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閑話 一橋治済の不安
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その夜、治済は大奥にて侍女の雛に二つ程、助言を求めた。
一つは前回に引続いて今回もまた、将軍・家治の鷹狩りではないにもかかわらず佐野善左衛門に逢ったことについて、であった。
松平定信に扮して田安家の下屋敷にて佐野善左衛門に逢うのは家治が鷹狩りを行う日に合わせて…、治済にそう助言したのは外ならぬ雛であった。
その理由は無論、
「その方が…、家治が御城を留守にしている時の方が安心…」
つまりは治済のその「危険な遊戯」が家治にバレる危険性が少ないから、というものであった。
だが前回といい、今回といい、家治は鷹狩りを行わずに御城にいたので、家治に己のその「危険な遊戯」がバレてはいないかと、治済はその不安を雛にぶつけたのであった。
だがそれに対して雛はと言うと、治済のその不安を一笑に付した。
「仮に上様が御懸念あそばされた通り、家治公が勘付かれたとして、その場合には家治公は必ずやそのことを顔に出している筈…、家治公は喜怒哀楽のはっきりしている御方なれば…」
雛の言う通りであった。家治は非常に分かり易い男であったからだ。
家治は「ポーカーフェイス」を気取ることもあるが、治済の手にかかれば正に、
「赤子の手を捻る様なもの…」
治済には家治の胸中など容易に見透かすことが出来た。否、治済にはその自信があった。
「なれど本日の月次御礼にて家治公の御様子には特に変わった点は、お見受ケアそばされなかったのでござりましょう?」
雛にそう問われた治済は頷いて見せた。
確かに今日の月次御礼にて治済が中奥の御座之間において将軍・家治に拝謁した際、家治に特に変わった様子は見られなかった。
これで仮に前回、12月24日の「密会」について家治が把握していたならば、家治は治済を前にすれば必ずやそれを顔に出していた筈であった。
家治がどんなに「ポーカーフェイス」、無表情を装うとも、治済には容易に見通せる自信があった。
「されば前回の密会につきましては家治公が勘付かれている可能性は万に一つもありますまいて…」
雛はそう断言してみせた。これには治済も同感であったので深く頷いた。
では今回の「密会」はどうであろうか。
「確かに今日もまた、家治公は鷹狩りではなく御城におわせども、前回の平日とは違い、今回は…、今日は月次御礼という式日なれば、家治公は大名諸侯らの拝謁に心奪われ、されば上様の密会に勘付かれる程の心の余裕はござりますまいて…、さればそれは家治公の御側近くに仕えし者にも…、例えば奥兼帯の若年寄の田沼山城殿にも当て嵌まりましょうぞ…」
これもまた雛の言う通りであった。
今回の「密会」は月次御礼に当たり、月次御礼などの式日は将軍は元よりその側近も式次第に追われて忙しい。
そうであればとても治済の「密会」、もとい「危険な遊戯」にまで気付ける程の余裕はどこにもなかった。
それ故、平日の「密会」でさえ家治にバレなかったのだから、今日、月次御礼という式日の「密会」が家治にバレる危険性は皆無と断言出来た。
否、治済とてその程度のことは承知していたが、にもかかわらず敢えて雛に相談を持掛けたのは偏に、
「雛に対する申訳なさ…」
それに尽きた。
将軍・家治の鷹狩りの日に合わせて松平定信に扮して田安家下屋敷にて佐野善左衛門と逢っては…、治済は雛よりそう進言を受けながらも、前回に続いて今回も雛のその、
「折角の…」
進言に反する格好で、つまりは家治の鷹狩りの日ではないにもかかわらず、佐野善左衛門と逢ったことを治済はそれこそ、
「柄にもなく…」
気に病んでいたのだ。
そこで治済は雛の機嫌を探るべく実際には意に反して―、実際には家治が前回といい、今回といい、己のその「危険な遊戯」に気付いてはいないだろうと承知しつつも、敢えて、家治に気付かれてはいまいかと、その様な不安を装って雛に尋ねたのだ。
すると雛もそうと察すると苦笑を浮かべ、
「畏れ多くも上様が、この雛めが進言に反して平日に佐野善左衛門殿に、お逢いあそばされましたことにつきましてはこの雛、何とも思うてはおりませなんだ…、あくまで家治公が鷹狩りの日が望ましいというだけで、それに固執している訳ではござりませぬ…」
治済にそう応じたものだから、これには治済も苦笑させられたものである。
「どうやら…、見透かされた様だの…」
治済は苦笑しつつそう応じた。
だがそれも束の間、治済は真顔に戻ると、もう一つの不安を口にした。
それは治済が本当に不安に思っていることであり、
「佐野善左衛門が意知の前で本物の松平定信に対して不用意にも声かけし、その後で佐野善左衛門が意知よりその件につき詰問されるも、善左衛門はあくまで月次御礼を前にして気が昂ぶっていたからだと、その一点張り、意知にはそれで押通したそうだが、意知がそれで納得したとは思えず、もしかしたら意知はそのことを家治に伝えたのではあるまいか…」
ズバリそれであった。
だとしたら、それを手掛かり、きっかけとして、己の「危険な遊戯」が家治にバレるのではないかと、治済は案じていたのだ。正に、
「蟻の一穴」
というやつであった。
だが雛はそれもまた一笑に伏したのであった。
「されば山城殿は家治公が側近なれど…、いえ、なればこそ家治公に上げるべき情報は取捨選択するに違いなく…、何でもかんでも己が目に、或いは耳にした情報を上げては家治公の不興を買いましょうぞ…」
確かに雛の言う通りであった。
将軍に上げるべき情報の取捨選択は将軍側近役の大事な仕事であった。
雛の言う通り、何でもかんでも将軍の耳に入れれば良いというものではない。
そんなことをされては将軍はパンクしてしまうからだ。
ましてや今日は月次御礼という式日であるのだ。家治は将軍としていつにも増して忙しく、それだけ心の余裕はない。
その様な状況の家治に、意知が些細なことまで耳に入れては、家治は意知を不興に思い、最悪、遠ざけるやも知れず、その危険性は誰よりも意知自身が一番良く承知している筈であった。
そして実際、雛のこの「見立」は当たっており、この段階では意知はまだ家治に佐野善左衛門の件を上申してはいなかった。
「されば上様、何ら、ご案じ召されまするな…、このまま佐野善左衛門殿を使嗾して、そして田沼山城殿を討果たされることに邁進あそばされまするように…」
治済は雛にそう諭されて、漸くに吹っ切れたのであった。
一つは前回に引続いて今回もまた、将軍・家治の鷹狩りではないにもかかわらず佐野善左衛門に逢ったことについて、であった。
松平定信に扮して田安家の下屋敷にて佐野善左衛門に逢うのは家治が鷹狩りを行う日に合わせて…、治済にそう助言したのは外ならぬ雛であった。
その理由は無論、
「その方が…、家治が御城を留守にしている時の方が安心…」
つまりは治済のその「危険な遊戯」が家治にバレる危険性が少ないから、というものであった。
だが前回といい、今回といい、家治は鷹狩りを行わずに御城にいたので、家治に己のその「危険な遊戯」がバレてはいないかと、治済はその不安を雛にぶつけたのであった。
だがそれに対して雛はと言うと、治済のその不安を一笑に付した。
「仮に上様が御懸念あそばされた通り、家治公が勘付かれたとして、その場合には家治公は必ずやそのことを顔に出している筈…、家治公は喜怒哀楽のはっきりしている御方なれば…」
雛の言う通りであった。家治は非常に分かり易い男であったからだ。
家治は「ポーカーフェイス」を気取ることもあるが、治済の手にかかれば正に、
「赤子の手を捻る様なもの…」
治済には家治の胸中など容易に見透かすことが出来た。否、治済にはその自信があった。
「なれど本日の月次御礼にて家治公の御様子には特に変わった点は、お見受ケアそばされなかったのでござりましょう?」
雛にそう問われた治済は頷いて見せた。
確かに今日の月次御礼にて治済が中奥の御座之間において将軍・家治に拝謁した際、家治に特に変わった様子は見られなかった。
これで仮に前回、12月24日の「密会」について家治が把握していたならば、家治は治済を前にすれば必ずやそれを顔に出していた筈であった。
家治がどんなに「ポーカーフェイス」、無表情を装うとも、治済には容易に見通せる自信があった。
「されば前回の密会につきましては家治公が勘付かれている可能性は万に一つもありますまいて…」
雛はそう断言してみせた。これには治済も同感であったので深く頷いた。
では今回の「密会」はどうであろうか。
「確かに今日もまた、家治公は鷹狩りではなく御城におわせども、前回の平日とは違い、今回は…、今日は月次御礼という式日なれば、家治公は大名諸侯らの拝謁に心奪われ、されば上様の密会に勘付かれる程の心の余裕はござりますまいて…、さればそれは家治公の御側近くに仕えし者にも…、例えば奥兼帯の若年寄の田沼山城殿にも当て嵌まりましょうぞ…」
これもまた雛の言う通りであった。
今回の「密会」は月次御礼に当たり、月次御礼などの式日は将軍は元よりその側近も式次第に追われて忙しい。
そうであればとても治済の「密会」、もとい「危険な遊戯」にまで気付ける程の余裕はどこにもなかった。
それ故、平日の「密会」でさえ家治にバレなかったのだから、今日、月次御礼という式日の「密会」が家治にバレる危険性は皆無と断言出来た。
否、治済とてその程度のことは承知していたが、にもかかわらず敢えて雛に相談を持掛けたのは偏に、
「雛に対する申訳なさ…」
それに尽きた。
将軍・家治の鷹狩りの日に合わせて松平定信に扮して田安家下屋敷にて佐野善左衛門と逢っては…、治済は雛よりそう進言を受けながらも、前回に続いて今回も雛のその、
「折角の…」
進言に反する格好で、つまりは家治の鷹狩りの日ではないにもかかわらず、佐野善左衛門と逢ったことを治済はそれこそ、
「柄にもなく…」
気に病んでいたのだ。
そこで治済は雛の機嫌を探るべく実際には意に反して―、実際には家治が前回といい、今回といい、己のその「危険な遊戯」に気付いてはいないだろうと承知しつつも、敢えて、家治に気付かれてはいまいかと、その様な不安を装って雛に尋ねたのだ。
すると雛もそうと察すると苦笑を浮かべ、
「畏れ多くも上様が、この雛めが進言に反して平日に佐野善左衛門殿に、お逢いあそばされましたことにつきましてはこの雛、何とも思うてはおりませなんだ…、あくまで家治公が鷹狩りの日が望ましいというだけで、それに固執している訳ではござりませぬ…」
治済にそう応じたものだから、これには治済も苦笑させられたものである。
「どうやら…、見透かされた様だの…」
治済は苦笑しつつそう応じた。
だがそれも束の間、治済は真顔に戻ると、もう一つの不安を口にした。
それは治済が本当に不安に思っていることであり、
「佐野善左衛門が意知の前で本物の松平定信に対して不用意にも声かけし、その後で佐野善左衛門が意知よりその件につき詰問されるも、善左衛門はあくまで月次御礼を前にして気が昂ぶっていたからだと、その一点張り、意知にはそれで押通したそうだが、意知がそれで納得したとは思えず、もしかしたら意知はそのことを家治に伝えたのではあるまいか…」
ズバリそれであった。
だとしたら、それを手掛かり、きっかけとして、己の「危険な遊戯」が家治にバレるのではないかと、治済は案じていたのだ。正に、
「蟻の一穴」
というやつであった。
だが雛はそれもまた一笑に伏したのであった。
「されば山城殿は家治公が側近なれど…、いえ、なればこそ家治公に上げるべき情報は取捨選択するに違いなく…、何でもかんでも己が目に、或いは耳にした情報を上げては家治公の不興を買いましょうぞ…」
確かに雛の言う通りであった。
将軍に上げるべき情報の取捨選択は将軍側近役の大事な仕事であった。
雛の言う通り、何でもかんでも将軍の耳に入れれば良いというものではない。
そんなことをされては将軍はパンクしてしまうからだ。
ましてや今日は月次御礼という式日であるのだ。家治は将軍としていつにも増して忙しく、それだけ心の余裕はない。
その様な状況の家治に、意知が些細なことまで耳に入れては、家治は意知を不興に思い、最悪、遠ざけるやも知れず、その危険性は誰よりも意知自身が一番良く承知している筈であった。
そして実際、雛のこの「見立」は当たっており、この段階では意知はまだ家治に佐野善左衛門の件を上申してはいなかった。
「されば上様、何ら、ご案じ召されまするな…、このまま佐野善左衛門殿を使嗾して、そして田沼山城殿を討果たされることに邁進あそばされまするように…」
治済は雛にそう諭されて、漸くに吹っ切れたのであった。
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