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安永のトリカブト殺人事件 ~家基、御殿山の櫻の下にて遂にトリカブトの毒に斃れる~
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御殿山へと向かう家基一行を見送った小姓組番頭の花房正域と書院番組頭の牟禮郷右衛門の2人は本堂から境内へと降りて、そこに屯していた平の番士、その中でも全員が清水家、或いは田沼家所縁の者で占められている本丸の両番士と、それに同じく田沼家、或いは清水家所縁の西之丸両番士に声をかけた。
家基が花見の為に「一部の寵臣」を率いて御殿山へと向かったので、警護の為に各々方も御殿山へと向かう様にと、花房正域と牟禮郷右衛門の2人は手分けして、彼等、両番士にそう命じたのであった。
牟禮郷右衛門はそれから西之丸納戸方の越智小十郎道英にも声をかけた。
花見には茣蓙が欠かせないが、家基一行は生憎と茣蓙を持合わせていない様なので、至急、御殿山へと茣蓙を届ける様にと、牟禮郷右衛門は越智小十郎にそう命じたのだ。
この越智小十郎もまた、清水家と所縁があり、清水用人の小笠原主水守惟の娘を娶っており、しかもその間には虎吉道利なる嫡子までもうけていた。
それ故、一見すると「清水派」に色分けされるが、実は一橋派であった。
越智小十郎が岳父にして清水用人の小笠原主水は密かに一橋治済と通じていた。
小笠原主水は本丸書院番士を勤めていた岡野孫大夫辰明が一人娘を娶り、その間にもうけた娘が越智小十郎の許へと嫁いだ訳だが、小笠原主水が妻女の外祖父は高尾阿波守信仍が次男の権右衛門重仍であった。
高尾信仍もその次男の岡野権右衛門も既に亡く、しかし主筋の高尾惣十郎信福がおり、この高尾惣十郎が、
「バリバリの…」
一橋派であった。高尾惣十郎が実の叔父の高尾庄三郎信泰が一橋家臣であるからだ。
そこで治済はこの高尾惣十郎、その高尾の血を引く、且つ小笠原主水が妻女の実兄、岡野虎之丞明從を介して、小笠原主水へと触手を伸ばし、これを取込むことに成功した。
すると治済は次意でこの小笠原主水を介して更に越智小十郎をも取込むことに成功したのだ。
それ故、越智小十郎は一見、清水派と思われ、その実、「隠れ一橋派」という治済にとっては極めて都合の良い立場を築いた。
治済としてはこの越智小十郎に、
「家基は花見において御膳番小納戸の石谷次郎左衛門や三浦左膳、石場弾正や坪内五郎左衛門らが用意した御重を口にした途端、斃れた…」
そう証言させるつもりであり、その越智小十郎に茣蓙を持って行く様にと、牟禮郷右衛門が指示したのも無論、治済の「計画」、家基暗殺計画の一環であった。
越智小十郎が家基の許へと茣蓙を持参し、そして家基の為に櫻の下にてその茣蓙を敷いてやれば、心根の優しい家基のこと、必ずや越智小十郎にも花見に加わる様、命じるに違いなく、そうなれば越智小十郎は家基が斃れる「現場」の「目撃者」となることが出来た。
かくして治済は牟禮郷右衛門に越智小十郎に対して家基の許へと茣蓙を持って行く様にと指示させたのであった。
さて、その頃、御殿山においては家基一行は茣蓙がない為に地面に腰を下ろして花見をしようとしていた。
そこへ茣蓙を抱えた越智小十郎が警備の為の両番士と共にすっ飛んで来た。
越智小十郎は家基の為に茣蓙を敷くと、果たして治済の「読み」通り、越智小十郎にもここで花見を楽しむことを命じたのであった。
これに越智小十郎は一応、躊躇してみせたものの、家基から重ねて強い調子で花見を楽しむことを命じられたので、それで漸くに家基のその厚意に素直に甘えることにした。
だがここで、治済も予期せぬことが起こった。
それは家基が石谷次郎左衛門らが用意した御重の料理を取皿に分け始めたかと思うと、家基の警備の為に御殿山を取囲む両番士の許へと、その取皿に盛った料理を持参したのだ。
勿論、越智小十郎はそれを制止しようとした。
「左様なことはこの、越智小十郎めに、お任せを…」
家基にはこの茣蓙の許で、それも石谷次郎左衛門らが用意した御重を口にした途端、斃れて貰わねばならない。
今はもう、正午は50分を経過《けいか》した頃であった。後10分もすればトリカブトの毒が現れる。
そうであれば家基にはこの茣蓙の上に留まって貰わなければならない。
それ故、越智小十郎は家基を説得したものの、しかし家基はこれを聞き容れなかった。
「小十郎はここで花見を楽しんでいてくれ…」
家基は御重の料理を盛付けた大皿を己の為に警備に当たってくれている両番士の許へと運んだのだ。
両番士は勿論、恐縮した。
家基はそんな彼等に料理を勧め、そこで両番士も家基の厚意に甘え、料理に手をつけた。
両番士はやはり家基が持参した箸を使い回して料理を抓んだ。
家基はその様を微笑ましく眺めた。
そこには日下部一學・左京父子や長谷川平蔵の姿もあったので、ここでも家基は改めて彼等の「手柄」を褒め称えた。
するとそこで不躾な声が割って入った。
「そりゃ、あれだ…、森川の莫迦野郎がいなかった御蔭でさ…」
不躾な声の主は本丸書院番は2番組に属する水原源之助保興であった。
本丸書院番2番組には清水家所縁の者が少なく、逆に一橋家所縁の者が多い程であり、田沼家所縁の者は皆無であった。
本丸書院番2番組において清水家所縁の者と言えば、実の甥が清水家臣の養嗣子である長谷川吉右衛門廣延と元・清水家臣の経歴を持つ杉岡彌四郎能次の2人だけであった。
そこでこの2人に、水原源之助を加えた3人が西之丸供番として今日の家基の鷹狩りに扈従したのだ。
水原源之助は一橋家とは所縁がなく、さりとて清水家や田沼家とも所縁がない。
にもかかわらず西之丸供番に選ばれたのは意次が信頼する長谷川平蔵の縁者であったからだ。
即ち、水原源之助は平蔵の義妹を娶っていたのだ。
義理と言うのは実際には平蔵とは血の繋がりがないからだ。
平蔵が父、長谷川宣雄は松平大學頭家臣の三木忠大夫忠任が娘を養女に貰受け、我が娘として育て、水原源之助の許へと嫁がせたのであった。
平蔵よりも年下であり、それ故、血の繋がりこそないものの、実の妹も同然であり、その妹が水原源之助の許に嫁いだので、水原源之助にとって平蔵は義理の兄に当たる。
年齢も平蔵の方が源之助よりも5つ上であった。
だが水原源之助は生来の無頼漢、遠慮というものを凡そ知らぬ。
源之助は義兄、平蔵のことを「銕三郎」と昔の通称で呼んで憚らず、今もそうであった。
「銕三郎が拍子木役として采配を振るえてのも、偏に森川の莫迦野郎がいなかった御蔭でさ…」
水原源之助は相手が天下の次期将軍・家基でも、やはり、
「憚ることなく…」
べらんめえ調を通した。
その「首尾一貫」ぶりは、ある意味、賞賛に値するだろうが、義兄に当たる平蔵としては堪ったものではない。
「これ、控えよっ」
平蔵は義弟・水原源之助を叱ったものの、それで怯む源之助ではない。
「良いじゃねぇか、本当のことなんだから…」
源之助は悪びれもせずに、そう応じた。
すると家基も、「良い、許す」と口を挟んだかと思うと、
「して、その、もりかわ、の莫迦とは誰のことを指しておるのだ?」
源之助に今の発言の真意を糺した。
「へぇ…、銕三郎と同じ番に属しやす、森川大學、って野郎で…」
家基は源之助からそう説明を受けて、「やはりな…」とそう思った。
家基は森川大學のことを良く存じていた。
森川大學長愛、平蔵と同じ西之丸書院番4番組に属する番士であり、平蔵の先輩に当たる。
但し、進物番としては「同期」であった。
両番の中でも特に眉目秀麗、頭脳明晰な者が選ばれる進物番に長谷川平蔵と森川大學の2人は4年前の安永4(1775)年11月11日に同時に任じられたのだ。
眉目秀麗、頭脳明晰を絵に描いた様な平蔵が進物番に選ばれたのは家基も大いに頷けたが、しかしそれとはまるで正反対の森川大學までが進物番に選ばれたのは全く以て理解出来なかった。
これは後で家基が噂で聞いたことなのだが、どうやら遠縁の森川伊勢守俊顯を頼ったらしい。
森川俊顯は西之丸小納戸頭取として家基の御側近くに仕える者であり、御側御用取次に次ぐ。
森川大學は己を進物番にしてくれと、その森川俊顯に泣付き、すると森川俊顯もそれを受けて、西之丸御側御用取次の佐野茂承へとこの陳情を上げ、結果、進物番に選ばれたというのである。
これで同じ西之丸御側御用取次でも秋霜烈日で知られる水上興正であったならば、斯かる陳情は即座に撥ね退けたに相違あるまい。
だが佐野茂承ならば水上興正とは正反対の御し易い御仁である為に、森川俊顯もそれを見越して佐野茂承にこの陳情を上げたに相違あるまい。
その森川大學だが、実力においては平蔵の足下にも及ばぬにもかかわらず、
「一方的に…」
平蔵をライバル視しては平蔵をウンザリ、ゲンナリせていると、これもまた専らの噂であった。
家基はその噂を耳にすると、森川大學は元より、森川俊顯をも遠ざける様になった。
身内可愛さから、進物番へとゴリ押しする森川俊顯が家基には疎ましく感じられたからだ。
これで進物番としての実力があれば兎も角、実際にはそれとは正反対、大して美男子でもなければ、頭脳明晰でもない、それどころか愚鈍と呼んでも良いだろう、森川大學を進物番にゴリ押しするとは、進物番のレベルを下げる行為に等しい。
斯かる次第で家基は森川俊顯を疎ましく思い、今日の様な鷹狩りにも扈従させることが少なくなり、今日の鷹狩りにも森川俊顯の姿はなかった。
それは森川大學にも当て嵌まり、これで森川大學の姿があれば、平蔵に拍子木役として采配を|振ふ》るわせなかったに相違あるまい。
何しろ鷹狩りにおける拍子木役と言えば、番方、武官にとっては「晴舞台」、一度は経験したいものである。
今日の鷹狩りにおいてその拍子木役に平蔵が選ばれた訳だから、平蔵に一方的なライバル心を燃やす森川大學にしてみれば心中穏やかではなかった筈だ。
これで森川大學を鷹狩りに扈従させれば、大學は畢竟、勢子を勤めることになる。
勢子とは拍子木役の采配により将軍、或いは次期将軍の陣地へと獲物を追立てる。
だが平蔵に含むところのある森川大學が平蔵の采配に素直に従うとも思えず、それどころか拍子木役を失敗らせてやろうと、そう考えて何らかの妨害を仕掛けるとも限らない。
そこで家基は森川大學もまた、今日の鷹狩りには扈従させなかったのだ。
さて、家基はそれから暫くの間、水原源之助との談笑を楽しんだ。
水原源之助は御世辞にも身持ちが良いとは言えない。現代風に譬えれば、「ヤンキー」、「不良」を絵に描いた様な男である。
だが森川大學の様に陰湿なところが全くなく、水原源之助の口から語られる話は家基も知らぬ世界のことばかりで、家基を大いに楽しませた。
だが家基のその楽しい時間も長くは続かなかった。
午後1時を過ぎ、遂にトリカブトの毒と河豚毒の拮抗が崩れたのだ。
河豚毒が無害化し、トリカブトの毒が現出したのだ。
家基が花見の為に「一部の寵臣」を率いて御殿山へと向かったので、警護の為に各々方も御殿山へと向かう様にと、花房正域と牟禮郷右衛門の2人は手分けして、彼等、両番士にそう命じたのであった。
牟禮郷右衛門はそれから西之丸納戸方の越智小十郎道英にも声をかけた。
花見には茣蓙が欠かせないが、家基一行は生憎と茣蓙を持合わせていない様なので、至急、御殿山へと茣蓙を届ける様にと、牟禮郷右衛門は越智小十郎にそう命じたのだ。
この越智小十郎もまた、清水家と所縁があり、清水用人の小笠原主水守惟の娘を娶っており、しかもその間には虎吉道利なる嫡子までもうけていた。
それ故、一見すると「清水派」に色分けされるが、実は一橋派であった。
越智小十郎が岳父にして清水用人の小笠原主水は密かに一橋治済と通じていた。
小笠原主水は本丸書院番士を勤めていた岡野孫大夫辰明が一人娘を娶り、その間にもうけた娘が越智小十郎の許へと嫁いだ訳だが、小笠原主水が妻女の外祖父は高尾阿波守信仍が次男の権右衛門重仍であった。
高尾信仍もその次男の岡野権右衛門も既に亡く、しかし主筋の高尾惣十郎信福がおり、この高尾惣十郎が、
「バリバリの…」
一橋派であった。高尾惣十郎が実の叔父の高尾庄三郎信泰が一橋家臣であるからだ。
そこで治済はこの高尾惣十郎、その高尾の血を引く、且つ小笠原主水が妻女の実兄、岡野虎之丞明從を介して、小笠原主水へと触手を伸ばし、これを取込むことに成功した。
すると治済は次意でこの小笠原主水を介して更に越智小十郎をも取込むことに成功したのだ。
それ故、越智小十郎は一見、清水派と思われ、その実、「隠れ一橋派」という治済にとっては極めて都合の良い立場を築いた。
治済としてはこの越智小十郎に、
「家基は花見において御膳番小納戸の石谷次郎左衛門や三浦左膳、石場弾正や坪内五郎左衛門らが用意した御重を口にした途端、斃れた…」
そう証言させるつもりであり、その越智小十郎に茣蓙を持って行く様にと、牟禮郷右衛門が指示したのも無論、治済の「計画」、家基暗殺計画の一環であった。
越智小十郎が家基の許へと茣蓙を持参し、そして家基の為に櫻の下にてその茣蓙を敷いてやれば、心根の優しい家基のこと、必ずや越智小十郎にも花見に加わる様、命じるに違いなく、そうなれば越智小十郎は家基が斃れる「現場」の「目撃者」となることが出来た。
かくして治済は牟禮郷右衛門に越智小十郎に対して家基の許へと茣蓙を持って行く様にと指示させたのであった。
さて、その頃、御殿山においては家基一行は茣蓙がない為に地面に腰を下ろして花見をしようとしていた。
そこへ茣蓙を抱えた越智小十郎が警備の為の両番士と共にすっ飛んで来た。
越智小十郎は家基の為に茣蓙を敷くと、果たして治済の「読み」通り、越智小十郎にもここで花見を楽しむことを命じたのであった。
これに越智小十郎は一応、躊躇してみせたものの、家基から重ねて強い調子で花見を楽しむことを命じられたので、それで漸くに家基のその厚意に素直に甘えることにした。
だがここで、治済も予期せぬことが起こった。
それは家基が石谷次郎左衛門らが用意した御重の料理を取皿に分け始めたかと思うと、家基の警備の為に御殿山を取囲む両番士の許へと、その取皿に盛った料理を持参したのだ。
勿論、越智小十郎はそれを制止しようとした。
「左様なことはこの、越智小十郎めに、お任せを…」
家基にはこの茣蓙の許で、それも石谷次郎左衛門らが用意した御重を口にした途端、斃れて貰わねばならない。
今はもう、正午は50分を経過《けいか》した頃であった。後10分もすればトリカブトの毒が現れる。
そうであれば家基にはこの茣蓙の上に留まって貰わなければならない。
それ故、越智小十郎は家基を説得したものの、しかし家基はこれを聞き容れなかった。
「小十郎はここで花見を楽しんでいてくれ…」
家基は御重の料理を盛付けた大皿を己の為に警備に当たってくれている両番士の許へと運んだのだ。
両番士は勿論、恐縮した。
家基はそんな彼等に料理を勧め、そこで両番士も家基の厚意に甘え、料理に手をつけた。
両番士はやはり家基が持参した箸を使い回して料理を抓んだ。
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するとそこで不躾な声が割って入った。
「そりゃ、あれだ…、森川の莫迦野郎がいなかった御蔭でさ…」
不躾な声の主は本丸書院番は2番組に属する水原源之助保興であった。
本丸書院番2番組には清水家所縁の者が少なく、逆に一橋家所縁の者が多い程であり、田沼家所縁の者は皆無であった。
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そこでこの2人に、水原源之助を加えた3人が西之丸供番として今日の家基の鷹狩りに扈従したのだ。
水原源之助は一橋家とは所縁がなく、さりとて清水家や田沼家とも所縁がない。
にもかかわらず西之丸供番に選ばれたのは意次が信頼する長谷川平蔵の縁者であったからだ。
即ち、水原源之助は平蔵の義妹を娶っていたのだ。
義理と言うのは実際には平蔵とは血の繋がりがないからだ。
平蔵が父、長谷川宣雄は松平大學頭家臣の三木忠大夫忠任が娘を養女に貰受け、我が娘として育て、水原源之助の許へと嫁がせたのであった。
平蔵よりも年下であり、それ故、血の繋がりこそないものの、実の妹も同然であり、その妹が水原源之助の許に嫁いだので、水原源之助にとって平蔵は義理の兄に当たる。
年齢も平蔵の方が源之助よりも5つ上であった。
だが水原源之助は生来の無頼漢、遠慮というものを凡そ知らぬ。
源之助は義兄、平蔵のことを「銕三郎」と昔の通称で呼んで憚らず、今もそうであった。
「銕三郎が拍子木役として采配を振るえてのも、偏に森川の莫迦野郎がいなかった御蔭でさ…」
水原源之助は相手が天下の次期将軍・家基でも、やはり、
「憚ることなく…」
べらんめえ調を通した。
その「首尾一貫」ぶりは、ある意味、賞賛に値するだろうが、義兄に当たる平蔵としては堪ったものではない。
「これ、控えよっ」
平蔵は義弟・水原源之助を叱ったものの、それで怯む源之助ではない。
「良いじゃねぇか、本当のことなんだから…」
源之助は悪びれもせずに、そう応じた。
すると家基も、「良い、許す」と口を挟んだかと思うと、
「して、その、もりかわ、の莫迦とは誰のことを指しておるのだ?」
源之助に今の発言の真意を糺した。
「へぇ…、銕三郎と同じ番に属しやす、森川大學、って野郎で…」
家基は源之助からそう説明を受けて、「やはりな…」とそう思った。
家基は森川大學のことを良く存じていた。
森川大學長愛、平蔵と同じ西之丸書院番4番組に属する番士であり、平蔵の先輩に当たる。
但し、進物番としては「同期」であった。
両番の中でも特に眉目秀麗、頭脳明晰な者が選ばれる進物番に長谷川平蔵と森川大學の2人は4年前の安永4(1775)年11月11日に同時に任じられたのだ。
眉目秀麗、頭脳明晰を絵に描いた様な平蔵が進物番に選ばれたのは家基も大いに頷けたが、しかしそれとはまるで正反対の森川大學までが進物番に選ばれたのは全く以て理解出来なかった。
これは後で家基が噂で聞いたことなのだが、どうやら遠縁の森川伊勢守俊顯を頼ったらしい。
森川俊顯は西之丸小納戸頭取として家基の御側近くに仕える者であり、御側御用取次に次ぐ。
森川大學は己を進物番にしてくれと、その森川俊顯に泣付き、すると森川俊顯もそれを受けて、西之丸御側御用取次の佐野茂承へとこの陳情を上げ、結果、進物番に選ばれたというのである。
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だが佐野茂承ならば水上興正とは正反対の御し易い御仁である為に、森川俊顯もそれを見越して佐野茂承にこの陳情を上げたに相違あるまい。
その森川大學だが、実力においては平蔵の足下にも及ばぬにもかかわらず、
「一方的に…」
平蔵をライバル視しては平蔵をウンザリ、ゲンナリせていると、これもまた専らの噂であった。
家基はその噂を耳にすると、森川大學は元より、森川俊顯をも遠ざける様になった。
身内可愛さから、進物番へとゴリ押しする森川俊顯が家基には疎ましく感じられたからだ。
これで進物番としての実力があれば兎も角、実際にはそれとは正反対、大して美男子でもなければ、頭脳明晰でもない、それどころか愚鈍と呼んでも良いだろう、森川大學を進物番にゴリ押しするとは、進物番のレベルを下げる行為に等しい。
斯かる次第で家基は森川俊顯を疎ましく思い、今日の様な鷹狩りにも扈従させることが少なくなり、今日の鷹狩りにも森川俊顯の姿はなかった。
それは森川大學にも当て嵌まり、これで森川大學の姿があれば、平蔵に拍子木役として采配を|振ふ》るわせなかったに相違あるまい。
何しろ鷹狩りにおける拍子木役と言えば、番方、武官にとっては「晴舞台」、一度は経験したいものである。
今日の鷹狩りにおいてその拍子木役に平蔵が選ばれた訳だから、平蔵に一方的なライバル心を燃やす森川大學にしてみれば心中穏やかではなかった筈だ。
これで森川大學を鷹狩りに扈従させれば、大學は畢竟、勢子を勤めることになる。
勢子とは拍子木役の采配により将軍、或いは次期将軍の陣地へと獲物を追立てる。
だが平蔵に含むところのある森川大學が平蔵の采配に素直に従うとも思えず、それどころか拍子木役を失敗らせてやろうと、そう考えて何らかの妨害を仕掛けるとも限らない。
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さて、家基はそれから暫くの間、水原源之助との談笑を楽しんだ。
水原源之助は御世辞にも身持ちが良いとは言えない。現代風に譬えれば、「ヤンキー」、「不良」を絵に描いた様な男である。
だが森川大學の様に陰湿なところが全くなく、水原源之助の口から語られる話は家基も知らぬ世界のことばかりで、家基を大いに楽しませた。
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