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次期将軍・家基の死に疑いを抱く者の死 ~最後の犠牲者、平賀源内~ 源内、一万両の「大博打」 前篇
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平賀源内が池原良明の死を知ったのはそれから一週間が経った4月17日のことであった。
4月10日を境に源内は良明と連絡が取れなくなり、その身を案じていた。
本来ならば良明の屋敷に出向いて、その無事を確かめたいところであったが、良明の生死が分からぬ内は源内としても迂闊には足を運べなかった。
一橋治済の「内偵」について良明は父、良誠には打明けておらず、源内にもその旨、良明から伝え聞いており、
「父には内聞に…」
黙っていてくれるよう口止めされていたのだ。
斯かる次第で源内としては良明の生死について父、良誠に尋ねる訳には参らなかった。
それでは源内は如何にして良明の死を知ったのかと言うと、それは田沼意知から教えて貰ったからである。
池原良明が父にして今は本丸奥医師の重職にある池原良誠と意次が親しいことは周知の事実であり、
「田沼様なれば、良明殿がこと、父上の良誠殿より何か聞いておるやも知れぬ…」
源内はそう考え、良明が消息が不明になってから一週間後の4月17日に神田橋御門内にある田沼家の上屋敷へと足を運んだのだ。
今月4月は老中においては松平康福が月番であった。
即ち、月番老中として屋敷を訪れる陳情客の相手をしてやらなければならず、元とは言え、意知の岳父であるとの事情も手伝い、康福の屋敷は陳情客で溢れていた。
そして月番ではない意次の屋敷、神田橋御門内にある田沼家上屋敷もまた、康福の屋敷と同様、否、それ以上の「賑い」を見せていた。
「門前市を成す…」
誇張でもなければ比喩でもなく、実際、門前は陳情客で溢れ返っていた。これで意次が下城するであろう昼八つ(午後2時頃)過ぎともなれば、神田橋御門にまで陳情客の列が出来る。
今はまだ、意次が下城前、帰邸前ということもあり、陳情客もそれ程の列ではなく、上屋敷の白塀際にとぐろを巻いているだけであった。
それでもこれだけの陳情客が列を成しているのは外でもない、意知目当てであった。
源内としては意次から池原良明の「消息」について教えて貰うつもりであったが、息・意知でも構わず、ともあれ陳情客の一人として行列の最後尾に並んだ。
源内が意知に逢えたのは未の下刻、つまり昼の九つ半(午後1時頃)を四半刻(約30分)も過ぎた頃であった。
この刻限ではまだ意次は帰邸に及んではおらず、そこで源内は意知から良明の「消息」について聞出すことにした。
源内は意知と向かい合うなり早速、池原良明について尋ねた。
無論、二人して家基暗殺、それも毒殺事件について探索していたことには触れずに、である。
「池原殿とは二人で図鑑の作成に当たっていたのですが…」
あくまでその「名目」により、丁度、一週間前より消息不明となった良明について意知に尋ねたのだ。
すると意知は源内のその問いかけに表情を曇らせ、それを看取した源内はその時点で池原良明の生存が絶望であることを悟った。
果たして源内が予期した通り、池原良明は4月10日に急死したことが意知の口より語られた。
「急死…、それは病死で?」
源内は念押しする様に意知に尋ねた。
「表向きは…」
「表向きと申されますと…」
源内は声を震わせた。
「これから申すことは他言無用…」
意知はそう前置きした後、池原良明の死の「真相」について語り出した。
意知が語るところによれば、池原良明は向築地にある一橋家の下屋敷に忍び込み、書院の手文庫より金子50両を掠め取り、逃げようとしたところで家臣に見つかり手討に遭ったというのである。
源内は意知よりそう聞かされるなり、思わず「莫迦なっ!」と吐き棄てていた。
それは意知にしても同感であり、今の源内の「唾棄」に頷いた。
「なれど…、池原殿らしき御仁が一橋家の下屋敷へと自ら足を運ばれる姿が多数、目撃されており、しかも池原殿の懐中よりはそれな金子50両が抱えられてあったとなれば、もうどうにも…」
「それは目附の調にて?」
「無論のこと…、池原殿は…、良明殿こそ未だ幕臣、官医ではないものの、御父君の良誠殿は奥医師なれば…」
一橋家より目附へと届出がなされたそうで、目附は池原良明の屍体を検めると同時に、良明を斬った一橋家臣より事情聴取、その一橋家臣の供述に基づき、一橋家下屋敷へと至る道中の聞込みもしたところ、池原良明らしき者の姿を目撃した者も出てきたので、そこで一橋家臣の供述が、即ち池原良明が泥棒目的で一橋家下屋敷へと忍び込んだのであろうとの供述が裏付けられたとのことであった。
だが源内は意知からそう聞かされても、やはり良明が泥棒目的で一橋家下屋敷に忍び込んだ、などとは信じられなかった。
「良明殿は天野めの後をつけて一橋家下屋敷へと…、それも恐らくは門前までつけて来たところで、一橋家臣に取囲まれ、そして…」
屋敷内へと連込まれ、そこで斬られたに相違あるまいと、源内は確信した。
だがそれを裏付けるものは何もなかった。
「一橋様は事を穏便に済ませたいと…」
このまま「事件」の「真相」が明るみになれば、将軍・家治に近侍する父、池原良誠のその奥医師としての立場に瑕がつき、ひいては斯かる盗人を倅に持つ様な仁を奥医師に取立てた将軍・家治の権威にも瑕がつきかねないと、
「一橋様は検屍に当たられし目附に斯様に仰せられたそうで、病死として処理したとのこと…」
これは父、意次より聞かされたことと、意知は付加えた。
「それで御父君…、池原良誠様は納得されたので?」
大事な倅が斬られたというに、病死として処理されることに異論はなかったのかと、源内は意知に迫った。
「良誠殿の胸の内まではこの意知にも分からぬ…、否、父としては倅の死が病死として処理されることには納得出来ぬところであろうが、なれど…」
全ての状況が良明に不利である―、良明が泥棒目的で一橋家下屋敷に忍び込んだことを物語っている以上、良誠としては断腸の思いではあろうが、倅の死は病死として処理せざるを得なかったのであろうと、意知は源内に打明けたのであった。
源内としては今直ぐにでも、「それは違うっ!」と声を上げたいところであった。
「一橋治済が自が罪―、家基公を毒殺したことを良明殿に暴かれるのを恐れる余りに良明殿を手にかけたのだ―、それも泥棒の罪を被せて―」
源内は今にもそう叫びたいところであったが、しかしそれは思い留まった。
それと言うのも源内は意知こそ信頼、信用していたが、その父、意次のことはそこまで―、息、意知ほどには信頼、信用していなかったからだ。
成程、意次は源内の「後援者」として知られており、それ故、周囲、一般には意次と源内とは親しいと思われがちであった。
無論、源内とて意次には感謝しており、決して敵対するものではなかったが、さりとて周囲、一般が思う様に、
「ベタベタした…」
その様な関係ではなく、あくまで「ビジネスライク」な付合いであった。
そこで源内としては意知に対して、池原良明の死の真相について声を上げるのを控えたのだ。
意知にそれを打明ければ、意知を介して父、意次へと伝わるやも知れず、そうなれば意次はそれを「ネタ」にして一橋治済と何らかの「取引」をするやも知れなかったからだ。
それはこれから治済と「取引」をしようと、要は治済から金を搾り取ることを目論んでいた源内には極めて都合の悪いことであった。
意次の場合は源内とは異なり、治済から金を搾り取ろうなどとは考えないであろう。恐らくは高度に政治的な「取引」に違いない。
ともあれ意次と治済との間で斯かる「裏取引」が成立した後で、源内が治済を揺さ振ったところで、治済は源内など相手にしないであろう。
「公儀にでも何でも、好きなところに訴えるが良かろう…」
治済は意次との「裏取引」が成立した後ではそう言って源内をあしらうに違いなかった。
仮令、それで源内が池原良明の死の「真相」について書状にでも認めて目安箱に投じ、晴れて将軍・家治の上聴に達したとして、家治は恐らく、否、間違いなく意次にも意見を求めるに相違なく、しかし治済との間で「裏取引」を既に成立させていた意次としては、
「この平賀源内なる者、誇大妄想の気があり、気違いにて知られておりまする…」
斯様に意見具申に及ぶに違いなかった。
これでは源内としては「万事休す」であり、そこで意次に先を越される前に治済と「取引」をする必要があった。
源内はとりあえず意知の許を辞去すると、しかし直ぐには一橋家の上屋敷には向かわず、まずは愛宕下廣小路にある池原家の屋敷へと足を向けた。
源内は池原家の屋敷の所在地については良明が生前、良明当人より聞いていたので表札が出ておらずとも直ぐに分かった。
池原家の屋敷は敷地面積700坪以上もの広さを誇り、小泉藩片桐家の上屋敷と知行4520石の大身、今は寄合の石河右膳貞義の屋敷に囲まれる形で聳えていた。
源内は脇門を叩いて小者を呼出すと、身分を名乗った上で当主の池原良誠への面会の希望を告げた。
するとその小者は「暫し、お待ちを」と源内にそう告げて急ぎ奥へと消えた。
それから暫くしてから大門が開かれ、中から一人の男が姿を覗かせた。
その男もまた良明と同じく医師の身形をしており、年齢は源内の目から見て2~30代といったところであり、
「良明殿の弟御か…」
源内はそう当たりをつけた。
果たしてその男は源内が予期した通り、良明の弟であり、
「手前は池原雲洞子明にて、亡き雲亮良明が愚弟にて…」
源内にそう自己紹介に及んだ。
そこで源内も池原子明に自己紹介し、すると子明は源内を父、良誠が待つ座敷へと案内した。子明によると今日は良誠は明番、宿直明けで休みであった。
さて、源内は座敷にて池原良誠と向かい合うと改めて良誠にも自己紹介に及び、良誠も源内に挨拶に及んだ。
それから源内は一切の社交辞令を省いて早速、本題に入った。
即ち、良明は決して泥棒目的で向築地にある一橋家の下屋敷に忍び込んだ訳ではないこと、良明とは一橋治済の罪―、次期将軍・家基の命を奪ったことを探索していた過程で、治済に口を塞がれたに違いないことを源内は良誠に打明けたのだ。
すると良誠は目を丸くし、「到底、俄かには信じられぬ話だが…」と洩らした。
当然の反応と言えよう。
源内は良誠のこの反応に理解を示した上で、
「この源内、良明殿とその探索に当たり、大納言様の御命を奪ったであろう毒の正体をも突止めましてござる」
良誠にそう打明けたものだから、良誠の目を更に丸くさせた。
「されば遅効性の毒にて…」
「遅効性の毒…、されば茸にて?」
良誠はテングタケを想像して源内にそう問うた。
源内は良誠もまた本草学に通じているのだなと、感心させられた。
「いえ、茸ではのうて人工的に…、されば附子、トリカブトの毒と河豚毒とを同時に摂取させ…」
「それで遅効性を発揮すると?」
「左様…、この源内、良明殿と共にそれを突止め、結果、良明殿は一橋民部卿様に揺さ振りをかけられ…」
源内は良明の生前の行動、探索について父、良誠に対して、
「包隠さず…」
詳細に説明した。
良誠は表番医師の天野敬登と峯岸瑞興の2人も治済の陰謀、遅効性の毒の精製に関与していたらしいと知らされ、最早、卒倒寸前である。
「さればこれからのことを相談申上げ度、本日、罷り来しました次第…」
「これからのこと、と?」
「左様…、されば池原殿が息、良明殿が死について…、つまりは一橋民部卿様の罪について、これを白日の下に曝すおつもりであれば、この源内、手を貸す所存…」
源内は家基毒殺、更には池原良明を泥棒に仕立てて口を塞いだこと、この2つの「ネタ」で以って治済から金を強請るつもりであった。
だがそれも、良明が父、良誠が倅の無念を晴らすつもりがない場合の話であった。
良誠があくまで倅、良明の無念を晴らすつもりであれば、つまりは治済の罪を告発、追及するつもりであれば、源内としては治済から金を強請り取ることは諦め、良誠に手を貸すつもりであった。
源内は良誠の意思を無視してまで、治済から金を強請り取ろうとは思っていなかった。源内はそこまで腐ってはいない。
さて、池原良誠の答えだが、
「良明のことは今でも信じておる…、決して屋敷に忍び込み、あまつさえ金を盗むなどと、斯様な真似はせぬものと…、なれどそれを覆すだけの確たる証もないのも事実にて…、御公儀には既に、弟…、この良誠が次男の子明を良明に替わりて嗣となることで話がついており…」
斯かる状況下では波風を立てたくない、つまりは治済の罪を追及、倅、良明の無念を晴らすつもりはない、ということであった。
それが良誠の意向であれば、源内としてはそれを尊重するつもりであった。既にこの世にはいない倅のことよりも御家の存続を優先するのは当然だからだ。
それが今を時めく奥医師ともなれば尚更であろう。
「左様でござるか…」
源内はそう応えると、身体が熱くなるのを感じた。
源内としてはこれで心置きなく治済から金を搾り取れるというものであり、その算段をする内、自然と身体が熱くなったのだ。
4月10日を境に源内は良明と連絡が取れなくなり、その身を案じていた。
本来ならば良明の屋敷に出向いて、その無事を確かめたいところであったが、良明の生死が分からぬ内は源内としても迂闊には足を運べなかった。
一橋治済の「内偵」について良明は父、良誠には打明けておらず、源内にもその旨、良明から伝え聞いており、
「父には内聞に…」
黙っていてくれるよう口止めされていたのだ。
斯かる次第で源内としては良明の生死について父、良誠に尋ねる訳には参らなかった。
それでは源内は如何にして良明の死を知ったのかと言うと、それは田沼意知から教えて貰ったからである。
池原良明が父にして今は本丸奥医師の重職にある池原良誠と意次が親しいことは周知の事実であり、
「田沼様なれば、良明殿がこと、父上の良誠殿より何か聞いておるやも知れぬ…」
源内はそう考え、良明が消息が不明になってから一週間後の4月17日に神田橋御門内にある田沼家の上屋敷へと足を運んだのだ。
今月4月は老中においては松平康福が月番であった。
即ち、月番老中として屋敷を訪れる陳情客の相手をしてやらなければならず、元とは言え、意知の岳父であるとの事情も手伝い、康福の屋敷は陳情客で溢れていた。
そして月番ではない意次の屋敷、神田橋御門内にある田沼家上屋敷もまた、康福の屋敷と同様、否、それ以上の「賑い」を見せていた。
「門前市を成す…」
誇張でもなければ比喩でもなく、実際、門前は陳情客で溢れ返っていた。これで意次が下城するであろう昼八つ(午後2時頃)過ぎともなれば、神田橋御門にまで陳情客の列が出来る。
今はまだ、意次が下城前、帰邸前ということもあり、陳情客もそれ程の列ではなく、上屋敷の白塀際にとぐろを巻いているだけであった。
それでもこれだけの陳情客が列を成しているのは外でもない、意知目当てであった。
源内としては意次から池原良明の「消息」について教えて貰うつもりであったが、息・意知でも構わず、ともあれ陳情客の一人として行列の最後尾に並んだ。
源内が意知に逢えたのは未の下刻、つまり昼の九つ半(午後1時頃)を四半刻(約30分)も過ぎた頃であった。
この刻限ではまだ意次は帰邸に及んではおらず、そこで源内は意知から良明の「消息」について聞出すことにした。
源内は意知と向かい合うなり早速、池原良明について尋ねた。
無論、二人して家基暗殺、それも毒殺事件について探索していたことには触れずに、である。
「池原殿とは二人で図鑑の作成に当たっていたのですが…」
あくまでその「名目」により、丁度、一週間前より消息不明となった良明について意知に尋ねたのだ。
すると意知は源内のその問いかけに表情を曇らせ、それを看取した源内はその時点で池原良明の生存が絶望であることを悟った。
果たして源内が予期した通り、池原良明は4月10日に急死したことが意知の口より語られた。
「急死…、それは病死で?」
源内は念押しする様に意知に尋ねた。
「表向きは…」
「表向きと申されますと…」
源内は声を震わせた。
「これから申すことは他言無用…」
意知はそう前置きした後、池原良明の死の「真相」について語り出した。
意知が語るところによれば、池原良明は向築地にある一橋家の下屋敷に忍び込み、書院の手文庫より金子50両を掠め取り、逃げようとしたところで家臣に見つかり手討に遭ったというのである。
源内は意知よりそう聞かされるなり、思わず「莫迦なっ!」と吐き棄てていた。
それは意知にしても同感であり、今の源内の「唾棄」に頷いた。
「なれど…、池原殿らしき御仁が一橋家の下屋敷へと自ら足を運ばれる姿が多数、目撃されており、しかも池原殿の懐中よりはそれな金子50両が抱えられてあったとなれば、もうどうにも…」
「それは目附の調にて?」
「無論のこと…、池原殿は…、良明殿こそ未だ幕臣、官医ではないものの、御父君の良誠殿は奥医師なれば…」
一橋家より目附へと届出がなされたそうで、目附は池原良明の屍体を検めると同時に、良明を斬った一橋家臣より事情聴取、その一橋家臣の供述に基づき、一橋家下屋敷へと至る道中の聞込みもしたところ、池原良明らしき者の姿を目撃した者も出てきたので、そこで一橋家臣の供述が、即ち池原良明が泥棒目的で一橋家下屋敷へと忍び込んだのであろうとの供述が裏付けられたとのことであった。
だが源内は意知からそう聞かされても、やはり良明が泥棒目的で一橋家下屋敷に忍び込んだ、などとは信じられなかった。
「良明殿は天野めの後をつけて一橋家下屋敷へと…、それも恐らくは門前までつけて来たところで、一橋家臣に取囲まれ、そして…」
屋敷内へと連込まれ、そこで斬られたに相違あるまいと、源内は確信した。
だがそれを裏付けるものは何もなかった。
「一橋様は事を穏便に済ませたいと…」
このまま「事件」の「真相」が明るみになれば、将軍・家治に近侍する父、池原良誠のその奥医師としての立場に瑕がつき、ひいては斯かる盗人を倅に持つ様な仁を奥医師に取立てた将軍・家治の権威にも瑕がつきかねないと、
「一橋様は検屍に当たられし目附に斯様に仰せられたそうで、病死として処理したとのこと…」
これは父、意次より聞かされたことと、意知は付加えた。
「それで御父君…、池原良誠様は納得されたので?」
大事な倅が斬られたというに、病死として処理されることに異論はなかったのかと、源内は意知に迫った。
「良誠殿の胸の内まではこの意知にも分からぬ…、否、父としては倅の死が病死として処理されることには納得出来ぬところであろうが、なれど…」
全ての状況が良明に不利である―、良明が泥棒目的で一橋家下屋敷に忍び込んだことを物語っている以上、良誠としては断腸の思いではあろうが、倅の死は病死として処理せざるを得なかったのであろうと、意知は源内に打明けたのであった。
源内としては今直ぐにでも、「それは違うっ!」と声を上げたいところであった。
「一橋治済が自が罪―、家基公を毒殺したことを良明殿に暴かれるのを恐れる余りに良明殿を手にかけたのだ―、それも泥棒の罪を被せて―」
源内は今にもそう叫びたいところであったが、しかしそれは思い留まった。
それと言うのも源内は意知こそ信頼、信用していたが、その父、意次のことはそこまで―、息、意知ほどには信頼、信用していなかったからだ。
成程、意次は源内の「後援者」として知られており、それ故、周囲、一般には意次と源内とは親しいと思われがちであった。
無論、源内とて意次には感謝しており、決して敵対するものではなかったが、さりとて周囲、一般が思う様に、
「ベタベタした…」
その様な関係ではなく、あくまで「ビジネスライク」な付合いであった。
そこで源内としては意知に対して、池原良明の死の真相について声を上げるのを控えたのだ。
意知にそれを打明ければ、意知を介して父、意次へと伝わるやも知れず、そうなれば意次はそれを「ネタ」にして一橋治済と何らかの「取引」をするやも知れなかったからだ。
それはこれから治済と「取引」をしようと、要は治済から金を搾り取ることを目論んでいた源内には極めて都合の悪いことであった。
意次の場合は源内とは異なり、治済から金を搾り取ろうなどとは考えないであろう。恐らくは高度に政治的な「取引」に違いない。
ともあれ意次と治済との間で斯かる「裏取引」が成立した後で、源内が治済を揺さ振ったところで、治済は源内など相手にしないであろう。
「公儀にでも何でも、好きなところに訴えるが良かろう…」
治済は意次との「裏取引」が成立した後ではそう言って源内をあしらうに違いなかった。
仮令、それで源内が池原良明の死の「真相」について書状にでも認めて目安箱に投じ、晴れて将軍・家治の上聴に達したとして、家治は恐らく、否、間違いなく意次にも意見を求めるに相違なく、しかし治済との間で「裏取引」を既に成立させていた意次としては、
「この平賀源内なる者、誇大妄想の気があり、気違いにて知られておりまする…」
斯様に意見具申に及ぶに違いなかった。
これでは源内としては「万事休す」であり、そこで意次に先を越される前に治済と「取引」をする必要があった。
源内はとりあえず意知の許を辞去すると、しかし直ぐには一橋家の上屋敷には向かわず、まずは愛宕下廣小路にある池原家の屋敷へと足を向けた。
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池原家の屋敷は敷地面積700坪以上もの広さを誇り、小泉藩片桐家の上屋敷と知行4520石の大身、今は寄合の石河右膳貞義の屋敷に囲まれる形で聳えていた。
源内は脇門を叩いて小者を呼出すと、身分を名乗った上で当主の池原良誠への面会の希望を告げた。
するとその小者は「暫し、お待ちを」と源内にそう告げて急ぎ奥へと消えた。
それから暫くしてから大門が開かれ、中から一人の男が姿を覗かせた。
その男もまた良明と同じく医師の身形をしており、年齢は源内の目から見て2~30代といったところであり、
「良明殿の弟御か…」
源内はそう当たりをつけた。
果たしてその男は源内が予期した通り、良明の弟であり、
「手前は池原雲洞子明にて、亡き雲亮良明が愚弟にて…」
源内にそう自己紹介に及んだ。
そこで源内も池原子明に自己紹介し、すると子明は源内を父、良誠が待つ座敷へと案内した。子明によると今日は良誠は明番、宿直明けで休みであった。
さて、源内は座敷にて池原良誠と向かい合うと改めて良誠にも自己紹介に及び、良誠も源内に挨拶に及んだ。
それから源内は一切の社交辞令を省いて早速、本題に入った。
即ち、良明は決して泥棒目的で向築地にある一橋家の下屋敷に忍び込んだ訳ではないこと、良明とは一橋治済の罪―、次期将軍・家基の命を奪ったことを探索していた過程で、治済に口を塞がれたに違いないことを源内は良誠に打明けたのだ。
すると良誠は目を丸くし、「到底、俄かには信じられぬ話だが…」と洩らした。
当然の反応と言えよう。
源内は良誠のこの反応に理解を示した上で、
「この源内、良明殿とその探索に当たり、大納言様の御命を奪ったであろう毒の正体をも突止めましてござる」
良誠にそう打明けたものだから、良誠の目を更に丸くさせた。
「されば遅効性の毒にて…」
「遅効性の毒…、されば茸にて?」
良誠はテングタケを想像して源内にそう問うた。
源内は良誠もまた本草学に通じているのだなと、感心させられた。
「いえ、茸ではのうて人工的に…、されば附子、トリカブトの毒と河豚毒とを同時に摂取させ…」
「それで遅効性を発揮すると?」
「左様…、この源内、良明殿と共にそれを突止め、結果、良明殿は一橋民部卿様に揺さ振りをかけられ…」
源内は良明の生前の行動、探索について父、良誠に対して、
「包隠さず…」
詳細に説明した。
良誠は表番医師の天野敬登と峯岸瑞興の2人も治済の陰謀、遅効性の毒の精製に関与していたらしいと知らされ、最早、卒倒寸前である。
「さればこれからのことを相談申上げ度、本日、罷り来しました次第…」
「これからのこと、と?」
「左様…、されば池原殿が息、良明殿が死について…、つまりは一橋民部卿様の罪について、これを白日の下に曝すおつもりであれば、この源内、手を貸す所存…」
源内は家基毒殺、更には池原良明を泥棒に仕立てて口を塞いだこと、この2つの「ネタ」で以って治済から金を強請るつもりであった。
だがそれも、良明が父、良誠が倅の無念を晴らすつもりがない場合の話であった。
良誠があくまで倅、良明の無念を晴らすつもりであれば、つまりは治済の罪を告発、追及するつもりであれば、源内としては治済から金を強請り取ることは諦め、良誠に手を貸すつもりであった。
源内は良誠の意思を無視してまで、治済から金を強請り取ろうとは思っていなかった。源内はそこまで腐ってはいない。
さて、池原良誠の答えだが、
「良明のことは今でも信じておる…、決して屋敷に忍び込み、あまつさえ金を盗むなどと、斯様な真似はせぬものと…、なれどそれを覆すだけの確たる証もないのも事実にて…、御公儀には既に、弟…、この良誠が次男の子明を良明に替わりて嗣となることで話がついており…」
斯かる状況下では波風を立てたくない、つまりは治済の罪を追及、倅、良明の無念を晴らすつもりはない、ということであった。
それが良誠の意向であれば、源内としてはそれを尊重するつもりであった。既にこの世にはいない倅のことよりも御家の存続を優先するのは当然だからだ。
それが今を時めく奥医師ともなれば尚更であろう。
「左様でござるか…」
源内はそう応えると、身体が熱くなるのを感じた。
源内としてはこれで心置きなく治済から金を搾り取れるというものであり、その算段をする内、自然と身体が熱くなったのだ。
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1945年4月 天一号作戦は作戦の成功見込みが零に等しいとして中止
大和はそのまま柱島沖に係留され8月の終戦を迎える
米国は大和を研究対象として本土に移動
そこで大和の性能に感心するもスクラップ処分することとなる
しかし、朝鮮戦争が勃発
大和は合衆国海軍戦艦大和として運用されることとなる
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
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しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
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この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
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