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1巻
1-2
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「で、これ、期末の結果か?」
純也さんは、私が机の上に出しておいたテスト用紙を一枚ずつ捲っていく。
「そんなに悪くないけど……ふゆ、英語苦手?」
私は軽く頷いて肯定した。
母によると、純也さんは大学でそれはもう優秀な成績を修めているらしい。大学でもキャーキャー言われてるんだろうな、なんて想像が頭を駆け巡り、私はますます落ち込みそうだ。
「どうしようか。おばさんからは夏休みにみっちりやってくれって言われてるけど、夏休みだけじゃできること限られるしな……」
「でも、純也さんだって自分の勉強があるでしょ? 成績落ちたら滋さんに怒られちゃうんじゃないの?」
純也さんのお父さんである滋さんは、私には優しいけれど一人息子の純也さんには厳しかった。大学の合格発表の日も、合格していて当然と結果すら聞かなかったらしいから。
でもそれは、純也さんが陰で相当努力しているのを、ちゃんとわかっているからに違いない。
「そんなへまするわけないだろ。で、ふゆは今後どうしていきたい? 大学受験を視野に入れるなら、それなりのカリキュラムを組まないとな」
「大学……」
大人になってどうしたいか。
なんのビジョンも浮かんでこない。子どもの頃は、将来は『純也お兄ちゃんのお嫁さん』以外、考えていなかったが。
「それとも……大学には行かずに俺と結婚するか? 小さい頃よく言ってたよな?」
「……っ」
考えを見透かされたのかと思って、驚愕に言葉が詰まる。どうして急にそんな話をしてくるのだろう。純也さんはからかっているだけかもしれないが、密かな恋心を抱いている私は動揺を隠せない。私は耐えきれず純也さんから目を逸らした。
「そっ、それは……っ! 子どもの頃の話でしょ!」
私は、妹扱いしてくる相手に「結婚したい」なんて言うほど愚かではない。彼が本気でそんなことを言っているだなんて期待もしない。そう自分に言い聞かせる。
「子どもの頃の話、ね。今は、まったくそう思わないのか? 寂しいもんだな」
「え……っ⁉」
シミ一つない透き通るような白い肌が眼前に迫り、私は息を呑んだ。彼の唇が私の唇に触れそうな距離まで近づいて、心臓がバクバクと激しく音を立てる。
つい背中を仰け反らせると、彼はさらに距離を詰めてきた。ぐらりと身体が揺れて後ろに倒れそうになり、近づいてきた純也さんに腕を引かれる。
「危ないだろ」
私に向ける言葉はいつもと変わらない。けど、その声は低く艶めいていて、私を見つめる目はたしかに熱を孕んでいる。顔が近くて、息をすることもできない。
目を瞑ったらなにかが起こりそうな予感があるのに、私はただただ彼の顔を凝視していた。純也さんがまるで知らない男の人に見えて、どうしていいかわからなかったのだ。
顔が火照って熱い。
いっぱいいっぱいになった感情が堰を切って溢れだす。頬ではなく唇にキスをしてほしい、そう望んでいたはずなのに、彼の唇が触れそうになった瞬間怖くなり、涙が滲んでくる。
すると、あっさりと掴まれていた腕が放されて「ごめんな」と告げられる。
「泣かせたいわけじゃないから。その話はまた今度な」
私の真っ直ぐに伸びた髪を一筋すくわれて、耳元で囁かれた。耳に唇が触れそうな距離に驚き、つい避けてしまった。すると苦笑した純也さんは身体を少しだけ離して机に視線を向けた。
「じゃあ、勉強しよう」
頭の中は激しく混乱していて、とても勉強できる状態ではなかった。
先ほどまでの会話が嘘のように、純也さんは淡々と英語の文法の説明を始める。私は頬を真っ赤に染めたままただじっと机に向かうしかない。
(さっきのは、いったいなんだったの……また今度って?)
ノートを広げてはみたものの、英文法など頭に入ってこない。だが、純也さんが優しいながらも厳しい家庭教師だったため、そんなことも言っていられず、英語と数学を時間いっぱい叩き込まれることになった。
室内にかりかりとペンの走る音しか聞こえなくなってから数時間。疲れと眠気で頭がぐらぐらしてくる。
「うぅ~……私、なんでこんなに勉強してるんだろ」
勉強し過ぎて頭の中がしっちゃかめっちゃかだ。
動揺していた心が、落ち着いたのはいいのだが、頭を使い過ぎて疲れは倍増。
私が机に突っ伏すと、純也さんの手が伸びてきて頭をぽんぽんと叩かれる。
「じゃあ、今日はもう終わりな」
「本当っ⁉」
私がガバッと起き上がり満面の笑みを浮かべると、純也さんはやれやれと呆れ顔だ。
「そんな嬉しそうな顔すんな、課題は出すからな」
「はーい」
嬉しくない返事なのがバレバレだったのか、純也さんは顎に手を当ててなにか考えるように「そうだな」と口にした。
「なにか、目標を持ってみたらいいんじゃないか?」
「目標……?」
私には試験でいい点を取る、以外思いつかない。
「将来こうなりたいでもいいし、どこの大学に受かりたいでもいい。なんのために勉強するのか、目標をはっきりさせることで、やりがいに繋がる」
「純也さんはあるの? 目標」
「大学在学中に国家公務員採用総合職試験に受かって、官僚コースだな」
まだ大学生一年生なのにそこまで考えているなんて。
「でも、その前に……」
なぜか純也さんは、意味ありげに私の顔を見て微笑んだ。
「……?」
「……ふゆは、なにかないのか?」
(大人になったら……私はなにになりたいんだろう)
私も、純也さんみたいに目標を持って頑張りたい。漠然とだが、そう思った。
それに、目標を持って頑張ったら、いつか妹扱いではなくなるかもしれない。少しは彼に近づけるかもしれない。
(最終目標は、純也さんと結婚する……なんてね)
まずは手に職を……と考えて、看護師しか思いつかなかった。看護学科のある大学なら受かる可能性はゼロではない。
それにだ。風邪を引いた純也さんを私が看病できるかもしれない。頭の中でそんな妄想を繰り広げていると、無情にも重い紙の束が渡される。
「とりあえず、これ課題。三日後までな」
「うぇぇ~多過ぎない?」
「俺とデートしたくない? せっかくの夏休みだし、俺はふゆと出かけたいよ。そのためには、結果を出さないと」
そう言われたらやるしかない。
その後、私は純也さんから出された大量の課題に追われ、机に向かう時間が増えたからか、お母さんは多少遊んでもなにも言ってこなくなった。
夏休みが明けた九月中旬の土曜日。
今日は午前中から松坂邸にやってきている。
家庭教師を頼んでいるのは平日の三日間だが、どうしても純也さんの都合がつかないため、土曜日に授業をすることになった。平日よりも一緒にいられる時間が長いので、私としては大歓迎だ。
門を潜ると、庭で滋さんが、池の鯉に餌をあげていた。
「滋おじさん、おはようございます。お邪魔します」
滋さんは私に向かって軽く手を振ってきた。小さい頃はわからなかったが、穏やかな笑みを浮かべている顔は純也さんとうり二つだ。それに濃紺の和装姿は妙に貫禄があって、滋さんを前にすると背筋が伸びる。
顔馴染みのお手伝いさんへ挨拶を済ませてキッチンへ行くと、純也さんのお母さんがボウルで生クリームを泡立てていた。
「鈴子さん、おはようございます」
鈴子さんは朝から趣味のケーキ作りをしているようだ。家族で食べるにはいささか大きいスポンジと、いちごが大量に載った皿が目に入る。
「ふゆちゃん、いらっしゃい。ケーキ作るから、あとで純也の部屋に持っていくわね」
鈴子さんは私が来るたびにケーキを焼いてくれる。松坂家の冷蔵庫には私のために一年中いちごが入っているくらいだ。どうやらケーキ屋に卸しているいちご農家からわざわざ取り寄せしてくれているらしい。
「いつもありがとうございます」
「俺はいらないから」
「はぁ、まったくこれだもの」
肩を竦めて大げさにため息をつく鈴子さんに、私は思わず笑ってしまう。私は、頻繁にケーキを作ってくれるお母さんがいるのを羨ましいと思うが、純也さんはそうでもないらしい。
「ふゆ、行くぞ」
「あ、うん」
キッチンを出て広いリビングを通り廊下から階段を上がる。
純也さんの部屋は二階だ。一階には今は亡くなっているおじいさんと、おばあさんの部屋と、滋さんと鈴子さんの部屋、それに通いのお手伝いさんの休憩スペースがある。
「入って」
「はーい」
南側にある純也さんの部屋は二十畳ほどの洋室だ。勉強机とベッド、大きい本棚くらいしか物がない。
純也さんと二人きりでいるのは珍しくない。それなのに、ここのところ私は、二人きりの空間がどことなく落ち着かなくなってしまった。何度も脳裏によみがえるのは、怖いくらいに熱を持った純也さんの目だ。普通でいようと思っても、ふとした時に思い出して顔が火照る。
「今日は何時までいられる?」
「べつに用事はないから、いつもと同じで大丈夫」
ハッと我に返りなんでもないように答えると、純也さんの椅子を貸してもらい机に向かう。
「俺も今日はなにも予定がないから、せっかくだし全教科のテスト対策しておくか。昼飯は、母さんが作ってるだろうし。十二時までやって、昼休憩して午後は三時までな」
「ぜ、全教科……五時間……」
顔を引き攣らせる私の横で、パソコンを操作していた純也さんが大量のテスト用紙を印刷し始めた。
今日も勉強三昧らしいと項垂れていると、そっと頭を撫でられる。飴と鞭はばっちりだ。なんだか弄ばれているようで悔しい。
「ふゆは中学の英語で、教科書を丸暗記してテストを乗り切ってたタイプだろう? 基本的な文法と読解がわかってないから躓くんだ。単語は暗記でどうにかなるんだから、文法さえ覚えてしまえば英語は簡単だよ」
純也さんは机に手を突いて、私のすぐ横に立ったまま話をする。私の部屋にある椅子より座る位置が高いため、純也さんの顔が近づいてくると耳元に息がかかりくすぐったい。
今までは近くにいてドキドキはしていても、これほどに緊張はしなかった。純也さんの息遣いさえ聞こえてきそうな距離に胸が高鳴り、顔が見られなくなる。私はテキストを目で追うと、慌てて話題を変えた。
「あ、こ、ここっ! この間、清貴に教えてもらったとこだ。これならわかるよ。放課後、真紀と三人で勉強したんだ」
「清貴? 男か、そいつ?」
純也さんの声がすっと低くなる。私は高校で新しくできた友人のことを説明する。
「生徒会で一緒なの。清貴は面倒見がよくて、クラスのみんなに頼られてる副会長だよ。あ、そういうとこ純也さんに少し似てるかも!」
私は喋りながらも、必死に問題を解いていく。だから、純也さんがその時、どんな顔をしていたのか気づかなかった。
「お前さ……あまり清貴って男に近づくなよ?」
「なんで? クラスも生徒会も一緒なんだから、近づかないとか無理だよ」
「そうじゃない。俺にしてるみたいに、ほいほい懐くなって言ってるんだ」
隣から聞こえた低い声に驚いて顔を上げると、純也さんは珍しく目を細めて不機嫌そうな表情をしていた。
「……するわけないよ。清貴はちゃんと私が高校生だってわかってるもん」
私を子ども扱いする純也さんとは違う、と皮肉を込めて言った。清貴は純也さんみたいに過保護じゃないし、私を抱き上げたりもしない。
「俺が、お前を子ども扱いしてるって? そんなわけあるかよ」
純也さんはさらに声を低くして私の耳にかぶりついてくる。その直後、耳たぶを舌で舐められて、ぞくぞくと不可思議な痺れが腰から湧き上がってきた。
「ん……やっ」
突然変わった彼の態度に驚いて、私は思わず腕を突っ張らせる。私を見る純也さんの目がいつもとは違う。どうして、今、あの日と同じような目で私を見るのだろう。
「俺が近づいたら、そうやって怖がって逃げるくせに」
「だって……耳、噛むから」
私は顔を真っ赤にして口ごもる。
「ふゆ、ちゃんと覚えてるか?」
純也さんが私を真っ直ぐに見つめてくる。怖いくらい真剣な瞳になにを言われるのかと心臓がドクンと音を立てた。
「な、なにを?」
「俺にプロポーズしたこと」
彼がおもむろに顔を近づけてきたことに息を呑む。私が瞬きもせずに固まっていると、純也さんの顔が目の前にくる。
思わずぎゅっと目を瞑ると、唇に柔らかい感触があった。いったいなにが起こったのか。
「あの時のお返し」
驚いて目を開けた私の視界に入ってきたのは、間違いなく純也さんの端整な顔。すぐにまた、ちゅっとわざと音を立てて唇を軽く押し当てられたかと思うと、数秒も経たずに離れていった。
「え……なんで?」
「お返しだって言っただろ。あとは自分で考えろ」
そんなことを言われても。
嬉しいよりなにより戸惑いが大きい。
今まで、頬やおでこにキスをされたことはあっても、唇にキスをされたことは一度もなかった。
(まさか、純也さんも私のことを好き、とか……いやいやいや……待って)
あっという間に、私の頭の中がパニックに陥った。
「あ、れ……?」
目を開けると、自分の部屋とは違うカーテンが視界に入った。
「ふゆ、起きた?」
「あれ……私、寝てた?」
私が慌てて起き上がろうとすると、ベッドの端に腰かけた純也さんが腰に腕を回して支えてくれる。
「五時間も勉強したからな。疲れたんだろ」
そうだった。純也さんからのキスに動揺しパニックに陥った私は、現実逃避とばかりに目の前の勉強に集中した。午前に二時間半、お昼ご飯を食べて二時間半。必死に問題を解いているうちにうとうととしてきて、いつの間にか眠ってしまったらしい。ベッドにいるのは、おそらく純也さんが運んでくれたのだろう。
私を見下ろす純也さんは、キスなんてなかったみたいに平然としている。
(純也さんにとっては……キスじゃなかったのかもね)
お返しだと言っていたから、言葉通りなのかもしれない。
一瞬だけ、期待してしまったじゃないか。
ため息を呑み込み、寝乱れた髪を手櫛で直す。身体にかけられていた毛布を剥ぐと、穿いていたフレアスカートが太ももぎりぎりまで捲り上がっていた。上に毛布が掛けられていたのは、見えないようにという純也さんの配慮だろう。
「私、どれくらい寝てたの?」
「一時間くらいか。あぁ、母さんがケーキを持ってきたから、起きたばかりだけど食べるか?」
「やった、食べる!」
私が嬉々としてベッドから下りると、ホールケーキをその場で切り分けて純也さんが皿に載せてくれた。その間、私はポットに入ったお湯で紅茶を淹れる。
「いちごは自分で取れるのか?」
「取れるに決まってるでしょ! そのネタ何度も言うのやめてよ!」
「ふゆが、いちごを食べているところが好きなんだよ。可愛くて。それにしても……変わらないものだな」
純也さんは遠い目をして懐かしむように私の頬に触れてきた。口の中のいちごを呑み込み、私は首を傾げる。
「そりゃ、背は伸びてないし、いまだに中学生に間違えられるけど……気にしてるんだから」
「俺が言ってるのは、そういうことじゃない」
「じゃあどういうこと?」
「俺の気持ちが、だよ。昔からちっとも変わってない。小さい頃から同じようにふゆが可愛い」
小さい頃から同じように――は禁句だ。小さい頃から同じように妹として可愛がってくれているのを知っている。かなり溺愛されているのも。
でも、私の気持ちは、変わった。幼馴染みのお兄ちゃんから、男の人に。
落胆していると、頬を撫でていた指が唇へと下り、そのまま私の唇の形を辿るようにつぅっと指を動かされた。
先ほどのキスを思い出してしまう。
いつの間にか、空気が張り詰めているような気がして動けなくなった。自分の呼吸の音がやたらと大きく聞こえて、頬が火照ってくる。すると、彼の指が薄く開いた唇の隙間へと入ってきた。
「……っ」
思わず身体を引くと、純也さんは唇に触れていた指を離しふっと鼻で笑った。
「相変わらず、口に生クリームつけてるところも可愛いよな。やっぱり、俺が食べさせてやろうか?」
「クリームなんてつけてない!」
私がその場の空気を変えるように叫ぶと、純也さんの表情も元に戻る。
「ついてるだろ、ほら」
純也さんは手つかずのいちごをフォークに刺して、私の口に押し当てる。いちごの周りについていた生クリームが私の唇にべっとりとついてしまう。なんてことをするのだと、私は頬を膨らませて抗議の声を上げた。
「これはつけたって言うんです! もう、昔は優しくてなんでもできる完璧な王子様だと思ってたのに~!」
「へぇ、優しくてなんでもできる完璧な王子様ね。そう思ってくれてたのか。そういえば、よくお姫様ごっこに付きあわされたもんな」
純也さんはにやにやと人の悪い笑みを浮かべ私をからかってくる。
「だから、昔は、だってば」
私はつい口から漏れてしまった本音が恥ずかしくて、言い訳のように言葉を続けた。
「完璧な王子様じゃなかったら、ふゆは俺のこと嫌いになるか?」
嫌いになんてなるわけがない。
むしろ私は、いつか純也さんが、私にだけ弱い部分を見せてくれたらどんなに嬉しいだろう、と考えてしまう。
「最初から完璧な人なんているわけないでしょ」
テレビや漫画など、勉強に関係ない物はなにもない部屋。コンポタイプのオーディオ機器も、ラジオの語学講座を聞くために置いていると知っている。
この部屋は、勉強をするためだけに整えられた環境なのだ。
滋さんは、勉強をしろと口うるさく言うわけじゃないけれど、いわゆるエリートが歩むレールの上から外れることを許さない人みたいだ。いい大学を出て、純也さんのおじいちゃんのような政治家か、滋さんみたいな官僚の道に進むのを当たり前と思っているらしい。
「純也さんが完璧なのは、努力あってこそだよね? 私が友達と遊んだり、テレビを観たりゲームをしたりしてる間、純也さんはずっと努力してたんだなって……この部屋を見たらわかるよ」
私の言葉に純也さんが破顔した。
「じゃあ、これからも、ふゆに褒めてもらえるように頑張ればいいか」
そう言った純也さんの顔が、意外にも子どもっぽくて、可愛いなんて思ってしまったのは内緒だ。
純也さんに家庭教師をしてもらい始めてから一年と少しが経ち、私は高校二年生になった。
いつの間にか家で勉強をするよりも、純也さんの部屋に来る頻度の方が多くなっていた。
今日は中間テスト前ということで、すでに四時間は机に向かっている。
私が問題を解いている間、純也さんは自分の勉強をしているため、室内はシンと静まり返っていた。
十月に入り湿度は多少低くなったものの、いまだ夏日も多く汗ばむ陽気が続いている。
窓がすべて閉まっているからか湿度を含んだ空気が重く、息苦しく感じる。汗ばんだ肌に生地の厚い冬用のセーラー服が貼りつくのが不快だ。
(暑くて集中できない……)
少しでも涼しい空気を取り込もうと、セーラー服の胸元を引っ張りパタパタと扇ぎつつ、机に向かいペンを走らせる。
『それとも……大学には行かずに俺と結婚するか?』
ふとした時に、純也さんの言葉を思い出してしまう。忘れようと思っても忘れられない。
でも、私たちの関係は昔となにも変わらない。あのキスだって、やっぱり夢だったんじゃないかと思えてしまう。ここまで来ると、いい加減片思いを拗らせ過ぎて、私を弄ぶ純也さんが恨めしくなってくる。
(相変わらず私のこと甘やかすから……ほかの人に目を向けることもできないんだよ)
「こら、ふゆ。暑いなら窓開けるから、それやめろ」
私が集中できていないことに気づいたのか、純也さんが呆れたような声で言ってくる。
「それ?」
純也さんが私の胸元を指差しながら目を細めた。はしたない、と言いたいのだろう。私が胸元から手を離すと、純也さんは部屋の窓を開けるために立ち上がった。
(私のあるかないかわからない胸に、ドキドキなんかしないか)
自分の考えに空しくなる。
少しは顔色を変えてくれてもいいのに。そんな気持ちで、窓を開ける彼の背中を見つめていると、突然、振り返った純也さんにとんと鎖骨の下あたりを突かれた。
「なに?」
指はすぐに離れていかず、そのままだ。私は純也さんを仰ぎ見る。
「純也さん?」
「今度無自覚に俺のこと誘ったら、襲うからな。そろそろ……自覚してもらわないと困る」
純也さんの指がつっと鎖骨を撫でるように動いて、そのまま下へと下ろされる。触れられた部分がじんと熱を持ってじわりと全身に広がる。
指先が胸の膨らみに触れそうになり、私は椅子から転げ落ちそうになった。
「ひぇっ!」
もちろんそんな私を支えたのも純也さんで、腕を引いて仰け反った身体を引っ張り上げられる。
「やっぱり、ふゆにはまだ早いか」
純也さんが苦笑して、兄の顔になる。
また子ども扱いだ。期待しては突き落とされる。いくらなんでもひどくないか?
目の奥がじんと熱くなって、泣きたくないのに目に涙が滲む。
私は、いつものように頭を撫でようと伸びてきた手を掴んで、胸元に引き寄せる。
「ふゆ?」
いつだって自分ばかりが感情を波立たせていることに苛立つ。少しは純也さんだって動揺すればいいのに。
「襲っても、いいよ」
その時、どうして自分が〝そう〟言ったのかわからない。ただ、気がついたら口に出していた。
純也さんの顔は見られなかった。どくどくと彼に聞こえてしまいそうなほど大きく、心臓が高鳴っている。
まるで判決を待つ罪人みたいな心地で純也さんの言葉を待つ。
「それ、本気にするぞ?」
私はばっと勢いよく顔を上げた。純也さんは先ほどまでの兄のような眼差しを消して、熱のこもった瞳で私を見つめていた。
「うん。して」
小さく頷くと彼の指が私の唇に触れた。「いいか」と問うように下唇の上をなぞられる。私が目を瞑ると柔らかい純也さんの唇が重なって、私は二度目のキスをした。
純也さんは、私が机の上に出しておいたテスト用紙を一枚ずつ捲っていく。
「そんなに悪くないけど……ふゆ、英語苦手?」
私は軽く頷いて肯定した。
母によると、純也さんは大学でそれはもう優秀な成績を修めているらしい。大学でもキャーキャー言われてるんだろうな、なんて想像が頭を駆け巡り、私はますます落ち込みそうだ。
「どうしようか。おばさんからは夏休みにみっちりやってくれって言われてるけど、夏休みだけじゃできること限られるしな……」
「でも、純也さんだって自分の勉強があるでしょ? 成績落ちたら滋さんに怒られちゃうんじゃないの?」
純也さんのお父さんである滋さんは、私には優しいけれど一人息子の純也さんには厳しかった。大学の合格発表の日も、合格していて当然と結果すら聞かなかったらしいから。
でもそれは、純也さんが陰で相当努力しているのを、ちゃんとわかっているからに違いない。
「そんなへまするわけないだろ。で、ふゆは今後どうしていきたい? 大学受験を視野に入れるなら、それなりのカリキュラムを組まないとな」
「大学……」
大人になってどうしたいか。
なんのビジョンも浮かんでこない。子どもの頃は、将来は『純也お兄ちゃんのお嫁さん』以外、考えていなかったが。
「それとも……大学には行かずに俺と結婚するか? 小さい頃よく言ってたよな?」
「……っ」
考えを見透かされたのかと思って、驚愕に言葉が詰まる。どうして急にそんな話をしてくるのだろう。純也さんはからかっているだけかもしれないが、密かな恋心を抱いている私は動揺を隠せない。私は耐えきれず純也さんから目を逸らした。
「そっ、それは……っ! 子どもの頃の話でしょ!」
私は、妹扱いしてくる相手に「結婚したい」なんて言うほど愚かではない。彼が本気でそんなことを言っているだなんて期待もしない。そう自分に言い聞かせる。
「子どもの頃の話、ね。今は、まったくそう思わないのか? 寂しいもんだな」
「え……っ⁉」
シミ一つない透き通るような白い肌が眼前に迫り、私は息を呑んだ。彼の唇が私の唇に触れそうな距離まで近づいて、心臓がバクバクと激しく音を立てる。
つい背中を仰け反らせると、彼はさらに距離を詰めてきた。ぐらりと身体が揺れて後ろに倒れそうになり、近づいてきた純也さんに腕を引かれる。
「危ないだろ」
私に向ける言葉はいつもと変わらない。けど、その声は低く艶めいていて、私を見つめる目はたしかに熱を孕んでいる。顔が近くて、息をすることもできない。
目を瞑ったらなにかが起こりそうな予感があるのに、私はただただ彼の顔を凝視していた。純也さんがまるで知らない男の人に見えて、どうしていいかわからなかったのだ。
顔が火照って熱い。
いっぱいいっぱいになった感情が堰を切って溢れだす。頬ではなく唇にキスをしてほしい、そう望んでいたはずなのに、彼の唇が触れそうになった瞬間怖くなり、涙が滲んでくる。
すると、あっさりと掴まれていた腕が放されて「ごめんな」と告げられる。
「泣かせたいわけじゃないから。その話はまた今度な」
私の真っ直ぐに伸びた髪を一筋すくわれて、耳元で囁かれた。耳に唇が触れそうな距離に驚き、つい避けてしまった。すると苦笑した純也さんは身体を少しだけ離して机に視線を向けた。
「じゃあ、勉強しよう」
頭の中は激しく混乱していて、とても勉強できる状態ではなかった。
先ほどまでの会話が嘘のように、純也さんは淡々と英語の文法の説明を始める。私は頬を真っ赤に染めたままただじっと机に向かうしかない。
(さっきのは、いったいなんだったの……また今度って?)
ノートを広げてはみたものの、英文法など頭に入ってこない。だが、純也さんが優しいながらも厳しい家庭教師だったため、そんなことも言っていられず、英語と数学を時間いっぱい叩き込まれることになった。
室内にかりかりとペンの走る音しか聞こえなくなってから数時間。疲れと眠気で頭がぐらぐらしてくる。
「うぅ~……私、なんでこんなに勉強してるんだろ」
勉強し過ぎて頭の中がしっちゃかめっちゃかだ。
動揺していた心が、落ち着いたのはいいのだが、頭を使い過ぎて疲れは倍増。
私が机に突っ伏すと、純也さんの手が伸びてきて頭をぽんぽんと叩かれる。
「じゃあ、今日はもう終わりな」
「本当っ⁉」
私がガバッと起き上がり満面の笑みを浮かべると、純也さんはやれやれと呆れ顔だ。
「そんな嬉しそうな顔すんな、課題は出すからな」
「はーい」
嬉しくない返事なのがバレバレだったのか、純也さんは顎に手を当ててなにか考えるように「そうだな」と口にした。
「なにか、目標を持ってみたらいいんじゃないか?」
「目標……?」
私には試験でいい点を取る、以外思いつかない。
「将来こうなりたいでもいいし、どこの大学に受かりたいでもいい。なんのために勉強するのか、目標をはっきりさせることで、やりがいに繋がる」
「純也さんはあるの? 目標」
「大学在学中に国家公務員採用総合職試験に受かって、官僚コースだな」
まだ大学生一年生なのにそこまで考えているなんて。
「でも、その前に……」
なぜか純也さんは、意味ありげに私の顔を見て微笑んだ。
「……?」
「……ふゆは、なにかないのか?」
(大人になったら……私はなにになりたいんだろう)
私も、純也さんみたいに目標を持って頑張りたい。漠然とだが、そう思った。
それに、目標を持って頑張ったら、いつか妹扱いではなくなるかもしれない。少しは彼に近づけるかもしれない。
(最終目標は、純也さんと結婚する……なんてね)
まずは手に職を……と考えて、看護師しか思いつかなかった。看護学科のある大学なら受かる可能性はゼロではない。
それにだ。風邪を引いた純也さんを私が看病できるかもしれない。頭の中でそんな妄想を繰り広げていると、無情にも重い紙の束が渡される。
「とりあえず、これ課題。三日後までな」
「うぇぇ~多過ぎない?」
「俺とデートしたくない? せっかくの夏休みだし、俺はふゆと出かけたいよ。そのためには、結果を出さないと」
そう言われたらやるしかない。
その後、私は純也さんから出された大量の課題に追われ、机に向かう時間が増えたからか、お母さんは多少遊んでもなにも言ってこなくなった。
夏休みが明けた九月中旬の土曜日。
今日は午前中から松坂邸にやってきている。
家庭教師を頼んでいるのは平日の三日間だが、どうしても純也さんの都合がつかないため、土曜日に授業をすることになった。平日よりも一緒にいられる時間が長いので、私としては大歓迎だ。
門を潜ると、庭で滋さんが、池の鯉に餌をあげていた。
「滋おじさん、おはようございます。お邪魔します」
滋さんは私に向かって軽く手を振ってきた。小さい頃はわからなかったが、穏やかな笑みを浮かべている顔は純也さんとうり二つだ。それに濃紺の和装姿は妙に貫禄があって、滋さんを前にすると背筋が伸びる。
顔馴染みのお手伝いさんへ挨拶を済ませてキッチンへ行くと、純也さんのお母さんがボウルで生クリームを泡立てていた。
「鈴子さん、おはようございます」
鈴子さんは朝から趣味のケーキ作りをしているようだ。家族で食べるにはいささか大きいスポンジと、いちごが大量に載った皿が目に入る。
「ふゆちゃん、いらっしゃい。ケーキ作るから、あとで純也の部屋に持っていくわね」
鈴子さんは私が来るたびにケーキを焼いてくれる。松坂家の冷蔵庫には私のために一年中いちごが入っているくらいだ。どうやらケーキ屋に卸しているいちご農家からわざわざ取り寄せしてくれているらしい。
「いつもありがとうございます」
「俺はいらないから」
「はぁ、まったくこれだもの」
肩を竦めて大げさにため息をつく鈴子さんに、私は思わず笑ってしまう。私は、頻繁にケーキを作ってくれるお母さんがいるのを羨ましいと思うが、純也さんはそうでもないらしい。
「ふゆ、行くぞ」
「あ、うん」
キッチンを出て広いリビングを通り廊下から階段を上がる。
純也さんの部屋は二階だ。一階には今は亡くなっているおじいさんと、おばあさんの部屋と、滋さんと鈴子さんの部屋、それに通いのお手伝いさんの休憩スペースがある。
「入って」
「はーい」
南側にある純也さんの部屋は二十畳ほどの洋室だ。勉強机とベッド、大きい本棚くらいしか物がない。
純也さんと二人きりでいるのは珍しくない。それなのに、ここのところ私は、二人きりの空間がどことなく落ち着かなくなってしまった。何度も脳裏によみがえるのは、怖いくらいに熱を持った純也さんの目だ。普通でいようと思っても、ふとした時に思い出して顔が火照る。
「今日は何時までいられる?」
「べつに用事はないから、いつもと同じで大丈夫」
ハッと我に返りなんでもないように答えると、純也さんの椅子を貸してもらい机に向かう。
「俺も今日はなにも予定がないから、せっかくだし全教科のテスト対策しておくか。昼飯は、母さんが作ってるだろうし。十二時までやって、昼休憩して午後は三時までな」
「ぜ、全教科……五時間……」
顔を引き攣らせる私の横で、パソコンを操作していた純也さんが大量のテスト用紙を印刷し始めた。
今日も勉強三昧らしいと項垂れていると、そっと頭を撫でられる。飴と鞭はばっちりだ。なんだか弄ばれているようで悔しい。
「ふゆは中学の英語で、教科書を丸暗記してテストを乗り切ってたタイプだろう? 基本的な文法と読解がわかってないから躓くんだ。単語は暗記でどうにかなるんだから、文法さえ覚えてしまえば英語は簡単だよ」
純也さんは机に手を突いて、私のすぐ横に立ったまま話をする。私の部屋にある椅子より座る位置が高いため、純也さんの顔が近づいてくると耳元に息がかかりくすぐったい。
今までは近くにいてドキドキはしていても、これほどに緊張はしなかった。純也さんの息遣いさえ聞こえてきそうな距離に胸が高鳴り、顔が見られなくなる。私はテキストを目で追うと、慌てて話題を変えた。
「あ、こ、ここっ! この間、清貴に教えてもらったとこだ。これならわかるよ。放課後、真紀と三人で勉強したんだ」
「清貴? 男か、そいつ?」
純也さんの声がすっと低くなる。私は高校で新しくできた友人のことを説明する。
「生徒会で一緒なの。清貴は面倒見がよくて、クラスのみんなに頼られてる副会長だよ。あ、そういうとこ純也さんに少し似てるかも!」
私は喋りながらも、必死に問題を解いていく。だから、純也さんがその時、どんな顔をしていたのか気づかなかった。
「お前さ……あまり清貴って男に近づくなよ?」
「なんで? クラスも生徒会も一緒なんだから、近づかないとか無理だよ」
「そうじゃない。俺にしてるみたいに、ほいほい懐くなって言ってるんだ」
隣から聞こえた低い声に驚いて顔を上げると、純也さんは珍しく目を細めて不機嫌そうな表情をしていた。
「……するわけないよ。清貴はちゃんと私が高校生だってわかってるもん」
私を子ども扱いする純也さんとは違う、と皮肉を込めて言った。清貴は純也さんみたいに過保護じゃないし、私を抱き上げたりもしない。
「俺が、お前を子ども扱いしてるって? そんなわけあるかよ」
純也さんはさらに声を低くして私の耳にかぶりついてくる。その直後、耳たぶを舌で舐められて、ぞくぞくと不可思議な痺れが腰から湧き上がってきた。
「ん……やっ」
突然変わった彼の態度に驚いて、私は思わず腕を突っ張らせる。私を見る純也さんの目がいつもとは違う。どうして、今、あの日と同じような目で私を見るのだろう。
「俺が近づいたら、そうやって怖がって逃げるくせに」
「だって……耳、噛むから」
私は顔を真っ赤にして口ごもる。
「ふゆ、ちゃんと覚えてるか?」
純也さんが私を真っ直ぐに見つめてくる。怖いくらい真剣な瞳になにを言われるのかと心臓がドクンと音を立てた。
「な、なにを?」
「俺にプロポーズしたこと」
彼がおもむろに顔を近づけてきたことに息を呑む。私が瞬きもせずに固まっていると、純也さんの顔が目の前にくる。
思わずぎゅっと目を瞑ると、唇に柔らかい感触があった。いったいなにが起こったのか。
「あの時のお返し」
驚いて目を開けた私の視界に入ってきたのは、間違いなく純也さんの端整な顔。すぐにまた、ちゅっとわざと音を立てて唇を軽く押し当てられたかと思うと、数秒も経たずに離れていった。
「え……なんで?」
「お返しだって言っただろ。あとは自分で考えろ」
そんなことを言われても。
嬉しいよりなにより戸惑いが大きい。
今まで、頬やおでこにキスをされたことはあっても、唇にキスをされたことは一度もなかった。
(まさか、純也さんも私のことを好き、とか……いやいやいや……待って)
あっという間に、私の頭の中がパニックに陥った。
「あ、れ……?」
目を開けると、自分の部屋とは違うカーテンが視界に入った。
「ふゆ、起きた?」
「あれ……私、寝てた?」
私が慌てて起き上がろうとすると、ベッドの端に腰かけた純也さんが腰に腕を回して支えてくれる。
「五時間も勉強したからな。疲れたんだろ」
そうだった。純也さんからのキスに動揺しパニックに陥った私は、現実逃避とばかりに目の前の勉強に集中した。午前に二時間半、お昼ご飯を食べて二時間半。必死に問題を解いているうちにうとうととしてきて、いつの間にか眠ってしまったらしい。ベッドにいるのは、おそらく純也さんが運んでくれたのだろう。
私を見下ろす純也さんは、キスなんてなかったみたいに平然としている。
(純也さんにとっては……キスじゃなかったのかもね)
お返しだと言っていたから、言葉通りなのかもしれない。
一瞬だけ、期待してしまったじゃないか。
ため息を呑み込み、寝乱れた髪を手櫛で直す。身体にかけられていた毛布を剥ぐと、穿いていたフレアスカートが太ももぎりぎりまで捲り上がっていた。上に毛布が掛けられていたのは、見えないようにという純也さんの配慮だろう。
「私、どれくらい寝てたの?」
「一時間くらいか。あぁ、母さんがケーキを持ってきたから、起きたばかりだけど食べるか?」
「やった、食べる!」
私が嬉々としてベッドから下りると、ホールケーキをその場で切り分けて純也さんが皿に載せてくれた。その間、私はポットに入ったお湯で紅茶を淹れる。
「いちごは自分で取れるのか?」
「取れるに決まってるでしょ! そのネタ何度も言うのやめてよ!」
「ふゆが、いちごを食べているところが好きなんだよ。可愛くて。それにしても……変わらないものだな」
純也さんは遠い目をして懐かしむように私の頬に触れてきた。口の中のいちごを呑み込み、私は首を傾げる。
「そりゃ、背は伸びてないし、いまだに中学生に間違えられるけど……気にしてるんだから」
「俺が言ってるのは、そういうことじゃない」
「じゃあどういうこと?」
「俺の気持ちが、だよ。昔からちっとも変わってない。小さい頃から同じようにふゆが可愛い」
小さい頃から同じように――は禁句だ。小さい頃から同じように妹として可愛がってくれているのを知っている。かなり溺愛されているのも。
でも、私の気持ちは、変わった。幼馴染みのお兄ちゃんから、男の人に。
落胆していると、頬を撫でていた指が唇へと下り、そのまま私の唇の形を辿るようにつぅっと指を動かされた。
先ほどのキスを思い出してしまう。
いつの間にか、空気が張り詰めているような気がして動けなくなった。自分の呼吸の音がやたらと大きく聞こえて、頬が火照ってくる。すると、彼の指が薄く開いた唇の隙間へと入ってきた。
「……っ」
思わず身体を引くと、純也さんは唇に触れていた指を離しふっと鼻で笑った。
「相変わらず、口に生クリームつけてるところも可愛いよな。やっぱり、俺が食べさせてやろうか?」
「クリームなんてつけてない!」
私がその場の空気を変えるように叫ぶと、純也さんの表情も元に戻る。
「ついてるだろ、ほら」
純也さんは手つかずのいちごをフォークに刺して、私の口に押し当てる。いちごの周りについていた生クリームが私の唇にべっとりとついてしまう。なんてことをするのだと、私は頬を膨らませて抗議の声を上げた。
「これはつけたって言うんです! もう、昔は優しくてなんでもできる完璧な王子様だと思ってたのに~!」
「へぇ、優しくてなんでもできる完璧な王子様ね。そう思ってくれてたのか。そういえば、よくお姫様ごっこに付きあわされたもんな」
純也さんはにやにやと人の悪い笑みを浮かべ私をからかってくる。
「だから、昔は、だってば」
私はつい口から漏れてしまった本音が恥ずかしくて、言い訳のように言葉を続けた。
「完璧な王子様じゃなかったら、ふゆは俺のこと嫌いになるか?」
嫌いになんてなるわけがない。
むしろ私は、いつか純也さんが、私にだけ弱い部分を見せてくれたらどんなに嬉しいだろう、と考えてしまう。
「最初から完璧な人なんているわけないでしょ」
テレビや漫画など、勉強に関係ない物はなにもない部屋。コンポタイプのオーディオ機器も、ラジオの語学講座を聞くために置いていると知っている。
この部屋は、勉強をするためだけに整えられた環境なのだ。
滋さんは、勉強をしろと口うるさく言うわけじゃないけれど、いわゆるエリートが歩むレールの上から外れることを許さない人みたいだ。いい大学を出て、純也さんのおじいちゃんのような政治家か、滋さんみたいな官僚の道に進むのを当たり前と思っているらしい。
「純也さんが完璧なのは、努力あってこそだよね? 私が友達と遊んだり、テレビを観たりゲームをしたりしてる間、純也さんはずっと努力してたんだなって……この部屋を見たらわかるよ」
私の言葉に純也さんが破顔した。
「じゃあ、これからも、ふゆに褒めてもらえるように頑張ればいいか」
そう言った純也さんの顔が、意外にも子どもっぽくて、可愛いなんて思ってしまったのは内緒だ。
純也さんに家庭教師をしてもらい始めてから一年と少しが経ち、私は高校二年生になった。
いつの間にか家で勉強をするよりも、純也さんの部屋に来る頻度の方が多くなっていた。
今日は中間テスト前ということで、すでに四時間は机に向かっている。
私が問題を解いている間、純也さんは自分の勉強をしているため、室内はシンと静まり返っていた。
十月に入り湿度は多少低くなったものの、いまだ夏日も多く汗ばむ陽気が続いている。
窓がすべて閉まっているからか湿度を含んだ空気が重く、息苦しく感じる。汗ばんだ肌に生地の厚い冬用のセーラー服が貼りつくのが不快だ。
(暑くて集中できない……)
少しでも涼しい空気を取り込もうと、セーラー服の胸元を引っ張りパタパタと扇ぎつつ、机に向かいペンを走らせる。
『それとも……大学には行かずに俺と結婚するか?』
ふとした時に、純也さんの言葉を思い出してしまう。忘れようと思っても忘れられない。
でも、私たちの関係は昔となにも変わらない。あのキスだって、やっぱり夢だったんじゃないかと思えてしまう。ここまで来ると、いい加減片思いを拗らせ過ぎて、私を弄ぶ純也さんが恨めしくなってくる。
(相変わらず私のこと甘やかすから……ほかの人に目を向けることもできないんだよ)
「こら、ふゆ。暑いなら窓開けるから、それやめろ」
私が集中できていないことに気づいたのか、純也さんが呆れたような声で言ってくる。
「それ?」
純也さんが私の胸元を指差しながら目を細めた。はしたない、と言いたいのだろう。私が胸元から手を離すと、純也さんは部屋の窓を開けるために立ち上がった。
(私のあるかないかわからない胸に、ドキドキなんかしないか)
自分の考えに空しくなる。
少しは顔色を変えてくれてもいいのに。そんな気持ちで、窓を開ける彼の背中を見つめていると、突然、振り返った純也さんにとんと鎖骨の下あたりを突かれた。
「なに?」
指はすぐに離れていかず、そのままだ。私は純也さんを仰ぎ見る。
「純也さん?」
「今度無自覚に俺のこと誘ったら、襲うからな。そろそろ……自覚してもらわないと困る」
純也さんの指がつっと鎖骨を撫でるように動いて、そのまま下へと下ろされる。触れられた部分がじんと熱を持ってじわりと全身に広がる。
指先が胸の膨らみに触れそうになり、私は椅子から転げ落ちそうになった。
「ひぇっ!」
もちろんそんな私を支えたのも純也さんで、腕を引いて仰け反った身体を引っ張り上げられる。
「やっぱり、ふゆにはまだ早いか」
純也さんが苦笑して、兄の顔になる。
また子ども扱いだ。期待しては突き落とされる。いくらなんでもひどくないか?
目の奥がじんと熱くなって、泣きたくないのに目に涙が滲む。
私は、いつものように頭を撫でようと伸びてきた手を掴んで、胸元に引き寄せる。
「ふゆ?」
いつだって自分ばかりが感情を波立たせていることに苛立つ。少しは純也さんだって動揺すればいいのに。
「襲っても、いいよ」
その時、どうして自分が〝そう〟言ったのかわからない。ただ、気がついたら口に出していた。
純也さんの顔は見られなかった。どくどくと彼に聞こえてしまいそうなほど大きく、心臓が高鳴っている。
まるで判決を待つ罪人みたいな心地で純也さんの言葉を待つ。
「それ、本気にするぞ?」
私はばっと勢いよく顔を上げた。純也さんは先ほどまでの兄のような眼差しを消して、熱のこもった瞳で私を見つめていた。
「うん。して」
小さく頷くと彼の指が私の唇に触れた。「いいか」と問うように下唇の上をなぞられる。私が目を瞑ると柔らかい純也さんの唇が重なって、私は二度目のキスをした。
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