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次期将軍・家基の死に疑いを抱く者の死 ~最後の犠牲者、平賀源内~ 源内、一万両の「大博打」 中篇
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だが源内は直ぐには治済を脅すことはしなかった。
その前に今少し、詰めておく必要があったからだ。
勿論、「脅し」の「ネタ」を、であり、例えばトリカブトの入手先である。
家基をトリカブトと河豚毒とを用いて毒殺したとなれば、当然、その前にかなりの「準備」、要は「実験」をしたものと推察された。
その場合、トリカブトについては「実験」の度に何処ぞから入手、購入するよりも、予め沢山のトリカブトを栽培し、それを「実験」に供し、そして「本番」に用いた方が合理的と言えた。
だとしたら、何処でトリカブトを栽培したか―、治済はトリカブトを栽培させたか、である。
まず考えられるとしたら一橋家の屋敷であろうか。
だが上屋敷には公儀より遣わされた家老、御三卿家老の目が光っており、さしもの治済もトリカブトを栽培させるには心理的な抵抗があろう。
それならば下屋敷であろうか。
成程、下屋敷ならば家老の目も届き難く、トリカブトを栽培させるには「うってつけ」と言えたが、しかし源内はそれよりも薬園の方に目を向けた。
トリカブトを栽培するには当然、本草学に通じている者でなければならない。
一株や二株程度ならば兎も角、大量のトリカブトを栽培するとなると、到底、素人の手に負えるものではない。
大量のトリカブトを栽培させるとなると、必然的に本草学に通じている者の手を借りなければならず、仮に一橋家の下屋敷にてトリカブトを栽培させるとなると、その本草学に通じている者、例えば本草学者に下屋敷へと「御出座し」を願わなければなるまい。
だがトリカブトは毒草で知られている。本草学者でならずとも、つまりは素人にも知られている。
そのトリカブトを大量に栽培させるとなれば、本草学者ともなれば当然、警戒心を抱くに違いない。一体、何の為にトリカブトを大量に栽培するつもりなのか、と。
下手に本草学者に声をかけ、結果、公儀へと通報される恐れがあり得た。
一橋家より大量のトリカブト栽培の依頼を受けた、と。
治済もその恐れは当然、予期していたであろうから、それよりは―、民間の本草学者に声をかけるよりも、薬園奉行を抱込んだ方が遥かに合理的と言えた。
薬園奉行は若年寄支配の御役で、芥川家、岡田家、植村家の三家の世襲職であった。
代々の当主は幼少の砌より薬草についての知識を叩き込まれてきた。
この薬園奉行を抱込むことが出来れば百人力、否、万人力と言えよう。
その三家の中でも芥川家の当主、小野寺元珍は上昇志向の強い男として知られていた。
芥川家と岡田家は小石川薬園を、植村家は目黒駒場薬園を、夫々、管理していた。
尤も、小石川薬園に関して言えば、元々は芥川家が管理を任されていた。
それが享保6(1721)年にそこへ岡田家が割って入る格好で管理を任されることになった。
爾来、小石川薬園は芥川家と岡田家とが管理を担うことになったのだが、芥川家の代々の当主は岡田家を目障りに思っていた。
殊に今の当主、元珍がそうであり、岡田家に対して、それも当主の左門忠政に対して、
「並々ならぬ…」
対抗心を燃やしていた。
その対抗心だが、「実入り」がそれを倍加させた。
即ち、「新参者」の岡田家の方が「古参」の芥川家よりも「実入り」、扶持が良かったのだ。
芥川家の扶持が廩米百俵月俸二口であるのに対して岡田家のそれは廩米二百俵月俸二口であり、これが元珍の岡田家への対抗心、と言うよりは嫉妬心をより一層、倍加させていた。
このことは御城では知られた話であり、治済も当然、把握していたであろう。
治済がそこに付込んだとしたらどうだろうか。
例えば、小石川薬園の管理については芥川家にだけ請負わせ、岡田家は潰す―、治済が斯かる「手形」を元珍に切ったとしたならば、元珍は喜んで治済に手を貸したものと思われる。
ちなみに源内は市井の本草学者に過ぎず、御城勤めの役人ではないものの、しかし今を時めく老中、田沼意次とその息である意知と交流があり、尚且つ、岡田家の当主、左門忠政とも交際しており、それ故、斯かる推理を組立てることが出来たのだ。
すると源内はそこで小石川薬園の火災の事実をも思い出した。
源内はやはり意次ルートで先月の3月29日に小石川薬園が、それも芥川元珍が管理する西半分が出火したことを教えて貰っており、それを思い出したのだ。
「よもや…、証拠湮滅…」
源内はそう勘付くと、自然と小石川へと足が向いていた。
池原家を辞去―、池原良誠に倅、良明の死が病死ではなく治済に謀殺されたのだと、告発するつもりがないことを確かめた源内は神田大和町の私邸へと帰る道中、脳内において斯かる推理を展開すると、そのまま私邸のある神田を通り過ぎ、薬園のある小石川へと向かったのだ。岡田忠政に会う為である。
源内は岡田忠政とは親しく交際していた。
それは源内の本草学の師、田村蘭水の紹介による。
田村蘭水は本草学を極めたいとの弟子、源内の願いを聞届け、そこで薬園奉行の岡田忠政を引合わせたのだ。
岡田忠政は芥川元珍とは正反対に薬園奉行として日々、研究に没頭しており、源内とは直ぐに気が合った。
年齢もほぼ同年輩という事情も幸いした。
今年、安永8(1779)年で平賀源内が51を迎えたのに対して、岡田忠政は55と、4歳しか違わなかった。
さて源内が岡田忠政の許を訪ねると、忠政は源内を歓待した。
「この御薬園ではトリカブトの栽培は…」
源内は挨拶もそこそこに早速、本題に入った。
源内は岡田忠政にまずはその点を確かめるべく、ここまで足を運んだのだ。
「トリカブト…」
「左様…」
「トリカブトと申さば、毒草ではござらぬか…」
「如何にも…」
「斯かる毒草、栽培は禁じられておるによって…」
「芥川殿は如何に…」
「芥川殿、とな?」
「左様…」
「芥川殿とて同様であろう…、源内殿も御覧の通り、薬園には支配同心や荒子がおり…」
薬園奉行配下の支配同心や荒子が奉行指揮の下、薬草の栽培や精製に携わり、それ故、薬園奉行が、この場合は芥川元珍が御禁制とも言うべき毒草のトリカブトを許しもなく栽培した場合、必然的に支配同心や荒子の目に触れ、彼等の口から御公儀へと通報、密告が為されるに違いない、というのが岡田忠政の見立であった。
つまり芥川元珍が岡田忠政には内緒でトリカブトを育てようにも、その前に自が支配の支配同心や荒子に発覚てしまう、という訳だ。
「何故、左様なことを尋ねられる?」
岡田忠政は流石に疑問に思い、源内にその「真意」を糺した。
「いや、なに…、この源内、近頃は毒草にも興味があり…、いや、毒草の中には薬の素となるものもあるらしく…」
そこでここ小石川薬園ならばトリカブトも育てられるのではないかと、そう思ってと、源内は適当にそう誤魔化すと、
「それはそうと…」
失火の件へと話題を転じた。
「岡田殿も災難でござったな…、西半分よりの出火、その火がここ東半分へと飛火すれば、岡田殿まで罪に問われたやも知れず…」
芥川元珍は失火の罪を問われ、今月の4月2日より9日までの8日間、出仕を止められたのだ。つまりは謹慎であった。
すると岡田忠政も「確かに…」と応ずると、
「いや、芥川殿も差控え程度で済んだは偏に小笠原様の御蔭でござろう…」
そう切出したのだ。
「小笠原様?」
源内が首を傾げると、岡田左門はそれが次期将軍・家基の御側御用取次であった小笠原若狭守信喜であることを打明けた。
「その、小笠原様が芥川殿が罪…、失火の罪が軽く済む様、御公儀に掛合われたとでも?」
源内が先回りして尋ねると、「如何にも」と岡田忠政は首肯した。
「小笠原様は何故にそこまで…、芥川殿の為に…」
首を傾げる源内に岡田忠政は「絵解き」をしてくれた。
「それは小笠原様が芥川殿と親しいからであろうな…」
「親しいと…」
「左様…、されば御下屋敷があるによって…」
「御下屋敷…、それは小笠原様が御下屋敷と?」
源内が確かめる様に尋ねると、岡田忠政は芥川元珍が管理する西半分の内に小笠原信喜の下屋敷があることを源内に初めて打明けたのだ。
さしもの源内もこれは初耳であり驚いた。
「それでは失火の折には危うく小笠原様の御下屋敷にも飛火せし可能性があったのではござるまいか?」
「如何にも…」
「にもかかわらず、御公儀に罪の軽減を…、少しくでも芥川殿が失火の罪が軽く済む様、陳情されるとは…、いや、これが逆であれば話は分かり申すが…」
危うく下屋敷を燃やされそうになったのだから、本来ならば少しでも罪が重くなるのを願うものであろう。少なくとも罪の軽減など願わない筈である。
にもかかわらず小笠原信喜は公儀に対して芥川元珍の失火の罪の軽減を求めた、となればそこにはそれなりの「理由」があると考えて然るべきであった。
「それだけ小笠原様と芥川殿が親しいということであろうよ…」
研究一筋、典型的な学究肌の岡田忠政にしてみれば興味のない話であるらしく、投げやりな口調でそう言った。
源内は座敷から薬園の方へと目を転じた。
源内は今、小石川薬園は東の奉行所内の座敷にて岡田忠政と向かい合っていた、
その東半分の薬園内には養生所があり、道を隔てた向かい側は芥川元珍が管理する薬園であり、その薬園内、西半分の薬園内に小笠原元珍の下屋敷があるとのことであった。
「小笠原様と芥川殿が親しいということは、芥川殿が小笠原様の御下屋敷へと足を運ばれることもござりましょうなぁ…」
源内は極力、自然な調子で尋ねた。
すると岡田忠政も何の疑いもなしに、「如何にも」と首肯し、
「以前に芥川殿当人より小笠原様と親しく付合っていると、そう自慢気に吹聴されたことがあり、その際…」
下屋敷にも度々、足を運んでいると、その様にも聞かされたことがあると、源内にそう補足してみせた。
「支配同心や荒子は如何でござろうか…」
「なに?」
「いや…、芥川殿支配の支配同心や荒子も小笠原様の御下屋敷に招かれたことはあるのかと…」
「いや、それはあるまい…」
将軍への御目見得が許されている薬園奉行の芥川元珍は兎も角、御目見得を許されていない支配同心や荒子までが小笠原信喜の下屋敷に招かれることはあるまい、というのがこれまた岡田忠政の見立であった。
すると源内はまたしても、ある推理を組立てることが出来た。
成程、芥川元珍は自が管理する西半分の薬園内に小笠原元珍の下屋敷があることによって親しくなったのは事実であろう。
だがそれが小笠原信喜が芥川元珍の失火の罪の減刑を求めた「理由」ではあるまい。
証拠湮滅、それこそが真実の「理由」に相違あるまい。
即ち、芥川元珍は小笠原信喜の下屋敷の恐らくは庭にてトリカブトを栽培したのであろう。
小笠原信喜の下屋敷内であれば、支配同心や荒子の目に触れずにトリカブトを育てられるからだ。
そして家基の暗殺、毒殺に成功した後、3月29日に、それも恐らくは証拠湮滅を図ることにした。
証拠―、余ったトリカブトの処分であり、この場合、燃してしまうのが一番である。
だが小笠原信喜は下屋敷にてトリカブトを育てることは許せても、燃すことまでは許せず、そこで芥川元珍が管理する薬園内にて燃すよう、元珍に命じたのであろう。
そこで芥川元珍は支配同心や荒子が寝静まった夜を見計らい、信喜の下屋敷から余ったトリカブトを自が管理する薬園内へと運び出すと、そこで余ったトリカブトを焼却、しかし火の勢いが強過ぎて失火となってしまった―、そういうことではないか。
だとするならば小笠原信喜と芥川元珍の両名もまた、一橋治済に取込まれた、更に言えば家基暗殺、毒殺の共犯者に仕立てられたと考えられた。
源内はそこまで推理を組立てるや、
「小笠原信喜の下屋敷…、庭を是非とも拝見したい…」
そう思わずにはいられなかった。
如何に証拠湮滅を図ろうとも、全ての痕跡を、この場合はトリカブト栽培の痕跡を、
「跡形もなく…」
消去ることは不可能であるかの様に思われた。
例えばトリカブトの苗がまだ残っているやも知れぬ。
源内は期待を込めてそう思うと、ここから一望出来る小笠原信喜の下屋敷の拝見―、庭の捜索を願わずにはいられなかった。
だがそれを目の前の岡田忠政に打明ける訳には参らなかった。
仮令、打明けたところで、薬園奉行の岡田忠政の力では到底、小笠原信喜の下屋敷の家宅捜索など叶うまい。
そこで源内はやはりと言うべきか、またしても意知を頼ることにした。
その翌日の4月18日、源内はまたしても前日に続いて朝、それも意次が登城した頃を見計らって神田橋御門内にある田沼家の上屋敷へと足を運んだ。
勿論、意知に逢う為だが、意知が在宅しているかどうか、そこは一種の「賭け」であった。
意知は老中の息として雁間詰を命ぜられていた。
雁間詰である以上、外の雁間詰の諸侯と交代で御城本丸は表向にある雁間に詰めることになる。
それ故、今日、4月18日が意知の「当番」である可能性もあり得、その場合は父、意次よりも前に神田橋御門内の屋敷を出立し、登営、御城へと登ることになる。
雁間詰として雁間に詰める上は老中よりも遅れて登城することは許されまい。
老中よりも先に登城して雁間に詰め、老中を出迎え申上げるのが雁間詰の責務と言え、それは意知とて例外ではなかった。
さて、意知が雁間詰の当番として登城する日は、その父、意次も登城に及ぶと、さしもの田沼家上屋敷の門前も落着きを取戻す。
それと言うのも田沼家上屋敷には意次・意知父子が不在となるからだ。
朝早くから陳情客が田沼家上屋敷の門前にて列を成していたとして、意知が登城する場合、それは朝五つ(午前8時頃)のことであった。
朝五つ(午前8時頃)に意知を乗せた駕籠がまず、門より出る。
次いで一刻(約2時間)後の昼四つ(午前10時頃)、西之丸の太鼓櫓の太鼓の音と共に意次を乗せた駕籠も門より出る。
すると田沼家の家臣が陳情客の列に向けて、意次・意知父子の不在を告知することになる。
これで大半の陳情客は立去る。意次、或いはその息、意知に逢えなければ意味がないからだ。
尤も、一部、目端の利く陳情客であれば直ぐには立去らずに、意次、意知父子と陳情客とを取結ぶ取次頭取に持参した「手土産」を渡すこともあるが、決して多いものではなく、屋敷の門前は落着きを取戻すことになる。
そこで今日、4月18日だが、源内が朝―、昼四つ(午前10時頃)を告げる太鼓の音が鳴響いてから暫く経った後、田沼家上屋敷の門前に着くと、そこにはまだ陳情客が列を成しており、意知の在宅を告げていた。
源内はやはり陳情客の列の最後尾に並び、それから一刻(約2時間)弱が経過した昼九つ(正午頃)に漸くに意知に逢えた。
源内は意知と向かい合うと、これまでの経緯―、己の推理を述べた上で小笠原信喜の下屋敷の家宅捜索に踏切りたい旨、告げた。
無論、治済から一万両を脅し取る計画については伏せた。
一方、意知はと言うと、昨日、源内が池原良明の生死について尋ねたことに、それも一橋家サイドの申告が嘘、つまりは謀殺であることを見抜いたことに|合点がいった。
意知はそれから源内に如何にして小笠原信喜の下屋敷を、それも庭を捜索させるか、その手立てを講じた。
そしてある策を思い付いた。
意知はまず、源内に対して薬園奉行の岡田忠政に対して4月25日より明くる5月の2日までの一週間、薬園に住込み、薬草の研究に当たりたい旨、申請する様、命じた。
源内はその指示に従い、再び岡田忠政の許を訪れ、謂わば「研究生」として4月25日より5月2日までの一週間、ここ小石川薬園にて住込みたい旨、申請した。
一方、意知はと言うと、父、意次が帰邸に及んだ昼の八つ半(午後3時頃)に屋敷を脱出ると、その足で若年寄首座の松平伊賀守忠順の許へと向かった。
松平忠順の屋敷は西之丸下にあり、田沼家程ではないものの、その門前には陳情客が群を成しており、意知はそこに並んだ。
意知の今の形は着流しであり、供も付けずであり、無役の旗本に見えなくもなかった。
松平忠順は旗本、御家人を支配する若年寄、その中でも筆頭の首座にあり、それ故、陳情客が引きも切らなかった。
無役の旗本、御家人は御役に就こうと、そして御役にある旗本、御家人は更に出世しようと、忠順の許へと日参する。
今月は若年寄においては加納遠江守久堅が月番であり、松平忠順は非番であった。
忠順は今月の様な非番月においては11日と23日だけ陳情客の相手をしてやれば良かった。
所謂、非番月對客日というヤツであり、今日、18日はその非番月對客日ではないので、本来ならば忠順には陳情客の相手をしてやる義務はなかった。
が、陳情客は非番月對客日とは無関係に、それこそ、「そんなの関係ねぇ」とばかり忠順の許へと押しかける。
そうなると忠順としても陳情客を無視する訳にも参らず、登城前には對客、そいて下城して帰邸に及ぶや逢客と夫々、陳情客の相手をしてやらねばならず、それは意次にも当て嵌まることであった。
さて、意知が陳情客の列の最後尾に並んでいると、その列の「交通整理」に当たっていた取次の一人、大嶋平太夫が意知に気付いたらしい。
「貴方様は若しや、田沼大和守様では…」
大嶋平太夫は意知の許へと歩み寄ると、意知にそう囁いた。
そこで意知も、「如何にも…、意知にて…」と応じた。
「手前は大嶋平太夫にて…」
「承知しており申す…」
意知がそう応ずるや、大嶋平太夫は陳情客の列を窺いつつ、意知を主君、忠順の許へと案内した。
その時、忠順は別の陳情客の相手をしていた。
そこへ江戸家老の矢木庄兵衛が駈込み、主君・忠順に意知の来訪を耳打ち》した。
大嶋平太夫は意知をまずは江戸家老の矢木庄兵衛の許へと案内したのだ。
忠順は意知の不意の来訪に驚きはしたものの、しかし逢わないという選択肢はあり得なかった。
それも直ちに逢ってやらねばならず、忠順は意知をここへ連れて来る様、矢木庄兵衛に命じた。
かくして意知は忠順と逢うことが出来た。
忠順は矢木庄兵衛が意知を連れて来ると、更に息、左衛門佐忠済も連れて来る様に命じた。勿論、倅・忠済を意知に引合わせる為であった。
意知は当然、廊下側の障子を背にして、つまりは下座にて着座し、床の間を背負う忠順と向かい|合《あった。
すると忠順は意知に客座を勧めた。つまりは斜向かいに座るよう勧めたのだ。
だがそれを意知は謝絶した。
「この意知、軽輩の身なれば…」
下座が相応しいと、意知は謝絶したのだ。
それが謙遜であることは忠順にも分かっていた。
「何を申される。大和守殿は歴とした詰衆…、雁間詰ではござるまいか。それに従五位下諸太夫と、身共とは同格…」
確かに意知も忠順も共に官位は従五位下諸太夫であった。
だが従五位下諸太夫に任官したのは忠順の方が遥かに先であり、何より若年寄の筆頭である。
ならば未だ一介の雁間詰に過ぎない意知が若年寄筆頭の松平忠順と同格である筈がなかった。
そこで意知が尚も客座へと移るのを躊躇っていると、
「いや、倅の忠済にも逢ってやって貰いたいのだ…、そこにいては忠済の顔もロクに拝めまいて…」
忠順は意知にそう声をかけたのだ。
成程、忠済もまた、ここに姿を見せるとなれば、畢竟、父・忠順の斜向かいに座ることになろう。
その場合、意知もまた、忠順の斜向かい、それも客座に座っておれば、忠済とは向かい合う格好となり、下座に座っている時よりも忠済の顔が良く見えるというものである。
意知も忠順との間で斯かる「やり取り」が繰広げられている最中、当の忠済が姿を見せ、案の定、父・忠順の斜向かに座ったことから、忠順は重ねて意知に客座を勧め、倅の忠済からも客座を勧められたことから、意知も観念して下座から客座へと移り、忠済と向かい合った。
意知は忠済とも挨拶を交わした。
忠済は宝暦元(1751)年生まれの29歳であり、寛延2(1749)年生まれの意知よりも2歳年下に過ぎず、意知と忠済とは宛ら兄弟の様であった。
と言っても御城にて顔を合わせる機会は余りなかった。
意知が老中、意次の息として雁間詰、所謂、詰衆であるのに対して忠済はと言うと菊間詰、所謂、詰衆並であり、雁間詰とは異なり、平日登城はなかった。
それでも月次御礼などの式日においては登城し、その場合、菊間縁頬に詰め、また将軍が外出の折には供奉することもあった。
忠済は明和6(1769)年12月に将軍・家治に初御目見得を果たすと従五位下諸太夫に叙され、左衛門佐を名乗り、それと共に、菊間詰を命ぜられ、爾来、式日には登城して菊間縁頬に詰める様になったのだが、その際、意知が力になった。
忠済が菊間詰として初めての式日を迎えた時のことである。
忠済にとってはこれが初めての式日登城というこtもあり、忠済は大いに緊張し、戸惑うこともあった。
その忠済を援けたのが外ならぬ意知であったのだ。
斯かる事情が忠済は意知を実の兄の様に慕い、忠順も倅、忠済を援けてくれた意知に感謝し、目をかけるようになった。
さて忠順は挨拶も済んだところで意知に本日の用向を尋ねた。
そこで意知は漸くに本題に入った。
即ち、己が目をかけている平賀源内なる市井の本草学者が小石川薬園にて本草学を極め度、そこで4月25日より5月2日までの一週間という期間限定で構わないので研究生として小石川薬園にて寝泊まり、薬園奉行や配下の支配同心や荒子らと共に寝食を共にしたい―、斯かる願出が薬園奉行の岡田忠政を介して若年寄へと為される予定であり、
「そこで伊賀守様におかれましては何卒、若年寄筆頭として…」
願出を聞届けて貰いたいと、意知は頭を下げた。
すると忠順も余計な穿鑿はせずにこれを受容れた。
だが忠順は「但し…」と付加え、
「加納殿にも挨拶を済ませておくように…」
意知にそう命じた。それと言うのも今月4月は加納久堅が月番であったからだ。
それ故、仮に源内が研究生として小石川薬園にて寄宿が許されるとして、それは月番若年寄の加納久堅より薬園奉行、更には平賀源内へと伝えられることになる。
その為、若年寄筆頭の松平忠順は元より、月番の加納久堅にも「根回し」をしておく必要があった。
裏を返せば若年寄筆頭の忠順と月番の久堅の2人に「根回し」を済ませておけば、源内の願いは叶ったも同然であった。
意知は忠順の許を辞去すると、やはりここ西之丸下にある加納久堅の許を訪ね、源内の件を頼んだ。
幸い、加納久堅は若年寄の中では松平忠順と並ぶ意知の理解者であり、意知の願いを聞届けてくれた。これが意次・意知父子に反感を抱く酒井石見守忠休であったならばこうはいかなかったであろう。
さて久堅は源内の件を諒承した上で、
「その源内なる者、御薬園の東半分を管理せし岡田忠政の許に身を寄せるとなれば、源内が学びし場所は東半分ということか?」
その点を糺した。
それは正に「事の本質」と言え、意知は「いえいえ…」と応ずると、
「確かに源内は御許しがあれば岡田忠政の許にて一週間、過ごすことと相成りましょうが、なれど普段の研究におきましては西半分にも出入りさせ度…」
芥川元珍が管理する西半分の薬園にも出入することを許して欲しいと、久堅に希った。
すると久堅もまた、忠順と同じく、
「余計な穿鑿はせずに…」
意知の願いを聞届けたのであった。
こうして源内は4月25日より小石川薬園に潜入することが叶った。
だがそれだけではまだ足りない。
源内に小笠原信喜の下屋敷の家宅捜索をさせるには今一つの「手立」が必要であった。
それはズバリ、将軍・家治の小石川薬園の見学であった。
その前に今少し、詰めておく必要があったからだ。
勿論、「脅し」の「ネタ」を、であり、例えばトリカブトの入手先である。
家基をトリカブトと河豚毒とを用いて毒殺したとなれば、当然、その前にかなりの「準備」、要は「実験」をしたものと推察された。
その場合、トリカブトについては「実験」の度に何処ぞから入手、購入するよりも、予め沢山のトリカブトを栽培し、それを「実験」に供し、そして「本番」に用いた方が合理的と言えた。
だとしたら、何処でトリカブトを栽培したか―、治済はトリカブトを栽培させたか、である。
まず考えられるとしたら一橋家の屋敷であろうか。
だが上屋敷には公儀より遣わされた家老、御三卿家老の目が光っており、さしもの治済もトリカブトを栽培させるには心理的な抵抗があろう。
それならば下屋敷であろうか。
成程、下屋敷ならば家老の目も届き難く、トリカブトを栽培させるには「うってつけ」と言えたが、しかし源内はそれよりも薬園の方に目を向けた。
トリカブトを栽培するには当然、本草学に通じている者でなければならない。
一株や二株程度ならば兎も角、大量のトリカブトを栽培するとなると、到底、素人の手に負えるものではない。
大量のトリカブトを栽培させるとなると、必然的に本草学に通じている者の手を借りなければならず、仮に一橋家の下屋敷にてトリカブトを栽培させるとなると、その本草学に通じている者、例えば本草学者に下屋敷へと「御出座し」を願わなければなるまい。
だがトリカブトは毒草で知られている。本草学者でならずとも、つまりは素人にも知られている。
そのトリカブトを大量に栽培させるとなれば、本草学者ともなれば当然、警戒心を抱くに違いない。一体、何の為にトリカブトを大量に栽培するつもりなのか、と。
下手に本草学者に声をかけ、結果、公儀へと通報される恐れがあり得た。
一橋家より大量のトリカブト栽培の依頼を受けた、と。
治済もその恐れは当然、予期していたであろうから、それよりは―、民間の本草学者に声をかけるよりも、薬園奉行を抱込んだ方が遥かに合理的と言えた。
薬園奉行は若年寄支配の御役で、芥川家、岡田家、植村家の三家の世襲職であった。
代々の当主は幼少の砌より薬草についての知識を叩き込まれてきた。
この薬園奉行を抱込むことが出来れば百人力、否、万人力と言えよう。
その三家の中でも芥川家の当主、小野寺元珍は上昇志向の強い男として知られていた。
芥川家と岡田家は小石川薬園を、植村家は目黒駒場薬園を、夫々、管理していた。
尤も、小石川薬園に関して言えば、元々は芥川家が管理を任されていた。
それが享保6(1721)年にそこへ岡田家が割って入る格好で管理を任されることになった。
爾来、小石川薬園は芥川家と岡田家とが管理を担うことになったのだが、芥川家の代々の当主は岡田家を目障りに思っていた。
殊に今の当主、元珍がそうであり、岡田家に対して、それも当主の左門忠政に対して、
「並々ならぬ…」
対抗心を燃やしていた。
その対抗心だが、「実入り」がそれを倍加させた。
即ち、「新参者」の岡田家の方が「古参」の芥川家よりも「実入り」、扶持が良かったのだ。
芥川家の扶持が廩米百俵月俸二口であるのに対して岡田家のそれは廩米二百俵月俸二口であり、これが元珍の岡田家への対抗心、と言うよりは嫉妬心をより一層、倍加させていた。
このことは御城では知られた話であり、治済も当然、把握していたであろう。
治済がそこに付込んだとしたらどうだろうか。
例えば、小石川薬園の管理については芥川家にだけ請負わせ、岡田家は潰す―、治済が斯かる「手形」を元珍に切ったとしたならば、元珍は喜んで治済に手を貸したものと思われる。
ちなみに源内は市井の本草学者に過ぎず、御城勤めの役人ではないものの、しかし今を時めく老中、田沼意次とその息である意知と交流があり、尚且つ、岡田家の当主、左門忠政とも交際しており、それ故、斯かる推理を組立てることが出来たのだ。
すると源内はそこで小石川薬園の火災の事実をも思い出した。
源内はやはり意次ルートで先月の3月29日に小石川薬園が、それも芥川元珍が管理する西半分が出火したことを教えて貰っており、それを思い出したのだ。
「よもや…、証拠湮滅…」
源内はそう勘付くと、自然と小石川へと足が向いていた。
池原家を辞去―、池原良誠に倅、良明の死が病死ではなく治済に謀殺されたのだと、告発するつもりがないことを確かめた源内は神田大和町の私邸へと帰る道中、脳内において斯かる推理を展開すると、そのまま私邸のある神田を通り過ぎ、薬園のある小石川へと向かったのだ。岡田忠政に会う為である。
源内は岡田忠政とは親しく交際していた。
それは源内の本草学の師、田村蘭水の紹介による。
田村蘭水は本草学を極めたいとの弟子、源内の願いを聞届け、そこで薬園奉行の岡田忠政を引合わせたのだ。
岡田忠政は芥川元珍とは正反対に薬園奉行として日々、研究に没頭しており、源内とは直ぐに気が合った。
年齢もほぼ同年輩という事情も幸いした。
今年、安永8(1779)年で平賀源内が51を迎えたのに対して、岡田忠政は55と、4歳しか違わなかった。
さて源内が岡田忠政の許を訪ねると、忠政は源内を歓待した。
「この御薬園ではトリカブトの栽培は…」
源内は挨拶もそこそこに早速、本題に入った。
源内は岡田忠政にまずはその点を確かめるべく、ここまで足を運んだのだ。
「トリカブト…」
「左様…」
「トリカブトと申さば、毒草ではござらぬか…」
「如何にも…」
「斯かる毒草、栽培は禁じられておるによって…」
「芥川殿は如何に…」
「芥川殿、とな?」
「左様…」
「芥川殿とて同様であろう…、源内殿も御覧の通り、薬園には支配同心や荒子がおり…」
薬園奉行配下の支配同心や荒子が奉行指揮の下、薬草の栽培や精製に携わり、それ故、薬園奉行が、この場合は芥川元珍が御禁制とも言うべき毒草のトリカブトを許しもなく栽培した場合、必然的に支配同心や荒子の目に触れ、彼等の口から御公儀へと通報、密告が為されるに違いない、というのが岡田忠政の見立であった。
つまり芥川元珍が岡田忠政には内緒でトリカブトを育てようにも、その前に自が支配の支配同心や荒子に発覚てしまう、という訳だ。
「何故、左様なことを尋ねられる?」
岡田忠政は流石に疑問に思い、源内にその「真意」を糺した。
「いや、なに…、この源内、近頃は毒草にも興味があり…、いや、毒草の中には薬の素となるものもあるらしく…」
そこでここ小石川薬園ならばトリカブトも育てられるのではないかと、そう思ってと、源内は適当にそう誤魔化すと、
「それはそうと…」
失火の件へと話題を転じた。
「岡田殿も災難でござったな…、西半分よりの出火、その火がここ東半分へと飛火すれば、岡田殿まで罪に問われたやも知れず…」
芥川元珍は失火の罪を問われ、今月の4月2日より9日までの8日間、出仕を止められたのだ。つまりは謹慎であった。
すると岡田忠政も「確かに…」と応ずると、
「いや、芥川殿も差控え程度で済んだは偏に小笠原様の御蔭でござろう…」
そう切出したのだ。
「小笠原様?」
源内が首を傾げると、岡田左門はそれが次期将軍・家基の御側御用取次であった小笠原若狭守信喜であることを打明けた。
「その、小笠原様が芥川殿が罪…、失火の罪が軽く済む様、御公儀に掛合われたとでも?」
源内が先回りして尋ねると、「如何にも」と岡田忠政は首肯した。
「小笠原様は何故にそこまで…、芥川殿の為に…」
首を傾げる源内に岡田忠政は「絵解き」をしてくれた。
「それは小笠原様が芥川殿と親しいからであろうな…」
「親しいと…」
「左様…、されば御下屋敷があるによって…」
「御下屋敷…、それは小笠原様が御下屋敷と?」
源内が確かめる様に尋ねると、岡田忠政は芥川元珍が管理する西半分の内に小笠原信喜の下屋敷があることを源内に初めて打明けたのだ。
さしもの源内もこれは初耳であり驚いた。
「それでは失火の折には危うく小笠原様の御下屋敷にも飛火せし可能性があったのではござるまいか?」
「如何にも…」
「にもかかわらず、御公儀に罪の軽減を…、少しくでも芥川殿が失火の罪が軽く済む様、陳情されるとは…、いや、これが逆であれば話は分かり申すが…」
危うく下屋敷を燃やされそうになったのだから、本来ならば少しでも罪が重くなるのを願うものであろう。少なくとも罪の軽減など願わない筈である。
にもかかわらず小笠原信喜は公儀に対して芥川元珍の失火の罪の軽減を求めた、となればそこにはそれなりの「理由」があると考えて然るべきであった。
「それだけ小笠原様と芥川殿が親しいということであろうよ…」
研究一筋、典型的な学究肌の岡田忠政にしてみれば興味のない話であるらしく、投げやりな口調でそう言った。
源内は座敷から薬園の方へと目を転じた。
源内は今、小石川薬園は東の奉行所内の座敷にて岡田忠政と向かい合っていた、
その東半分の薬園内には養生所があり、道を隔てた向かい側は芥川元珍が管理する薬園であり、その薬園内、西半分の薬園内に小笠原元珍の下屋敷があるとのことであった。
「小笠原様と芥川殿が親しいということは、芥川殿が小笠原様の御下屋敷へと足を運ばれることもござりましょうなぁ…」
源内は極力、自然な調子で尋ねた。
すると岡田忠政も何の疑いもなしに、「如何にも」と首肯し、
「以前に芥川殿当人より小笠原様と親しく付合っていると、そう自慢気に吹聴されたことがあり、その際…」
下屋敷にも度々、足を運んでいると、その様にも聞かされたことがあると、源内にそう補足してみせた。
「支配同心や荒子は如何でござろうか…」
「なに?」
「いや…、芥川殿支配の支配同心や荒子も小笠原様の御下屋敷に招かれたことはあるのかと…」
「いや、それはあるまい…」
将軍への御目見得が許されている薬園奉行の芥川元珍は兎も角、御目見得を許されていない支配同心や荒子までが小笠原信喜の下屋敷に招かれることはあるまい、というのがこれまた岡田忠政の見立であった。
すると源内はまたしても、ある推理を組立てることが出来た。
成程、芥川元珍は自が管理する西半分の薬園内に小笠原元珍の下屋敷があることによって親しくなったのは事実であろう。
だがそれが小笠原信喜が芥川元珍の失火の罪の減刑を求めた「理由」ではあるまい。
証拠湮滅、それこそが真実の「理由」に相違あるまい。
即ち、芥川元珍は小笠原信喜の下屋敷の恐らくは庭にてトリカブトを栽培したのであろう。
小笠原信喜の下屋敷内であれば、支配同心や荒子の目に触れずにトリカブトを育てられるからだ。
そして家基の暗殺、毒殺に成功した後、3月29日に、それも恐らくは証拠湮滅を図ることにした。
証拠―、余ったトリカブトの処分であり、この場合、燃してしまうのが一番である。
だが小笠原信喜は下屋敷にてトリカブトを育てることは許せても、燃すことまでは許せず、そこで芥川元珍が管理する薬園内にて燃すよう、元珍に命じたのであろう。
そこで芥川元珍は支配同心や荒子が寝静まった夜を見計らい、信喜の下屋敷から余ったトリカブトを自が管理する薬園内へと運び出すと、そこで余ったトリカブトを焼却、しかし火の勢いが強過ぎて失火となってしまった―、そういうことではないか。
だとするならば小笠原信喜と芥川元珍の両名もまた、一橋治済に取込まれた、更に言えば家基暗殺、毒殺の共犯者に仕立てられたと考えられた。
源内はそこまで推理を組立てるや、
「小笠原信喜の下屋敷…、庭を是非とも拝見したい…」
そう思わずにはいられなかった。
如何に証拠湮滅を図ろうとも、全ての痕跡を、この場合はトリカブト栽培の痕跡を、
「跡形もなく…」
消去ることは不可能であるかの様に思われた。
例えばトリカブトの苗がまだ残っているやも知れぬ。
源内は期待を込めてそう思うと、ここから一望出来る小笠原信喜の下屋敷の拝見―、庭の捜索を願わずにはいられなかった。
だがそれを目の前の岡田忠政に打明ける訳には参らなかった。
仮令、打明けたところで、薬園奉行の岡田忠政の力では到底、小笠原信喜の下屋敷の家宅捜索など叶うまい。
そこで源内はやはりと言うべきか、またしても意知を頼ることにした。
その翌日の4月18日、源内はまたしても前日に続いて朝、それも意次が登城した頃を見計らって神田橋御門内にある田沼家の上屋敷へと足を運んだ。
勿論、意知に逢う為だが、意知が在宅しているかどうか、そこは一種の「賭け」であった。
意知は老中の息として雁間詰を命ぜられていた。
雁間詰である以上、外の雁間詰の諸侯と交代で御城本丸は表向にある雁間に詰めることになる。
それ故、今日、4月18日が意知の「当番」である可能性もあり得、その場合は父、意次よりも前に神田橋御門内の屋敷を出立し、登営、御城へと登ることになる。
雁間詰として雁間に詰める上は老中よりも遅れて登城することは許されまい。
老中よりも先に登城して雁間に詰め、老中を出迎え申上げるのが雁間詰の責務と言え、それは意知とて例外ではなかった。
さて、意知が雁間詰の当番として登城する日は、その父、意次も登城に及ぶと、さしもの田沼家上屋敷の門前も落着きを取戻す。
それと言うのも田沼家上屋敷には意次・意知父子が不在となるからだ。
朝早くから陳情客が田沼家上屋敷の門前にて列を成していたとして、意知が登城する場合、それは朝五つ(午前8時頃)のことであった。
朝五つ(午前8時頃)に意知を乗せた駕籠がまず、門より出る。
次いで一刻(約2時間)後の昼四つ(午前10時頃)、西之丸の太鼓櫓の太鼓の音と共に意次を乗せた駕籠も門より出る。
すると田沼家の家臣が陳情客の列に向けて、意次・意知父子の不在を告知することになる。
これで大半の陳情客は立去る。意次、或いはその息、意知に逢えなければ意味がないからだ。
尤も、一部、目端の利く陳情客であれば直ぐには立去らずに、意次、意知父子と陳情客とを取結ぶ取次頭取に持参した「手土産」を渡すこともあるが、決して多いものではなく、屋敷の門前は落着きを取戻すことになる。
そこで今日、4月18日だが、源内が朝―、昼四つ(午前10時頃)を告げる太鼓の音が鳴響いてから暫く経った後、田沼家上屋敷の門前に着くと、そこにはまだ陳情客が列を成しており、意知の在宅を告げていた。
源内はやはり陳情客の列の最後尾に並び、それから一刻(約2時間)弱が経過した昼九つ(正午頃)に漸くに意知に逢えた。
源内は意知と向かい合うと、これまでの経緯―、己の推理を述べた上で小笠原信喜の下屋敷の家宅捜索に踏切りたい旨、告げた。
無論、治済から一万両を脅し取る計画については伏せた。
一方、意知はと言うと、昨日、源内が池原良明の生死について尋ねたことに、それも一橋家サイドの申告が嘘、つまりは謀殺であることを見抜いたことに|合点がいった。
意知はそれから源内に如何にして小笠原信喜の下屋敷を、それも庭を捜索させるか、その手立てを講じた。
そしてある策を思い付いた。
意知はまず、源内に対して薬園奉行の岡田忠政に対して4月25日より明くる5月の2日までの一週間、薬園に住込み、薬草の研究に当たりたい旨、申請する様、命じた。
源内はその指示に従い、再び岡田忠政の許を訪れ、謂わば「研究生」として4月25日より5月2日までの一週間、ここ小石川薬園にて住込みたい旨、申請した。
一方、意知はと言うと、父、意次が帰邸に及んだ昼の八つ半(午後3時頃)に屋敷を脱出ると、その足で若年寄首座の松平伊賀守忠順の許へと向かった。
松平忠順の屋敷は西之丸下にあり、田沼家程ではないものの、その門前には陳情客が群を成しており、意知はそこに並んだ。
意知の今の形は着流しであり、供も付けずであり、無役の旗本に見えなくもなかった。
松平忠順は旗本、御家人を支配する若年寄、その中でも筆頭の首座にあり、それ故、陳情客が引きも切らなかった。
無役の旗本、御家人は御役に就こうと、そして御役にある旗本、御家人は更に出世しようと、忠順の許へと日参する。
今月は若年寄においては加納遠江守久堅が月番であり、松平忠順は非番であった。
忠順は今月の様な非番月においては11日と23日だけ陳情客の相手をしてやれば良かった。
所謂、非番月對客日というヤツであり、今日、18日はその非番月對客日ではないので、本来ならば忠順には陳情客の相手をしてやる義務はなかった。
が、陳情客は非番月對客日とは無関係に、それこそ、「そんなの関係ねぇ」とばかり忠順の許へと押しかける。
そうなると忠順としても陳情客を無視する訳にも参らず、登城前には對客、そいて下城して帰邸に及ぶや逢客と夫々、陳情客の相手をしてやらねばならず、それは意次にも当て嵌まることであった。
さて、意知が陳情客の列の最後尾に並んでいると、その列の「交通整理」に当たっていた取次の一人、大嶋平太夫が意知に気付いたらしい。
「貴方様は若しや、田沼大和守様では…」
大嶋平太夫は意知の許へと歩み寄ると、意知にそう囁いた。
そこで意知も、「如何にも…、意知にて…」と応じた。
「手前は大嶋平太夫にて…」
「承知しており申す…」
意知がそう応ずるや、大嶋平太夫は陳情客の列を窺いつつ、意知を主君、忠順の許へと案内した。
その時、忠順は別の陳情客の相手をしていた。
そこへ江戸家老の矢木庄兵衛が駈込み、主君・忠順に意知の来訪を耳打ち》した。
大嶋平太夫は意知をまずは江戸家老の矢木庄兵衛の許へと案内したのだ。
忠順は意知の不意の来訪に驚きはしたものの、しかし逢わないという選択肢はあり得なかった。
それも直ちに逢ってやらねばならず、忠順は意知をここへ連れて来る様、矢木庄兵衛に命じた。
かくして意知は忠順と逢うことが出来た。
忠順は矢木庄兵衛が意知を連れて来ると、更に息、左衛門佐忠済も連れて来る様に命じた。勿論、倅・忠済を意知に引合わせる為であった。
意知は当然、廊下側の障子を背にして、つまりは下座にて着座し、床の間を背負う忠順と向かい|合《あった。
すると忠順は意知に客座を勧めた。つまりは斜向かいに座るよう勧めたのだ。
だがそれを意知は謝絶した。
「この意知、軽輩の身なれば…」
下座が相応しいと、意知は謝絶したのだ。
それが謙遜であることは忠順にも分かっていた。
「何を申される。大和守殿は歴とした詰衆…、雁間詰ではござるまいか。それに従五位下諸太夫と、身共とは同格…」
確かに意知も忠順も共に官位は従五位下諸太夫であった。
だが従五位下諸太夫に任官したのは忠順の方が遥かに先であり、何より若年寄の筆頭である。
ならば未だ一介の雁間詰に過ぎない意知が若年寄筆頭の松平忠順と同格である筈がなかった。
そこで意知が尚も客座へと移るのを躊躇っていると、
「いや、倅の忠済にも逢ってやって貰いたいのだ…、そこにいては忠済の顔もロクに拝めまいて…」
忠順は意知にそう声をかけたのだ。
成程、忠済もまた、ここに姿を見せるとなれば、畢竟、父・忠順の斜向かいに座ることになろう。
その場合、意知もまた、忠順の斜向かい、それも客座に座っておれば、忠済とは向かい合う格好となり、下座に座っている時よりも忠済の顔が良く見えるというものである。
意知も忠順との間で斯かる「やり取り」が繰広げられている最中、当の忠済が姿を見せ、案の定、父・忠順の斜向かに座ったことから、忠順は重ねて意知に客座を勧め、倅の忠済からも客座を勧められたことから、意知も観念して下座から客座へと移り、忠済と向かい合った。
意知は忠済とも挨拶を交わした。
忠済は宝暦元(1751)年生まれの29歳であり、寛延2(1749)年生まれの意知よりも2歳年下に過ぎず、意知と忠済とは宛ら兄弟の様であった。
と言っても御城にて顔を合わせる機会は余りなかった。
意知が老中、意次の息として雁間詰、所謂、詰衆であるのに対して忠済はと言うと菊間詰、所謂、詰衆並であり、雁間詰とは異なり、平日登城はなかった。
それでも月次御礼などの式日においては登城し、その場合、菊間縁頬に詰め、また将軍が外出の折には供奉することもあった。
忠済は明和6(1769)年12月に将軍・家治に初御目見得を果たすと従五位下諸太夫に叙され、左衛門佐を名乗り、それと共に、菊間詰を命ぜられ、爾来、式日には登城して菊間縁頬に詰める様になったのだが、その際、意知が力になった。
忠済が菊間詰として初めての式日を迎えた時のことである。
忠済にとってはこれが初めての式日登城というこtもあり、忠済は大いに緊張し、戸惑うこともあった。
その忠済を援けたのが外ならぬ意知であったのだ。
斯かる事情が忠済は意知を実の兄の様に慕い、忠順も倅、忠済を援けてくれた意知に感謝し、目をかけるようになった。
さて忠順は挨拶も済んだところで意知に本日の用向を尋ねた。
そこで意知は漸くに本題に入った。
即ち、己が目をかけている平賀源内なる市井の本草学者が小石川薬園にて本草学を極め度、そこで4月25日より5月2日までの一週間という期間限定で構わないので研究生として小石川薬園にて寝泊まり、薬園奉行や配下の支配同心や荒子らと共に寝食を共にしたい―、斯かる願出が薬園奉行の岡田忠政を介して若年寄へと為される予定であり、
「そこで伊賀守様におかれましては何卒、若年寄筆頭として…」
願出を聞届けて貰いたいと、意知は頭を下げた。
すると忠順も余計な穿鑿はせずにこれを受容れた。
だが忠順は「但し…」と付加え、
「加納殿にも挨拶を済ませておくように…」
意知にそう命じた。それと言うのも今月4月は加納久堅が月番であったからだ。
それ故、仮に源内が研究生として小石川薬園にて寄宿が許されるとして、それは月番若年寄の加納久堅より薬園奉行、更には平賀源内へと伝えられることになる。
その為、若年寄筆頭の松平忠順は元より、月番の加納久堅にも「根回し」をしておく必要があった。
裏を返せば若年寄筆頭の忠順と月番の久堅の2人に「根回し」を済ませておけば、源内の願いは叶ったも同然であった。
意知は忠順の許を辞去すると、やはりここ西之丸下にある加納久堅の許を訪ね、源内の件を頼んだ。
幸い、加納久堅は若年寄の中では松平忠順と並ぶ意知の理解者であり、意知の願いを聞届けてくれた。これが意次・意知父子に反感を抱く酒井石見守忠休であったならばこうはいかなかったであろう。
さて久堅は源内の件を諒承した上で、
「その源内なる者、御薬園の東半分を管理せし岡田忠政の許に身を寄せるとなれば、源内が学びし場所は東半分ということか?」
その点を糺した。
それは正に「事の本質」と言え、意知は「いえいえ…」と応ずると、
「確かに源内は御許しがあれば岡田忠政の許にて一週間、過ごすことと相成りましょうが、なれど普段の研究におきましては西半分にも出入りさせ度…」
芥川元珍が管理する西半分の薬園にも出入することを許して欲しいと、久堅に希った。
すると久堅もまた、忠順と同じく、
「余計な穿鑿はせずに…」
意知の願いを聞届けたのであった。
こうして源内は4月25日より小石川薬園に潜入することが叶った。
だがそれだけではまだ足りない。
源内に小笠原信喜の下屋敷の家宅捜索をさせるには今一つの「手立」が必要であった。
それはズバリ、将軍・家治の小石川薬園の見学であった。
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