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第十章

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 朝早くふたばが家に帰ると、珍しくリビングから音が聞こえていた。
 わかばが起きているのだろうと思ったが、事情を知ってしまった今、どんな顔をして帰ればいいかわからない。
 わかばが大変な思いをしている時、自分は何も知らずに呑気に大学生活を送っていた。
 家では明るく悩みなどまったくなさそうにしていたが、本当は誰かに聞いて欲しかったのではないか、それを聞いてあげられるのはふたば以外にはいなかったのに。
「ただいま」
 玄関で靴を脱いで部屋に上がると、音の正体はテレビだった。
 わかばが見ているのだろうか。
 姉の部屋にもテレビはあり、いつもはヘッドフォンでテレビを見ている。なんだか違和感を覚えて、急ぎ足でリビングへのドアを開けた。
「お姉ちゃんっ?」
「ふたば……おかえり」
 ソファーに座ったまま振り返ったわかばは、弱々しいながらも薄っすらと笑みを浮かべていた。
「今日は、体調いいの? 起きてて平気?」
 労わるように声をかけると、ソファーに座ってテレビを見ていたわかばがゆっくりと立ち上がり、ダイニングテーブルについた。
「うん。いつもごめんね」
「ごめんなんて言わないで。そうしたら、あたしも謝らないといけなくなる。ずっとお姉ちゃんにばかり苦労かけてごめんねって」
 顔を合わせればなんてことはなかった。
 いつもと同じようにスラスラと言葉は口から出てくる。
 ふたばが事情を知ってしまったことを、わかばには知らせなくてもいいかと思う。一年半前の辛い出来事をわざわざ掘り起こすことはないし、今度こそ犯人は捕まったのだから。
「あ、ご飯食べた? 買い物行かないと何もないけど、とりあえずお茶漬けでも食べる?」
 ふたばが出汁の粉末を手にしながら聞くと、わかばが柔らかい微笑みを浮かべて頷いた。今日は本当に調子がいいようだ。わかばが自然に笑った顔など一年以上見てはいなかった。
「ふたばが作り置いてくれたの食べたよ。でも、お茶漬け、私ももらっていい?」
「もちろん。ちょっと待ってね」
 手を洗って冷凍庫に入れておいたご飯を解凍する。簡単だが、粉末の出汁を振りかけて、海苔とシャケを乗せただけの簡単なものだ。
 沸騰した湯をかけて、二つの茶碗をテーブルに置いた。
「美味しそう」
 わかばは両手のひらを合わせて「いただきます」と言った。
「お腹空いた~いただきます」
 家にいると緊張が緩んでしまう。二人で食事をするという、そんな何でもないことに幸せに感じると、わかばに起こった悲劇まで思い出してしまって、泣きそうになる。
 グッと目に力を入れて堪えるも、泣き笑いのような顔で蓮華を手に茶漬けを食べ進めることになる。ズルズルと鼻をすすっていることなど、わかばにはバレバレだろう。
「ふたばは変わらないね。ほんと泣き虫なんだから」
「お姉ちゃん……」
 しょっちゅう言われていた。〝ふたばは泣き虫なんだから〟〝笑ってた方が可愛いよ〟なんて、子どもを宥めるみたいに。実際に子どもだったのだが。
 しかし、あの頃の姉と同じ歳になって思う。わかばだって大人ではなかった。必死に地に足をつけて踏ん張っていたに過ぎない。ふたばが幼過ぎて、姉は完璧な大人であるように思っていたから、きっと大変だっただろう。
「お姉ちゃん、あたしもう……子どもじゃないよ」
「知ってるよ」
「ちゃんと受け止められるから。お姉ちゃんの口から聞きたい。一年半前、何があったのかって」
 ふたばが言うと、諦めたようにわかばは嘆息して視線を落とす。
 やはり、わかばに直接聞くのはまだ早かっただろうか。けれど、実際に何があったかを知っているのは当人である姉だけだ。
「さっき、眞鍋先生からメールが入った。ふたばに話してしまったって。っていうか、ふたばがM&Bネクサス法律事務所で働いてることも知らなかったなんて……姉失格ね。眞鍋先生に近づいて、私のこと聞こうとしたんだって?」
 暁史の行動力に脱帽した。まさか、そんなすぐにわかばへ連絡を取るとは思ってもみなかった。
「だって、あの人しかいないと思ったから」
「もう知ってると思うけど、眞鍋先生は私のことを守ろうと奮闘してくれた」
「うん……ごめんなさい」
「あの当時、眞鍋先生も大変だったみたい。一人暮らししてるマンションには悪評めいた張り紙がされて、電話は一日中鳴りっぱなし、FAXは動きっぱなしで、固定電話の電源を切るしかないって言ってた。古典的だけど剃刀入った手紙なんてのも届いたみたい。マンション周辺に貼られた張り紙剥がすのも大変そうだったけど、そのぐらいのことは慣れてるからと、彼は気にも留めなかったの」
 ふたばならノイローゼになりそうなものだが、嫌がらせの類を慣れているの一言で片づけられる暁史は、日頃からそんなにも危ない仕事をしているのだろうか。
「だから、お姉ちゃんが標的にされたの?」
「それはわからない。初めから私に目をつけていたのか、彼から何の反応もないのが悔しかったのか。でも……会社帰りに突然襲われて、公園に連れ込まれた。口を塞がれて下着を脱がされてるのに、声を上げることすらできなかった。呆然しながらね……被害者の女の子もこんな気持ちだったんだってわかったわ。これで、弁護士が来て〝示談にしてください〟とか言われたら、殴りたくなるもの。あの時味わった恐怖に値段がつけられるなんて冗談じゃない。外にでも出られなくなって、男性の声も聞けなくなって……でも犯人はのうのうと社会生活を送ってる」
「どうして、被害届を出さなかったの?」
「怖かった。犯人に見覚えはなかったし、被害届を出したら、また私に報復にくるんじゃないかって……そうしたら、身動き取れなくなった。ごめんね……こんな弱いお姉ちゃんで」
「弱くない……そんなの、怖いのなんて当たり前だよ」
「ごめんね。眞鍋先生から連絡があって、ふたばのこと聞いて……愕然としたわ。閉じこもってる場合じゃなかった。あなたまで襲われるなんて、そんなの絶対に許せなかった」
 わかばの目には後悔と懺悔があった。自分が行動を起こさなかったことで、ふたばまでと思ってしまったのだろう。
「今日駅までね、迎えに行こうと思ったの。あなたが危ない目にあったって知って、居ても立っても居られなくなって」
 わかばのテーブルの上で組まれた手は微かに震えていた。もしかしたら、今この場で話をしていることも相当のストレスになっているのかもしれない。
「外に、出ようとしたの?」
 ふたばが聞くと、わかばは首を縦に振って肯定した。
「でも……無理だった。ドアを開けようとすると、誰かが見ているような気がして足がすくんで動けなかった。誰よりも大事な家族なのに、外に出られなかった」
「出なくていいよっ! あたしのために迎えに来ようとしてくれたのは嬉しい。だから、お姉ちゃんが出たいって思った時は、あたしが一緒に行くから。一人で何とかしようとしないで。言ったでしょ? あたしだって、もう子どもじゃないって。お姉ちゃんのこと守れるようになるから。ご飯食べて寝て、こうして話をしてくれたらそれだけで嬉しい」
「無理してない? 家のことやって、ご飯も作って……仕事もあるんだし」
「それ言ったら、お姉ちゃんの方がよっぽど無理してたでしょ? 仕事しながら家事全部やってたじゃない? 今は、お姉ちゃんが使ったお皿片付けてくれてるけど、あたし高校生ぐらいまで、シンクに持っていくことしかしなかった。お姉ちゃんが全部やってくれてたよね。洗濯も掃除も。今更だけど、感謝しかない」
「ありがとう、ふたば」
 わかばの表情は明るいとは言い難かったが、声は明るく前向きだった。
 しかし、暁史と付き合っていることはどうしても言い出せなかった。
 きっとわかばは暁史のことが好きだから。
 暁史は恋愛感情を持っていたことはないし、身体の関係も一切なかったと言っていたが、そもそも二人が付き合っていると勘違いしたのは、暁史のことを話す時のわかばの表情からだった。目を輝かせて暁史の名を語るわかばの目は尊敬の色だけではなかった。
 だから、二人の間にあったのは、恋愛関係のもつれだと思ったのだ。
 ふたばが暁史に抱かれたと知ったら……わかばはまた気をふさいでしまうかもしれない。
「あ、眞鍋先生と付きあうことになったんだって?」
 しかし、まるでふたばの考えを見透かしたように、わかばが口を開いた。
「へっ? あ、うん……」
「そっか、よかった」
 わかばは心底安心した表情で、ふたばが作った茶漬けを食べ終えた。どうして〝よかった〟なんて言葉が出てくるのだろうか。
 わかばの顔を窺うようにそろそろと視線を向けると、茶碗をテーブルに置いたわかばが「違うからね」と言った。
「な、なにが……?」
「私が眞鍋先生のことばかり喋ってたのは……別に恋愛感情があったからじゃないわよ」
 だったら、どうして。
 頭の中にはクエスチョンマークがたくさん並んでいる。尊敬しているとも言っていたし、暁史の話を聞かされない日はなかった。好きではなかったのなら、一体なんで。
「だってふたばはこんなに可愛いのに、高校生になっても、大学生になっても彼氏の一人も作らず、男っ気も一切ない。ちょうど同じようなタイプが職場にいたからね」
「同じようなって……暁史さんのこと?」
 女っ気がないだなんてことはあり得ない。相当モテるだろうし、実際ふたばは美女と歩いている暁史を見ているのだ。
「そう。適当に遊んではいるけど、来るもの拒まず去る者追わずだったから。でも、ふたばの話は楽しそうに聞いてくれてたのよね。猪突猛進なところはあるけど、一生懸命で可愛いんですって言ったら、会ってみたいって。そのうち会う機会があるかもって思って、私もあなたに眞鍋先生の話してたの。別にくっつけばいいな……とかそこまで深くは考えてなかったけどね」
「え……お姉ちゃんの思惑通りってこと……?」
「だって、ふたばはわかりやすいし。眞鍋先生の話するとき、目をキラッキラさせて聞いてたくせに」
 たしかに。わかばから聞く暁史の話が大好きだった。
 もの凄くイケメンなのに、いつも同じものばかり食べることや、ボールペンは同じメーカーの物を箱買いしていること。
 同じ眼鏡を五本持っているなんて、聞いたこともあった。
(最初から……暁史さんを紹介するつもりだった……?)
 暁史の話を聞いて、会ったこともないのに、まるで自分の友人でもあるようなつもりでいた。勝手に親しみを覚えて、いつか会えると楽しみにしていたのだ。
 高校生や大学生の頃恋人を作らなかったのは、恋愛がよくわからなかったからだ。何度か告白されたこともあったし、合コンへの誘いもあった。友人たちと過ごすのは楽しかったけれど、何よりわかばと過ごす時間の方が大切だった。
「いい人でしょう?」
 わかばの言葉に、ふたばは大きく頷いた。

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