天明奇聞 ~たとえば意知が死ななかったら~

ご隠居

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次期将軍・家基の死に疑いを抱く者の死 ~最後の犠牲者、平賀源内~ 源内、一万両の「大博打」 中篇

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 だが源内げんないぐには治済はるさだおどすことはしなかった。

 そのまえ今少いますこし、めておく必要ひつようがあったからだ。

 勿論もちろん、「おどし」の「ネタ」を、であり、たとえばトリカブトの入手にゅうしゅさきである。

 家基いえもとをトリカブトと河豚フグどくとをもちいて毒殺どくさつしたとなれば、当然とうぜん、そのまえにかなりの「準備じゅんび」、ようは「実験じっけん」をしたものと推察すいさつされた。

 その場合ばあい、トリカブトについては「実験じっけん」のたび何処どこぞから入手にゅうしゅ購入こうにゅうするよりも、あらかじ沢山たくさんのトリカブトを栽培さいばいし、それを「実験じっけん」にきょうし、そして「本番ほんばん」にもちいたほう合理的ごうりてきと言えた。

 だとしたら、何処どこでトリカブトを栽培さいばいしたか―、治済はるさだはトリカブトを栽培さいばいさせたか、である。

 まずかんがえられるとしたら一橋家ひとつばしけ屋敷やしきであろうか。

 だが上屋敷かみやしきには公儀ばくふよりつかわされた家老かろう御三卿ごさんきょう家老かろうひかっており、さしもの治済はるさだもトリカブトを栽培さいばいさせるには心理的しんりてき抵抗ていこうがあろう。

 それならば下屋敷しもやしきであろうか。

 成程なるほど下屋敷しもやしきならば家老かろうとどにくく、トリカブトを栽培さいばいさせるには「うってつけ」と言えたが、しかし源内げんないはそれよりも薬園やくえんほうけた。

 トリカブトを栽培さいばいするには当然とうぜん本草学ほんぞうがくつうじているものでなければならない。

 一株ひとかぶ二株ふたかぶ程度ていどならばかく大量たいりょうのトリカブトを栽培さいばいするとなると、到底とうてい素人しろうとえるものではない。

 大量たいりょうのトリカブトを栽培さいばいさせるとなると、必然的ひつぜんてき本草学ほんぞうがくつうじているものりなければならず、かり一橋家ひとつばしけ下屋敷しもやしきにてトリカブトを栽培さいばいさせるとなると、その本草学ほんぞうがくつうじているものたとえば本草学者ほんぞうがくしゃ下屋敷しもやしきへと「御出座おでまし」をねがわなければなるまい。

 だがトリカブトは毒草どくそうられている。本草学者ほんぞくがくしゃでならずとも、つまりは素人しろうとにもられている。

 そのトリカブトを大量たいりょう栽培さいばいさせるとなれば、本草学者ほんぞうがくしゃともなれば当然とうぜん警戒心けいかいしんくにちがいない。一体いったいなんためにトリカブトを大量たいりょう栽培さいばいするつもりなのか、と。

 下手へた本草学者ほんぞうがくしゃこえをかけ、結果けっか公儀ばくふへと通報つうほうされるおそれがありた。

 一橋家ひとつばしけより大量たいりょうのトリカブト栽培さいばい依頼いらいけた、と。

 治済はるさだもそのおそれは当然とうぜん予期よきしていたであろうから、それよりは―、民間みんかん本草学者ほんぞうがくしゃこえをかけるよりも、薬園奉行やくえんぶぎょう抱込だきこんだほうはるかに合理的ごうりてきと言えた。

 薬園奉行やくえんぶぎょう若年寄わかどしより支配しはい御役おやくで、芥川家あくたがわけ岡田家おかだけ植村家うえむらけ三家さんけ世襲せしゅうしょくであった。

 代々だいだい当主とうしゅ幼少ようしょうみぎりより薬草やくそうについての知識ちしきたたまれてきた。

 この薬園奉行やくえんぶぎょう抱込だきこむことが出来できれば百人力ひゃくにんりきいや万人力まんにんりきと言えよう。

 その三家さんけなかでも芥川家あくたがわけ当主とうしゅ小野寺おのじ元珍もとつら上昇じょうしょう志向しこうつよおとことしてられていた。

 芥川家あくたがわけ岡田家おかだけ小石川こいしかわ薬園やくえんを、植村家うえむらけ目黒駒場めぐろこまば薬園やくえんを、夫々それぞれ管理かんりしていた。

 もっとも、小石川こいしかわ薬園やくえんかんして言えば、元々もともと芥川家あくたがわけ管理かんりまかされていた。

 それが享保6(1721)年にそこへ岡田家おかだけってはい格好かっこう管理かんりまかされることになった。

 爾来じらい小石川こいしかわ薬園やくえん芥川家あくたがわけ岡田家おかだけとが管理かんりになうことになったのだが、芥川家あくたがわけ代々だいだい当主とうしゅ岡田家おかだけ目障めざわりにおもっていた。

 こといま当主とうしゅ元珍もとつらがそうであり、岡田家おかだけたいして、それも当主とうしゅ左門さもん忠政ただまさたいして、

並々なみなみならぬ…」

 対抗心たいこうしんやしていた。

 その対抗心たいこうしんだが、「実入みいり」がそれを倍加ばいかさせた。

 すなわち、「新参者しんざんもの」の岡田家おかだけほうが「古参こさん」の芥川家あくたがわけよりも「実入みいり」、扶持ふちかったのだ。

 芥川家あくたがわけ扶持ふち廩米りんまい百俵ひゃっぴょう月俸二口げっぽうふたくちであるのにたいして岡田家おかだけのそれは廩米りんまい二百俵にひゃっぴょう月俸二口げっぽうふたくちであり、これが元珍もとつら岡田家おかだけへの対抗心たいこうしん、と言うよりは嫉妬心しっとしんをより一層いっそう倍加ばいかさせていた。

 このことは御城えどじょうではられたはなしであり、治済はるさだ当然とうぜん把握はあくしていたであろう。

 治済はるさだがそこに付込つけこんだとしたらどうだろうか。

 たとえば、小石川こいしかわ薬園やくえん管理かんりについては芥川家あくたがわけにだけ請負うけおわせ、岡田家おかだけつぶす―、治済はるさだかる「手形てがた」を元珍もとつらったとしたならば、元珍もとつらよろこんで治済はるさだしたものとおもわれる。

 ちなみに源内げんない市井しせい本草学者ほんぞうがくしゃぎず、御城えどじょうづとめの役人やくにんではないものの、しかしいまときめく老中ろうじゅう田沼たぬま意次おきつぐとそのそくである意知おきとも交流こうりゅうがあり、尚且なおかつ、岡田家おかだけ当主とうしゅ左門さもん忠政ただまさとも交際こうさいしており、それゆえかる推理すいり組立くみたてることが出来できたのだ。

 すると源内げんないはそこで小石川こいしかわ薬園やくえん火災かさい事実じじつをもおもした。

 源内げんないはやはり意次おきつぐルートで先月せんげつの3月29日に小石川こいしかわ薬園やくえんが、それも芥川あくたがわ元珍もとつら管理かんりする西半分にしはんぶん出火しゅっかしたことをおしえてもらっており、それをおもしたのだ。

「よもや…、証拠湮滅しょうこいんめつ…」

 源内げんないはそう勘付かんづくと、自然しぜん小石川こいしかわへとあしいていた。

 池原家いけはらけ辞去じきょ―、池原良誠いけはらよしのぶせがれ良明よしあきら病死びょうしではなく治済はるさだ謀殺ぼうさつされたのだと、告発こくはつするつもりがないことをたしかめた源内げんない神田大和かんだやまとちょう私邸していへとかえ道中どうちゅう脳内のうないにおいてかる推理すいり展開てんかいすると、そのまま私邸していのある神田かんだとおぎ、薬園やくえんのある小石川こいしかわへとかったのだ。岡田おかだ忠政ただまさためである。

 源内げんない岡田おかだ忠政ただまさとはしたしく交際こうさいしていた。

 それは源内げんない本草学ほんぞうがく田村たむら蘭水らんすい紹介しょうかいによる。

 田村たむら蘭水らんすい本草学ほんぞうがくきわめたいとの弟子でし源内げんないねがいを聞届ききとどけ、そこで薬園奉行やくえんぶぎょう岡田おかだ忠政ただまさ引合ひきあわせたのだ。

 岡田おかだ忠政ただまさ芥川あくたがわ元珍もとつらとは正反対せいはんたい薬園奉行やくえんぶぎょうとして日々ひび研究けんきゅう没頭ぼっとうしており、源内げんないとはぐにった。

 年齢としもほぼ同年輩どうねんぱいという事情じじょうさいわいした。

 今年ことし、安永8(1779)年で平賀ひらが源内げんないが51をむかえたのにたいして、岡田おかだ忠政ただまさは55と、4歳しかちがわなかった。

 さて源内げんない岡田おかだ忠政ただまさもとたずねると、忠政ただまさ源内げんない歓待かんたいした。

「この薬園やくえんではトリカブトの栽培さいばいは…」

 源内げんない挨拶あいさつもそこそこに早速さっそく本題ほんだいはいった。

 源内げんない岡田おかだ忠政ただまさにまずはそのてんたしかめるべく、ここまであしはこんだのだ。

「トリカブト…」

左様さよう…」

「トリカブトともうさば、毒草どくそうではござらぬか…」

如何いかにも…」

かる毒草どくそう栽培さいばいきんじられておるによって…」

芥川あくたがわ殿どの如何いかに…」

芥川あくたがわ殿どの、とな?」

左様さよう…」

芥川あくたがわ殿どのとて同様どうようであろう…、源内殿げんないどの御覧ごらんとおり、薬園やくえんには支配しはい同心どうしん荒子あらしこがおり…」

 薬園奉行やくえんぶぎょう配下はいか支配しはい同心どうしん荒子あらしこ奉行ぶぎょう指揮しきもと薬草やくそう栽培さいばい精製せいせいたずさわり、それゆえ薬園奉行やくえんぶぎょうが、この場合ばあい芥川あくたがわ元珍もとつら禁制きんせいとも言うべき毒草どくそうのトリカブトをゆるしもなく栽培さいばいした場合ばあい必然的ひつぜんてき支配しはい同心どうしん荒子あらしこれ、彼等かれらくちから公儀こうぎへと通報つうほう密告みっこくされるにちがいない、というのが岡田おかだ忠政ただまさ見立みたてであった。

 つまり芥川あくたがわ元珍もとつら岡田おかだ忠政ただまさには内緒ないしょでトリカブトをそだてようにも、そのまえおの支配しはい支配しはい同心どうしん荒子あらしこ発覚バレてしまう、というわけだ。

何故なにゆえ左様さようなことをたずねられる?」

 岡田おかだ忠政ただまさ流石さすが疑問ぎもんおもい、源内げんないにその「真意しんい」をただした。

「いや、なに…、この源内げんない近頃ちかごろ毒草どくそうにも興味きょうみがあり…、いや、毒草どくそうなかにはくすりもととなるものもあるらしく…」

 そこでここ小石川こいしかわ薬園やくえんならばトリカブトもそだてられるのではないかと、そうおもってと、源内げんない適当てきとうにそう誤魔化ごまかすと、

「それはそうと…」

 失火しっかけんへと話題わだいてんじた。

岡田おかだ殿どの災難さいなんでござったな…、西半分にしはんぶんよりの出火しゅっか、そのがここひがし半分はんぶんへと飛火とびひすれば、岡田おかだ殿どのまでつみわれたやもれず…」

 芥川あくたがわ元珍もとつら失火しっかつみわれ、今月こんげつの4月2日より9日までの8日間、出仕しゅっしめられたのだ。つまりは謹慎きんしんであった。

 すると岡田おかだ忠政ただまさも「たしかに…」とおうずると、

「いや、芥川あくたがわ殿どの差控さしひか程度ていどんだはひとえ小笠原おがさわらさま御蔭おかげでござろう…」

 そう切出きりだしたのだ。

小笠原おがさわらさま?」

 源内げんないくびかしげると、岡田おかだ左門さもんはそれが次期じき将軍しょうぐん家基いえもと御側御用おそばごよう取次とりつぎであった小笠原おがさわら若狭守わかさのかみ信喜のぶよしであることを打明うちあけた。

「その、小笠原おがさわらさま芥川あくたがわ殿どのつみ…、失火しっかつみかるよう公儀こうぎ掛合かけあわれたとでも?」

 源内げんない先回さきまわりしてたずねると、「如何いかにも」と岡田おかだ忠政ただまさ首肯しゅこうした。

小笠原おがさわらさま何故なにゆえにそこまで…、芥川あくたがわ殿どのために…」

 くびかしげる源内げんない岡田おかだ忠政ただまさは「絵解えとき」をしてくれた。

「それは小笠原おがさわらさま芥川あくたがわ殿どのしたしいからであろうな…」

したしいと…」

左様さよう…、されば下屋敷しもやしきがあるによって…」

下屋敷しもやしき…、それは小笠原おがさわらさま下屋敷しもやしきと?」

 源内げんないたしかめるようたずねると、岡田おかだ忠政ただまさ芥川あくたがわ元珍もとつら管理かんりする西半分にしはんぶんうち小笠原おがさわら信喜のぶよし下屋敷しもやしきがあることを源内げんないはじめて打明うちあけたのだ。

 さしもの源内げんないもこれは初耳はつみみでありおどろいた。

「それでは失火しっかおりにはあやうく小笠原おがさわらさま下屋敷しもやしきにも飛火とびひせし可能性かのうせいがあったのではござるまいか?」

如何いかにも…」

「にもかかわらず、公儀こうぎつみ軽減けいげんを…、すこしくでも芥川あくたがわ殿どの失火しっかつみかるよう陳情ちんじょうされるとは…、いや、これがぎゃくであればはなしかりもうすが…」

 あやうく下屋敷しもやしきやされそうになったのだから、本来ほんらいならばすこしでもつみおもくなるのをねがうものであろう。すくなくともつみ軽減けいげんなどねがわないはずである。

 にもかかわらず小笠原おがさわら信喜のぶよし公儀ばくふたいして芥川あくたがわ元珍もとつら失火しっかつみ軽減けいげんもとめた、となればそこにはそれなりの「理由わけ」があるとかんがえてしかるべきであった。

「それだけ小笠原おがさわらさま芥川あくたがわ殿どのしたしいということであろうよ…」

 研究けんきゅう一筋ひとすじ典型的てんけいてき学究肌がっきゅうはだ岡田おかだ忠政ただまさにしてみれば興味きょうみのないはなしであるらしく、げやりな口調くちょうでそう言った。

 源内げんない座敷ざしきから薬園やくえんほうへとてんじた。

 源内げんないいま小石川こいしかわ薬園やくえんひがし奉行所内ぶぎょうしょない座敷ざしきにて岡田おかだ忠政ただまさかいっていた、

 その東半分ひがしはんぶん薬園内やくえんないには養生所ようじょうしょがあり、みちへだてたかいがわ芥川あくたがわ元珍もとつら管理かんりする薬園やくえんであり、その薬園内やくえんない西半分にしはんぶん薬園内やくえんない小笠原おがさわら元珍もとつら下屋敷しもやしきがあるとのことであった。

小笠原おがさわらさま芥川あくたがわ殿どのしたしいということは、芥川あくたがわ殿どの小笠原おがさわらさま下屋敷しもやしきへとあしはこばれることもござりましょうなぁ…」

 源内げんない極力きょくりょく自然しぜん調子ちょうしたずねた。

 すると岡田おかだ忠政ただまさなんうたがいもなしに、「如何いかにも」と首肯しゅこうし、

以前いぜん芥川あくたがわ殿当人どのとうにんより小笠原おがさわらさましたしく付合つきあっていると、そう自慢気じまんげ吹聴ふいちょうされたことがあり、そのさい…」

 下屋敷しもやしきにも度々たびたびあしはこんでいると、そのようにもかされたことがあると、源内げんないにそう補足ほそくしてみせた。

支配しはい同心どうしん荒子あらしこ如何いかがでござろうか…」

「なに?」

「いや…、芥川あくたがわ殿どの支配しはい支配しはい同心どうしん荒子あらしこ小笠原おがさわらさま下屋敷しもやしきまねかれたことはあるのかと…」

「いや、それはあるまい…」

 将軍しょうぐんへの御目見得おめみえゆるされている薬園奉行やくえんぶぎょう芥川あくたがわ元珍もとつらかく御目見得おめみえゆるされていない支配しはい同心どうしん荒子あらしこまでが小笠原おがさわら信喜のぶよし下屋敷しもやしきまねかれることはあるまい、というのがこれまた岡田おかだ忠政ただまさ見立みたてであった。

 すると源内げんないはまたしても、ある推理すいり組立くみたてることが出来できた。

 成程なるほど芥川あくたがわ元珍もとつらおの管理かんりする西半分にしはんぶん薬園内やくえんない小笠原おがさわら元珍もとつら下屋敷しもやしきがあることによってしたしくなったのは事実じじつであろう。

 だがそれが小笠原おがさわら信喜のぶよし芥川あくたがわ元珍もとつら失火しっかつみ減刑げんけいもとめた「理由わけ」ではあるまい。

 証拠湮滅しょうこいんめつ、それこそが真実まことの「理由わけ」に相違そういあるまい。

 すなわち、芥川あくたがわ元珍もとつら小笠原おがさわら信喜のぶよし下屋敷しもやしきおそらくはにわにてトリカブトを栽培さいばいしたのであろう。

 小笠原おがさわら信喜のぶよし下屋敷しもやしきないであれば、支配しはい同心どうしん荒子あらしこれずにトリカブトをそだてられるからだ。

 そして家基いえもと暗殺あんさつ毒殺どくさつ成功せいこうしたあと、3月29日に、それもおそらくは証拠湮滅しょうこいんめつはかることにした。

 証拠しょうこ―、あまったトリカブトの処分しょぶんであり、この場合ばあいしてしまうのが一番いちばんである。

 だが小笠原おがさわら信喜のぶよし下屋敷しもやしきにてトリカブトをそだてることはゆるせても、すことまではゆるせず、そこで芥川あくたがわ元珍もとつら管理かんりする薬園内やくえんないにてすよう、元珍もとつらめいじたのであろう。

 そこで芥川あくたがわ元珍もとつら支配しはい同心どうしん荒子あらしこ寝静ねしずまったよる見計みはからい、信喜のぶよし下屋敷しもやしきからあまったトリカブトをおの管理かんりする薬園内やくえんないへとはこすと、そこであまったトリカブトを焼却しょうきゃく、しかしいきおいが強過つよすぎて失火しっかとなってしまった―、そういうことではないか。

 だとするならば小笠原おがさわら信喜のぶよし芥川あくたがわ元珍もとつら両名りょうめいもまた、一橋ひとつばし治済はるさだ取込とりこまれた、さらに言えば家基暗殺いえもとあんさつ毒殺どくさつ共犯者きょうはんしゃ仕立したてられたとかんがえられた。

 源内げんないはそこまで推理すいり組立くみたてるや、

小笠原おがさわら信喜のぶよし下屋敷しもやしき…、にわ是非ぜひとも拝見はいけんしたい…」

 そうおもわずにはいられなかった。

 如何いか証拠湮滅しょうこいんめつはかろうとも、すべての痕跡こんせきを、この場合ばあいはトリカブト栽培さいばい痕跡こんせきを、

跡形あとかたもなく…」

 消去けしさることは不可能ふかのうであるかのようおもわれた。

 たとえばトリカブトのなえがまだのこっているやもれぬ。

 源内げんない期待きたいめてそうおもうと、ここから一望いちぼう出来でき小笠原おがさわら信喜のぶよし下屋敷しもやしき拝見はいけん―、にわ捜索そうさくねがわずにはいられなかった。

 だがそれをまえ岡田おかだ忠政ただまさ打明うちあけるわけにはまいらなかった。

 仮令たとえ打明うちあけたところで、薬園奉行やくえんぶぎょう岡田おかだ忠政ただまさちからでは到底とうてい小笠原おがさわら信喜のぶよし下屋敷しもやしき家宅かたく捜索そうさくなどかなうまい。

 そこで源内げんないはやはりと言うべきか、またしても意知おきともたよることにした。

 その翌日よくじつの4月18日、源内げんないはまたしても前日ぜんじつつづいてあさ、それも意次おきつぐ登城とじょうしたころ見計みはからって神田橋かんだばし門内もんないにある田沼家たぬまけ上屋敷かみやしきへとあしはこんだ。

 勿論もちろん意知おきともためだが、意知おきとも在宅ざいたくしているかどうか、そこは一種いっしゅの「け」であった。

 意知おきとも老中ろうじゅうそくとして雁間詰がんのまづめめいぜられていた。

 雁間詰がんのまづめである以上いじょうほか雁間詰がんのまづめ諸侯しょこう交代こうたい御城えどじょう本丸ほんまる表向おもてむきにある雁間がんのまめることになる。

 それゆえ今日きょう、4月18日が意知おきともの「当番とうばん」である可能性かのうせいもあり、その場合ばあいちち意次おきつぐよりもまえ神田橋かんばし門内もんない屋敷やしき出立しゅったつし、登営とえい御城えどじょうへとのぼることになる。

 雁間詰がんのまづめとして雁間がんのまめるうえ老中ろうじゅうよりもおくれて登城とじょうすることはゆるされまい。

 老中ろうじゅうよりもさき登城とじょうして雁間がんのまめ、老中ろうじゅう出迎でむか申上もうしあげるのが雁間詰がんのまづめ責務せきむと言え、それは意知おきともとて例外れいがいではなかった。

 さて、意知おきとも雁間詰がんのまづめ当番とうばんとして登城とじょうするは、そのちち意次おきつぐ登城とじょうおよぶと、さしもの田沼家たぬまけ上屋敷かみやしき門前もんぜん落着おちつきを取戻とりもどす。

 それと言うのも田沼家たぬまけ上屋敷かみやしきには意次おきつぐ意知おきとも父子おやこ不在ふざいとなるからだ。

 朝早あさはやくから陳情ちんじょうきゃく田沼家たぬまけ上屋敷かみやしき門前もんぜんにてれつしていたとして、意知おきとも登城とじょうする場合ばあい、それは朝五つ(午前8時頃)のことであった。

 朝五つ(午前8時頃)に意知おきともせた駕籠かごがまず、もんよりる。

 いで一刻いっとき(約2時間)の昼四つ(午前10時頃)、西之丸にしのまる太鼓たいこやぐら太鼓たいこおととも意次おきつぐせた駕籠かごもんよりる。

 すると田沼家たぬまけ家臣かしん陳情ちんじょうきゃくれつけて、意次おきつぐ意知おきとも父子おやこ不在ふざい告知アナウンスすることになる。

 これで大半たいはん陳情ちんじょうきゃく立去たちさる。意次おきつぐあるいはそのそく意知おきともえなければ意味いみがないからだ。

 もっとも、一部いちぶ目端めはし陳情ちんじょうきゃくであればぐには立去たちさらずに、意次おきつぐ意知おきとも父子おやこ陳情ちんじょうきゃくとを取結とりむす取次頭取とりつぎとうどり持参じさんした「手土産てみやげ」をわたすこともあるが、けっしておおいものではなく、屋敷やしき門前もんぜん落着おちつきを取戻とりもどすことになる。

 そこで今日きょう、4月18日だが、源内げんないあさ―、昼四つ(午前10時頃)をげる太鼓たいこおと鳴響なりひびいてからしばらったあと田沼家たぬまけ上屋敷かみやしき門前もんぜんくと、そこにはまだ陳情ちんじょうきゃくれつしており、意知おきとも在宅ざいたくげていた。

 源内げんないはやはり陳情ちんじょうきゃくれつ最後尾さいこうびならび、それから一刻いっとき(約2時間)じゃく経過けいかした昼九つ(正午頃)にようやくに意知おきともえた。

 源内げんない意知おきともかいうと、これまでの経緯いきさつ―、おのれ推理すいりべたうえ小笠原おがさわら信喜のぶよし下屋敷しもやしき家宅かたく捜索そうさく踏切ふみきりたいむねげた。

 無論むろん治済はるさだから一万両いちまんりょうおど計画けいかくについてはせた。

 一方いっぽう意知おきともはと言うと、昨日きのう源内げんない池原いけはら良明よしあきら生死せいしについてたずねたことに、それも一橋家ひとつばしけサイドの申告しんこくうそ、つまりは謀殺ぼうさつであることを見抜みぬいたことに|合点がいった。

 意知おきともはそれから源内げんない如何いかにして小笠原おがさわら信喜のぶよし下屋敷しもやしきを、それもにわ捜索そうさくさせるか、その手立てだてをこうじた。

 そしてあるさくおもいた。

 意知おきともはまず、源内げんないたいして薬園奉行やくえんぶぎょう岡田おかだ忠政ただまさたいして4月25日よりくる5月の2日までの一週間いっしゅうかん薬園やくえん住込すみこみ、薬草やくそう研究けんきゅうたりたいむね申請しんせいするようめいじた。

 源内げんないはその指示しじしたがい、ふたた岡田おかだ忠政ただまさもとおとずれ、わば「研究生けんきゅうせい」として4月25日より5月2日までの一週間いっしゅうかん、ここ小石川こいしかわ薬園やくえんにて住込すみこみたいむね申請しんせいした。

 一方いっぽう意知おきともはと言うと、ちち意次おきつぐ帰邸きていおよんだひるの八つ半(午後3時頃)に屋敷やしき脱出ぬけでると、そのあし若年寄わかどしより首座しゅざ松平まつだいら伊賀守いがのかみ忠順ただよりもとへとかった。

 松平まつだいら忠順ただより屋敷やしき西之丸にしのまるしたにあり、田沼家たぬまけほどではないものの、その門前もんぜんには陳情ちんじょうきゃくむれしており、意知おきともはそこにならんだ。

 意知おきともいまなり着流きながしであり、ともけずであり、無役むやく旗本はたもとえなくもなかった。

 松平まつだいら忠順ただより旗本はたもと御家人ごけにん支配しはいする若年寄わかどしより、そのなかでも筆頭ひっとう首座しゅざにあり、それゆえ陳情ちんじょうきゃくきもらなかった。

 無役むやく旗本はたもと御家人ごけにん御役おやくこうと、そして御役おやくにある旗本はたもと御家人ごけにんさら出世しゅっせしようと、忠順ただよりもとへと日参にっさんする。

 今月こんげつ若年寄わかどしよりにおいては加納かのう遠江守とおとうみのかみ久堅ひさかた月番つきばんであり、松平まつだいら忠順ただより非番ひばんであった。

 忠順ただより今月こんげつよう非番ひばんづきにおいては11日と23日だけ陳情ちんじょうきゃく相手あいてをしてやればかった。

 所謂いわゆる非番ひばんづき對客たいきゃくというヤツであり、今日きょう、18日はその非番ひばんづき對客たいきゃくではないので、本来ほんらいならば忠順ただよりには陳情ちんじょうきゃく相手あいてをしてやる義務ぎむはなかった。

 が、陳情ちんじょうきゃく非番ひばんづき對客たいきゃくとは無関係むかんけいに、それこそ、「そんなの関係かんけいねぇ」とばかり忠順ただよりもとへとしかける。

 そうなると忠順ただよりとしても陳情ちんじょうきゃく無視むしするわけにもまいらず、登城とじょうまえには對客たいきゃく、そいて下城げじょうして帰邸きていおよぶや逢客ほうきゃく夫々それぞれ陳情ちんじょうきゃく相手あいてをしてやらねばならず、それは意次おきつぐにもまることであった。

 さて、意知おきとも陳情ちんじょうきゃくれつ最後尾さいこうびならんでいると、そのれつの「交通こうつう整理せいり」にたっていた取次とりつぎ一人ひとり大嶋おおしま平太夫へいだゆう意知おきとも気付きづいたらしい。

貴方様あなたさましや、田沼たぬま大和守やまとのかみさまでは…」

 大嶋おおしま平太夫へいだゆう意知おきとももとへとあゆると、意知おきともにそうささやいた。

 そこで意知おきともも、「如何いかにも…、意知おきともにて…」とおうじた。

手前てまえ大嶋おおしま平太夫へいだゆうにて…」

承知しょうちしておりもうす…」

 意知おきともがそうおうずるや、大嶋おおしま平太夫へいだゆう陳情ちんじょうきゃくれつうかがいつつ、意知おきとも主君しゅくん忠順ただよりもとへと案内あんないした。

 そのとき忠順ただよりべつ陳情ちんじょうきゃく相手あいてをしていた。

 そこへ江戸えど家老がろう矢木やぎ庄兵衛しょうべえ駈込かけこみ、主君しゅくん忠順ただより意知おきとも来訪らいほう耳打みみうち》した。

 大嶋おおしま平太夫へいだゆう意知おきともをまずは江戸えど家老がろう矢木やぎ庄兵衛しょうべえもとへと案内あんないしたのだ。

 忠順ただより意知おきとも不意ふい来訪らいほうおどろきはしたものの、しかしわないという選択肢せんたくしはありなかった。

 それもただちにってやらねばならず、忠順ただより意知おきともをここへれてよう矢木やぎ庄兵衛しょうべえめいじた。

 かくして意知おきとも忠順ただよりうことが出来できた。

 忠順ただより矢木やぎ庄兵衛しょうべえ意知おきともれてると、さらそく左衛門佐さえもんのすけ忠済ただまされてようめいじた。勿論もちろんせがれ忠済ただまさ意知おきとも引合ひきあわせるためであった。

 意知おきとも当然とうぜん廊下ろうかがわ障子しょうじにして、つまりは下座げざにて着座ちゃくざし、とこ背負せお忠順ただよりかい|合《あった。

 すると忠順ただより意知おきとも客座きゃくざすすめた。つまりは斜向はすむかいにすわるようすすめたのだ。

 だがそれを意知おきとも謝絶しゃぜつした。

「この意知おきとも軽輩けいはいなれば…」

 下座げざ相応ふさわしいと、意知おきとも謝絶しゃぜつしたのだ。

 それが謙遜けんそんであることは忠順ただよりにもかっていた。

なにもうされる。大和守やまとのかみ殿どのれきとしたつめしゅう…、雁間詰がんのまづめではござるまいか。それに従五位下じゅごいのげ諸太夫しょだいぶと、身共みどもとは同格どうかく…」

 たしかに意知おきとも忠順ただよりとも官位かんい従五位下じゅごいのげ諸太夫しょだいぶであった。

 だが従五位下じゅごいのげ諸太夫しょだいぶ任官にんかんしたのは忠順ただよりほうはるかにさきであり、なにより若年寄わかどしより筆頭ひっとうである。

 ならばいま一介いっかい雁間詰がんのまづめぎない意知おきとも若年寄わかどしより筆頭ひっとう松平まつだいら忠順ただより同格どうかくであるはずがなかった。

 そこで意知おきともなお客座きゃくざへとうつるのを躊躇ためらっていると、

「いや、せがれ忠済ただまさにもってやってもらいたいのだ…、そこにいては忠済ただまさかおもロクにおがめまいて…」

 忠順ただより意知おきともにそうこえをかけたのだ。

 成程なるほど忠済ただまさもまた、ここに姿すがたせるとなれば、畢竟ひっきょうちち忠順ただより斜向はすむかいにすわることになろう。

 その場合ばあい意知おきとももまた、忠順ただより斜向はすむかい、それも客座きゃくざすわっておれば、忠済ただまさとはかい格好かっこうとなり、下座げざすわっているときよりも忠済ただまさかおえるというものである。

 意知おきと忠順ただよりとのあいだかる「やりり」が繰広くりひろげられている最中さなかとう忠済ただまさ姿すがたせ、あんじょうちち忠順ただまさ斜向はすむかにすわったことから、忠順ただよりかさねて意知おきとも客座きゃくざすすめ、せがれ忠済ただまさからも客座きゃくざすすめられたことから、意知おきとも観念かんねんして下座げざから客座きゃくざへとうつり、忠済ただまさかいった。

 意知おきとも忠済ただまさとも挨拶あいさつわした。

 忠済ただまさは宝暦元(1751)年まれの29歳であり、寛延2(1749)年まれの意知おきともよりも2歳年下とししたぎず、意知おきとも忠済ただまさとはさなが兄弟きょうだいようであった。

 と言っても御城えどじょうにてかおわせる機会きかいあまりなかった。

 意知おきとも老中ろうじゅう意次おきつぐそくとして雁間詰がんのまづめ所謂いわゆる詰衆つめしゅうであるのにたいして忠済ただまさはと言うと菊間詰きくのまづめ所謂いわゆる詰衆つめしゅうなみであり、雁間詰がんのまづめとはことなり、平日登城へいじつとじょうはなかった。

 それでも月次御礼つきなみおんれいなどの式日しきじつにおいては登城とじょうし、その場合ばあい菊間縁頬きくのまえんがわめ、また将軍しょうぐん外出がいしゅつおりには供奉ぐぶすることもあった。

 忠済ただまさは明和6(1769)年12月に将軍しょうぐん家治いえはるはつ御目見得おめみえたすと従五位下じゅごいのげ諸太夫しょだいぶじょされ、左衛門佐さえもんのすけ名乗なのり、それとともに、菊間詰きくのまづめめいぜられ、爾来じらい式日しきじつには登城とじょうして菊間縁頬きくのまえんがわめるようになったのだが、そのさい意知おきともちからになった。

 忠済ただまさ菊間詰きくのまづめとしてはじめての式日しきじつむかえたときのことである。

 忠済ただまさにとってはこれがはじめての式日登城しきじつとじょうというこtもあり、忠済ただまさおおいに緊張きんちょうし、戸惑とまどうこともあった。

 その忠済ただまさたすけたのがほかならぬ意知おきともであったのだ。

 かる事情じじょう忠済ただまさ意知おきともじつあにようしたい、忠順ただよりせがれ忠済ただまさたすけてくれた意知おきとも感謝かんしゃし、をかけるようになった。

 さて忠順ただより挨拶あいさつんだところで意知おきとも本日ほんじつ用向ようむきたずねた。

 そこで意知おきともようやくに本題ほんだいはいった。

 すなわち、おのれをかけている平賀ひらが源内げんないなる市井しせい本草学者ほんぞうがくしゃ小石川こいしかわ薬園やくえんにて本草学ほんぞうがくきわたく、そこで4月25日より5月2日までの一週間いっしゅうかんという期間きかん限定げんていかまわないので研究生けんきゅうせいとして小石川こいしかわ薬園やくえんにて寝泊ねとまり、薬園奉行やくえんぶぎょう配下はいか支配しはい同心どうしん荒子あらしこらととも寝食しんしょくともにしたい―、かる願出ねがいで薬園奉行やくえんぶぎょう岡田おかだ忠政ただまさかいして若年寄わかどしよりへとされる予定よていであり、

「そこで伊賀守いがのかみさまにおかれましては何卒なにとぞ若年寄わかどしより筆頭ひっとうとして…」

 願出ねがいで聞届ききとどけてもらいたいと、意知おきともあたまげた。

 すると忠順ただより余計よけい穿鑿せんさくはせずにこれを受容うけいれた。

 だが忠順ただよりは「ただし…」と付加つけくわえ、

加納かのう殿どのにも挨拶あいさつませておくように…」

 意知おきともにそうめいじた。それと言うのも今月こんげつ4月は加納かのう久堅ひさかた月番つきばんであったからだ。

 それゆえかり源内げんない研究生けんきゅうせいとして小石川こいしかわ薬園やくえんにて寄宿きしゅくゆるされるとして、それは月番つきばん若年寄わかどしより加納かのう久堅ひさかたより薬園奉行やくえんぶぎょうさらには平賀ひらが源内げんないへとつたえられることになる。

 そのため若年寄わかどしより筆頭ひっとう松平まつだいら忠順ただよりもとより、月番つきばん加納かのう久堅ひさかたにも「根回ねまわし」をしておく必要ひつようがあった。

 うらかえせば若年寄わかどしより筆頭ひっとう忠順ただより月番つきばん久堅ひさかたの2人に「根回ねまわし」をませておけば、源内げんないねがいはかなったも同然どうぜんであった。

 意知おきとも忠順ただよりもと辞去じきょすると、やはりここ西之丸にしのまるしたにある加納かのう久堅ひさかたもとたずね、源内げんないけんたのんだ。

 さいわい、加納かのう久堅ひさかた若年寄わかどしよりなかでは松平まつだいら忠順ただよりなら意知おきとも理解者りかいしゃであり、意知おきともねがいを聞届ききとどけてくれた。これが意次おきつぐ意知おきとも父子おやこ反感はんかん酒井さかい石見守いわみのかみ忠休ただよしであったならばこうはいかなかったであろう。

 さて久堅ひさかた源内げんないけん諒承りょうしょうしたうえで、

「その源内げんないなるもの薬園やくえん東半分ひがしはんぶん管理かんりせし岡田おかだ忠政ただまさもとせるとなれば、源内げんないまなびし場所ばしょ東半分ひがしはんぶんということか?」

 そのてんただした。

 それはまさに「こと本質ほんしつ」と言え、意知おきともは「いえいえ…」とおうずると、

たしかに源内げんない御許おゆるしがあれば岡田おかだ忠政ただまさもとにて一週間いっしゅうかんごすことと相成あいなりましょうが、なれど普段ふだん研究けんきゅうにおきましては西半分にしはんぶんにも出入でいりさせたく…」

 芥川あくたがわ元珍もとつら管理かんりする西半分にしはんぶん薬園やくえんにも出入でいりすることをゆるしてしいと、久堅ひさかたこいねがった。

 すると久堅ひさかたもまた、忠順ただよりおなじく、

余計よけい穿鑿せんさくはせずに…」

 意知おきともねがいを聞届ききとどけたのであった。

 こうして源内げんないは4月25日より小石川こいしかわ薬園やくえん潜入せんにゅうすることがかなった。

 だがそれだけではまだりない。

 源内げんない小笠原おがさわら信喜のぶよし下屋敷しもやしき家宅かたく捜索そうさくをさせるには今一いまひとつの「手立てだて」が必要ひつようであった。

 それはズバリ、将軍しょうぐん家治いえはる小石川こいしかわ薬園やくえん見学けんがくであった。
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