115 / 119
次期将軍・家基の死に疑いを抱く者の死 ~御医師子息・池原雲亮良明の一橋治済への「宣戦布告」~ 中篇 山村良旺の証拠湮滅
しおりを挟む
「これは…、數馬に非ず…」
登耶は平賀源内の絵筆による似絵を目にして、そう呻いた。
「然らば、この顔は…」
池原良明が先を促すや、登耶は「三之助ぞ…」とやはり呻く様にして応えた。
「三之助とは…、山村様が御実子の三之助良記殿でござりまするな?」
池原良明は確かめる様に尋ねた。
「山村良旺は血の繋がりのない養嗣子の數馬良音ではなく、実の子である三之助良記に家督を継がせ度、そこで良旺は養嗣子の數馬を始末した疑いがある…」
池原良明は登耶に代わって寶蓮院からそう説明されていたからだ。
無論、それは一面の真実ではあるが、しかしあくまで一面にしか過ぎない。
「山村數馬は家基を暗殺、毒殺した主犯は一橋治済…、治済は医師…、西之丸奥医師の小川子雍と山添直辰、本丸奥医師の橘元周、そして本丸表番医師の遊佐信庭と天野敬登、峯岸瑞興の6人を使嗾して家基を毒殺、しかもその治済に養父、良旺までが加担している…」
それが大元の真実であり、寶蓮院はそのことをこの段になって漸くに池原良明に打明けた。
池原良明は当然、目を丸くし、
「然らば數馬殿までも一橋民部卿様が手にかかったと?それで今は、三之助殿が數馬殿のフリをしている、と?」
寶蓮院と登耶の二人に確かめる様に尋ねた。
するとこれには寶蓮院が「左様」と応えた上で、
「それも大目付の正木殿が手にかかったものと見ゆる…」
そう付加えたのであった。
「大目付の?そはまた一体…」
首を傾げる池原良明に対して寶蓮院は山村數馬が大目付の正木康恒に「告発」した直後に連絡がつかなくなったことを打明けたのだ。
「成程…、然らばその、正木様もまた、一橋民部卿様の息がかかっていた、と…」
それで正木康恒に口を塞がれたのかと、池原良明は示唆し、寶蓮院も「左様」と頷いた。
「然らばこのことを、直ちに上様の御耳に…」
池原良明は寶蓮院に将軍・家治への「告発」を勧めた。
山村數馬が殺されたという確たる証はまだない。
あくまで、山村三之助が數馬に扮していることが分かっただけで、これとて厳密に言えばまだ、確たる証の段階には達してはいまい。頼みの綱は平賀源内の似絵だけだからだ。
だがそれでも山村數馬が生存している可能性は限りなく低いであろう。それも一橋治済の手にかかった蓋然性がかなり高い。
ここまで判明した事実がそのことを物語っており、そうであれば仮令、確たる証がない今の段階でも、
「充分に…」
将軍・家治に告発するに値しよう。
寶蓮院も池原良明とは同じ思いであったので、良明の勧めに頷いた。
だが問題は如何にして家治に告発するか、であった。
まさかに、スマホで手軽に、という訳にもゆくまい。この時代、斯かる便利な通信機器は、
「陰も形も…」
見当たらない。
そうであれば畢竟、人力、この場合、家治の許へと足を運び、家治の耳に入れる、ということである。将軍・家治への「告発」とはつまりはそういうことである。
だがこれには高いハードルがある。
何しろ相手は天下の将軍、正しく天下人である。その天下人たる家治の許へと、その直ぐ側まで、
「誰でも…」
簡単に近付けるというものではない。
当然、限られた者しか近付けない。
「やはり…、この身が上様の御耳に入れるしかあるまい…」
寶蓮院はポツリとそう呟いた。
成程、寶蓮院なれば将軍・家治の直ぐ側まで近付け様。
寶蓮院は将軍家の御三卿、それも筆頭の田安家の始祖、宗武の御簾中として、御城は本丸大奥へと登ることが許されており、その折には将軍・家治とも歓談することが屡であった。
ならば寶蓮院自らが家治に告発するのが一番の近道であり、且つ確実と言えた。
だがそれを意外にも登耶が制した。
「畏れながら…」
登耶はそう切出すと、将軍・家治は今はまだ、愛息・家基に先立たれて悲嘆に暮れており、しかも家基の葬送も控えておれば、斯かる大事を前にして、身内である數馬の失踪の件を家治の耳に入れ様ものなら、家治にまた一つ、心痛を増やさせることとなり、それでは家治に申訳ないと、寶蓮院に家治への告発を思い留まらせ様とした。
成程、登耶の言分は尤もであったが、しかしそれで良いのかと、寶蓮院は登耶に尋ねた。
「ははっ…、されば一己の事情にて…、身内が行方知れずと、ただそれだけで畏れ多くも上様の御心を惑わせ申上げては…、また寶蓮院様の御手を煩わせましては申訳なく…」
無論、登耶としては本音を言えば、
「今直ぐにでも…」
寶蓮院を介して、将軍・家治へと大事な義弟の數馬の失踪の件を告発して欲しいところであった。
そうすればそれを端緒に數馬の本格的な捜索が始まるに違いないからだ。
だがしかしそれをすれば、
「田安家では身内可愛さから私情を優先させた…」
その謗りは免れまい。
それは偏に、御三卿筆頭たる田安家の名に瑕を付けるに外ならず、登耶はそれを怖れ、
「断腸の思いで…」
直ぐにでも将軍・家治に告発しようとする寶蓮院を思い留まらせたのだ。
寶蓮院は賢婦人の譽が高かったが、登耶もまた寶蓮院に劣らぬ賢夫人であったのだ。
「左様か…」
寶蓮院もまた賢夫人であるが故に、登耶の胸中がそれこそ、
「手に取る様に…」
理解出来た。
そこで寶蓮院もまた、登耶と同様、
「断腸の思いで…」
将軍・家治への「告発」を思い留まった。
だがこの、登耶や、そして寶蓮院の「奥床しさ」が山村良旺に「証拠湮滅」の機会を与えてしまうこととなった。
寶蓮院と登耶が山村數馬の失踪の件で将軍・家治への「告発」を思い留まったのと同じ頃、山村良旺は我が子・三之助と共に首を傾げていた。
田安家からそれ程、日を置かずして再び、見舞いがてら數馬もとい三之助を診る医師が派されたことに、首を傾げていたのだ。
「よもや…、數馬めがこと、田安家に勘付かれたのでござりましょうか…」
三之助が父、良旺に恐る恐るそう訊ねた。
數馬を殺したことが田安家に発覚たのか―、三之助は父・良旺にそう示唆していた。
「かも知れぬ…、そなたも知っての通り、田安家にて暮らす登耶は數馬が義理とは申せ、姉であるによって…」
「竹本又八郎からの報せによれば、登耶宛に三之助からの書状が届いた由…」
「左様…、田安家よりまずは侍医の高島朔庵めが当家へと差遣わされたのはその直後…、數馬めが病にて勤を休んでいることを聞及びと…、斯かる口実にて…、無論、それはあくまで口実に過ぎず…、真実、數馬が病なのかどうか…」
「數馬めが生きているのか、どうか…、でござりまするな?」
「左様…、それでそなたには數馬めに扮して貰い、高島朔庵めの往診を受けて貰うた訳だが…」
「されば登耶宛のそれな…、數馬めの書状には大目付の正木様に逢うことも…、正木様に一橋民部卿様がことを告発に及ぶことが…」
「恐らくは認められていたであろうよ…、それだけではあるまい…、そなたが數馬めに扮していることも登耶に勘付かれたやも知れぬ…」
「まさか…、高島朔庵めはこの三之助は元より、數馬めの顔も知らぬ筈…」
「確かに…、なれど高島朔庵めが往診せし相手は真実は數馬ではのうて三之助ではないかと、その可能性を登耶めに囁いた者があったやも知れぬ…」
「それが…、今日、往診に訪れし池原某なる医師だと?」
「左様…」
「なれど池原某にしても高島朔庵同様、この三之助は元より、數馬の顔も知らぬ筈…」
「左様…、なれどそなたが顔を書き写したとしたらどうだな?」
「顔を、書き写す?」
三之助は首を傾げた。
「左様…、されば池原雲亮なる医師には附人がおったであろう?」
「確か、見習いだと紹介されたかと…」
「左様…、なれど見習いと申した割にはその者が見ていたのは池原雲亮の手技ではのうて、そなたの顔ぞ…」
「まさか…、この三之助が顔を確とその脳裏に焼付け、後で…、当家を辞去せし直後にでも紙に書き写したと?この三之助が顔を…、それな見習いなる者めが…」
三之助がやはり恐る恐る、それも今度は声を震わせて訊ねた。
すると父・良旺は頷き、
「こうなったからには直ぐにでも目附に數馬めの死亡を届出て、數馬めを火葬してしまわねばならぬな…」
そう「証拠湮滅」の断を下した。
「目附…、と申されますると、井上數馬と末吉善左衛門でござりまするな?」
三之助がそう確かめる様に訊ねると、父・良旺は頷いた。
旗本や御家人が死亡した場合、本丸目附へと届出て、その検死を受ける必要があった。
本丸目附は俗に十人目附とも称され、定員が10人であることからその俗称が冠せられた。
それ故、安永8(1779)年3月の今も本丸目附は10人おり、その中でも井上數馬正在と末吉善左衛門利隆の2人は一橋治済の息がかかっていた。
即ち井上數馬は実の叔母が本丸徒頭の野々山弾右衛門兼起の許へと嫁いでいるのだが、この野々山弾右衛門が実弟、市郎右衛門兼驍は一橋家臣であった。
そこで治済は野々山弾右衛門・市郎右衛門兄弟を介して井上數馬へと触手を伸ばしてこれを取込むことに成功した。
一方、末吉善左衛門に至っては元・一橋側用人として治済の御側近くに仕えており、井上數馬以上に、
「バリバリの…」
親・一橋、治済シンパと言えた。
そこで良旺は自ら、末吉善左衛門の許へと足を運ぶことにした。數馬を「病死」として処理してくれる様、頼む為であった。
末吉善左衛門は井上數馬と共に、治済の「陰謀」は勿論、把握しており、その中には山村數馬の「口封じ」を含まれていた。
山村良旺は当初は家基の葬送が終わる4月に養嗣子、數馬の死亡を、それも「病死」を目附の末吉善左衛門と井上數馬の2人に届出、病死として処理して貰うつもりでいた。
末吉善左衛門と井上數馬の2人にしても治済よりその様に取計らう様、命じられ、そのつもりでいた。
山村數馬の遺骸を塩漬けにしたのも、その為であった。
だが登耶が義弟・山村數馬の死を確信したと思われる―、その蓋然性が極めて高い以上、4月まで待ってはいられなかった。
「なれど今、數馬が死を届出れば折角の葬送の御役目が…」
父・良旺は家基の「葬儀委員」という極めて晴れがましい御役目を仰せ付かっていたが、それが數馬の死が公儀の知るところとなれば、
「穢れ…」
良旺は身内の死によりそう意識され、そうなれば「葬儀委員」の御役目を辞退しなければならぬことになる。
山村良旺が養嗣子・數馬の死を4月まで、それも家基の葬送が終わるまで引延ばそうとしたのは斯かる事情による。
だが今となっては最早、4月まで待てない。
それに家基の葬送は既に動き出しており、良旺も家基の葬送の準備を担う「葬儀委員」として、かなり具体的な実務を担当しており、この段階では身内の死により、
「穢れた…」
公儀にそう意識されたとしても、それだけで辞退を迫られることにはならなかった。ここで家基の葬送を、それも実務を担当していた良旺に「葬儀委員」を辞められては、家基の葬送に支障が出るのは畢竟であったからだ。
かくして山村良旺は早急なる「証拠湮滅」の為に本丸目附、末吉善左衛門の屋敷へと足を運んだ。
登耶は平賀源内の絵筆による似絵を目にして、そう呻いた。
「然らば、この顔は…」
池原良明が先を促すや、登耶は「三之助ぞ…」とやはり呻く様にして応えた。
「三之助とは…、山村様が御実子の三之助良記殿でござりまするな?」
池原良明は確かめる様に尋ねた。
「山村良旺は血の繋がりのない養嗣子の數馬良音ではなく、実の子である三之助良記に家督を継がせ度、そこで良旺は養嗣子の數馬を始末した疑いがある…」
池原良明は登耶に代わって寶蓮院からそう説明されていたからだ。
無論、それは一面の真実ではあるが、しかしあくまで一面にしか過ぎない。
「山村數馬は家基を暗殺、毒殺した主犯は一橋治済…、治済は医師…、西之丸奥医師の小川子雍と山添直辰、本丸奥医師の橘元周、そして本丸表番医師の遊佐信庭と天野敬登、峯岸瑞興の6人を使嗾して家基を毒殺、しかもその治済に養父、良旺までが加担している…」
それが大元の真実であり、寶蓮院はそのことをこの段になって漸くに池原良明に打明けた。
池原良明は当然、目を丸くし、
「然らば數馬殿までも一橋民部卿様が手にかかったと?それで今は、三之助殿が數馬殿のフリをしている、と?」
寶蓮院と登耶の二人に確かめる様に尋ねた。
するとこれには寶蓮院が「左様」と応えた上で、
「それも大目付の正木殿が手にかかったものと見ゆる…」
そう付加えたのであった。
「大目付の?そはまた一体…」
首を傾げる池原良明に対して寶蓮院は山村數馬が大目付の正木康恒に「告発」した直後に連絡がつかなくなったことを打明けたのだ。
「成程…、然らばその、正木様もまた、一橋民部卿様の息がかかっていた、と…」
それで正木康恒に口を塞がれたのかと、池原良明は示唆し、寶蓮院も「左様」と頷いた。
「然らばこのことを、直ちに上様の御耳に…」
池原良明は寶蓮院に将軍・家治への「告発」を勧めた。
山村數馬が殺されたという確たる証はまだない。
あくまで、山村三之助が數馬に扮していることが分かっただけで、これとて厳密に言えばまだ、確たる証の段階には達してはいまい。頼みの綱は平賀源内の似絵だけだからだ。
だがそれでも山村數馬が生存している可能性は限りなく低いであろう。それも一橋治済の手にかかった蓋然性がかなり高い。
ここまで判明した事実がそのことを物語っており、そうであれば仮令、確たる証がない今の段階でも、
「充分に…」
将軍・家治に告発するに値しよう。
寶蓮院も池原良明とは同じ思いであったので、良明の勧めに頷いた。
だが問題は如何にして家治に告発するか、であった。
まさかに、スマホで手軽に、という訳にもゆくまい。この時代、斯かる便利な通信機器は、
「陰も形も…」
見当たらない。
そうであれば畢竟、人力、この場合、家治の許へと足を運び、家治の耳に入れる、ということである。将軍・家治への「告発」とはつまりはそういうことである。
だがこれには高いハードルがある。
何しろ相手は天下の将軍、正しく天下人である。その天下人たる家治の許へと、その直ぐ側まで、
「誰でも…」
簡単に近付けるというものではない。
当然、限られた者しか近付けない。
「やはり…、この身が上様の御耳に入れるしかあるまい…」
寶蓮院はポツリとそう呟いた。
成程、寶蓮院なれば将軍・家治の直ぐ側まで近付け様。
寶蓮院は将軍家の御三卿、それも筆頭の田安家の始祖、宗武の御簾中として、御城は本丸大奥へと登ることが許されており、その折には将軍・家治とも歓談することが屡であった。
ならば寶蓮院自らが家治に告発するのが一番の近道であり、且つ確実と言えた。
だがそれを意外にも登耶が制した。
「畏れながら…」
登耶はそう切出すと、将軍・家治は今はまだ、愛息・家基に先立たれて悲嘆に暮れており、しかも家基の葬送も控えておれば、斯かる大事を前にして、身内である數馬の失踪の件を家治の耳に入れ様ものなら、家治にまた一つ、心痛を増やさせることとなり、それでは家治に申訳ないと、寶蓮院に家治への告発を思い留まらせ様とした。
成程、登耶の言分は尤もであったが、しかしそれで良いのかと、寶蓮院は登耶に尋ねた。
「ははっ…、されば一己の事情にて…、身内が行方知れずと、ただそれだけで畏れ多くも上様の御心を惑わせ申上げては…、また寶蓮院様の御手を煩わせましては申訳なく…」
無論、登耶としては本音を言えば、
「今直ぐにでも…」
寶蓮院を介して、将軍・家治へと大事な義弟の數馬の失踪の件を告発して欲しいところであった。
そうすればそれを端緒に數馬の本格的な捜索が始まるに違いないからだ。
だがしかしそれをすれば、
「田安家では身内可愛さから私情を優先させた…」
その謗りは免れまい。
それは偏に、御三卿筆頭たる田安家の名に瑕を付けるに外ならず、登耶はそれを怖れ、
「断腸の思いで…」
直ぐにでも将軍・家治に告発しようとする寶蓮院を思い留まらせたのだ。
寶蓮院は賢婦人の譽が高かったが、登耶もまた寶蓮院に劣らぬ賢夫人であったのだ。
「左様か…」
寶蓮院もまた賢夫人であるが故に、登耶の胸中がそれこそ、
「手に取る様に…」
理解出来た。
そこで寶蓮院もまた、登耶と同様、
「断腸の思いで…」
将軍・家治への「告発」を思い留まった。
だがこの、登耶や、そして寶蓮院の「奥床しさ」が山村良旺に「証拠湮滅」の機会を与えてしまうこととなった。
寶蓮院と登耶が山村數馬の失踪の件で将軍・家治への「告発」を思い留まったのと同じ頃、山村良旺は我が子・三之助と共に首を傾げていた。
田安家からそれ程、日を置かずして再び、見舞いがてら數馬もとい三之助を診る医師が派されたことに、首を傾げていたのだ。
「よもや…、數馬めがこと、田安家に勘付かれたのでござりましょうか…」
三之助が父、良旺に恐る恐るそう訊ねた。
數馬を殺したことが田安家に発覚たのか―、三之助は父・良旺にそう示唆していた。
「かも知れぬ…、そなたも知っての通り、田安家にて暮らす登耶は數馬が義理とは申せ、姉であるによって…」
「竹本又八郎からの報せによれば、登耶宛に三之助からの書状が届いた由…」
「左様…、田安家よりまずは侍医の高島朔庵めが当家へと差遣わされたのはその直後…、數馬めが病にて勤を休んでいることを聞及びと…、斯かる口実にて…、無論、それはあくまで口実に過ぎず…、真実、數馬が病なのかどうか…」
「數馬めが生きているのか、どうか…、でござりまするな?」
「左様…、それでそなたには數馬めに扮して貰い、高島朔庵めの往診を受けて貰うた訳だが…」
「されば登耶宛のそれな…、數馬めの書状には大目付の正木様に逢うことも…、正木様に一橋民部卿様がことを告発に及ぶことが…」
「恐らくは認められていたであろうよ…、それだけではあるまい…、そなたが數馬めに扮していることも登耶に勘付かれたやも知れぬ…」
「まさか…、高島朔庵めはこの三之助は元より、數馬めの顔も知らぬ筈…」
「確かに…、なれど高島朔庵めが往診せし相手は真実は數馬ではのうて三之助ではないかと、その可能性を登耶めに囁いた者があったやも知れぬ…」
「それが…、今日、往診に訪れし池原某なる医師だと?」
「左様…」
「なれど池原某にしても高島朔庵同様、この三之助は元より、數馬の顔も知らぬ筈…」
「左様…、なれどそなたが顔を書き写したとしたらどうだな?」
「顔を、書き写す?」
三之助は首を傾げた。
「左様…、されば池原雲亮なる医師には附人がおったであろう?」
「確か、見習いだと紹介されたかと…」
「左様…、なれど見習いと申した割にはその者が見ていたのは池原雲亮の手技ではのうて、そなたの顔ぞ…」
「まさか…、この三之助が顔を確とその脳裏に焼付け、後で…、当家を辞去せし直後にでも紙に書き写したと?この三之助が顔を…、それな見習いなる者めが…」
三之助がやはり恐る恐る、それも今度は声を震わせて訊ねた。
すると父・良旺は頷き、
「こうなったからには直ぐにでも目附に數馬めの死亡を届出て、數馬めを火葬してしまわねばならぬな…」
そう「証拠湮滅」の断を下した。
「目附…、と申されますると、井上數馬と末吉善左衛門でござりまするな?」
三之助がそう確かめる様に訊ねると、父・良旺は頷いた。
旗本や御家人が死亡した場合、本丸目附へと届出て、その検死を受ける必要があった。
本丸目附は俗に十人目附とも称され、定員が10人であることからその俗称が冠せられた。
それ故、安永8(1779)年3月の今も本丸目附は10人おり、その中でも井上數馬正在と末吉善左衛門利隆の2人は一橋治済の息がかかっていた。
即ち井上數馬は実の叔母が本丸徒頭の野々山弾右衛門兼起の許へと嫁いでいるのだが、この野々山弾右衛門が実弟、市郎右衛門兼驍は一橋家臣であった。
そこで治済は野々山弾右衛門・市郎右衛門兄弟を介して井上數馬へと触手を伸ばしてこれを取込むことに成功した。
一方、末吉善左衛門に至っては元・一橋側用人として治済の御側近くに仕えており、井上數馬以上に、
「バリバリの…」
親・一橋、治済シンパと言えた。
そこで良旺は自ら、末吉善左衛門の許へと足を運ぶことにした。數馬を「病死」として処理してくれる様、頼む為であった。
末吉善左衛門は井上數馬と共に、治済の「陰謀」は勿論、把握しており、その中には山村數馬の「口封じ」を含まれていた。
山村良旺は当初は家基の葬送が終わる4月に養嗣子、數馬の死亡を、それも「病死」を目附の末吉善左衛門と井上數馬の2人に届出、病死として処理して貰うつもりでいた。
末吉善左衛門と井上數馬の2人にしても治済よりその様に取計らう様、命じられ、そのつもりでいた。
山村數馬の遺骸を塩漬けにしたのも、その為であった。
だが登耶が義弟・山村數馬の死を確信したと思われる―、その蓋然性が極めて高い以上、4月まで待ってはいられなかった。
「なれど今、數馬が死を届出れば折角の葬送の御役目が…」
父・良旺は家基の「葬儀委員」という極めて晴れがましい御役目を仰せ付かっていたが、それが數馬の死が公儀の知るところとなれば、
「穢れ…」
良旺は身内の死によりそう意識され、そうなれば「葬儀委員」の御役目を辞退しなければならぬことになる。
山村良旺が養嗣子・數馬の死を4月まで、それも家基の葬送が終わるまで引延ばそうとしたのは斯かる事情による。
だが今となっては最早、4月まで待てない。
それに家基の葬送は既に動き出しており、良旺も家基の葬送の準備を担う「葬儀委員」として、かなり具体的な実務を担当しており、この段階では身内の死により、
「穢れた…」
公儀にそう意識されたとしても、それだけで辞退を迫られることにはならなかった。ここで家基の葬送を、それも実務を担当していた良旺に「葬儀委員」を辞められては、家基の葬送に支障が出るのは畢竟であったからだ。
かくして山村良旺は早急なる「証拠湮滅」の為に本丸目附、末吉善左衛門の屋敷へと足を運んだ。
0
あなたにおすすめの小説
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
小日本帝国
ypaaaaaaa
歴史・時代
日露戦争で判定勝ちを得た日本は韓国などを併合することなく独立させ経済的な植民地とした。これは直接的な併合を主張した大日本主義の対局であるから小日本主義と呼称された。
大日本帝国ならぬ小日本帝国はこうして経済を盤石としてさらなる高みを目指していく…
戦線拡大が甚だしいですが、何卒!
大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる