嫌だなって。やっぱ……いつかは出て行かなきゃいけないしさ、そしたら今以上に大変になるってわかるから」
 大好きで、大好きだからこそ……これ以上迷惑はかけられないという気持ちが大きい。陽は確かに荒地が言うように溺愛とまではいかないけれど、自分たちを本当の家族のように大事にしてくれる。
「予行練習、みたいなもん?」
 杉崎の問いに、睦月は首を縦に振った。
 そう、高校を卒業したらどこかに就職をして、葉月と暮らす。そのために生活能力がなければ生きていけない。
 きっと陽はいつまででも居ろと言ってくれるだろうが、そこに甘えてしまうのは嫌だった。
「確かにな、陽さんってもう三十オーバーのおっさんだろ? そのぐらいってやっぱ結婚とかも考えんじゃねえの?」
 結婚という言葉に、ツキリと胸が痛む。家族でもないのに、家族を失うような痛みだ。
 付き合っている人がいる、という話は聞いたことがないけれど、その可能性だってあるんだ。
「結婚……そっか、そういうこともあるよね……でも、荒地一個訂正、陽さんはおっさんじゃない」
 陽が結婚する、なんて考えはなかった。しかし、言われてみれば陽の友人の結婚式の招待状が届くことは何度かあり、その度に「あいつもついに結婚かよ」なんて懐かしみ羨ましそうな眼差しを向けていたように思える。
「はいはい、おっさんじゃねえかもな。まあ、冷たい言い方かもしんねえけどよ、血の繋がりのない子どもを何の見返りもなく育ててるってことだろ? やっぱ覚悟はしといても損はないってことだ」
 睦月の想いを代弁するかのように口にする。その通りだった。
 睦月も葉月も陽の養子ではない。引き取ると言ってくれたことは嬉しかったけれど、十二歳の睦月にもそれが当たり前に享受していい幸せではないと気付いていた。
 陽は、那月と健吾の親友であった……ただそれだけの、赤の他人。だから、自分がちゃんとしなきゃならないと、甘えるのは高校を卒業するまでと決めて、陽と暮らし始める前にたくさんのことを調べた。
「損はないって……でも、陽さんは本当の子どもみたいに思ってくれてるんじゃないの?」
 寂しそうな表情で問う杉崎に、愛されて育ったんだなと羨ましく感じる。確かに、本当の子ども以上に良くしてくれている。不自由さはまるでないし、むしろ普通よりもいい暮らしをしているだろう。けれど、陽の自由な生活を奪ってしまっているのもまた、確かなことだ。
「そりゃそうだ……けど、それじゃ甘えだからって、名字違うんだろ?」
「名字? 陽さんの名字って黒岩じゃないの? え、なんで?」
 引き取るイコール養子縁組という頭があったのだろう。杉崎が疑問を口にする。葬儀が終わった後、再び睦月の前に現れた陽に養子縁組をしないかと言われたが、睦月は考えさせて欲しいとだけ言った。
 それからすぐに児童養護施設へと移った。その頃の記憶も曖昧で、よくは覚えていないが、引き取られた施設でインターネットを使い調べたことだけは頭にある。
「里親になってもらってるから」
 里親ならば、養育費や里親の手当てが陽の元へ入るため、金銭的に楽になるはずだと、自分なりに考えた結果だった。
 もし、陽と養子縁組をし父となった場合、陽に扶養義務が生じてしまうし、その関係を断ち切ることは容易くはない。しかし、今思えばそれも浅はかな考えであった。結婚もしていない陽が睦月たちを引き取り里親となるまでに、相当な苦労があったことは想像に難くない。
「ふうん、そっか。でも……名字とか関係ないよ。陽さんが睦月と葉月くんのこと大事に想ってるのはきっとほんとだし」
「うん……ありがと」
 しんみりとした空気になってしまった。杉崎も制度のことがよくわかっていないながらも、睦月の味方でいてくれようとしてくれるのがわかる。
 すると、荒地が割引券と書かれた紙を机の上に置いて言った。
「それよりよ~これ。駅前に新しいカラオケ出来ただろ、今日行かね? 割引券もらったんだよ! 今日部活休みだし」
「おっ、いいね! 睦月は?」
 荒地なりに気を使ってくれたのだろう。それがわかるだけに断りにくいが、葉月の保育園の迎えや、家事など睦月にはやらなければならないことは山ほどある。
「ごめん、俺……」
「陽さんに電話してみろよ、たまにはいいだろ? 葉月の世話して、家事やってじゃ、お前も疲れるっつーの」
「いや、でも……それぐらいしないと」 
「お前がさっき言ったんだろ? 陽さんは別にやらなくていいって言ってくれてるって、でもいつかは出て行かないとって思ってるんだったら、今ぐらい甘えておけよ」
 サッと睦月の携帯を取り出した荒地が勝手知ったる手付きで陽のアドレスを呼び出すと、通話ボタンをタップする。
「え、ちょ……荒地!」
 切ろうとする前に耳元から聞き慣れた声が響いた。
『はい、珍しいな……今授業中じゃないのか?』
「あ、ごめんなさい。仕事中に」
 まったくもうと荒地を睨むも、別段気にしている様子も反省している様子もない。むしろ早く聞けと急かされて、時計を見ればそろそろチャイムが鳴る時間だ。
『いや、ちょうど一息ついてたところだから。で、どうした?』
「あ、あの……今日荒地と杉崎にカラオケ誘われてて……」
『ふーん、まあいいんじゃないか? 葉月の迎えはやっておくし、飯もテキトーに作っておくから。たまにはゆっくり高校生らしい遊びして来いよ?』
 陽がそう言うのは意外でもなんでもなかった。けれど、一抹の寂しさが過るのは、どうしてだろう。
「あ……はい。ありがとうございます」
 睦月が礼を言うと通話はすぐに切られた。いつも聞く声よりも低音で耳心地のいい響きに、夕飯は作りますと言い損ねてしまった。
(でも……少し、いつもより機嫌悪かった……かな。仕事大変な時に電話しちゃったかな)
 事の元凶の荒地に文句を言おうと口を開きかけるも、ちょうど予鈴が鳴り響き、思い思いに話をしていた生徒たちも一斉に席に着き始めた。
(あんまり……迷惑かけたくないんだけど……)

 公立高校にも関わらず、桜坂高校には一年を通して水泳の授業がある。何故ならば、文武両道を掲げている学校として、水泳部からも毎年全国大会への切符を手に入れるような選手が揃っているためだ。そして、一年中入ることのできる温水プールへと改装を行った結果だった。
 部活のためだけでは勿体無いと、通常の体育の授業時にもプールでの授業が行われるのだが、プールの更衣室は一度二年のクラスのある棟を出て校庭を通り、別棟へと行かなければならない。行きはいい、まだ我慢できる。が、プールに入り濡れた髪のまま、ビュービューと冷たい風が吹き荒れる中教室へと帰るのが地獄なのだ。月に二度程度で、年間でも最長二十日間のプールの授業であるから我慢できるが、夏ならばいいとしても、冬も毎日部活を行う水泳部は大変だろうと、帰宅部の睦月は思う。
 濡れた髪をタオルで拭きながら、隣に立つ荒地と杉崎を見つめる。何故か最近は荒地が奥へ行こうとプールの度に壁際のロッカーを選ぶために、一番奥まった狭いスペースで着替えなければならない。
「ねえ、ところで俺たちなんでいつもここなの?」
「あっ? 何がだよ」
 自分の身体がスッポリとまるごと隠れてしまえる体躯を羨みながら聞くと、ガシガシと水に濡れた短髪を拭う荒地がタオルの隙間から目を細めて聞き返した。
「だから、ロッカー。もっと真ん中とかのが広くない? 狭いじゃない、ここ」
「あ~俺も端っこのがいいかも、と思うなぁ」
 杉崎までもが言葉を濁して、ここでいいんじゃないかと言った。別に端が嫌な訳ではなく、何故いつもこの場所なのだろうと疑問を持っただけだ。なのに、どうして二人共が言いにくそうに口を噤むのだろうか。
「だから、なんで?」
「健全な青少年たちのためだよ」
 杉崎はまだ着替えの終わらない睦月の全身をチラリと見つめて、深く息を吐く。
「意味がわかんないんだけど……」
「わかんないままでいてくれよ」
 結局何のことかと答えは出ないまま、着替え終わりロッカーを閉めた。周りを見ると殆どの生徒はすでに着替え終わっていて、更衣室には睦月たち三人と他に数人だけだった。その内の一人、カメラを持ったクラスメイトが一眼レフをこちらに向けて叫ぶ。
「お三方~こっち向いて! 水も滴るイイ男!」
 カシャッという音とともに、フラッシュが光る。写真が趣味だという八田《はった》は頻繁に男子や女子の写真を撮っては、よく撮れてるからとみんなに配っていた。写真部に在籍をしているらしく、校内の新聞などに載せる写真も彼が撮っているらしい。
 睦月も何度かもらったことがあったけれど、写真についてはよくわからなくとも、失礼ながら素人でもこんなに綺麗に撮れるものなのかと驚いた覚えがある。
「サンキュー! 今度持ってくんな~」
 大事そうにカメラを首にかけて、ルンルンとスキップでもしそうな勢いで八田は更衣室を出て行った。
「あいつも飽きないよなぁ」
「まあな。ほら、睦月行くぞ」
 濡れた水着の入った鞄を持って、もう一度ロッカーの中を確かめる。よし忘れ物はないなとロッカーを閉めようと手をかけると、水泳用の鞄に入れておいたスポーツタオルがないことに気が付いた。
「あれ……?」
 髪を拭いていたバスタオルはある。殆どバスタオル一枚で済ますため、使いはしないが念のため入れておいた物だ。持ってくるのを忘れたのだろうかと思うが、プールに入る前に見た覚えがある。
「どうした?」
「え、あ……いや、タオルがないなって思ってさ」
「タオル?」
「多分気のせいだと思う。時間もまずいし、行こう」
 自分でも気のせいだとは思っていなかったが、失くなってしまった物は仕方がない。歩いている時に、どこかに落としてしまったのかもしれない。
 その内、誰かが紛失物として届け出てくれるかもしれないなと期待しながら更衣室を出た。

「睦月、タオル見つかった?」
 帰りがけにノートや辞書を鞄にしまっていると、隣の席の杉崎が心配げに聞いてくる。
 昼休みに落し物の届け出がないか職員室に確認しに行ったのだが、結局まだなかったのだ。鞄に入れ忘れてしまったことも考えられるため、家に帰ってから探そうと今日は諦めた。
 そのことを杉崎に伝えると、神妙な顔をして俯いてしまう。
 そこまで気にすることだろうかと、睦月は首を傾げながら不安が募る。
「ま、家にあるよ、きっと! ほら、行くぞ~今日は歌いまくる予定! 睦月もな」
「ええ、俺最近の歌とか知らないし」
「じゃあ、童謡でも歌え!」
 杉崎の口から、いつもの軽口が出たことに睦月は安堵の息を漏らした。

 オープンしたばかりのカラオケは、近隣の高校生たちで混雑をみせていた。他にもカラオケがないわけではないのに、皆どうしてここに集まるのかといえば、オープン記念として一時間無料券なるものをオープン前に配布していたからだろう。期間限定で、使えるのは今月末までときている。荒地が持っていた券も同じものだ。
「二時間待ちだと、待ってらんねえから別んとこ行くか」
 無料券をヒラヒラと手に靡かせて、荒地がウンザリしたように言った。睦月ももちろん異論はない。杉崎と顔を見合わせて顔を縦に振った。
「みんな考えることは一緒なんだね」
「俺ら結構早めに来たけどな」
「でもこの様子じゃサボってる奴らも相当いんじゃないの?」
 杉崎の言う通り、受付前で群をなしている学生たちはどちらかというとキッチリと授業を受け、学校が終わってから来た真面目な生徒だろう。しかし、精算を済ませて店を変えようとしている桜坂高校の生徒も中にはいて、彼らはカラオケに来るために授業をサボったに違いない。別の高校の制服も中にはあるが、皆同じようなものだろう。
(親にお金払ってもらってるくせに……)
 当たり前のように親からもらった小遣いで、親に払ってもらった金でしたいようにしている。甘えることが悪いわけじゃないけれど、睦月からしてみれば腹が立つ。
 荒地が近隣のカラオケをスマートフォンで検索しているが、状況は芳しくないようだ。それもそのはずで、今日はカラオケとこの店に来た殆どの若者たちが、待つのをやめて別の店に行っているためである。
「どこ行く? カラオケ、どこも混んでるみてえ……ボーリングでも行くか」
 杉崎も同じように検索してくれているが、どこも混雑しているらしい。せっかく部活休みなのにな、とぼやいていた。
「ごめん、俺やっぱ帰るね」
 下ろしていた鞄を持ち直し睦月が告げると、杉崎の視線が腕時計に向けられた。店の前に立ち話をしながら、結構な時間が過ぎていた。
「あ……もう、こんな時間か。なんだかんだ言って一時間ぐらい経ってるもんな」
「うん……ご飯は作りたいからさ、ごめんね」
「仕方ねえな、じゃあ俺らはボーリングでも行くか……睦月次は付き合えよ?」
 荒地にクシャクシャと髪をかき混ぜられながら、カラオケから駅へと向かう。途中でボーリングに行くという二人とは別れ、一人改札をくぐった。
 途端にウキウキとした気持ちになってしまうのは致し方ない。荒地や杉崎と過ごすのが嫌いなわけではないが、睦月は陽の待つ家が好きだ。自分にはもう二度と手にすることはできないと思っていた、温かな空間。お帰りと言ってくれる人がいること。あと一年少ししかない自立の時期までは、なるべくあの家で過ごしたい。


 睦月が玄関のドアを開けると、部屋の中から話し声が聞こえる。その中にはすでに帰って来ている葉月の声も混じってはいるが、大人の男の声だ。
(もしかして、あの人、来てるのかな……)
 ソッとリビングのドアを開け、ただいまと声をかける。ダイニングテーブルを囲んで、予想した通りの男が当たり前のように陽の隣に座っていた。
「よ、睦月くんお帰り~カラオケ行ってたんだって?」
「兄ちゃん~おかえり~」
 陽の友人で大手出版社勤務の田ノ上充《たのうえみつる》が、葉月を膝の上に乗せ軽く手を振りながら笑顔を見せる。
 陽とは大学の頃からの付き合いらしく、二人ともこの上なく本が好きという共通点で知り合ったらしい。しかし、それを貫き、結果仕事としているのだから尊敬に値する。見た目には線が細く色白で、誰が見てもスポーツマンだとは思わないだろうが、大学の頃は女の子にモテたいがために、テニスサークルに入っていたという話を聞いたことがあった。
 陽と田ノ上が話しているところを見る機会は然程多くはないが、それでも二人がかなり気を許しあってる間柄だということはすぐにわかった。自分と陽の間にある空気とはまた違った、ピタリと波長のあった会話に心が波立つこともしばしばあった。
 同じ歳だからこその仲睦まじい雰囲気は、どうあっても睦月には手に入らないものだから。
「はい、ただいま戻りました。ご飯、すぐ準備しますね。あ……田ノ上《たのうえ》さんも良かったら食べて行ってくださいね」
「いいよいいよ、お邪魔しちゃ悪いし。こいつに怒られる」
「別に食ってけばいいだろ。つーか、遠慮してる方が気持ち悪い」
 田ノ上の言葉に、不本意極まりないといった様子の陽が口を開いた。
「なんで、陽さんが怒るって思うんですか?」
 陽はそんなことで怒ったりはしないんじゃないかと、問い掛けた言葉であったが、田ノ上は面白そうに睦月を見ると、ブッと噴き出した。
「可愛いなぁ、睦月くんは……なんで怒るかって、もちろん邪魔だからじゃない?」
「おいっ!」
 邪魔、と声には出さず反芻する。もしかしたら、二人で食事にでも行く予定だったのだろうか、と考えキッチンへ向かう足がピタリと止まった。
 自分が邪魔なのかもしれない、と。
「そういえば、睦月……帰ってくるの早くないか? 飯の準備は俺がテキトーにするって言っただろ?」
「あ、えと……カラオケ混んでて入れなかったし、居候させてもらってるのに、家事すらしないとか何の役にも立たないじゃないですか。でも、すみません、田ノ上さんとご飯行く予定とかだったら、気にしないで行って来てくださいね」
 ツラツラと出た睦月の言葉に、場がシンと静まり返る。何か変なことを言ってしまっただろうかと、陽と田ノ上の顔を交互に見つめるが、田ノ上は複雑そうに眉を寄せ、陽は瞬きもせずに絶句している。
「あの……?」
「充……悪いけどお前帰れ」
「はいはい、ちゃんと話し合いなさいよ?」
 田ノ上は、葉月の頭を二、三度撫でると自分の座っていた椅子に、葉月をそのまま座らせ、席を立った。通り過ぎる際に、睦月の背中をポンと優しく叩く。それがどういう意味でなされたものなのか、睦月にはわからなかった。
「陽さん……俺、なんか変なこと言いましたか?」
「俺は、お前と葉月のこと居候だとは思ったことねえぞ」
 ピシャリと言い切られ、ドクンと心臓が高い音を立てる。座れと顎をしゃくられて、葉月の隣の席へと腰を下ろした。
「いそーろーってなあに?」
 葉月の場違いな明るい声が室内に響く。どう答えていいのやらと黙っていると、陽がゆっくりと言葉を紡いだ。
「他人の家においてもらうこと、だな……俺とお前らは確かに血の繋がりはない、赤の他人かもしれないが……俺は家族みたいなもんだと思ってる。親友の子どもって細い繋がりでも、誰にでもこんなことするわけじゃない。相応の責任も伴うし、楽なことではないからな。それでも……お前らと一緒に暮らしたいって思ったんだよ。意味わかるか?」
「は、い……」
 家族、という言葉が温かく胸に沁みる。それは自分と葉月の関係だけだと思っていた。家族と呼べる人は、もう葉月しかいないのだと思っていたのだ。
「陽ちゃんは……お父さんの代わり? じゃあ、ボクはお父さんがににんいるんだ~」
「葉月、ににんじゃなくて、二人な」
 テーブルの上で組んだ手を前に出し、陽が二と人差し指と中指を立てながら葉月へと説明する。一人、二人、三人……今は三人家族だなと告げた陽の表情は柔らかかった。
「家族だって……思ってもいいんですか……?」
 声が震える。だって、ずっと期待しないようにしていた。もう両親の代わりなんていないのだから、自分がしっかりしなければと思っていたのに。
 そんな風に甘やかされたら、ダメになってしまいそうだ。
「当たり前だろ……つーか、俺が悪かったよ。お前が超ネガティブ思考で、頑固で人に頼ることの出来ない性格だってわかってたのにな。五年も暮らしてて、そんな風に思ってたこと気付けなかった」
 伸ばされた手が重なった。スルッと手の甲を撫でられて、ゾクリと肌が粟立つ。カッと顔に熱が集まっていく。日に焼けない白い肌は、ほんの少し赤みを持つだけで、陽に知られてしまうだろう。
 家族だって、言ってくれたから……子どもをあやすような手付きのはずで、別に深い意味なんてないのに。どうしてか触れられた場所から、ジンジン痛いぐらいに熱くなる。
「で、でも……陽さん電話でなんか不機嫌だったから……もしかして、居候の分際でカラオケとか言ったらやっぱりダメだって思って」
「はぁっ? 言ったろ、たまにはゆっくりして来いって。お前は高校生にしては働き過ぎてんだよ。むしろ、周りの高校生とたまには足並み揃えることも大事だぞ」
「じゃあ、どうして不機嫌だったんですか?」
「陽ちゃん、おこ、だったの?」
 プンプンと丸く柔らかい頬を膨らませ、おこ、おこと葉月が発する。
 今は電話で感じた機嫌の悪さを全く感じないが、やはりあの時はいつもと声色が違ったように思う。ジッと目の前に座る陽の瞳を探るように見つめて返事を待つが、今度はサッと目を逸らされてしまった。
「全然、おこ、じゃねえよ。仕事の途中だったからだろ? ガッコ行ってる時に電話かけてくることなんてねえから、驚いたのもあったし。つーことで、充に邪魔されたせいで仕事あんま進んでねえんだ、飯出来るまで篭っていいか?」
「あ、はい……出来たら呼びますね」
 話はこれで終わりということらしい。睦月ははぁっと深く息を吐くと、未だ高い音を立てる胸に手を当てる。
 家族という言葉は、自分にとってこれ以上ないほど嬉しいはずなのに。ほんの少しだけ、ガッカリしているのはどうしてだろう。
 きっと家族ごっこにだって終わりがあることを憂いているのだと、自分を無理やり納得させた。

「葉月、ご飯出来たからテーブルの上片付けてくれる?」
「はぁい」
 フライパンで炒めた鶏そぼろと炒り卵をご飯の上に乗せて、この時期が旬のブリの照り焼きを皿へ盛り付ける。
 描いていた絵を綺麗に片付け終えた葉月が洗面所へ行くのを見届けて、布巾でテーブルを拭いた。
 温め直した味噌汁と魚の皿を運んでいると、ペタペタとフローリングを歩く音が聞こえる。
「手洗った?」
「うん、葉月もおてつだいするね」
「じゃあ、そぼろご飯持っていってくれる?」
「はぁい」
 まな板の上に置いたままになっていた包丁を急いでシンクへと置いて、葉月の小さな両手に丼を持たせてやると、慎重に一歩ずつ足を進めながら運ぶ葉月の動作に睦月はついフッと笑みを溢す。
「なに、笑ってんだ?」
「う、わっ」
 いつの間に部屋から出ていたのか、真横から耳元にフッと息をかけられて睦月は飛び上がるほどに肩を震わせる。
「お前、驚き過ぎ……今日ブリか、いいな」
「だってそこにいると思わなかったんですもん。ちょっと葉月のお手伝いの様子が可愛かったから、笑っちゃっただけです」
「確かになぁ、ついこの間までオムツしてたのに、もう一丁前に兄ちゃんのお手伝いするようになってんだもんな」
「この間はお皿割ってましたけどね、だんだん出来ることが増えて、いつのまにか手が離れていくんですよね」
 赤ちゃんの頃は、人見知りが激しくて陽と睦月以外の大人の前に出るたびに泣いて大変だった。どこへ行くにもオムツや着替えなどを持って行かなくてはいけなくて、ただ買い物に行くのすら一苦労だった覚えがある。
 ベビーカーだって、ほんの二、三年前までは毎日使っていたのに、今ではどこへでも歩いていけるようになった。
 この世に生を受けてから、たった五年しか経っていないのに、こんなにも人の気持ちを慮ることの出来る子に育ったと思えば、嬉しくて涙がでそうだ。
(ちょっと……周りの空気を読み過ぎなところはあるけど……)
「お前は兄っていうより、完全に父親だな……葉月に反抗期が来たら泣くんじゃねえか? つーか、お前も反抗期とかなかったなぁ。これからか? 別にしてもいいんだぞ、反抗……んなことで、手離したりしないから」
 カウンターキッチンの中で、キュッと手を繋がれる。絡まされた指先を持ち上げられて、軽い水音と共に温かなモノが触れた。
(え……っ、な、に……)
 ピクッと震えた指先にクスリと笑われ、陽の唇が離れていく。ジワっと目に膜が張り、頬が紅潮していく。
「睦月……顔、真っ赤」
「も……揶揄うの、やめてください。陽さん、綺麗だからドキドキするんです」
「へぇ、まだそう思っててくれんだ? 昔は綺麗って事あるごとに言ってた気がすんのに、最近言わなくなったから、俺もついにおじさんって思われてんだろうなってな」
「だから陽さんは、いつまで経っても綺麗で格好いいですってば!」
 荒地から三十三のおっさん呼ばわりされたことを思い出し、怒りに任せて拳を握り締めながら叫ぶと、笑いを堪えるように腹部を抱える陽の姿があった。
「クックッ……んな必至になんなくったって冗談だって、でも、サンキューな」
「お兄ちゃん、陽ちゃん~もうごはん食べます~」
 余程空腹だったのか、席に着いて今か今かと待っていた葉月が痺れを切らして二人を呼んだ。互いに顔を見合わせて、小さく笑う。
 陽と葉月の存在が、いつだって睦月を幸せにしてくれるんだ。
「今行くから」
 胸がうるさいぐらいに音を立てることには、気付かないフリをした。
 違う、違うと呪文のように何度も繰り返す。

 自室で課題を片付けながら、タブレットを操作する。学習用ソフトがかなりの数入っていて、塾に行くことなく自宅で講師の授業を受けられると、陽に誕生日プレゼントに買ってもらった物だ。
 塾に通いたければ通えばいいと言う陽に、月謝を調べて驚愕した結果、出来れば自宅で出来る方がいいと告げたのは睦月だ。
 勉強は嫌いではない。何かに没頭するのは好きで、つい暗くなりがちな自分が余計なことを考えずに問題に向かえる時間は楽しい。解けた時の喜びも大きい。目標は特にないし、高卒で働ける場所さえあれば文句はないが、勉強をしておいて損はないだろうという考えで、毎日机に向かっている。
 買ってもらった時つい調べてしまったタブレットの値段にも驚いて、こんな高額な物は貰えないと差し出されたプレゼントを拒否したものの「もう契約済みだから、お前が使わなかったら葉月のおもちゃにでもすりゃいい」と押し切られ、まさか本当におもちゃにするわけにもいかず、活用させてもらっている。
 高校の授業料は無償とはいえ、塾になど通ったらそれこそ金銭面で負担を強いることになってしまう。勉強は好きだが、陽に迷惑をかけたいわけじゃないのだ。
 ただ、なんか……最近おかしい。
 陽のスキンシップの多さは一緒に暮らし始めた五年前から変わってはいない。それこそ、頬にキスしたり、葉月の頬にも睦月と一緒になってキスしたりしていたぐらいだ。だから、慣れているはずなのに。
 高校生に上がり、さすがにキスはどうかと思ったのか以前ほどの触れ合いはなくなった。それでも、手を握ったり、キスの代わりに頬を撫でたり、髪に触れたりはいつものこと。
 陽は変わっていない。
 おかしくなってしまったのは、自分だ。
 友人の一人だとわかっているのに、田ノ上と仲睦まじく話す陽に心に漣《さざなみ》が立つ。
 陽に触れられると、心臓がドクンドクンと早い音を立てる。近くに立っているだけなのに、昔みたいに陽の胸の中に抱き締められたいなんて思ってしまう。触れられれば、陽の手が触れた場所から熱が広がり、もっともっとと手を伸ばしそうな自分がいる。
 違う、違うと思っていても、それは一つの答えしかあり得ないような気がしていた。
 自分の考えを振り払うようにタブレットを操作し、ネットを立ち上げ「恋ってどういうもの?」と入力する。自分でも馬鹿みたいだと思う。そんなもの調べて何になる。
 タブレットの画面に出てきた文字に、身体中の血液が音を立てて流れツッと汗が額を流れ落ちた。
(恋愛感情は……相手に性的魅力を感じる、肉体的にも精神的にも触れ合いたいと望むもの……ってそんな、の)
 確かに陽に抱き締められれば嬉しいし、逞しい腕の中にいて落ち着かない気持ちになったことは何度もある。抱き締められる以上のことを、睦月は望んでいるのか。
 思わず、脳裏に裸で抱き合う映像が映し出され、慌てて打ち消す。違う、こんなの間違っていると、何度も首を横に振っては思い描いた映像を否定した。
「……っ」
(や、だっ……なんで……)
 背筋をピリッと電気のような快感が駆け抜ける。頭まで一直線上に走ったそれは、ズンと睦月の腰を重くした。机に向かって頭に入ってこない数式を並べながら必死に抗うものの、擦り合わせた足の間の昂りは収まるどころか痛いほどに張り詰めていた。
(最近、シテなかった……からっ)
 見た目には純真無垢という言葉がピッタリで、何も知らないと思われがちだが、睦月とて健全な男子高校生だ。時には自分で慰めることもあるし、いやらしいことが頭を過ることだってある。
(でも……なんで……なんで陽さん、なのっ)
 陽に抱き締められながら、屹立した性器を擦られる──そんな想像だけで、クチュッと先端から精液が溢れた。
「あ……っ、ふ」
 睦月は椅子に座ったまま、パジャマのズボンの中に手を入れると、勃ち上がった陰茎を緩く扱く。脳裏に浮かんだ陽の顔は目眩を感じるほどの美しさで、睦月を魅了する。
「陽、さっ……」
 きっと、陽は優しい。最初は撫でるように、添えられた手が徐々に激しさを増し、時折焦らされながら果てるのだ。
 下着にそれとわかる染みが広がっていく。淫らで恥ずかしいのに、下着の中に入れた手と上から睾丸を刺激する手が、いつもの自慰よりも遥かに淫猥で、男らしいあの手を想像してしまえば、途中でやめられるはずがなかった。
 グチッグチッと酷く耳につく水音が響く。先走りで睦月の手はベットリと濡れていた。そんなことがどうでもよくなるぐらい、気持ちがいい。
 声が響けば、隣の陽の部屋に聞こえてしまうかもしれない。椅子から立ち上がると睦月は机にうつ伏せになり、尻を突き出すように腰を振る。声が漏れないようにと、自らの腕に顔を埋めた。
「はぁっ……ん、くっ……き、もちいっ。ヌルヌル、して……すご……んっ」
 普段は考えもしない場所に手が伸びる。知識でしか知らない。男同士は後ろを使うのだと。
 濡れた手を後孔へ回す。指を一本ゆっくりと挿し入れて、動かしてみるが特に痛みはなかった。ただ、本来受け入れる場所ではないソコはキツく閉じられていて、なかなか奥には進むことが出来ない。ピリッと痛みが走り、睦月は眉根を寄せた。
「ん、んっ……ぁ」
 先端から溢れ出る先走りを後孔に擦り付け、滑りを良くする。そそり勃つ性器を擦りながら、徐々に指を収めていった。
「あ、ふっ、う……」
 規則的に指を抽送すると、クチュンクチュンと体液がかき混ぜられる音がして、睦月の官能を一層煽った。
 ゆるゆると動かしてみても、気持ちいいのかはわからない。ただ、前の刺激だけでもうすぐに堕ちていきそうだった。
「んっ……あ、イ、ク……っ、陽、さ……んっ」
 さすがに理性が働き、手のひらで精液を受け止めることは出来たが、後に残ったのは罪悪感ばかりだ。
「あっ……はっ、はぁっ……」
 家族だと、言ってくれたのに──。
 睦月は吐精で汚れた手を見つめながら、陽までをも汚してしまったような気がして、達した後の充足感を知ってしまえば、居た堪れなさに心が抉られる。
 この恋心が実り育つ前に、陽と離れなければ。
 早く大人になりたい──。


「……バイトかぁ」
 読み終わった夕刊を片付けながら、間に挟まっていたチラシにあったバイト募集の文字が目に留まる。
 ダイニングテーブルにチラシを置いて、ぼんやりと眺めていた。
 お金に困っているわけではもちろんないし、陽は十分過ぎるほどのお小遣いをくれる。生活費の中から余った金も自由にしていいと渡されている額は、睦月にとっては大金だ。
 浅黄陽という名は、小説家としてかなり知名度がある。そもそも新刊を出して平積みされる作家は、小説家の中でもほんの一部だ。
 本が売れないと言われているこの時代に、必ず三十万部以上の売り上げを記録し、原作がドラマや映画になった数も相当だ。
 睦月と葉月を引き取った頃からそうだったわけではない。一部の人には人気があったが、その頃陽は王道と言われる推理小説を書いていて、少なくとも映画化やドラマ化の話は聞いたことがなかった。
 推理小説に明るくない睦月には正直何が面白いのかよくわからなかったが、不倫の末に夫を殺しただの、アリバイ作りがどうだのと頭を悩ませ、突然何かを吹っ切ったように推理小説から撤退してしまった。そうして、ちょうど睦月の両親が亡くなった五年前に発売された小説〝幸せの温度〟が本屋大賞を受賞したことで、一気に知名度が上がったのだ。
 ひたすら一人の人を愛する男の話だった。最後まで読み終わり、正直この主人公は幸せだったのだろうかと不思議に思った。だって、叶いもしない恋に溺れ、その相手は自分の好きな人と結ばれる。やがて二人の間には子どもが生まれ、主人公はそれでも、想うことを止められない。
 まるで自分のようではないか──。
 主人公が度々文中で、相手を抱き締めるシーンがある。彼にとっては好きな相手の体温が幸せの温度なのだと、だからこうして抱き締めることだけは許して欲しいと、そう心の中で慟哭しながら友人として最良の選択をする。
 〝幸せの温度〟を世に出してから、陽は何かを吹っ切ったように新しい分野へとチャレンジしていった。だから、睦月は陽の昔の本はあまりきちんと読んだことはないが、ここ五年間に出版された小説はすべて読んでいる。浅黄陽のファンを名乗れるほどだ。
 映画化もされたが、さすがに映画館に行く時間は取れずにDVDを借りて見た。
 映画は大型スポンサーが付き、コマーシャルやワイドショーでの宣伝もテレビをつけるたびに、目に入ったほどだ。
 浅黄陽という作家は、それだけの存在なのだ。
「やっぱり、無理かなぁ」
 つい、昔の記憶に没頭してしまった。だからつまり、睦月は金が欲しくてバイトを考えているわけではない。
 それに、現実問題勉強と家事を両立している自分に、どの程度時間が空くかと聞かれれば、週に一日程度と言うしかないだろう。たとえバイトだとしても、金を稼ぐことがそんな甘くはないことは知っているつもりだ。早くに睦月を産んだ母は、大変な思いをして睦月を育ててくれたのだから。
「でも……このままじゃ、俺おかしくなっちゃうかも」
 手に持ったチラシで顔を覆い隠すように天を仰ぐ。
 四六時中と言っても過言ではないほどに、陽の顔がチラつくのだ。勉強している時も、電車に揺られていても、それなのに朝も晩も陽と上手く顔が合わせられない。
 あんなことをしてしまった自分が恥ずかしく、陽に気付かれていたらどうしようとそればかりが頭を過る。家族だと言ってくれた陽を裏切るような形で、自分の感情が家族の愛情ではないことに気付いてしまったのだから。
 自分が冷静さを保てるまで、少し距離を置けばいいかもしれない。将来のために、金を貯めて働くことの大切さを知って……なんて色々言い訳を考えながら、結局は陽と合わす顔がないだけだ。
「何がおかしくなるんだよ?」
「ひゃぁっ!」
 ダイニングテーブルに突っ伏していると、背後から突然声がかけられ、ヒンヤリと冷たい手がうなじに触れた。何でもないスキンシップが、今の睦月には辛い。触れて欲しいのに、喜んでしまう自分が嫌で、苛立たしい。
「陽さん、いきなり触るのやめてくださいっ」
「いきなり、じゃなきゃいいのか?」
 ふわりと腕が後ろから前に回って、座ったままの睦月の身体が包まれる。すぐ耳元に陽の吐息が聞こえて、ドクンドクンと胸の音が煩いぐらいに響いた。
「葉月は?」
「もっ……寝ました」
 いつもリビングでキャッキャと楽しそうに絵を描いたり、テレビを観たりしている葉月が部屋で寝ていることなど、知っているだろうに。わざと、耳元に息を吹きかけるように囁かれるその声が、睦月の官能を呼び覚ましてしまう。
 前に回った陽の手が胸を掠める。昂ぶった身体はいとも容易く睦月の口から嬌声をあげさせた。
「あっ……」
(も……っ、やだ……)
 陽は睦月を離すつもりはないらしく、ズッシリと肩にかかる体重は一向に軽くならない。ふわりと香る陽の体臭が、抱き締められる腕の強さが、睦月をおかしくするのだ。
「ふうん……睦月、顔真っ赤……で、コレどうすんだ?」
 腹部を行ったり来たりしていた手で、持ち上がったパジャマのズボンを撫でられる。だって、しょうがないじゃないか……あの夜から、睦月の頭には陽と自分の淫らな想像ばかりが浮かんでしまうんだから。
 毎日、毎日……狂ってしまったんじゃないかと思うほどに、陽に妄想で抱かれている。男らしい手が、睦月の身体に触れることを想像しただけで、達してしまえるくらいには、劣情的だった。
「ひっ、ぁ……ごめ、なさっ」
「んな可愛い声出すなよ」
 もしかしたら、これも夢なのだろうか。陽の手が快楽を与える意思を持って、睦月の性器を薄い綿の上から扱く。パジャマの中で、下着にヌルリとした先走りが染み付き擦られる刺激に声が漏れる。
「あっ、ん……陽、さっ……ダ、メ……」
「抜いてやるだけ……出したら、忘れちまえばいい」
 陽の手がパジャマの中に入り込む。腰を上げろと囁かれた声に従うと、パジャマを腿の辺りまでずり下された。
 外気に触れた性器を陽に直接握られると、さらに体液がクチュンと溢れ出る。今まで散々妄想していた分、直接的な刺激は言うまでもなく想像以上だった。
 粘り気のある透明な液体を、まだ幼さの残るピンク色をした亀頭に擦りつけられ、滑りのよくなった手のひらの動きが早まった。
「やぁ……そ、こ……いっ」
「ココか? ほら、してやるから……どうすんのが好きか言ってみろ」
 丸い亀頭の先をグリグリと指で刺激される。トロトロに濡れた自身の下肢から目が離せない。次から次へと溢れる精液で、グチャグチャに濡れた陽の手が卑猥でさらなる快楽を享受してしまう。
 どうしてこんなことをとか、そんなことはもうどうでもいい。だから早く陽の手で昇りつめたい。いっぱい擦って、舐めて……エッチなこといっぱいして。
 口から出ていた自覚はなかった。全てが夢の中の出来事のようで、何も考えられない。気付けば陽の手の上から、自らの陰嚢を刺激するように揉んでいた。
 クチュンクチュンと淫靡な音が規則正しく響く。同時に、あられもない嬌声が口を継いで出てしまう。もう止まらなかった。
「陽さっ……も、っと……気持ちい、こと……して……」
「お前は……んとにヤバイな。んなつもりじゃなかったのに」
 こんなつもりじゃなかった──淫猥に乱れた自分の姿に軽蔑されたのかもしれない。睦月だって、こんなつもりじゃなかった……だから、必死に距離を置こうとしていたじゃないか、と文句の一つも言いたくなる。
 陽さんが、何も知らずに触れるから。
 それは言葉となって口から出ることはなく、ただ頬を濡らした。
「んっ……あぁっ……も、イッちゃ、うからぁ」
 頬を伝う涙を舐め取られて、陽の手の動きが早まった。背後からギュッと先端を強く掴まれ、上下に動く手に翻弄される。
 ヌチュヌチュと耳を突く濡れた水音すらも、睦月にとっては愉悦となった。身体の奥底に消えない火が灯り、そして弾ける。
「んん──っ!」
 葉月に聞こえてしまうからもしれないと、絶頂の瞬間唇を強く噛み締めた。深く息を吐き出せば、近くにあったティッシュで手を拭う陽の姿があった。
 まるで幼子を慰めるかのように、額に唇が落とされる。
 夢であってくれたらどんなによかったか。互いに沈黙が落ちて、綺麗に拭われた手で、頬を撫でられる。しかし、部屋の中に漂う淫靡な気配を消すことなど出来やしない。
「お前、最近おかしくないか? さっき見てたの、バイトのチラシだろ……ずっと険しい顔しながらチラシ見てるから何してんのかって思ったけど、金足りないならちゃんと言えよ」
 陽の言葉に、ビクリと肩が震える。
 そうか、陽はなかったことにしたいんだ。
 睦月が誘ってしまったようなものだろうし、なかったことにしてくれるなら、その方がいい。これは、束の間の夢だったのだと。
「ち、違い……ます。社会勉強の、ために……バイトとか、してみたいなって思っただけで」
「やりたいことを好きなようにやれるのも若い時だけだからな、別に反対はしないが……葉月にも聞いてみろ」
「葉月に?」
「普段は保育園で睦月も学校だから、遊んでもらえるのは夜と土日だけだろう。あいつなりに我慢してるところはあると思うぞ」
 葉月は五歳にしては、わがままも言わず大人びたところがある。それで助かっているところは正直大きい。睦月もきっと我慢させているだろうことは理解しているつもりだ。



「あーちゃーん、ばいばーい」
 手を振りながら友達と別れる葉月を待って、教室から少し離れた場所で見守っていると、担任の先生が睦月を手招きし呼んでいた。
 保育園の園庭は危険がないようにと、お迎えの際も一人一人の保護者が門を閉めるようになっている。園庭で遊び始める葉月を横目に、まあ慣れているし大丈夫かと先生の元へと行った。
「睦月くん、今度の土曜日参観なんですけどね」
「あ、はい……手紙見ました」
 今週末教室で、保護者を呼んで普段の園での生活を見せようという土曜日参観が行われる。両親のどちらでもよいが、普段は働いていてなかなか見られない授業風景を見て欲しいという園の方針で毎年行われている。
 担任はどう切り出すべきかと、迷っているようだった。あのですね、と言いにくそうに言葉を濁している。
 去年は陽と二人で参観したし、もちろん今年も二人で出席するつもりでいたが、何か問題でもあったのだろうか。
「それが、どうかしましたか?」
「あの……最初にプリントを渡した時、葉月くんこっそりとプリント破いてたみたいでね。もちろん、すぐに気付いて、新しいプリントを入れたんだけど。どうしてそんなことをしたのって聞いても、言わないから……もしかしたら、クラスの子にどうして親が来ないのって聞かれたこととか気にしてるかもしれないって思うの。両親が亡くなったっていうことは、まだこの年齢じゃお友達も理解してなかったりするし」
 担任の困惑が、睦月にも伝わった。眉を下げ思い悩む表情で、片親の子は多いんだけどね、と担任は言葉を切った。
 両親が亡くなった時、睦月は十二歳だった。つまり、十二年間は両親と過ごす時間があったことになる。
 生きていた頃も、共働きだった二人は忙しく、そうそう頻繁に学校行事に参加していた覚えはないが、それは仕方のないことだと割り切っていた。そういう子は他にも大勢いたから。
 そして中学からは、陽が必ず参加してくれている。
 しかし──考えてもみれば。
(葉月は……まだ五歳、なんだ……)
 我儘を言って困らせることもないし、睦月と陽が参加することを喜んでいたように感じた。五歳にして、大人を困らせないようにする術を身に付けているのだろう。
 睦月と違い、両親と会話した記憶などないだろうし、写真でしかその姿を知らない。周りの友達が母親と、父親といるのを見て何とも思わないはずがなかった。
 あいつなりに我慢してるところはあると思うぞ──そう言った陽の言葉が思い出させる。
 我慢、じゃない……多分、無理をさせていた。
 園庭に視線を向ければ、友達と楽しそうに滑り台で遊ぶ葉月の姿があった。
「そういうのって難しい問題で……どうして葉月くんのところはパパとママがいないのって聞かれると、大人の私たちでも、どうしていいかわからない時があるのよ。亡くなったってことが悲しいことだと理解出来る年齢になると、相手の気持ちを考えて喋るようになるんだけどね。この年齢じゃ、難しいし。そうやって悪意なく、傷付けてしまうことは多いから」
「そうなん、ですね……あいつ、家では寂しいとか全然言わないから」
 まだ若い担任教諭も、睦月と同じように滑り台で遊ぶ葉月を見て、そうですねと頷いた。
「葉月くん、強い子です。園でも悲しくて泣いたりとかしない、大人びた子です。でもちょっとしたことで泣けるのって、小さい子の特権なんですよ。だから、もっと我儘だっていいと思うんです。寂しいよって悲しいよって言ったって、受け止めてくれるお兄ちゃんがいるでしょう? 毎日、お友達のお迎えに来るお母さんを見て、寂しそうにしながら、たまに泣きそうになりながら手を振ってる姿を見ると、苦しいです」
 小さい頃から、一度も葉月が寂しいと言ったのを聞いたことがない。一度だけボクにはパパとママがどうしていないのかと聞かれたことがあったから、天国に行ってしまったんだよと伝えたけれど、それ以降あまり両親についての話題に触れることもなくなった。正直、助かったと思った。いつかは、どうして死んだのか何があったのかを説明しなければならないが、それはきっと今ではないから。
「先生……ありがとうございました」
 軽く頭を下げて、葉月を呼んだ。睦月の声に滑り台を滑り終えた葉月が、友達に手を振り駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん、かえる?」
「うん、帰ろうね」
 担任にもう一度会釈をし、保育園を出る。手を繋いで葉月のペースで歩きながら、駅前にあるスーパーに寄った。
「今日のご飯は何にしようか」
 野菜コーナーから見て回ると、途中のお菓子が陳列されているスペースで、子ども連れの母親が床の上で足をバタバタさせてお菓子買ってと喚く我が子にほとほと困り果てた表情を見せていた。多分、葉月と同じぐらいか、もう少し小さいぐらいだろう。
 葉月は自分からこうしたい、ああしたいと言うことも少ない。よく喋るし、保育園であった楽しいことは教えてくれるが、睦月は乳幼児の時期を除いてよくある母親たちの悩みを抱えたことはなかった。
 たまに園で会う母親に「葉月くんは、よく言うこと聞いて偉いわね」そう言われることは日常茶飯事だ。
 人の機微に聡い子だと睦月から見ても思う。ずっと、睦月自身が思い続けて来たことだ。陽は家族じゃないんだから、甘えてはダメだ、いつか離れる時が来るんだからと。もしかしたら葉月は、いつかは陽と離れる時が来るのだと睦月の行動から感じ取っているのかもしれない。
「なんでもいいよ」
 いつもと同じ言葉。なんでもいいと言われることを気にしたこともなかった。自分が小さい頃、両親を困らせることも多かったじゃないか──そんなことにも気付かないぐらい、自分のことばかりだった。
「葉月の食べたいのでいいんだよ?」
 小さな手をキュッと握り、ゆっくりとしたペースで歩く。
 これは好き、これは嫌い、食べ物の好き嫌いもあったっていいはずだ。なのに、葉月は睦月の作った料理を満腹だという理由以外で残したこともなければ、好き嫌いを言ったこともない。
「兄ちゃんのごはんなんでもおいしいよ?」
 嘘のない瞳で見つめられて言い切られてしまえば、睦月はもう何も言えなかった。
 思い返せば、ハンバーグや唐揚げの時は喜び方が幼いように思う。嬉しいのかたまにお行儀悪くテーブルを叩くこともあって、その度に睦月は注意していた。逆にセロリやピーマンといった香りの強い野菜の時は、妙に行儀良く落ち着いていて、その日の気分の差だとばかり思っていたのだが。
「葉月、今日ハンバーグにしようか?」
 睦月が言うと、パァッと目に見えて顔を輝かせた葉月が首をコクコクと縦に振った。
「言っていいんだよ……ハンバーグが好きだって。ピーマンが嫌いだって」
 言いながら顔を覗き込むと、驚いたのか目をパチパチと瞬かせる葉月の顔が、どうして知ってるのと言っていた。
「もっとわがまま言っていい。葉月は、土曜日陽さんと俺が見に行くの……嫌だった?」
「や、じゃない……けど、ほかのみんなパパとママきてるから、前のとき、どうして葉月のとこはおやが来てないのってあーちゃんに聞かれた」
 聞いた子も悪意があったわけじゃないだろう。純粋にどうしてだろうと思ったに過ぎないはずだ。けれど、葉月はきっとそう思わなかった。
 もしかしたら、去年の保育参観の時期だっただろうか。葉月から、どうしてお父さんとお母さんがいないのかと聞かれたのは。
 葉月は赤ちゃんで、まだ何もわからないからと詳しく両親のことを話したことはなかった。写真を見せたことはあったけれど、あまり話題にも上ることはなかったし、産まれた時から陽の家で育ちこの生活が当たり前であった葉月には疑問など湧かないだろうと。
「そっか、だからもらったプリント破いたの?」
 睦月の問いに、唇を震わせた葉月が小さく頷いた。怒られるだろうかと、睦月の顔色を窺う表情が痛々しい。
 もしかしたら自分は、葉月のことを想っているフリをして、実は何も知らなかっただけなのかもしれない。陽の方が余程よく見ている。
「帰ったら、父さんと母さんのDVD見せてあげる」
 ほんとに、と葉月が笑う。子どもらしいあどけない笑顔を見せて。
 ハンバーグの材料をカゴに入れ、小さな袋に葉月のお菓子を、大きな袋に今日の夕飯の材料を入れ帰路に着いた。

 夕飯の用意もあらかた終わり、そわそわとテレビの前で正座する葉月に笑みが溢れる。余程楽しみなのだろう。
 睦月は部屋から何枚かあるDVDの内一枚を選び、リビングのレコーダーへとセットした。
「どこ? お父さんとお母さん」
「今、出てくるよ」
 再生が始まると、暗い部屋が映りガサゴソと物音が聞こえる。ポッと明かりが一つ、二つ灯りハッピーバースデーの歌が始まった。
 これ一枚だけなのだ。家族四人《・・・・》で撮ったものは。
 葉月はテレビの音に合わせて一緒に歌い始める。やがて、フッと蝋燭を消す息遣いが聞こえ、部屋の中が灯りに照らされた。
『お父さん、二十八歳の誕生日おめでとう~』
 母、那月の嬉しそうな表情が懐かしい。一度も葉月に見せたことがなかったのは、自分が主役でないとは言え、こうしてカメラを向けられるのが恥ずかしいと思い始める年齢だったことも理由にあった。やはり、画面に映る自分は仏頂面だ。
『ありがとう。お父さんとしては十二歳だな。睦月も来年は中学生だ……その頃にはこの子も産まれてるし』
 健吾が那月の大きいお腹を撫でながら、愛おしそうに笑みを浮かべる。
「母さんのお腹にいるのが、葉月だよ」
 画面を指差して、わからないかもなと思いながら葉月を見ると、想像以上に真剣な表情で画面を見つめていた。睦月の声も聞こえていないのか、目に焼き付けんとばかりに、瞬きもせずに画面を凝視している。
『もう、名前決まったの? まさか、葉月とか?』
 睦月の言葉に、テレビの中の健吾が大仰に驚いた仕草をしながら言った。
『おっ! さすが睦月、よくわかったなぁ』
 そりゃあ、普通にわかるだろうと画面の中の父に思わず突っ込んでしまいそうになる。思い出して、クスリと笑いが溢れた。
 那月という名前の由来が神無月からだと理由を聞いた健吾が、そりゃいいなと睦月が産まれた時に同じ決め方をしたと聞いた。この時もまさかなと思って聞いた覚えがある。
『葉月だね~また赤ちゃん育てられるなんて思わなかったなぁ。睦月はもう抱っこさせてくれないしね。ほら、たまにはお母さんのとこおいでよ、ねーねー』
『やだよ……六年生にもなって抱っこしてる友達いないってば』
 那月の手を振り払い、恥ずかしそうに唇を尖らせる。
(抱っこしてもらえば、よかったな……これが最後だったのに)
 育てたかったに違いない。自分の手で葉月が大きくなっていくのを見ていたかったに違いない。
 睦月の頭の中には、葉月の成長の記録がある。
 何十年先になるかはわからないが、いつか、いつか天国で父さんと母さんに会ったら、絶対に見せてあげる。
 可愛かったよ、小さくて、何しても可愛いかった。寝返りの頃は、布団の上でコロンコロン転がって、戻れなくなってうつ伏せのまま泣いていたっけ。睦月が家事でそばを離れると寂しがって、陽が背中におんぶしながら仕事をしていたこともあった。
 昼寝の時間に一緒になって三人で眠ってしまったり、たった五年のことなのに思い出のページはきっと何千枚にも及ぶ。
『この子ったら照れちゃって~睦月もあっという間に高校生になって、成人して……この家から出ちゃうんだろうなぁ。ねえ健ちゃん……寂しいね』
『それが自立だろ……それに寂しいと思う間も無く、葉月の子育てがあと二十年ぐらいは続くんだぞ~いっぱい働かないとなぁ』
『あははっ、そうでした! 睦月は優しい子だから、葉月はお兄ちゃん子になりそうだね~お母さんとお兄ちゃんの取り合いになったりして』
『お兄ちゃんだけじゃなくて、お父さんの取り合いもしてくれよ……』
『ほら、拗ねてる! 睦月慰めてあげて!』
 当たり前みたいに、この幸せが続くんだと疑いもしなかった。まさか、数ヶ月後に自分たちがこの世にいないなんて、思ってもみなかっただろう。
 もっと、優しくしてあげれば良かった。妊娠中の那月を労ってあげれば良かった。仕事であまり帰らない健吾のために、家のことももっともっとすれば良かった。
 出来なかった、後悔ばかりが募っていく。
「ねえ、お兄ちゃん……」
 黙って画面を見つめ続けていた葉月がポツリと口を開いた。動画に夢中になっていた睦月も、こぼれ落ちそうになる涙をグッと堪えてどうしたと聞いた。
「お母さんとお父さん、ボクのこと好きだった?」
「……そりゃ、大事に想ってたよ。産まれたばっかの葉月抱っこして離さなかったし、二人とも」
 産まれたばかりの葉月を見に、ウキウキとした様子で病院へと出かける父を思い出す。
 突然の事故は、那月が退院する日の病院からの帰り道に起こった。よくある玉突き事故なのに、たまたま後ろが大型のトラックだった。車四台が絡む事故での死者は、那月と健吾だけだった。
 少しだけ早産で産まれた葉月は、順調に体重が増えるまで入院することになっていた。管理が厳しい病院は、小学生の子どもは病棟に入れない。だから、睦月は学校が終わり、家で二人の帰宅を待っていた。
 今思えば、神様に葉月を連れて行かないでくれてありがとうとしか言えない偶然で、もしもあの日葉月の退院も決まっていたら、三人分の葬式をあげなければならなかったはずだ。
「だったら……なんで、死んじゃったのかなぁ……」
「お父さんもお母さんも、死にたくなんてなかったよ……楽しみにしてたんだ。お宮参りとか七五三とかもう一回できるんだねって! お食い初めって何用意するんだっけって、気が早いよって言ってたのに、葉月が産まれる前から鯛の尾頭付き買ってきたりして練習してた。俺にしてくれたことを全部同じようにやってあげたいって言ってた。だから、母さんたちは本当は葉月ともっとずっと一緒にいたかったんだよ。でも……仕方ないんだよ……誰も悪くない。事故、なんだから」
 ヒクリと喉が鳴る。我慢していたのは睦月も同じだ。だって、寂しくないはずない。大人になるまで、絶対そばにいてくれると安心しきっていた人たちが、突然いなくなったんだから。
 テレビの前で座り込みながら止まらない涙を手で拭っていると、大きな手に包まれた。
「ったく、お前らは揃いも揃って、頑固で融通が利かねえな。まだ子どもだって自覚あんのか? ガキは泣きたい時は泣いて我慢なんかするもんじゃねえんだよ」
「よ……う、さん」
「陽ちゃーん」
 通夜の時も葬儀の時も、しっかりと葉月のそばにいてあげないと、自分が葉月の面倒を見ないととそればかり考えていた。葬儀のあの時以来、悲しみに暮れる暇もなかった。
 頬を伝う滂沱の涙が、陽の肩口を濡らしていく。葉月の身体を抱き寄せて、小さな身体で必死に寂しさに耐えていたのかと思えば、もっと早くに気付いてあげられたらと後悔が押し寄せる。
 陽の子ども扱いは魔法のようだ。わんわんと高校生にもなって目が真っ赤になる程、葉月と泣いて憑き物が落ちたように楽になった。まだ子どもなんだから、我慢しなくていい、親の愛情に飢えていたっていいんだ。
「俺は、那月と健吾になることは出来ねえけど、あいつらがお前らに与えたかったモノを与えることは出来る。だから、もっと我儘になれよ」
 泣きすぎてピリピリと痛む目元を擦ると、陽の唇がそっと降りてきて目元の雫を舐めた。
「ちょっ……葉月が……」
 言いかけて陽の指が口元に当てられる。先程まで鼻をズビズビと鳴らしていた、葉月の声が今は聞こえない。
 腕の中にある小さな顔を覗き込めば、頬を涙に濡らしたままスースーと穏やかな寝息を立てて眠っていた。
「我儘……言ってもいい?」
「いいよ……お前の我儘だったら、大抵のことは叶えてやる」
 鼻や額にも唇が降りて、チュッと軽い音を立てながら口付けられた。まるで幼い子どもにそうするように。
「俺、赤ちゃんじゃないんですけど……」
「ん? 乳幼児にんなことするわけねえだろ? で、お願いは?」
「ずっと……ずっとね、家族でいて欲しい。大人になって、俺が働き始めても……陽さんが、結婚しても。あ、でもちゃんとそうなったら、出て行くからね! 家族って言うのは、あの気持ちの問題っていうか、いつまでもずっと陽さんに甘えるつもりはないんだけど、心の支えっていうか……」
 慌てるあまり、声が大きくなってしまっていたのだろう。葉月が身動ぎ、ビクリと身体を震わせる。そのまま、またふにゃふにゃと眠りにつく葉月に互いに顔を見合わせホッと息をつく。
「ちょっとベッドに寝かせてくる……あのな、いいか、絶対ここにいろ。俺が戻って来るまでだ。わかったな?」
 どうしてだか、気が急いたように早口で告げられる。珍しくも狼狽した様子の陽に、目を見張る。
「へっ? あ、はい……」
 葉月の身体を易々と持ち上げて、起こさないように寝室へ運ぶ陽の後ろ姿を見送る。ああ言われたものの、穴があったら入りたい気分で、自分の言った言葉を反芻しながら、頭を抱えた。
(どうしよう、言ってしまった。やっぱり迷惑だったよね)
 流しっぱなしになっていて、いつの間にか終わっていたDVDをケースにしまい、紅茶でも淹れようと立ち上がる。お湯を沸かして、ティーカップに紅茶を注いだところで陽が戻ってきた。
「陽さん、紅茶でよかったですか?」
「ああ、サンキュー。ブランデーも落としてもらえるか?」
「はい」
 酒類が入っている食品庫から飲みかけのブランデーを取り出し、スプーンでほんの少し紅茶に落とす。ふわりと漂う濃厚なぶどうの香りに酔いそうだ。ちょっと興味はある……が、未成年だしなんて残念に思いながらも陽をチラリと盗み見る。
「わかったよ、俺の一口やるから」
 カウンターキッチンの向こう側から、ティーカップを受け取ってテーブルへと運んでくれる。どうして考えていることがわかったんだろう。そんなにわかりやすく顔に出ていただろうか。
 席に着くと、ほらと陽は自分のティーカップを睦月の前に置いた。
「いいんですか?」
「一口だけな……若い奴はこんなの美味いとは思わねえしな」
 陽だって三十三にはとてもじゃないが見えない。中性的でまるでどこかの国の王子様みたいだなんて、夢見がちなこと口が裂けても言えないが。
 受け取った紅茶を恐る恐る口に含む。ふわりと鼻につくぶどうの香りがとても美味しそうに思えたが、想像より……どころかまったく美味しくはなかった。
「なんか、ちょっと甘いけど……変……」
 果実の濃厚な香りがするのに、アルコールのキツい味が慣れないせいか美味しくは感じない。例えて言うなら蜂蜜だと思って舐めてみたら、ゼラチンだったと同じぐらいの衝撃だ。
「だから言っただろ? 十七でブランデー美味いなんて思う奴いねえよ。オレンジジュースでも飲んどけ」
「馬鹿にし過ぎです」
「悪い悪い、でも睦月はお子様舌だもんな。甘いの好きだろ?」
「好きですけど……」
 ムッと唇を尖らせれば、キュッと鼻を抓まれる。あれから……あの夜から、やたらと甘い気がするのは気のせいだろうか。
「で……さっきの続きだけどな。陽さんが結婚しても、って何だよ。つーか、出て行くってお前ずっとそんなつもりでここにいたのか? だから、バイトとか言い出したってことか。前に言ったろ? 俺は家族だと思ってるって、出て行くってなんだよ」
 目の前に座った陽の口から深いため息が聞こえる。でも、自分は間違っていないはずだ。今じゃなくとも、いつかは陽だって結婚するだろうし、そうなったら葉月はまだしも睦月はここには居られない。
 居ていいと言われたとしても、正直陽と自分以外の誰かの仲睦まじい様子を、平静を保って見ていられるとは思えない。
 陽が田ノ上と睦月の知らない話をしているだけで、心穏やかでないのに。
「結婚……しないんですか?」
「しねえよっ」
 語気が荒く睦月の言葉に被せるように、陽が言う。どうしてそんなに必死になるの。
「どうして? そんなのわからないじゃないですか? 今は、恋人とかいなくても、この先出来るかもしれないし……ううん、陽さんに恋人が出来ないはずないです」
 一緒に出掛けると、周りの女性たちが色めき立つことに気付かないはずがない。背の高さもあるが、後ろ髪を伸ばして、金色に染められた髪色、整った男らしい顔立ちはとにかく人目を惹く。
「何でだよ」
「だって、格好いいもん」
 言い切る睦月に、陽は一つため息をつく。
「お前にそう言ってもらえるだけで十分だよ、俺は。まあ、結論から言うと……俺は一生結婚しない」
 だから、どうしてそう言い切ることが出来るのかと、訝しむ視線を投げかける。結婚しない、それとも出来ない理由でもあるのかと思ったが、どうもその先を口にするのを言い淀んでいるように見える。
 続きをただ紅茶を飲みながら待っていると、陽も同じようにティーカップを手に取り、自分を落ち着かせるように紅茶を口に含んだ。
「お前らを引き取る上で、言えなかったことがある」
 いつもよりも低く、逡巡しながら告げられる言葉は重かった。聞いている睦月にも陽の緊張が伝わって、ティーカップを持つ手がじっとりと汗で濡れた。
「何ですか?」
「俺の恋愛対象は……男なんだよ。だから結婚云々はあり得ないから、心配すんな」
「え……」
「いつまでだって、この家にいればいいし……俺が出て行けなんて言うことは絶対ない。これでも、感謝してんだぜ? 毎日毎日机に向かって小説書いてるつまらない男の家に、ただいまって帰ってくる家族が増えたこと。カップラーメンじゃなくて、あったかい味噌汁が飲めること。何より、部屋の中に音があること。一人の時は実感沸いてなかったけど、俺も多分寂しかったんだな」
 ため息混じりにポンポンと睦月の頭を撫でながら告げられる。
 まさか……男の人が好きだなんて。そんなの。
「引いたか?」
 黙ったままの睦月に心配そうな声がかかる。引く、なんてことは絶対ない。あり得ない。睦月はフルフルと首を横に振ると、陽の顔を仰ぎ見た。
「俺も、ご飯作って美味しいって食べてくれる二人がいるから、毎日幸せです。少しでも栄養があるご飯作ってあげようって、献立考えるのが楽しみになりました。それに……葉月が楽しそうに笑ってるから。俺一人じゃ、あんな風にちゃんと育てられなかった」
「俺たちは偽物の家族かもしれないけど……毎日の積み重ねがいつか本物になるかもしれないだろ? 少なくとも俺はそう思ってるから」
 止まったはずの涙が、再び頬を伝い流れ落ちる。今日は泣いてばかりだ。
「せっかくの美人が台無しだ……ほら、鼻かめ」
 テーブルの上にあるティッシュを鼻に押し当てられて、可笑しくて笑いが溢れる。あの時全部壊れてしまった幸せを、陽がもう一度与えてくれた。
 だからこそ、自分の恋心は家族だと言ってくれる陽に、知られるわけにはいかない。

 二十人の生徒に対して、保護者の数は三十人を超えていた。たんぽぽ組の外にも人が溢れかえり、普段の園での様子を一目見ようと普段共働きの両親が揃って参観している場合が多いようだ。
 まだ始まる時間ではないのか、子どもたちは自由時間を使って保育室にあるおもちゃで遊んだり、本を読んだりしていた。
 葉月は隣の席に座った男の子とブロック遊びをしている。あの子がよく葉月の口から話題に出る〝あーちゃん〟だろうか。
「うちね~パパとママが来てるの。ねえねえ、葉月んちは?」
 一年前の参観日では、まだみんなようやく赤ちゃんを卒業したばかりといった感じで落ち着かなかったが、たった一年で言葉が増え随分と知識が増えるものだ。だから男の子が聞いたのも、ただの好奇心でだとわかっていた。わかっていても、葉月が傷付きはしないかと、心穏やかではいられない。
「お兄ちゃんと陽ちゃんが来てるよ~」
 葉月が手を振りながら、あそこにいるよと男の子へ教えていた。睦月も葉月に手を振り返す。ああ、あの子がといった視線が睦月へ突き刺さった。両親がいないという事情を知っている保護者もいるが、殆ど顔を合わせたことのない保護者も中にはいる。誰かも知らない人たちからの哀れみを込めた視線にはもう慣れていた。
「なんでパパとママ来てないの~?」
「あ~ちゃん!」
 男の子に悪気はないのだろう。母親が焦ったように男の子を怒鳴る。そして周りの事情を知る大人たちの間で、不自然に空気が張り詰めた。
 担任が事情を説明しようと男の子の近くに寄るが、それより前に葉月がニコッと笑顔を向けて答えた。
「パパもママももういないけど、ボクには陽ちゃんとお兄ちゃんがいるもん。かぞくだもん。陽ちゃんはね~いっぱい本をかいてて、お兄ちゃんはいつもおいしいご飯つくってくれるんだよ~」
「え~いいなぁ、オレもお兄ちゃん欲しい! ねえ、ママ~お兄ちゃん欲しい~!」
 心底羨ましそうに目をキラキラ輝かせて、睦月を見つめるあーちゃんは、きっと帰ってからも両親にお兄ちゃんが欲しいのだと強請りそうだ。ピンと張り詰めていた空気が温かいものへと変わる。同時にホッとしたようにあーちゃんの母親の肩が落ちた。
「あつやくんにお兄ちゃんはちょっと無理かなぁ。ほら、今日はせっかくみんなのパパとママ、それにお兄ちゃんが見にきてくれてるんだからね。元気いっぱい朝のご挨拶をしましょう」
「はあい!」
 葉月は誰よりも元気よく手をあげて答えた。心の奥底にある寂しさが消えたわけではないだろう。けれど、葉月の成長が堪らなく嬉しかった。


──お前のバイト決めてきたから。
 今朝、起き抜けに陽から告げられた。やはり週に一日か二日程度となると、相当厳しく、諦めるしかないかと思っていたところだった。
 働きたいという気持ちはある。逃げだと思われても一緒にいる時間が増えれば増えるほど、育った気持ちが増長していく。いつまでだっていればいいと言われても、ずっと一緒にいたいという思いを持てば持つほど、恋心はどんどんと大きくなっていく。
 それに、最近特に陽からのスキンシップが激しい。隠していたことを曝け出したせいか、元々人肌の好きな人なのか、やたらと頬を寄せたりキスしたりを繰り返す。それも葉月の見ていないところで。
「睦月くん、平気? 休憩しながらやってね」
 ドアを開けて入って来た田ノ上に、大丈夫ですと首を振った。陽の紹介でというより田ノ上繋がりで紹介してもらったバイトは、田ノ上の働く出版社での雑務だった。一高校生である自分ができる雑務などたかが知れていて、しかも週一となると役に立てるかどうかと思っていたが、誰も手がつけられないでいる倉庫の整理ならば、なるほどと頷ける。
「いやぁ、最近新しいビルに引っ越してからさ、いつかやらなきゃと思ってても、誰も段ボール開けようって奴がいなくてね。締め切りは毎月やってくるし、正直何年もこのままかと思ってたよ」
 お手上げだとでも言うように、大袈裟に両手を広げた田ノ上に苦笑を返す。確かに、睦月が今日ドアを開けて思ったのは〝これを一人で?〟だった。足の踏み場のないほどに段ボールが積み重ねられ、今地震でも起きたらと考えたら怖いほどだ。
 段ボールの中には過去の出版物がギッシリと入っているが、今はデジタル化が進んでいるため、そう見直すこともないのだそうだ。それを壁一面に備え付けられた棚へと年代順、種類別に分けながら入れていくのが仕事内容だ。期間限定ではあるが、間近で陽の仕事に触れられているようで楽しい。
「田ノ上さん忙しいんでしょう? 俺勝手にやって時間になったら帰りますから、大丈夫ですよ」
「助かるよ、でも初日だし無理しないでね。帰る時もIDカード忘れずにね。タイムカードと同じだから、それ」
 首元にかかったカードを指差され、はいと頷いた。入館時手渡されたカード型の入館証はアルバイトにも配布されるらしく、残業などを入退館のゲートを通過した時刻で管理されているようだ。
 二十階建てのビル内は、小説やファッション誌、ビジネス書といった担当部署ごとに部屋が分かれているらしい。その他に営業部や本部と言われる経理、人事、総務、上層階には役員室がある。
「はい、わかりました」
「今日、早く上がれそうなんだ。睦月くん帰る時声掛けてよ。一緒に帰ろう? 俺車だし、送って行くから」
「いえ、そこまでしていただくわけには……あ、陽さんと約束してましたか? ご飯食べて行きます?」
 もしかしてと睦月が聞くと、ニヤリと口角を上げる田ノ上の姿があった。
「ちょっとそれ狙ってた。サンキュー」
「いえいえ、じゃあ帰る時声掛けますね」
「ん、じゃあ頑張って」
 ヒラヒラと手を振って、倉庫の扉が閉められた。再び作業に集中するべく睦月は手を動かしていく。

 ひたすらバックナンバーを月ごとに棚へとしまっていく作業は、単調ながらも重労働で、終わりの時間になる頃には身体の所々が鈍く痛みを訴えていた。
(明日は筋肉痛かな……運動不足だしちょうどいいか)
 荒地や杉崎と違い、部活に入っていない睦月は、自分の体力のなさを自覚している。まあ、周りにいる友人が体力があり過ぎるというのもあるが、線が細いからか食も細いし、運動という運動は学校の体育だけだ。
 ふと時計を見ると、すでに十七時を過ぎている。睦月の契約時間も五時までだから、そろそろいいだろうと倉庫を出た。
 編集部で働く田ノ上は、相当に忙しいのだろう。睦月が部屋を出る度に忙しなく電話なり呼び出しなりで、落ち着いている暇はなさそうだった。田ノ上だけじゃなく、周りを見回せば誰一人暇そうな人間などいない。
(大変なんだなぁ……)
 編集の仕事は、漠然と陽のような小説家の仕事を影で支えているだけだと思っていた。しかし、田ノ上が担当しているのは生活情報誌で、大掃除特集、知って得する情報、節約レシピなど様々な特集を時期ごとに組み、契約したライターから記事をもらい一冊の本へと仕上げていくらしい。側から見ていても、その作業は緻密で根気のいる作業に思えた。
「田ノ上さん……俺終わりましたけど、ロビー出たところで待ってましょうか?」
 電話が終わり、受話器が置かれたところを見計らって声をかけた。初出勤ということで、田ノ上も睦月を気にしてくれてはいたが、この忙しさを知ってしまえば、甘えられるものでもない。
「睦月くん、お疲れ様! うん、そうしてくれる? もう少ししたら降りるから」
「じゃあお先に失礼します」
「はい、お疲れ様でした」
 何かお手伝いしましょうかという言葉が喉まで出かかったが、やはり自分に手伝えることはきっと倉庫の整理ぐらいなのだろうと考えて、その場を後にした。
 エレベーターで一階へ降りる中、いつか陽の仕事をこういう形で手伝える日が来たらいいなと考え、夢のまた夢であるかと嘆息する。自分が進む方向すらまだ見えていない。とりあえず、高卒でも働ける企業、という目標だけだ。
 首に下げたカード型の入館証をゲートに翳して、自動改札機のような機械を通る。来客用の椅子がいくつもあるため、そのあたりに座って待っていればいいだろうと、あまり目立たない端に腰掛けた。
 その間に、スマートフォンから陽へと連絡する。葉月は大丈夫でしたかとメールを送ると、すぐさま返信があった。
〝お疲れ様。夕飯は稲荷寿しにしたから〟
〝陽さんが作ってくれたんですか? すみません〟
〝いつも無理すんなっつってんだろ。ありがとう、でいいんだよ〟
 無理するなと陽は言うが、葉月の昼食を用意し夕食の準備までしていたら、きっと仕事は進まなかっただろう。そう思うと、自分のしていることは、迷惑でしかないとすら思えてくる。バイトをしたいという動機すら不純なのに、本当に良かったのだろうかと。
「お待たせ、行こうか……どうかした?」
 スマートフォンを手に持ったまま、ロビーを通るビジネスマンをただぼうっと眺めていると、五分も経たずにやってきた田ノ上に大丈夫かと目の前に手を翳される。
「あ……すみません」
「疲れたよね、初日だし」
 睦月が疲れていると思ったのだろう。気遣うような視線を向けられて、苦笑する。
「いえ、それは大丈夫です。色々と勉強になります……ただ、ちょっと」
「ちょっと?」
 座っていた椅子から立ちあがり、田ノ上と並びながら駐車場までを歩く。歩きながら話すことも躊躇われて、睦月は黙って足を進めた。田ノ上もそれきり何も言ってはこなかった。
 さすが大手の出版社だけあって、自社で持つビルの地下は百台近くの車が停められる駐車場となっている。階段で地下に降りると、入り口から数メートルの場所に停めてあるセダンの国産車のロックが解除された。
「お邪魔します」
「はい、どうぞ……俺の車乗るの初めてだね。結構付き合い長いのに」
 助手席に座りシートベルトを締めると、車はゆっくりと動き出した。ハンドルを持つと性格が変わる人がいるというが、田ノ上の運転は穏やかだ。
「そうですね。陽さん、車持ってるけどそんなに外出る人じゃないし、あんまり乗る機会ないんですよね」
「あいつは確かに引きこもりだけど、まあそれだけじゃないと思うよ? で、何か気になってることがあるのかな?」
 チラリと視線が向けられ、車がスロープを登り地下から地上へと出る。車ならば、マンションまでは二十分かからずに着くだろう。とはいえ、帰宅ラッシュの時間と被り道は混雑していた。
「気になってる……っていうか、俺って考えなしだなと思って」
「考えなし? そんなことないでしょ? むしろ俺は考え過ぎだと思うけど」
「そうですか……ね。なんか、俺がしてることって裏目裏目に出ちゃってる気がするんですけど」
 少し陽から離れようと思い立った結果がアルバイトであったが、結局自分のことしか考えていない。葉月だってきっと寂しい思いをしているだろう。普段は近くの公園に行ったり、少しでも一緒にいる時間を作るようにしていた。今回のバイトのことを伝えた時も、お留守番できるよと笑っていたがそう言わせてしまったような気もする。寂しいと素直に言えないのがわかっているのに。
 しかし、半ば諦めていたバイトだったが、どうして陽は敢えて働いてみたらいいと言ってくれたのだろう。有難いとは思うが、多分陽の紹介がなければ仕事にあり付けなかっただけに、不思議に思った。
「もしかして、今回のバイトのこと?」
 思い当たることでもあったのか、田ノ上に言い当てられると益々自分の考えは信憑性を増した。
「陽さん、何か言ってました?」
「いや、あいつは何も。ただ、睦月くんに社会経験させてやってくれって言われただけかな。実際こっちも助かってるしね」
「でも……俺、家事ぐらいしか出来ることないのに、忙しい陽さんに葉月の世話させて……夕飯まで作らせて、ただ迷惑かけてるだけじゃないですか?」
 浅黄陽の小説を待っている人がこの世に何人いるか、それを考えたらちっぽけな自分のバイトなんかよりも、余程陽に小説を書いてもらう環境作りをした方がいい。自分には今できることがもっと他にあるだろうと思ってしまった。ただ、これ以上好きになりたくはないと逃げたいがために。
「あいつはさ……好きなのよ。キミたちの面倒見るのが。で、小説はあくまで仕事。金を稼ぐための手段、好きか嫌いかで言えば嫌いじゃないって返ってくると思うよ。だから迷惑かけるぐらいでちょうどいいんじゃないの?」
「そうなん……ですかね……」
「もうちょっと自信持っていいでしょ。キミたちはちゃんと陽に愛されてる。気持ちはわからないでもないけど、その愛情を疑うのは陽に失礼だよ。だって、俺だったらたとえ親友の子どもであっても、引き取るっていう選択をするかはわからない。それだけ大きな責任を負うことになる。それに仕事も不規則だし、寂しい思いをさせてしまうかもしれないと考えたら、余計にね」
 どれだけ自分が恵まれているかはよくわかっている。愛情を疑っているわけでもないのだ。
 引き取られてから、睦月と葉月の学校、保育園の行事には必ず顔を出してくれた。授業参観や文化祭、本人に目立つ自覚がないのか、誰の父兄だと噂になり堂々と〝黒岩睦月の家族です〟と言ってくれたのは嬉しかった。睦月が高校に上がってからは、共に保育園の行事に参加している。どれだけ忙しく締め切りが迫ってようと、陽はそれを悟らせないように家族でいてくれた。
「まあ、俺が言うまでもなくわかってるよね、睦月くんは。ただ、陽のこと大好きなんだよな」
 揶揄うような田ノ上の言葉に、頬が紅潮していく。そんなにバレバレだろうかと、ハンドルを握る田ノ上を覗き見れば、ニヤリと口角を上げて笑っていた。
「だ、だ……大好き、とかじゃっ……」
「あ~ごめん、俺わかっちゃった……そっか、そういう好きか」
 笑いを噛み殺しながら告げられる言葉に、やっぱり一人で帰ればよかったと、今すぐここから立ち去りたい思いだ。
「はっ!?」
「そっか、そっかそういうことね……だから、突然バイトとか言い出したのか」
 堪えきれなかったのか、ははっと声を高らかに笑われて、ますます居た堪れなくジワリと涙が滲んだ。こういう時大人って嫌だ。何もかもわかったように、優しげな瞳を向けられる。こっちは陽の顔を見るだけで胸がキュッと苦しくなり、いっぱいいっぱいだというのに。
「え、あの……ちょ……」
「はい、着いたよ。車置いてくるから、先に帰ってて。後でね」
「あ、はい。ありがとうございます」
 いつの間にか、田ノ上の車はマンションのエントランス前に停まっていて、降りてとシートベルトを外された。住人が利用するエントランスに停めたまま話し続けるわけにもいかず、睦月が降りると田ノ上の車は来客用の駐車場へと入って行った。
「なんなの……もう」
 色々と知られていそうで、マンション前で田ノ上を待つのは分が悪い。睦月はオートロックを解除しエレベーターに乗り込むと、狭いエレベーターの箱の中でズルズルとしゃがみ込んだ。

 ピンポーンとオートロック側のインターフォンが鳴った。田ノ上だとわかっていたから、睦月は応答せずに解除をした。
「陽さん、稲荷寿しありがとうございます。あと、お味噌汁と魚でも焼きます? あ、田ノ上さんも一緒に食べるって言ってました。約束してるんですよね」
 取り繕うように早口で言えば、準備に忙しいと思ったのか陽は特に気にする素振りはなかった。そのことにホッとしながら、キッチンに立つ。
「ああ、そういえば……すっかり忘れてた。さっきのインターフォンあいつか?」
「はい。会社から送ってくれたんですよ」
 睦月が言うと、陽の目がスッと細まり幾分か低い声色で告げられた。
「車でか?」
「は、い……そうですけど?」
「そうか」
 玄関の鍵は開けてある。部屋のインターフォンが鳴り、睦月が開いてますと声をかけるとすぐに玄関のドアが開けられ、田ノ上の快活な声が響いた。
「お邪魔~」
「ほんとに、邪魔だな」
「ひどっ! 睦月くん~こいつのツンデレなんとかしてよ~」
 先ほどまでの大人の顔付きの男はもういなかった。田ノ上は陽の前では、割といじられ役に徹する節がある。それがこの男の本来の姿なのか、フリなのかは睦月にはわからなかったが、そんな掛け合いが二人の仲睦まじさを表しているようで、睦月はいつも間に入っていけない。
「お兄ちゃん、ぎゅうにゅうは~?」
 部屋でおもちゃを片付けていると思っていた葉月が、いつのまにかキッチンへと姿を現した。
 小さな手が睦月の手をキュッと掴んだ。チリチリと焼けるように熱かった胸が、静まっていく。
「あ、そうだ……保育園の作品展に牛乳パックとか持っていかなきゃいけないんだっけ」
 保育園からのプリントに書いてあったのをすっかりと忘れていた。ペットボトルや牛乳パック、それに瓶などはよく保育園に持っていかなければならないため、いつも一つ二つは残してある。まあ日常生活によく使うものだから、すぐに揃えられると思うが念のため冷蔵庫の中をと、確認した。
「そうだよ~ヨーグルトのカップとかもね」
 牛乳パックにヨーグルト、と冷蔵庫を開けて見れば、どちらも大丈夫そうでホッとする。保育園からのプリントを冷蔵庫に貼り、忘れないように赤ペンで丸をしておいた。
「ん、大丈夫そう。明日洗って乾かしてから持って行こうね。葉月片付けは終わったの? 終わったんなら、兄ちゃんご飯の用意あるから少しだけ一緒に遊べるよ?」
「おへやはちゃんとかたづけたよ! じゃあ、ブロックする? おうち作ったの!」
 こっちに来てと、葉月に手を引かれ着いていくと、テレビの前にブロックで四角い箱のようなものが作られていた。ブロック以外のおもちゃは綺麗に部屋に片付けられていることに、よしよしと葉月の髪を撫でた。
「お家、大きいね」
 広げられた色取り取りのブロックが積み重なって、まるでお城のような家が作られていた。庭と思われる場所には花も付けられていて、屋根と窓もある。五歳でこんなに家っぽく作れるなんてとつい考えてしまうぐらいには、兄バカな自覚はある。
「これね、ボクが大きくなったら陽ちゃんと、お兄ちゃんと住むお家なの! あーちゃんち、みたいにお家に階段があるの!」
 あーちゃんの家はきっと一軒家で、階段があるんだろう。参観日からも仲良くしてくれているようでホッとする。
 葉月に実はこのマンションにも階段はあるんだと言ったら驚くだろうか。非常階段のため、高層階の住人が使うことはまずないが。
「そっか、みんなで住むお家なんだね。そうなったら、いいね」
 大きくなって陽と住めるかどうかはわからないが、葉月の願いは睦月の願いでもある。ただ、陽のことが大好きで、ずっと一緒にいたいと思っているのだ。
「なんだ、葉月一軒家に住みたいのか?」
 背後からニュッと伸ばされた手が、葉月の頭をグシャグシャとかき混ぜる。田ノ上と仕事の話があるようなことを言っていたが、いつの間にやら終わっていたらしい。
「うん! だってね、あーちゃんちお庭があって、ワンワンがいるんだって! でね、お休みのとき、お庭でやきにくするって言ってた!」
「庭で焼肉、バーベキューでもしてんのか? さすがにここじゃあ、バーベキューは出来ねえもんな。そのうち家買うか……」
 冗談とも本気ともつかない陽の口調に慌てたのは睦月だ。
「陽さんっ! 子どもの言うこと本気にしないでくださいっ!」
「なんでだよ、いいじゃねえか。一軒家」
 どこまで本気なんだかわからない。金に困ってはいないだろうが、そもそもこのマンションも分譲で駅から近い立地に建っているため購入額は安くはないはずだ。睦月たちを引き取る時にすでに一人で住んでいて、三人で住むにも十分な広さがあったから、引っ越さなかったと言っていた。
「え、いや……でも」
「陽のとこも小さい頃からずっとマンションだったって言ってたっけ。確かにマンション住まいだと憧れるよな、一軒家」
 いつの間にか田ノ上も陽の後ろにいて、葉月の作ったブロックを囲むようにみんなでリビングに座り込む。ソファーもあるが、どうしても小さい子ども目線で話すには、床に座った方が話しやすい。
「ま、うちは親が奔放だし、家に寄り付かなかったからな。そもそも一軒家って話が出たこともねえけど」
 聞いたことのない陽の家族の話に、胸がキリキリと音を立てる。
「そう、なんですか?」
 田ノ上は付き合いが長いだけあって、小さい頃の陽の話も知っているんだと。一緒に暮らしているのは自分なのにと、言いようのない悔しさに胸が締め付けられるようだ。
「両方とも働いてて海外行ったきりだ。今どこの国にいるのかも知らねえよ。ああ、でもお前ら引き取ったことは知ってるぞ」
 睦月も葉月も、陽の両親に会っとこともなければ、電話で話したこともない。
「そうそう、陽がゲイだってカミングアウトしてからは、益々仲悪くなっちゃってさ。でも睦月くんたちが気にすることないからね」
 勝手な想像で陽は天涯孤独の身だと思っていた。この家に陽の血縁関係者が訪ねてくることもなかったし、今までの会話の中でも出なかったから、特に睦月も聞かなかったのだ。
 それに本人が言わない話を掘り探って聞くのは失礼かとも思い、睦月たちと同じように早くに家族を亡くした人なのだろうと考えていた。
「げい、かむんぐってなあに?」
 キョトンと目を丸くしながら、言葉に引っ掛かりを覚えた葉月が口を挟む。
「あ……葉月、ほら一軒家作るなら、二階とかもあった方がいいんじゃない?」
 まずいと慌てて話を変えると、クックと喉奥で笑う田ノ上の姿があった。子どもの前ではやめてほしい。
 田ノ上は……陽が男性が好きだということを知っているんだ──。
 ふと頭を過った。もしかしたら、田ノ上は陽が好きなんじゃないかと。陽だって、田ノ上のことを憎からず思っているのは明白だ。ゲイだということを知られていても、同性に告白はなかなか出来ないだろう。だって、知られてしまったら友達でもいられなくなるかもしれない。もし自分だったらと考えれば、絶対に告白はしない。
 今だって、家族という関係を壊すのが怖くて、想いを告げられずにいるんだから。
 田ノ上がこの部屋に来るたびに、仲良さげな場面を何度となく見せつけられている。それに……睦月の気持ちも知っている。
 やはり牽制、されているのだろうか。
 陽は俺のだと、だからお前が入る隙はないのだと、言われているのだと思えば今までのことがピッタリと当てはまる。
 それに結婚はしないと陽は言ったけれど、恋人がいないとは言っていない。睦月が知らないだけで、本当は二人はすでに恋人同士ということもあり得る。
 初めから、バイトだなんだと陽と距離を置こうとする前から、とっくに失恋という結果は決まっている。そんなことはわかっているけれど、現実に突きつけられると、やはり辛い。
 男の人が好きだから触ってくれたのかも、なんて少しだけ期待していた自分が馬鹿みたいだ。優しいから慰めてくれたに過ぎないのに。
 涙が溢れそうになるのをグッと堪えて、唇を噛み締める。こんなところで泣いたら、また心配をかけてしまう。それだけはダメだ。絶対に自分のこの気持ちは知られるわけにはいかない。
「すみませ、俺……ご飯作らなきゃ」
 睦月は立ち上がりキッチンへと向かう。陽も葉月もほとんどキッチンには足を踏み入れない。今日夕飯を作ってくれたのは久しぶりのことで、大変だっただろう。言ってみればキッチンは睦月の城だった。
 カウンターキッチンの床に見えないように座り込めば、堪えていた涙が溢れ落ちる。
 どんどん欲張りになってしまう。家族だと言ってくれただけで充分じゃないか。これ以上望んだらバチが当たる。
 俺だけを見て──だなんて。
「……っ」
「葉月くん、俺とあっちで遊ぼうな~」
 睦月の気持ちとは裏腹に、やたらと明るい田ノ上の声がリビングに響く。足音がいくつか響いて、頬を伝う涙を袖で拭っていると、頭にポンと手を置かれた。
「こら、お前はまた隠れてそうやって一人で泣く。本当に手がかかるな」
 頭上から深いため息が聞こえて、ビクリと肩を震わせた。煩わせたくないから、一人で泣いているのに。
「ごめ、なさっ……」
「怒ってるわけじゃねえよ……で、今度は何だ。つか、最近情緒不安定だな、お前は」
 三畳ほどのキッチンスペース、食器棚の前に二人で座り込み、陽はおいでと手を広げる。いそいそと、陽の足の間に座り込めば、ふわりと両腕が回って抱き締められた。
「睦月くん、気をつけなよ~! 陽ってキミみたいなの大好物だから」
 廊下から葉月の部屋へと向かう、田ノ上に通り過ぎざまに告げられてはて、と首を傾げた。
「充! 余計なこと言うな!」
「大、好物……?」
「その話はいいから……で、なんで泣いてる?」
 子どもをあやす様に背中をポンポンと撫でられる。もう子どもじゃないのにと思う反面、陽の腕の中は酷く心地いい。
「何でもない、です」
 何でもないと言いながらも、グズっと鼻が鳴る。陽の前じゃ感情が抑えられないから、逃げたのに。
 だって、好きですなんて言ったら、陽が困る──。
「我慢すんなっつったろ? まあ、その強情なところも嫌いじゃねえけど」
「ほんとに、ちょっと目にゴミが入っただけで」
 濡れた目元をシャツの袖で拭きながら、平気ですと引き攣った笑みを向ける。
「ふうん」
 顎を持ち上げられて、本当かと瞳を覗き込まれる。ゴミなんか入っているわけはない。探る様な瞳が、スッと細められたかと思えば、涙に濡れた目尻にキスが落とされた。
「陽、さん……誰でも、こういうことするの?」
 馬鹿みたいに期待してしまうから、触らないで欲しいのに、触れられればやはり胸が高鳴る。
 もっとしてよ、俺だけを触ってよ。俺がそんな風に思ってること、知ってるのと、叫びたくなる。
「するわけねえだろ」
「恋人……好きな人、いるのに、こういうのダメだと思います……」
 気持ちが浮きだち、小さな燈のような希望がポツポツと灯る。自分が陽の特別な存在だと思いたくなってしまう。家族で恋人になれたらいいのに、なんて叶わない望みを持ちたくなってしまう。
「はっ? 恋人なんていねえっつったろ?」
 結婚はしないと言ったけれど、恋人がいないとは言っていないと言い返すと、陽は何とも複雑そうな表情をした。
「……田ノ上さんは?」
「何であいつと恋人にならなきゃなんねえんだよ、気持ち悪い」
 気持ち悪いだなんて、さすがに田ノ上に失礼だと思うが、じゃあ一方的な田ノ上の片想いなのだろうか。
「いい加減、お前……鈍過ぎて呆れるぞ……」
 金色の髪を邪魔くさそうにかきあげて、疲れを吐き出すように陽の口からは深いため息が溢れる。
「鈍いって、酷いです」
 チュッと額にキスが落とされて、目尻へと頬へと陽の唇が移動する。唇を通り過ぎ、落胆していると熱い唇が睦月の首筋をなぞった。舌でペロリと舐められて、ゾクゾクと背筋に快感が走った。
「……っ」
 思いもよらない刺激に、小さく声が漏れる。平静を装って何が鈍いんですかとジッと陽を見つめれば、微かに頬を染めた陽に見つめ返されながら告げられる。
「あのなぁ、俺はお前にしかしたくねえの、こういうこと……。でも、未成年だから、大人の理性で必死に我慢してんだよ。この間のは我慢効かなかったけど……あれは誘ったお前も悪い」
 頭がグチャグチャでもう何もわからない。さっきからずっと、頭の中には、期待してもいい、とかもしかしたらという言葉ばかりが巡る。
「もっと……俺にわかるように、言ってくださ……っ」
 期待し過ぎて、涙がボロボロと溢れでる。
 もうお願いだから、好きだと言って。
「面倒くさいお前のことが好きだって言ってんだよ」
「ふっ、え……」
「あーあ、涙と鼻水で顔ぶっさいくになってるぞ。ほら、チーンしろ」
 ティッシュを鼻に押し当てられて、濡れた顔を拭われる。風邪をひいた葉月と同じ扱いに、つい口を尖らせる。
「子どもじゃないっ」
「子ども、じゃねえわな。俺が欲情するぐらいだから」
 あっさりと告げられた言葉に、陽に触れられた夜を思い出し赤面する。あの時も、もしかしたら睦月を欲しがってくれていたの、と。
「よっ、欲情って……」
「ほら、飯作るんだろ。葉月がお腹空いたって騒ぎ出すぞ、そろそろ」
 タイミングを狙っていたとしか思えないが、陽の言葉に葉月の部屋のドアがガチャリと開いて、田ノ上が顔を覗かせた。
「おなか空いた~! 兄ちゃん、おいなりさんはやく食べたいよ~」
 ほらと腕を引かれて立ち上がる。目尻に残った涙を袖でグイッと拭くと、手を洗って準備に取り掛かる。
「待ってて。すぐ作るから」
 どうしよう。好きだって言われた。後から後からくる喜びに心が満たされる。夢なんかじゃないかと、隣を見れば蕩けるような笑みを浮かべた間違いようのない男の姿。
「俺、魚焼くから、お前味噌汁な?」
 手際よくグリルに魚を入れて火をつける陽は、一緒に暮らすまで料理などしたことがなかったのだと言っていた。今は殆どの家事を睦月がこなしているが、一緒に暮らし始めて最初の頃は、悪戦苦闘しながら料理をしている陽の姿があったなと思い起こされる。
「陽さんも、料理上手になりましたよね」
「そりゃ、子どもにカップ麺ばっか食わせるわけにいかねえだろ?」
「収まるところに収まって良かったなぁ」
 食器棚から皿を出して並べながら二人で話をしていると、カウンター越しに意味ありげにニヤニヤと口元を綻ばせた田ノ上が口を挟んでくる。カァッと頬が染まるのを自覚しながらも、元はと言えば睦月に嫉妬させるように仕向けたのではないかとすら思えてくる田ノ上の行動が原因だと思い直す。
「薄気味悪い想像してたぞ、こいつは。充、お前なんか言ったか?」
「言うわけないでしょ。三十三のおっさんが、十七歳の少年に恋愛感情抱いてますとか言ってないし」
「おい……葉月の教育に悪いだろうが」
 キョトンと首を傾げる葉月は、しっかりと両耳が田ノ上の手によって塞がれていた。
「たーちゃん、なにー?」
「ん~? 早くご飯食べたいねって話」
「田ノ上さんもうすぐ出来るので、葉月を手洗いに連れて行ってもらえますか?」
「はいよ、ほら行くよ。手を洗おう~って歌知ってる?」
 洗面所までの数メートルの道のりを二人手を繋ぎ、歌いながら歩いて行く。
「知ってる~たーちゃんもうたえる?」
 まるで本当の親子のような会話に、クスリと笑いが溢れる。
「前から思ってたけど、田ノ上さんって子どもの扱い上手いですよね」
「そりゃそうだろ、あいつバツイチ子持ちだから。確か葉月と同じぐらいの男の子がいるぞ、まあ奥さんに引き取られてるから、あまり会えないみたいだけどな。仕事が忙し過ぎて子どもの世話は無理だろうって裁判所に判断されて、親権は実家暮らしの母親になったんだ」
 仕事も不規則だし、寂しい思いをさせてしまうかもしれないと考えたら、余計にね──そう言った田ノ上の言葉は自分に向けてのものだったのだろうか。
 愛情を疑うなと言った田ノ上の想いがすんなりと心に落ちた。子育ては無理だと判断され、なかなか会いにも行けない。
 自分の子どもに愛情を疑われたら悲しいんだと、あの時の表情が言っていた。
「そうだったんですか」
「土日も昼夜も関係ないからな、出版社は。校了前なんか特に家に帰れない日が続くって言うし。月に一度会えればいい方だろ」
「でも今日は、早く帰れてるじゃないですか」
 こんなに早く帰れることがないのなら、今日のような日に会いに行けばいいのに、なんて余計なお世話だとは思うが、正直葉月を構ってる暇があるなら、自分の息子に会いに行けばいいのにと思ってしまう。
「いや、今日も仕事で来てんだよ、ここに。今度あいつんとこの情報誌に連載で載せることになった」
 いくら旧知の仲とはいえ、もう次の仕事も決まっているのに急な話だ。
「あ、そうなんですか?」
「あいつには借りを作ったからな」
「借り?」
 焼けた魚をテーブルに運びながら聞くと、葉月と田ノ上が戻ってくるところだった。
「あ、田ノ上さんありがとうございます」
「おお、美味そう。いやいや、ご馳走になるんだからこれぐらいはね」
「これからまた仕事なんですか?」
 葉月を子ども用の椅子に座らせて、最近練習中の箸と念のためフォークを用意する。
「そうそう、そこにいる浅黄大先生がうちの連載やっと引き受けてくれたからね。編集長に直々に頼まれてた話がようやく上手くいって、ホッとしながら仕事が出来るってもんだよ」
 そういえば、いくつかの出版社から本を出している陽は、田ノ上のところは付き合いがないようだった。他にも大手出版社はいくつもあってそれら全てと付き合いがあるかと言えば、そういうわけではないのだから偶然かもしれないが。
「ずっと断ってたんですか?」
 全員が席に着き、いただきますと手を合わせる。葉月の魚の骨を取ってやりながら聞くと、陽は気まずそうに視線を逸らす。
「まあ、陽は忙しいからね。しかもそこまで仕事ガツガツ入れたいわけじゃないでしょ、この人。三人で食べていけるだけの収入があればいいんだよ」
「でも、なんでじゃあ急に書くことになったんですか?」
 何かきっかけでもあったのだろうかと、睦月が不思議に思っていると答えをくれたのはやはり田ノ上だった。陽は口を噤んだまま、黙々と箸を動かしている。
「睦月くんのバイトと交換条件だったの、うちの編集長そういう時逃さないからねぇ」
「え……」
「だって、バイトだってのに面接もなければ突然履歴書だけ持って来てって感じだったでしょ? いくらアルバイトでも信用調査ぐらいはするからね、昨今。それなしで入れるのは、余程のコネクションがあるってことだよ。キミの場合は、それがこの人だっただけ」
 確かに陽からお前のバイト決めて来たと急に言われて、その後すぐに田ノ上から会社に来てと呼び出された。あいつんところなら大丈夫だろなんて、まるで詳細を語られず、じゃあ今週の土曜日からよろしくねとトントン拍子に話が進んでしまったのだ。
「俺、自分一人でバイト決められなそうなぐらい……頼りないですか?」
 陽がしているのは、結婚相手を探すために見合い会場に乗り込む母親の行動と同じではないのかと、今更ながらに思う。しかし、自分にとって都合がいい週一での仕事などそうそうある訳でもなく、困っていたのも確かだ。
「そういうわけじゃねえよ」
「そ、陽はただ、やたらと過保護なだけ。それに、キミたちと過ごす時間をこれ以上減らしたくなかったんでしょ。もし睦月くんが無理して週何日もバイトに出かけたら葉月くんも寂しがるし、陽も寂しい。だから、自分のコネをフルに使って、俺のところに話を持ちかけたってことだろうよ。それに毎回一万字ぐらいの連載だったら、別に仕事的にも辛くないしな」
「そうなんですか?」
「家族との時間を大切にして何が悪い。睦月の希望は叶えてやりたかったけど、言わないだろうが葉月が寂しがるのは目に見えてわかってるし、充んとこなら安心だろ」
 今更だが、自分はこの人に実は凄く愛されてるんじゃないだろうかという実感が湧いてくる。
「陽ちゃんはかぞくだもんねぇ」
「そうそう、やっぱり家族は一緒にいないとな。ってことで、ご馳走さん。俺仕事戻るわ」
 食べ終わった食器をキッチンへと運ぶ田ノ上を止めて、睦月が立ち上がる。少しでも早く終わって、子どもの顔を見に行くぐらいの時間が取れるといいのにと願ってしまう。
 玄関先で靴ヘラを手渡し佇んでいると、フッと柔和な笑みを向けられる。
「俺のこと、何か聞いたでしょ? 睦月くんはほんとわかり易いね」
「え、あ……あの、すみません」
「いーえ、別に隠してる訳じゃないからいいよ。まあ、またこっちの家族にお邪魔させてよ。なかなか、本当の息子には会えないからさ」
 ふと寂しげな笑みを向けられて、睦月は切なさに目を細めた。
「いつでも来てください」
 ずっと誤解して悋気していた気持ちは、すっかりと消え失せていた。


「あれ……俺のシャツ知らない?」
 恒例の月に二回のプールの授業が終わり、着替えようとロッカーを開けるも肝心の白いワイシャツがロッカーから失くなっていた。そういえば、すっかりと忘れていたが前の授業でタオルが失くなっていたのは、結局見つからないままだ。
 タオルだけならば気のせいとも言えるかもしれないが、さすがに登校時に制服を着忘れたなんてことはないだろう。
「前も、タオルがないとか言ってたな?」
 荒地が心配げな声色で問う。杉崎も周りを見回しながら声を潜めて耳を寄せてくる。
「取り敢えず、この体操服着ておけよ。俺まだ替えあるからさ」
 体格の近い杉崎が部活用の体操服を睦月に手渡した。タンクトップの上から学ランじゃさすがに寒いため助かる。礼を言って受け取った。
「ありがとう……助かる。でも、これってさ……」
 もしかして、自分の思わぬところで誰かの恨みでも買ってしまっただろうかと、些か心配になったところで荒地がボソリと低い声で言った。
「お前、気をつけろよ……これイジメとかじゃねえぞ」
 あまりに真剣みを帯びた瞳に、睦月の心に動揺が走った。
「え、どういう意味?」
 荒地と杉崎は二人で目配せし合うと、睦月にはわからない会話をし始める。
「お前、まだアレ持ってるか?」
「一応、な」
 杉崎が鞄から何かを取り出すと荒地に手渡した。封筒に入れられた小さな何かは写真だろうか。ちょいと手招きされ覗き込むと、見間違うはずのない自分の姿。
 しかも、場所は多分ここ、だ。
「なに、これ……」
 着替えている途中のようで、腰にバスタオルを巻き上半身は裸だった。写真自体は珍しくはない。
「これ、写真部の八田が撮ったやつ?」
 睦月が聞くと、荒地は肯定も否定もせずに顔を曇らせる。
 撮られたことに気付かなかったが、八田がクラスメイトの写真を撮ることは珍しくはない。まあ、素肌を晒している写真はあまり嬉しくはないが、痩せた自分の裸体が写った写真が欲しいとは思わないから、八田のお蔵入りにでも入れられているのだろう。
 しかし、それを何故杉崎が持っているのかということだ。
「ちょい前にな、お前が今使ってるロッカーに貼られてた。あいつが写真撮って校内でばら撒いてるのは知ってっけど。あいつに聞いたら、本人だけじゃなく欲しいっていう他の生徒にも配ってんだとさ。金取って。で、睦月のこれ、撮ったのも貼ったのも八田じゃない。そういうの誰に売ったかは覚えてねえって言ってたけど、自分が撮った写真ぐらいは覚えてるってよ。問題になって稼げなくなると困るから、黙っといてって頼まれたぐらいだからな。それまでも、怪しいなって思うことはたまにあったんだけどな、確証が掴めなかったから」
「よく、意味がわかんないんだけど……怪しいなって?」
 胸元が隠れていない写真を撮られたとしても、自分は女性ではないし特に思うところはない。多少の不気味さはあるが。
「お前が嫌かと思って言わなかったんだから許せよ? お前みたいないわゆる美人顔、男からモテるんだよ」
 本当は言いたくなかったと決まりの悪い顔で、荒地がポツポツと溢した。
「男にって……嘘でしょ?」
「んなつまんねー嘘つくかよ。だから、敢えて俺らが壁になってたんだろうが」
 以前から、体育の着替え時にやたらと荒地と杉崎が共にいることが多いなと思ってはいたが、自分は隠されていたのかとやっと納得できた。クラスメイトが睦月をそういう目で見てるとは思えないという気持ちはあれど、気遣いはありがたかった。
「ありがと……」
 しかし、八田が撮った写真でないとしたら、誰が。
「何が問題って、睦月のその危機感のなさだからな。自覚があるんなら俺らだって、こんなことしてねえよ?」
「うーん、写真はともかく、制服盗られるのはちょっと問題だよね……ワイシャツって幾らするんだっけ」
 気味は悪いが、悪意でないのなら今のところそこまで気にすることでもないかと、睦月は軽く考えていたが、タオルぐらいならまだしも制服は困る。きっと落とし物として届けられることもないだろうし、返ってはこないだろう。しかし、人の制服などを盗ってどうするのか。
「だから、そういう問題じゃねえんだって!」
 苛立ちを含んだ声色で荒地が叫ぶと、更衣室にいる幾人かの生徒が何事かと振り返る。
「はぁ~荒地そんなに言ったって仕方ないよ。制服見つかればいいけど、あんまりそういうことあるなら先生に相談しよう。あと睦月、その前に陽さんにちゃんと言いなよ?」
「うん……わかった」
 杉崎に諭されて、神妙に頷いた。これ以上何かを盗まれるのは確かに困る。
 制服を失くしてしまったことは、隠しておけることでもないし、言わなければならない。二人の懸念が睦月にはよくわからなかった。こんな外見をしていても、睦月とて一応男だ。まさか襲われることもあるまいし。
「ほら、早くしないともう時間ねえぞ」
「うわ……ほんとだ」
 壁に掛けられた時計を見て、借りた体操着の上から学ランを着込み、水泳バッグと鞄を持ち慌ただしく更衣室を出る。
 結構な時間話し続けていたため、昼休みがあと十分で終わってしまう。廊下をバタバタと走りながら、教室へと戻った。

「飯食う時間そんなないな」
「睦月、頑張れ」
 杉崎に弁当の卵焼きを口に入れられる。つい、口を開けて食べてしまったが、意外に多かったそれに飲み込むのに時間がかかる。やっとのことで飲み込むと、次が差し出される。拷問だ。
「無理……」
 ふと突き刺すような視線を感じて、ハッと顔をあげる。同じように荒地も周りを探るように見つめていた。
「さっきの話だけど、これ以上……エスカレートしたらヤバイよな」
「まあ、ね……」
 タオルに続いて、制服。もしかしたら他にも自分が気付かなかっただけであったのかもしれない。じゃあ次はと考えると、確かに荒地と杉崎の言う通り、睦月は軽く考えすぎなのかもしれない。
 でも、深く考えれば考えるほど、気味の悪さが際立ち恐怖を覚えてしまうのだ。多分、誰かのイタズラだろう、そう考えた方が幾分か気が楽だ。
「そういや、睦月バイト始めたんだって?」
 少しでも明るい話題をと思ったのか、杉崎が話を振る。朝、登校時にバイトが見つかったとだけ話していたが、いつもの如く遅刻ギリギリだったため、詳細は告げていなかった。
「あ、うん……陽さんの紹介でね、週に一回だけ」
「やっぱり家を出るための予行練習? よく陽さん許したね。俺の勝手な想像だけどさ、どちらかというと、陽さんの方が睦月を溺愛してるんだと思ってたけど」
 杉崎の言葉に頬が熱くなる。その通り本当は溺愛されてたみたいだとは言えずに、どういうべきかと目を彷徨わせる。
「あの人自分が知らないところで、お前が構われるのとか嫌がるだろ。ほんとは俺らと遊ぶのとかも、イラッとしてそうだしな。なのに、よく許したな……ってことは、告ったか?」
「ちょっ……荒地何言って……え、なんで?」
 まるでその場面を見たかのように告げる荒地に、動揺が止まらない。散々陽は格好いいだの、役に立ちたいだのと言っていた覚えはあるが、恋愛的な気持ちであると気付いたのは最近のことだ。まさか、いくら気を許した間柄とはいえ、陽に対して抱いている劣情をそう簡単に言えるはずがなかった。
「前にお前んち行った時、俺完全に牽制されてたからな。サッサとくっ付いちまえと思ってたけど、やっとか」
 思わぬ言葉に愕然とする。荒地が家に来たのは去年の話で、あとは中学時代行事で顔を合わせた程度だ。そんな前から、荒地にバレるぐらいに睦月のことを想ってくれていたのだろうか。
 荒地の言う通り自分から気持ちを伝えたわけではないけれど、結果としては似たようなものだと、泣き喚き縋ったところは避けて説明する。
「ふうん、で受け入れてもらったと。お前相変わらず分かり易すぎ。幸せそうな顔してんなよ、花舞ってるぞ」
「へぇ、やっと収まるとこに収まったんだ」
「それ、知り合いにも言われた……俺、そんなわかりやすい?」
 やっと、ということは余程焦れったい関係に見えていたのだろうか。田ノ上と全く同じ反応を示す杉崎に驚きを隠せない。というより、男同士で色々と問題だらけだと思うのだが、その辺りを軽く受け流す二人にだいぶ前から勘付かれていたと知る。
「分かりやすいったらないだろ……中学の頃から、お前の生活は葉月と陽さんを中心に回ってたし、あんだけ格好いいだの綺麗だの言ってたらなぁ。中学の頃から、自分がどれだけあの人の話してたか気付いてねえの?」
「まあね、まさしく恋する少年って感じだったし。俺でもすぐにわかったよ」
 高校からの付き合いの杉崎にすら、バレバレだったのいうのか。それならば言ってくれればいいのに、一人で空回って馬鹿みたいだ。
 目を合わせられないほどの羞恥心で、全身の血が沸騰するように熱い。だって、自らが気持ちを自覚するよりも前から、二人は恋愛感情で陽のことを想う睦月に気付いていたというのだから。
「で……でも、陽さんだっていつかは結婚するんだから、みたいなこと言ってたじゃない? 俺荒地にそう言われて結構焦ったんだけど……いつかは出て行かなきゃならないけど、結婚するってこともあるんだって」
「そうでも言わなきゃ、お前は何の行動も起こさなかっただろ。何かしら動けば陽さんが気付くだろうなって思ってたんだよ。で……やっと自覚したろ?」
 荒地の言う通り、陽への気持ちを自覚したのは、荒地の言葉があったからかもしれない。結果逃げに転じるのは、怯懦な性格の己のせいだが。
「結果オーライってな。ほら、チャイム鳴るぞ。さっさと片付けよう」
 机の上に置いた菓子パンの包み紙やら弁当箱を片付けると、椅子を元の場所に戻した。タイミングを計ったように、チャイムが鳴り響く。

「葉月、お迎え来たよ~」
「お兄ちゃん、おかえりー。見て見て! これ葉月が作ったの」
 たんぽぽ組の教室の外で、葉月の帰りの支度が終わるのを待っていると、黄色の園バッグを肩から下げた葉月が、ヨーグルトのカップを手に持ち走り寄る。
 そういえば、もうすぐ作品展だ。一年の集大成とも言える最後の行事で、一年間で作った作品などを展示する。そして毎年、何らかのテーマを決めて園児たちが一つの作品をクラスで作り上げていくというものだ。それらをホールに飾りつけ、各教室とホールがその日だけは様変わりする。
 去年は宇宙がテーマで、園児たちの考えるそれぞれの宇宙人が面白かった。園児たちが作った小さな宇宙船や星型の作品が各教室に展示されていて、子どもが作ったものと侮るなかれ、なかなかに楽しめた。
 葉月が手に持っているカップは茶色いマジックで全体が塗られていて、よく見ると千切った折り紙がところどころに貼ってあり、マジックで黒い点が書いてあった。
「家族で動物園……だっけ、今年の作品展は」
「そうだよ! どうぶつえん! これなんのどうぶつかわかる?」
「え、なんだろ……茶色くて……ええと、この黒い点はなに?」
 ヨーグルトのカップが胴体だとして、黒い点は耳だろうか、それとも目だろうか。何だろうと頭をフル回転させ、動物園にいそうな茶色い動物を片っ端から思い浮かべる。
「これは目だよぉ」
「熊、か……猿?」
「ちがいます~! ほら、ちゃんとしっぽもあるでしょ!」
 熊だって猿だって尾はあるだろう、とは言ってはいけない。そうだね、ごめんと言うと、ジッとカップを間近に見つめヒントを探った。
「わかった、レッサーパンダ?」
 よく見ると、白い線が微かにヨーグルトのカップの左と右に描かれている。多分と自信なさげに葉月に聞けば、ニッコリと満面の笑みを浮かべた表情が返ってきたことにホッと肩をなで下ろす。間違えたとしても葉月が怒ることはないが、兄としては頑張って作ったのだからわかってあげたい。
「ピンポーン! すごいね、兄ちゃん!」
「レッサーパンダ上手に作ったね。作品展楽しみにしてる、また陽さんと一緒に来ような」
「うん! ボクどうぶついっぱい作るから、たのしみにしててね」
「ほら、じゃあ先生にさようなら言ってきて」
 はーいと、葉月の子どもらしい明るい声が返ってくる。その姿を微笑ましく見送りながら、教室を出たところで葉月を待った。
 いつもより多少遅い時間だからか、ちらほらとお迎えに来る他の母親たちの姿もある。皆、睦月の姿を見ると、口々に偉いわねぇと声をかけて来るのだが、本当に偉いのは記録の中の両親の姿だけしか知らないにも関わらず、泣き言一つ言わない葉月の方だ。
 両親のDVDを見せて以来、他にも見せてと強請られる。殆どが睦月の姿を写したもので、葉月には楽しくないのではと思ったが、たまに写る父と母の姿に満足げに笑っていた。
 もう泣くことはないが、それが葉月なりに寂しさを埋める方法なのだろう。
 手に温もりを感じて、下を見れば支度の終わった葉月がニコッと笑って手を握っていた。
「兄ちゃん、かえろ」
「そうだな、帰ろ」

 マンションに帰り、着替えようと学ランを部屋のハンガーに掛けたところで、杉崎から借りた体操服のことを思い出す。同時に、自分のワイシャツが誰かに盗まれてしまったことも。
(やっぱ、言わないとだよね……)
 部屋着に着替え終わると、杉崎の体操服を洗おうと洗面所へ向かうところで陽が部屋から出てくる。
「どうした、それ?」
「あ……杉崎に借りたから、洗おうと思って。あ、あの……陽さん、ちょっといいですか?」
「ああ……っていうか、今日プールだって言ってなかったか?」
 部活に入っていない睦月が、プールの日に体操服を持って行くことはない。
 睦月が持っている杉崎の名前が付いた体操服にいち早く気付き、借りたという言葉に違和感を覚える陽の目敏さはさすがだ。
「はい、あの……プール終わって更衣室戻ったら、シャツが失くなってて」
 実は物が紛失するのは二度目だと話すと、陽の表情は険しさを増し、睦月の手に持っている体操服を睨みつけるように鋭い視線を投げられる。
「どうして、最初に失くなった時に言わなかった?」
 責めている口調ではなかったが、忘れていただけにバツが悪い。
「気のせいかと思ってて、タオルだったし。持って行くのを忘れたのかなって。それかどこかに置き忘れたとかなら、落とし物として届けられるだろうって思ったまま、忘れてました」
「その間も、他に失くなった物があるんじゃないのか?」
「いえ……他には気付かなかったです。でも……ただのイタズラとかじゃ……」
 睦月の言葉に被せるように、陽は違うと緩く首を振った。その瞳は真剣そのもので、こんな時なのに見惚れてしまう。
「イタズラはネタばらしするから面白いんだろ? イジメだとしたら、本人にわかるようにゴミ箱に捨てるなりするさ。新しいシャツでもないのにただ盗んだなんて、どう考えたってお前に対して特別な感情を持ってる奴の仕業だ」
 盗まれたとは敢えて言わなかったのに、陽は誰かがシャツを盗ったと考えている。
「特別な感情って、嫌われてる……んですかね?」
「それならいいがな。ま、良くはねえけど、俺と同じような気持ちでお前のこと見てる奴がいるって思うと胸糞悪いから、それよりはマシだな」
「えっ……え?」
 自惚れでないなら、陽と同じ気持ちというと恋愛感情を持っている誰かがいるということになる。荒地は、お前みたいなのは男にモテるなどと言うが、どうしても信じ難かった。だって、今まで告白されたこともなければ、誰かと付き合ったこともないのだ。
 だいぶ遅い初恋だとは思うが、本気で誰かが欲しいと思ったのは陽が初めてだった。
「そんな、モテるタイプじゃないです。陽さんじゃあるまいし」
「自覚なしだからな……ったく」
 ボソリと呟いた呆れ混じりの陽の声は、洗面所へと向かう睦月の耳には届かなかった。

「いただきまーす」
 葉月が行儀良く手を合わせたのを見届けて、睦月もいただきますと箸を持つ。今日の夕食は、海鮮鍋だ。たまにはいいかといつもよりも奮発し、ちょっといい海老と帆立を買った。
 陽はあまり表情に出るタイプではないけれど、多分魚介類が好きだ。いつもよりも食べるスピードが速くなるし、どことなく機嫌もいい。
 しかし、睦月が学校での一件を話してから、陽の機嫌は最下層を辿っている。
「陽さん、海老食べます? まだありますよ」
 殻を取った海老を葉月の皿に乗せてやりながら、新しい海老を追加する。陽はどこか上の空で、険しい顔を崩さずに何かを考えているようだった。仕方なく、火の通った海老を陽の皿へと乗せていく。
「陽ちゃん、どうしたの? おしごとたいへん?」
 締め切り前の陽の様子とどこか似ていたからだろう。葉月が心配そうな瞳を向けて聞いた。葉月の声に我に返ったのか、何でもないと硬い表情を解いた陽が口を開いた。
「……そういえば、最近どこにも連れて行ってやれてないから、今週末は一日仕事休みにして、久しぶりにどこか行くか?」
「え、いいのっ!?」
 葉月は手に持っていた箸を上に振り上げながら喜びを露わにする。行儀が悪いといつもなら怒るところだが、滅多にないお出かけに嬉しいのだとわかっているから何も言えない。
「陽さん、いいんですか? 田ノ上さんのところの仕事もあるのに……無理しなくても大丈夫ですよ?」
「あのな、俺はお前とたまにはデートしたいんだよ。それに休日に家族サービスしたっていいだろ? 葉月、どこに行きたい?」
 〝デート〟は睦月にだけ聞こえるように声が潜められる。
 どうやら陽の中では決定事項のようだ。日曜はお出かけと頭の中で予定を組めば、どうしたって心が浮き足立つのを抑えられない。
「ん~どうぶつえん!」
「ああ、作品展のテーマ、家族で動物園だもんね。もしかして本物の動物さんが見たいの?」
「うん! レッサーパンダいるかなぁ」
「なんで、レッサーパンダなんだよ。もっとあるだろ、ライオンとかゾウとかキリンとか」
「ふふっ、今日ヨーグルトのカップでレッサーパンダ作ったからですよ」
 茶色く塗られたカップを思い出して睦月が笑いを溢すと、葉月が得意げに園での出来事を話し始める。
「たんぽぽさんでねぇ、みんなレッサーパンダつくったの。ちゃいろくてね、先生がお目目つけてね~って言ったから、マジックでお目目かいたの」
「ほら、葉月。おしゃべりはご飯の後にしよう。冷めたら美味しくなくなるよ?」
 陽とのお喋りを邪魔されて不本意そうに口を尖らせるものの、葉月はごめんなさいと素直に謝る。その姿が可愛くて、つい甘やかしてしまいそうになるが、陽が何だかんだと葉月に甘いために、躾は睦月の担当となっている。
 この時、睦月の頭の中からは、学校でのことがスッカリと頭から消え去っていた。そして翌日、危機感がないと言った荒地の言葉を再び噛みしめることとなる。

「あれ……これ」
 翌日のいつもと同じ時間の朝の教室。自分の椅子を引いて、失くなったはずのワイシャツが椅子の上に戻されていることに気付いた。
 やはりどこかに落としていたんだと手に取る。きっちりとアイロンをかけていたはずのシャツはグシャグシャに丸まり皺が寄っていたが、違和感を覚えたのはそのすぐ後のことだった。
「……っ」
 思わず手を離してしまい、前の席に座った荒地が振り返りどうしたと心配げな声色で聞いた。
 シャツを持っていた睦月の手は、ベットリと粘着性のある液体で濡れていて、生臭いような臭いが立ち込める。
「なに……」
「睦月、それ……ちょっと貸せ」
 白地のシャツ故に目視では気付かなかったが、よくよく目を凝らして見ると、ところどころに白濁とした液体が飛び散っている。ソレが何かなんて考えたくもない。
 荒地が鞄から昼食を入れていたビニール袋を出し、すぐさま睦月のシャツをしまった。口を固く縛って、鞄の脇に置く。
「取り敢えず、手洗って来いよ」
「あ……う、うん」
 恐怖に足が竦み、貧血を起こした時のように、頭がクラクラして立っているのがやっとだった。
「杉崎、付いて行ってやれよ」
 荒地の言葉に、表情を固くした杉崎が立ち上がり黙ったまま睦月の腕を引いた。
 自分では気付かなかったが、杉崎に腕を取られて自分がガタガタと震えていることを知る。廊下に出て、クラスメイトが騒ぎ立てなかったことに安堵する。荒地がいち早く気付き、特に何を言うこともなく処理してくれたからだろう。
「大丈夫か。気分悪かったら、保健室行くか?」
「大丈夫……けど、ごめん。なんか怖くて……一人になりたくないかも」
「わかってる」
 トイレで何度も石鹸をつけて手を洗う。鏡に写った自分の姿は、顔色を失くして蒼褪めていた。
 やはり犯人は男なのだろうか。シャツについた液体が何かはわからないが、もしかしたら男かもしれないという驚きよりも、陽が胸糞悪いと言った通りに、自分がそういう対象として見られているということに驚きを隠せない。
「なんで……? 俺、だって……男、だよ。そりゃそんな背高くないけどさ、最近は女子に間違われなくなったし、こんなっ……」
「前に言っただろ? お前が気付いてないだけだって……睦月は可愛いって一年の頃から先輩たちが噂してたし、本気で告ろうとしてた先輩もいたんだぜ? でも、休み時間は俺か荒地がそばにいたし、放課後は殆どが部活入ってるし、睦月帰るの早いからタイミングなかったみたいだけどな。そういうのは知らない方がいいかと思って言わなかった、ごめん」
 そういった経緯があったために、陽とのことも驚かれなかったのか。
「杉崎が謝ることじゃないよ……でも、何でだろう、俺って狙われやすいのかな」
 自嘲気味に笑えば、杉崎が違うよと首を振る。
「睦月は陽さんのこと綺麗、綺麗って言うけどさ……どちらかといえば、中性的で綺麗なのは睦月の方だろ? 可愛いっていうのもあるけど、肌も白いし……野郎が興味持つのもわかるっちゃわかるんだよ」
「そんなの、言われたことないし」
「毎日自分の姿鏡で見てんだから、わかってくれよ」
 呆れ顔で呟く杉崎に、幾ばくか沈んでいた気分が浮上した。可愛いと言いながらも、杉崎が睦月のことを男として見てくれていることに、安堵の息を漏らした。
 しかし、自分で自分の顔を綺麗だと思う男なんているのだろうか。どちらかといえば、線の細さや中性的な顔立ちはコンプレックスでしかない。荒地のような体格が羨ましいと感じることは多いし、陽の背の高さや男らしい顔つきにも憧れる。
「杉崎は、自分のこと可愛いって思う?」
「はっ? 思うわけないだろ?」
 んなこと思ってたら気持ち悪いわ、と返されて、自分で言ったくせにと笑いが漏れる。濡れた手をハンカチで拭いて、傾きかかった自分の気持ちが、心強い友人たちのおかげで落ち着きを取り戻す。
「あはは! なら、俺だって自分のこと可愛いなんて思うわけないでしょ」
「いや、お前は誰が見ても可愛いだろっ」
「付き合いたてのカップルみたいな会話してんなよ……これ以上エスカレートすんならやべえぞ。陽さんには言ったのか?」
 トイレに追いかけて来た荒地に突っ込まれて、確かにと押し黙る。可愛い可愛くない話をしている場合ではなかった。いつもの定位置、睦月を挟むようにして荒地と杉崎が並びながら廊下を歩き教室へと戻る。
 気にしたことはなかったけれど、もしかしてそうやって常日頃から彼らなりに守ってくれていたのかもしれない。
「うん……なんか、怒ってた」
「そりゃ、そうだろ。帰り迎えにとか来てくんねえの?」
 睦月が怖いと言えば、陽ならば迎えに来てくれるだろうが。
「また、迷惑かけるとか思ってんなよ。何かあってからじゃ遅いだろ。葉月と一緒にいる時にそいつに襲われでもしたらどうすんだよ」
 襲われる、という荒地の言葉は妙に現実味を帯びていて、背筋を冷たい汗が流れ落ちる。
 もしも葉月に何かあったらと考えたら、どうしようもなく怖くなった。
「俺らが一緒に帰れればいいけど、殆ど毎日部活だしな」
「大丈夫だよ。何かあったら警察に電話かけるなりするし、人通りの多い場所歩くようにするから、二人ともありがと」
「何かあったら、絶対言えよ?」
 荒地から伝えられた言葉に、もう一度ありがとうと礼を言った。

 担任の話が終わり各々が部活へと移動する中、睦月は下に置いておいたビニール袋を鞄へと入れた。案ずる視線を向ける二人に大丈夫だよと明るく手を振って教室を出る。
 いつもよりも早足で下駄箱に向かう。どこを見たって、皆同じ制服を着た同じ学校に通う生徒だ。その中の一人が、あんなことをするなんて思いたくはない。しかし、可能性として高いのはやはり同じ学校の生徒で、見る人見る人に怖れを抱いてしまうのだ。
「早く……お迎え行こ……」
 何人もの生徒を追い越し校門に辿り着くと、見知った人影が門の前に佇んでいるのが見えた。どうしてこんなところに、と考え足早で向かう。
「陽さん! 何で……」
「心配だからに決まってんだろ。ほら、葉月の迎え行くぞ。落ち着くまでしばらく送り迎えしてやるから」
 昨夜制服を失くしたという話を、心配して迎えに来てくれたのだろう。今日のことがあっただけに、睦月は心の底から安堵した。鞄の中に入るビニール袋に心が重くなる。
 校門から少し先の道路に、綺麗に洗車された状態の陽の車が停めてあった。仕事の打ち合わせに行く時などは車を運転しているようだが、そこまで車好きという印象はない。
「車、珍しいですね」
「電車で何かされるかもしれないだろ、少しの時間だから我慢できるか?」
 陽の言葉に引っ掛かりを覚えて、首を傾げる。睦月も葉月も車酔いをするタイプではない。あまり長時間乗っていたら、そりゃ首や腰が疲れるかもしれないが、吐いたりはしないはずだ。
「大丈夫、ですけど……どうしてですか?」
 助手席のドアを開けてもらい、至れり尽くせりだななんて思いながら乗り込むと、反対側の運転席に座った陽が助手席側のシートベルトを引っ張りカチリとロックする。その隙にチュッと唇が掠めて、ピクッと身体が震えた。
「外から見えたらっ……」
「スモーク貼ってあっから見えねえよ。お前、俺のだって自覚あるか?」
 人が乗っているかどうかは至近距離でないとわからない。しかし、前を通る人からは丸見えだし、中から外も見えているのだから落ち着いていられるはずがない。
 戸惑いながらも後からくるのは嬉しさばかりで、好きだと言われたものの、いつもと変わらない様子の陽に、やっぱり夢だったのかと思うこともしばしばだった。ちゃんと、恋愛的な意味で好きだと伝わるようにしてくれているのだろう。
 陽の瞳には、情欲の火が灯っている。陽の香りが鼻を掠めて、睦月は熱い吐息を溢した。
 ギアを握る陽の手にソッと触れる。睦月だって、本当はもっと触れ合いたい。常識、道徳、ルールなんてどうでもいいとこの瞬間に思ってしまうくらいには、この人のことが大好きだ。
「忘れちゃうかもしれないから。もっかい、キスしてください……ちゃんと」
「俺の忍耐力試してんのか、お前は」
 ギシッと体重がかけられる。睦月の身体を覆い隠すように身体が重ねられた。先程は気付かなかったが、降りて来た唇は冷たい空気に晒されていたためか、ヒンヤリと冷たかった。寒い中待ってくれていたのだ。
「ん……よう……っさん」
 空いた唇の隙間から熱い舌がねじ込まれる。下唇を甘噛みされ、食べられてしまうのではないかと思うほど、口腔内を味わい尽くされた。
 腰にズクと甘い痺れが走る。これ以上はダメだと思うのに、唇を離して欲しくはなかった。離れそうになる唇を睦月が追いかける。
「はっ、ん……ぁ」
 クチュッと唾液が混ざり合い、睦月が堪らずに陽のシャツに縋り付くと、合わさった唇はさらに深くなった。
 いい子だとでも言うように髪を梳く手が気持ちいい。
 舐め回され、飲み込みきれなかった唾液で口の周りがベッタリと濡れていく。
「や、もっと……」
 ハッと息をつくタイミングで、自らの舌を陽の口腔内に挿し入れた。目を見張った陽からは、倍返しに愛情深く甘い蜜が注がれた。
「……ったくお前は、こっちの身にもなれよ」
 吐き出されるように告げられた言葉は、劣情に濡れていた。
 車内には荒く吐き出される息と、互いの湿った水音だけが響き、それがより大きな快感の波をもたらす。身体が熱くスリっと無自覚に腰を擦り寄せると、昂ぶった下肢をお返しと言わんばかりに押し付けられた。
「も……ダ、メだよ……」
 これ以上は引き返せなくなりそうだった。わかってると艶めいた低い声で告げられ、何度目かの震えが走った。耳元から全身を愛撫されているようだ。
 軽く啄ばむようなキスがチュッと音を立てて送られる。名残惜しい気持ちは互いにあり、唇の間を銀糸が伝いそれを舐めとるように、もう一度唇が重なった。
「葉月、迎えに行かなきゃな」
 もしかしたら陽がそう言ったのも、冷静さを取り戻すためだろうか。睦月にとっても、葉月の名前は効果的だった。
 身体中から熱が引いていく、汗ばんだ身体は少し寒さを感じるほどだ。
「はい」
 動き出す車の窓の外を見ながら、ソッと唇をなぞる。もっと、その唇でいっぱい触れて欲しいなんて贅沢だろうか。

 
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