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パン屋の倅が知らない話。

《閑話》パン屋の倅が知らない話。⑦

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 新年の休暇に入り、宰相府の執務室はがらんとしている。人気がないと、火を入れてもなかなか暖まらない。なにかあったときのために交代で詰めているだけなので、飲酒さえしなければ本を読もうが寝惚けていようが許される。

 田舎領地の子爵家の三男という微妙すぎる出自の宰相補佐官ランバートは、休みに領地に帰るのも面倒で王都に残ることにした。三男といっても九人兄弟の七番目、兄弟と大勢いる甥姪に揉みくちゃにされて、へとへとに疲れるのが目に見えている。両親も子沢山だが、兄夫婦、姉夫婦も子沢山だからだ。

 暖炉の前にラグを引いて、暖かいココアの入ったカップを両手で持ち、本格的に寛ぐことにする。ついうっかり、年末にやり残した仕事に手を着けかけて、『休めるときに休むんだ』と自分に言い聞かせて、断腸の思いでほったらかしたところだ。

 そこへ宰相閣下がふらりとやってきて、ご自分の執務机で書類を作成し始めた。

「⋯⋯お手伝いしましょうか?」

 言わなくてもいい一言を言ってしまう。これはもう性分だ。

「いや、いい。もう終わった。仕事始めを迎えたら、またこき使うから、今のうちに鋭気を養っておけ」

 ⋯⋯なんかまた、面倒くさいことが起こっているらしい。

「なにかあったのですか?」

「一昨日の王室主催の新年の夜会で、コーディアル・ディンチがエルフィン様に堂々と横恋慕を表明した」

「は?」

 あの、真面目と堅物を練り合わせて固めたような男が?

 ランバートはポカンと口を開けた。書記官のギルバートと三人で、お猫様の茶会に招かれたときのことを思い出す。

「あー、そう言えば、お猫様を『可憐』だとか言ってましたね」

 本当に可憐だから、聞き流した。

「コーディアル・ディンチは外務官になる前は、財務官でしたね。⋯⋯なるほど、二代前の財務大臣は蟄居した老害のひとりだ」

 あのエロジジイどもか、とランバートは数人を脳裏に浮かべた。そのうちの何人かには、彼が文官になりたてだったころに尻を触られた。

「老害の処分を表沙汰にしなかったのがよくなかったのでは?」

 ランバートは言ったが、そうもできなかった理由もよくわかっている。人数が多すぎて、息子世代を連座で処分となると、議員の三分の一が入れ替わってしまう。新王に変わったばかりの混乱期にそれは痛い。

 宰相閣下は夜会の喧騒に乗じて、ナナシ伯爵をはじめとした数人から、老害どもの処分を聞いた。田舎に引っ込んで隠居とは、お猫様に耳障りよく伝えたまでだ。

 確かに老骨に鞭打つように旅路につかせたわけだが、その後領地で冬の寒さに負けて風邪から呆気なく肺炎になったり、段差につまづいて転んで打ちどころが悪かったりと、不幸に見舞われたようだ。⋯⋯作為的、人為的、気づいても口にはしない。

 報告する方もされる方もすべてをわかっていて、空々しい見舞いの言葉が楽団の音楽にかき消された。

「調べたところ、ディンチには浮いた噂ひとつない。父親の外務大臣がそろそろ見合いでもさせねばならぬかと、頭を抱えるほどに真面目に仕事に打ち込んでいたのだが⋯⋯」

「真面目すぎて、恋に落ちちゃったら坂道を転がる雪だるまですか」

 ぶつかるまで止まれない。そしてぶつかったときには衝撃で砕けてしまう。なんて、厄介な。

 年齢相応の淡い恋を体験する前に、ジジイどもから若かりし日の武勇伝(恐らく都合の悪いところは端折られている)を聞かされ、虐げられた女性(もしくは男性)を慰めることが男の務めとでも思い込んだのだろう。

「思い余ってエルフィン様を誘拐などせねば良いのだが。陛下付きの近衛も動員して、万全の警護に当たっているよ」

 宰相閣下がため息をついた。

 恋愛小説読めよ!

 友達に相談しろよ!

 ⋯⋯どちらも絶望的かもしれない。ランバートは真面目くさったコーディアルの顔を思い浮かべた。恋愛小説なんて絶対読まないだろうし、アイツに友達がいる想像ができない。

「で、困ったことに、陛下を激しく侮辱した。前王陛下の時代、著しく王族の権威が低下したが、それを払拭せねばならん。新年の夜会での恋の鞘当ては、大事おおごとにしては無粋だと非難する輩もいるだろうが、アレは恋の鞘当てなどでは無い。ただの侮辱だ」

「近衛もいたんでしょう? なぜ斬って捨てなかったのですか?」

「外務大臣の傷を浅いものにしたかったのだよ」

 外務大臣を務めるヴィンチ伯爵は、ここ何代かの外務大臣の中でもっとも優秀だった。自国の不利を相手に悟らせない手腕は見事なもので、内部が崩壊しかかっているエスタークの実情を、実に見事に諸外国に隠し通している。

「まだ膿を出し切っていない今、諸外国に弱みを握られるわけにはいかない」

 老害を排除して、狂信者を退場させた。これから、若い世代とともに国を立て直して行くところだ。若者だけでは不足する経験を補ってくれる存在として、内務大臣、外務大臣は必要な存在だった。

「仕事始めには、コーディアル・ディンチを拘束します。この書類は外務府に特別相談役の席を作る書類です」

 コーディアルの父親は失脚させたくない。罷免は避けて辞任にとどめ、相談役という形で外務府に残ってもらおうというのだ。ディンチ伯爵には針の筵であろうが、領地に引っこまれては困る。

「秘密の恋人の慣例をすぐに無くすのは、本当にそれを拠り所としている弱者救済にはなりません。ですが、嫌がる相手に迫る行為は刑罰の対象にしたいのですよ」

 コーディアル・ディンチの捕縛と裁判をその足がかりにしたい。

「それは、今のうちに鋭気を養っておくべきですね~。仕事始めの瞬間から、馬車馬なみに働かないと⋯⋯」

 ランバートの愚痴めいた独り言に、宰相閣下は笑った。

「お前は文句を言いながら、きっちり働いてくれるからね。ますます、手放せない」

「給料分は働きます」

「おや、給料以上に働いてくれていると思っていたのだが」

「そうおっしゃるなら、どっか信用できるところから、私の補佐を雇ってください。いや、ホントに、ときどき本気で天国を見るんですよ」

 補佐官の訴えに、宰相閣下はふむ、と頷いた。

「確かに。精査せねばならないから少し時間をもらうが、それは許せ」

「え、いいんですか⁈ うわぁ、言ってみるものですね!」

 暖炉の炎に照らされたランバートの頬が、オレンジ色に輝いている。それを見て、宰相閣下はニヤリと笑った。

「ええ。お前には長持ちしてもらわねばなりませんからね」

 ⋯⋯補佐がついた分、仕事が増えるかもしれない。ランバートは自分の首を締めたのかもしれないと、一瞬で真っ青になった。

 やっぱりいいです、と言いかけたとき、執務室の扉が音を立てて開かれて、陛下付きの侍従官が飛び込んできた。日頃優雅な侍従官はそれをかなぐり捨てて大声で叫んだ。

「宰相閣下はおられますか⁈ 陛下がコーディアル・ディンチに襲撃されました! 陛下ご自身で捕らえられ、お怪我もございませんが、至急閣下に来て欲しいと仰せです!」

 陛下そっちかーーぁい‼︎

 ランバートは脳内で激しく突っ込んだ。お猫様を厳重警護してたら、お猫様の恋人に矛先を向けたのか⁈ 馬鹿じゃないのか、その恋人、国で一番偉い人だぞ! 

 それはランバートの新年の休暇が終わった瞬間だった。

 すぐに現場に向かった宰相閣下とその補佐官は、枯れた芝生の上に押さえつけられてなお、生真面目な表情カオを崩さない外務官おとこを見た。

 自国の国王を襲っておいて、悪いことなど何もしていない風情で飄々としている。その凪いだ瞳を見て、ランバートはぞっとした。
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