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小十人組番士・幸田源之助親曲の佐野善左衛門政言への「甘い囁き」 2
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「いや、それにしても許せぬは若年寄の田沼山城守が専横にて…」
幸田源之助は勿論、声を潜ませてだが、遂に意知を呼捨てにした。
幸田源之助はその上で、
「何しろ、御貴殿が手柄を横取りしたも同然ですからなぁ…」
佐野善左衛門を「誘導」した。
そしてこの場合の「誘導」とは無論、
「意知憎しへの…」
それである。
「弓矢の名手の戸田次郎左衛門までが何故に意知めに…、池田修理が偽りの戦功認定に与したか…、それも命を懸けてまで与したか、それは拙者にも分かりかね申すが、なれど、黒川内匠と伊丹雅楽助の二人については成程、池田修理が偽りの戦功認定に、即ち、意知の為に命を懸けられるのも当然…」
幸田源之助が実に思わせぶりな口調でもって、しかも謎かけするようにそう言うと、
「案の定…」
佐野善左衛門は喰い付いた。
「そは…、当然とは一体、如何な意味にて?」
「されば…、黒川内匠が実の叔父…、それも二人の叔父は清水宮内卿様が家臣にて…」
何故、ここで清水重好の名が出るのか、佐野善左衛門には分かりかねたが、それでも黙ってその先を聞くことにした。
「清水宮内卿様は…、大変、申上げ難きことなれど、今や田沼と一心同体にて…」
佐野善左衛門は流石に仰天し、
「何と…、清水宮内卿様が田沼と一心同体と申されるかっ…」
仰天の余り、思わずそう聞返した。
それに対して幸田源之助も「左様」と首肯、頷いてみせると、清水重好と田沼意次とが「一心同体」である理由について「絵解き」をしてみせた。
「されば清水宮内卿様が田沼と一心同体の関係になったは畏れ多くも大納言様が御薨去の折にまで遡り申す…」
即ち、今から4年以上も前の安永8(1779)年2月に当時、次期将軍であった家基が「病死」を遂げるや、清水重好は、
「我こそが…」
家基に代わる次期将軍に相応しいと、そう考えて、そこで将軍・家治の寵愛篤かった田沼意次より家治へと、
「家基に代わる次期将軍には清水重好が相応しい…」
そう売込んで貰うべく田沼意次に接近、爾来、清水重好は田沼意次とは、否、今では父・意次以上に将軍・家治の寵愛を恣にしている息・意知とも、
「一心同体…」
その関係にあり、しかも清水重好がまず田沼意次に「接近」した際、実際に清水重好と田沼意次との間を往来し、その仲を取持ったのは重好の家臣、つまりは清水家臣であり、その家臣こそが外ならぬ、
「黒川内匠が二人の叔父だそうで…」
黒川内匠が二人の叔父は清水重好の謂わば、
「手足となって…」
今では父・意次以上に将軍・家治の寵愛を恣にしている息・意知と主君・清水重好との仲を取持つべく日々、奔走しており、
「されば斯様なる二人の叔父を持つ黒川内匠が田沼意知の為に命を懸けるは当然と申すものにて…」
幸田源之助のその実に巧みなる「話術」に佐野善左衛門はすっかり翻弄された。
だがそれでも佐野善左衛門も流石に疑問に思うところがあった。
「なれど実際には次期将軍職は清水宮内卿様ではのうて、一橋民部卿様が御嫡子にあらせられし豊千代君…、いや、家斉公に決まったではござらぬか…」
ズバリそれであった。
だが幸田源之助は些かも動ずる気配はなかった。佐野善左衛門のその疑問は所謂、
「想定の範囲内」
であったからだ。
「されば畏れ多くも上様は田沼意次を介して己を売込む弟君に嫌気が差された様で…」
確かに血筋の点から考えれば家基に代わる次期将軍は腹違いとは申せ、現将軍の家治の弟にして、家基の叔父に当たる清水重好が相応しいのであろうが、しかし、家基が「病死」してからまだ間もないというに、
「早速…」
田沼意次を介して、己を売込む清水重好のその態度、性根に将軍・家治も流石に嫌気が差し、そこで家治は次期将軍には清水重好ではなく、家基の死を素直に嘆き哀しんでくれた一橋豊千代こと家斉を選んだらしいとも、幸田源之助は更にそう「絵解き」をしたのであった。
この「絵解き」にも佐野善左衛門は疑うこともせず、「成程…」と素直に受容れた。
「否…、畏れ多くも上様が嫌気が差されたは清水宮内卿様御一人に非ず…」
将軍・家治は清水重好の為に動き回った田沼意次にも嫌気が差し、結果、家治の寵愛は意次よりその息である意知へと遷り、すると清水重好もそうと察すると、やはり黒川内匠の二人の叔父を介して意知とも意を通ずる様になった…、幸田源之助は更にそう言募り、
「何故、黒川内匠が田沼意知の為に命を懸けられるのか…」
佐野善左衛門を完全に納得させた。
「して今一人…、伊丹某までが田沼意知の為に命を懸けられるはこれ如何に?」
佐野善左衛門は続いてそう尋ねた。
「さればこちらは更に簡単な話にて…」
幸田源之助は苦笑交じりにそう切出すと、伊丹雅楽助の伯母、雅楽助が父、伊丹藤三郎直彝の実姉が田沼意次の室であることを打明けたのであった。
「されば…、意知が母堂であると?」
佐野善左衛門が確かめる様にそう尋ねると、幸田源之助も「如何にも」と応じた。
否、実際には伊丹雅楽助の伯母―、伊丹藤三郎が実姉は意知の実の母ではない。
意知の実の母は黒澤杢之助定記の末娘であり、幸田源之助も勿論、それは承知していたが、しかしその様な「真実」を態々、佐野善左衛門に教えてやる必要性はどこにもなかった。幸田源之助にとってその様な「真実」は今は邪魔でしかないからだ。
「成程…、意知が母堂が伊丹雅楽助が伯母ともなれば、伊丹雅楽助にとって意知は伯母が産んだ子なれば従兄、否、従弟…、従弟という訳でござるな?」
佐野善左衛門はやはり確かめる様にそう尋ねた。
「左様…、否、意知の方が伊丹雅楽助よりも一回り以上、上なれば意知は伊丹雅楽助が従兄、従兄でござるよ…」
幸田源之助がそう補足すると、佐野善左衛門も「成程…」と応じた。
これで佐野善左衛門は黒川内匠と伊丹雅楽助の二人が意知の為に、
「命を懸ける…」
その様な「大言壮語」に及んだのか、完全に疑問が氷解した。
「否…、田沼意知が専横には拙者が父も苦々しゅう思うており…」
幸田源之助は己が父へと話題を転じた。無論、これもまた佐野善左衛門を「籠絡」する一環である。
「そこもとの父と申されると?」
佐野善左衛門は幸田源之助が期待した通り、興味を示してくれた。
「されば田安卿様にて用人格の郡奉行として仕え奉りし幸田友之助親平にて…」
幸田源之助が父・友之助を佐野善左衛門にそう紹介すると、善左衛門は目を輝かせた。
「何と…、あの幸田殿…、幸田殿が息であられたかっ」
どうしてもっと早くにそれを言ってくれなかったのか―、佐野善左衛門は今にもそう言いたげな様子を覗かせる程に、幸田源之助に親近感を覚えさせた。
田安家臣―、それは佐野善左衛門にとってはさしずめ、「パワーワード」であった。
それと言うのも佐野善左衛門は、
「大の田安贔屓」
であったからだ。
佐野善左衛門は一応、
「佐野越前守盛綱が嫡流…」
周囲にはそう「自称」して憚らず、また善左衛門当人もそう堅く信じて疑わなかったが、実際には佐野善左衛門は今は大坂町奉行の要職にある佐野豊前守政親の分家筋に過ぎず、それ故、佐野政親こそが、
「正統なる…」
佐野越前守盛綱が嫡流と言えるだろうが、しかし、佐野善左衛門はその様な己にとっては、
「都合の悪い…」
事実には目を瞑り、
「我こそが…」
佐野越前守盛綱が嫡流であると、そう「自称」して憚らなかった。
それは兎も角、この佐野善左衛門にとっては本家筋に当たる大坂町奉行の佐野政親には佐野與五郎政峰なる叔父がおり、佐野與五郎は御三卿の筆頭である田安家の始祖、宗武に近習番として仕えていた。
それ故、当たり前だが佐野與五郎は己が仕える田安宗武を崇拝し、それが嵩じて縁者である佐野善左衛門に対しても、
「幼少の砌…」
顔を合わせる度、田安宗武の素晴らしさを―、如何に名君であるかを語って聞かせたものである。
佐野善左衛門はその「薫陶」の御蔭ですっかり田安贔屓になった。
佐野善左衛門と同じく、佐野政親が分家筋に当たる佐野繁之助政清が末弟の捨五郎政信がやはり田安家臣の杉浦保兵衛洪嘉の養嗣子として迎えられている事実も佐野善左衛門の「田安贔屓」に拍車をかけていた。
否、それだけではない。杉浦保兵衛は実は田安家にて廣敷用人―、田安舘の「女主」である寶蓮院に用人として仕える杉浦猪兵衛良昭が実弟であり、その杉浦猪兵衛が嫡子、杉浦仙之丞美啓が妻にも佐野繁之助が直ぐ下の妹が迎えられ、更にもう一人の妹は杉浦猪兵衛が養女―、杉浦仙之丞が義理の妹として迎えられていたのだ。
事程左様に佐野善左衛門と田安家とは、正確には田安家臣とは所縁があり、これらの所縁も相俟って、佐野善左衛門は「田安贔屓」となった。
その様な佐野善左衛門故に田安の主だった家臣の名前程度は把握しており、その中に幸田友之助も勿論、含まれていた。
何しろ幸田友之助が勤める、
「用人格郡奉行」
と言えば、御三卿の邸臣団―、家臣団の中でも従六位布衣役に相当するからだ。
「されば…、そこもとは近々、御父上の御蔭により、両番入を?」
佐野善左衛門は羨望の眼差しでそう尋ねた。
如何にも佐野善左衛門が尋ねた通り、幸田源之助は所謂、
「父の蔭により…」
今の小十人組番より両番、それも小姓組番への番替―、異動、栄転が内定していた。
この時代、旗本の嫡子は父が従六位布衣役へと昇進を果たせば、
「父の蔭により…」
両番入、つまりは書院番か小姓組番、その何れかの番に番入り、就職、或いは異動、栄転を果たすことが出来た。
幸田源之助の場合、小十人家筋の旗本の嫡子であったが、今年、天明3(1783)年の4月に父・友之助がヒラの郡奉行より従六位布衣役に相当する用人格の郡奉行へと昇進を果たしたことにより、その息・源之助もまた、小十人組番士より小姓組番士へと異動、栄転を果たすことが出来た。
否、正確にはまだ内定の段階ではあったが、それでも今日の鷹狩りは幸田源之助にとっては小十人組番士として臨んだ最後のそれとなるであろう。
次の鷹狩りには幸田源之助は恐らく、否、間違いなく小姓組番士として臨むであろう。
ともあれ幸田源之助は佐野善左衛門のその「羨望の眼差し」に対して、「いやいや…」と応ずると、
「拙者よりも遥かに由緒正しき、高貴なる御血筋の御貴殿こそが本来、両番に相応しいと申すものにて…」
佐野善左衛門を改めてそう持上げてみせ、佐野善左衛門の自尊心を大いに満たした。
幸田源之助は勿論、声を潜ませてだが、遂に意知を呼捨てにした。
幸田源之助はその上で、
「何しろ、御貴殿が手柄を横取りしたも同然ですからなぁ…」
佐野善左衛門を「誘導」した。
そしてこの場合の「誘導」とは無論、
「意知憎しへの…」
それである。
「弓矢の名手の戸田次郎左衛門までが何故に意知めに…、池田修理が偽りの戦功認定に与したか…、それも命を懸けてまで与したか、それは拙者にも分かりかね申すが、なれど、黒川内匠と伊丹雅楽助の二人については成程、池田修理が偽りの戦功認定に、即ち、意知の為に命を懸けられるのも当然…」
幸田源之助が実に思わせぶりな口調でもって、しかも謎かけするようにそう言うと、
「案の定…」
佐野善左衛門は喰い付いた。
「そは…、当然とは一体、如何な意味にて?」
「されば…、黒川内匠が実の叔父…、それも二人の叔父は清水宮内卿様が家臣にて…」
何故、ここで清水重好の名が出るのか、佐野善左衛門には分かりかねたが、それでも黙ってその先を聞くことにした。
「清水宮内卿様は…、大変、申上げ難きことなれど、今や田沼と一心同体にて…」
佐野善左衛門は流石に仰天し、
「何と…、清水宮内卿様が田沼と一心同体と申されるかっ…」
仰天の余り、思わずそう聞返した。
それに対して幸田源之助も「左様」と首肯、頷いてみせると、清水重好と田沼意次とが「一心同体」である理由について「絵解き」をしてみせた。
「されば清水宮内卿様が田沼と一心同体の関係になったは畏れ多くも大納言様が御薨去の折にまで遡り申す…」
即ち、今から4年以上も前の安永8(1779)年2月に当時、次期将軍であった家基が「病死」を遂げるや、清水重好は、
「我こそが…」
家基に代わる次期将軍に相応しいと、そう考えて、そこで将軍・家治の寵愛篤かった田沼意次より家治へと、
「家基に代わる次期将軍には清水重好が相応しい…」
そう売込んで貰うべく田沼意次に接近、爾来、清水重好は田沼意次とは、否、今では父・意次以上に将軍・家治の寵愛を恣にしている息・意知とも、
「一心同体…」
その関係にあり、しかも清水重好がまず田沼意次に「接近」した際、実際に清水重好と田沼意次との間を往来し、その仲を取持ったのは重好の家臣、つまりは清水家臣であり、その家臣こそが外ならぬ、
「黒川内匠が二人の叔父だそうで…」
黒川内匠が二人の叔父は清水重好の謂わば、
「手足となって…」
今では父・意次以上に将軍・家治の寵愛を恣にしている息・意知と主君・清水重好との仲を取持つべく日々、奔走しており、
「されば斯様なる二人の叔父を持つ黒川内匠が田沼意知の為に命を懸けるは当然と申すものにて…」
幸田源之助のその実に巧みなる「話術」に佐野善左衛門はすっかり翻弄された。
だがそれでも佐野善左衛門も流石に疑問に思うところがあった。
「なれど実際には次期将軍職は清水宮内卿様ではのうて、一橋民部卿様が御嫡子にあらせられし豊千代君…、いや、家斉公に決まったではござらぬか…」
ズバリそれであった。
だが幸田源之助は些かも動ずる気配はなかった。佐野善左衛門のその疑問は所謂、
「想定の範囲内」
であったからだ。
「されば畏れ多くも上様は田沼意次を介して己を売込む弟君に嫌気が差された様で…」
確かに血筋の点から考えれば家基に代わる次期将軍は腹違いとは申せ、現将軍の家治の弟にして、家基の叔父に当たる清水重好が相応しいのであろうが、しかし、家基が「病死」してからまだ間もないというに、
「早速…」
田沼意次を介して、己を売込む清水重好のその態度、性根に将軍・家治も流石に嫌気が差し、そこで家治は次期将軍には清水重好ではなく、家基の死を素直に嘆き哀しんでくれた一橋豊千代こと家斉を選んだらしいとも、幸田源之助は更にそう「絵解き」をしたのであった。
この「絵解き」にも佐野善左衛門は疑うこともせず、「成程…」と素直に受容れた。
「否…、畏れ多くも上様が嫌気が差されたは清水宮内卿様御一人に非ず…」
将軍・家治は清水重好の為に動き回った田沼意次にも嫌気が差し、結果、家治の寵愛は意次よりその息である意知へと遷り、すると清水重好もそうと察すると、やはり黒川内匠の二人の叔父を介して意知とも意を通ずる様になった…、幸田源之助は更にそう言募り、
「何故、黒川内匠が田沼意知の為に命を懸けられるのか…」
佐野善左衛門を完全に納得させた。
「して今一人…、伊丹某までが田沼意知の為に命を懸けられるはこれ如何に?」
佐野善左衛門は続いてそう尋ねた。
「さればこちらは更に簡単な話にて…」
幸田源之助は苦笑交じりにそう切出すと、伊丹雅楽助の伯母、雅楽助が父、伊丹藤三郎直彝の実姉が田沼意次の室であることを打明けたのであった。
「されば…、意知が母堂であると?」
佐野善左衛門が確かめる様にそう尋ねると、幸田源之助も「如何にも」と応じた。
否、実際には伊丹雅楽助の伯母―、伊丹藤三郎が実姉は意知の実の母ではない。
意知の実の母は黒澤杢之助定記の末娘であり、幸田源之助も勿論、それは承知していたが、しかしその様な「真実」を態々、佐野善左衛門に教えてやる必要性はどこにもなかった。幸田源之助にとってその様な「真実」は今は邪魔でしかないからだ。
「成程…、意知が母堂が伊丹雅楽助が伯母ともなれば、伊丹雅楽助にとって意知は伯母が産んだ子なれば従兄、否、従弟…、従弟という訳でござるな?」
佐野善左衛門はやはり確かめる様にそう尋ねた。
「左様…、否、意知の方が伊丹雅楽助よりも一回り以上、上なれば意知は伊丹雅楽助が従兄、従兄でござるよ…」
幸田源之助がそう補足すると、佐野善左衛門も「成程…」と応じた。
これで佐野善左衛門は黒川内匠と伊丹雅楽助の二人が意知の為に、
「命を懸ける…」
その様な「大言壮語」に及んだのか、完全に疑問が氷解した。
「否…、田沼意知が専横には拙者が父も苦々しゅう思うており…」
幸田源之助は己が父へと話題を転じた。無論、これもまた佐野善左衛門を「籠絡」する一環である。
「そこもとの父と申されると?」
佐野善左衛門は幸田源之助が期待した通り、興味を示してくれた。
「されば田安卿様にて用人格の郡奉行として仕え奉りし幸田友之助親平にて…」
幸田源之助が父・友之助を佐野善左衛門にそう紹介すると、善左衛門は目を輝かせた。
「何と…、あの幸田殿…、幸田殿が息であられたかっ」
どうしてもっと早くにそれを言ってくれなかったのか―、佐野善左衛門は今にもそう言いたげな様子を覗かせる程に、幸田源之助に親近感を覚えさせた。
田安家臣―、それは佐野善左衛門にとってはさしずめ、「パワーワード」であった。
それと言うのも佐野善左衛門は、
「大の田安贔屓」
であったからだ。
佐野善左衛門は一応、
「佐野越前守盛綱が嫡流…」
周囲にはそう「自称」して憚らず、また善左衛門当人もそう堅く信じて疑わなかったが、実際には佐野善左衛門は今は大坂町奉行の要職にある佐野豊前守政親の分家筋に過ぎず、それ故、佐野政親こそが、
「正統なる…」
佐野越前守盛綱が嫡流と言えるだろうが、しかし、佐野善左衛門はその様な己にとっては、
「都合の悪い…」
事実には目を瞑り、
「我こそが…」
佐野越前守盛綱が嫡流であると、そう「自称」して憚らなかった。
それは兎も角、この佐野善左衛門にとっては本家筋に当たる大坂町奉行の佐野政親には佐野與五郎政峰なる叔父がおり、佐野與五郎は御三卿の筆頭である田安家の始祖、宗武に近習番として仕えていた。
それ故、当たり前だが佐野與五郎は己が仕える田安宗武を崇拝し、それが嵩じて縁者である佐野善左衛門に対しても、
「幼少の砌…」
顔を合わせる度、田安宗武の素晴らしさを―、如何に名君であるかを語って聞かせたものである。
佐野善左衛門はその「薫陶」の御蔭ですっかり田安贔屓になった。
佐野善左衛門と同じく、佐野政親が分家筋に当たる佐野繁之助政清が末弟の捨五郎政信がやはり田安家臣の杉浦保兵衛洪嘉の養嗣子として迎えられている事実も佐野善左衛門の「田安贔屓」に拍車をかけていた。
否、それだけではない。杉浦保兵衛は実は田安家にて廣敷用人―、田安舘の「女主」である寶蓮院に用人として仕える杉浦猪兵衛良昭が実弟であり、その杉浦猪兵衛が嫡子、杉浦仙之丞美啓が妻にも佐野繁之助が直ぐ下の妹が迎えられ、更にもう一人の妹は杉浦猪兵衛が養女―、杉浦仙之丞が義理の妹として迎えられていたのだ。
事程左様に佐野善左衛門と田安家とは、正確には田安家臣とは所縁があり、これらの所縁も相俟って、佐野善左衛門は「田安贔屓」となった。
その様な佐野善左衛門故に田安の主だった家臣の名前程度は把握しており、その中に幸田友之助も勿論、含まれていた。
何しろ幸田友之助が勤める、
「用人格郡奉行」
と言えば、御三卿の邸臣団―、家臣団の中でも従六位布衣役に相当するからだ。
「されば…、そこもとは近々、御父上の御蔭により、両番入を?」
佐野善左衛門は羨望の眼差しでそう尋ねた。
如何にも佐野善左衛門が尋ねた通り、幸田源之助は所謂、
「父の蔭により…」
今の小十人組番より両番、それも小姓組番への番替―、異動、栄転が内定していた。
この時代、旗本の嫡子は父が従六位布衣役へと昇進を果たせば、
「父の蔭により…」
両番入、つまりは書院番か小姓組番、その何れかの番に番入り、就職、或いは異動、栄転を果たすことが出来た。
幸田源之助の場合、小十人家筋の旗本の嫡子であったが、今年、天明3(1783)年の4月に父・友之助がヒラの郡奉行より従六位布衣役に相当する用人格の郡奉行へと昇進を果たしたことにより、その息・源之助もまた、小十人組番士より小姓組番士へと異動、栄転を果たすことが出来た。
否、正確にはまだ内定の段階ではあったが、それでも今日の鷹狩りは幸田源之助にとっては小十人組番士として臨んだ最後のそれとなるであろう。
次の鷹狩りには幸田源之助は恐らく、否、間違いなく小姓組番士として臨むであろう。
ともあれ幸田源之助は佐野善左衛門のその「羨望の眼差し」に対して、「いやいや…」と応ずると、
「拙者よりも遥かに由緒正しき、高貴なる御血筋の御貴殿こそが本来、両番に相応しいと申すものにて…」
佐野善左衛門を改めてそう持上げてみせ、佐野善左衛門の自尊心を大いに満たした。
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