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松平定邦は田沼意知の「仮の御奏者番」、仮奏者番としての働きぶりを心底から誉めそやし、意知に居心地の悪い思いをさせる。
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「いや…、大和守殿、斯様に改めて接すると、中々の男振だの…」
定邦は意知をまじまじと見つつ、そう誉めそやした。
それが決して阿諛でもなければ、厭味でもないことは定邦の人柄からしても明らかであり、それだけに意知は何とも居心地が悪かった。
意知は罵詈雑言を浴びせかけられることには慣れていたものの、斯様に誉められることには慣れていなかった。
それが意知とは、それは父、意次にしてもそうだろうが、真逆とも言うべき、
「由緒正しき…」
家柄を誇る定邦から誉められるともなれば尚更であった。定邦の様な、
「由緒正しき…」
家柄を誇る者は大抵、意次・意知父子を忌嫌うのが常であったからだ。
仮令、彼等が意次や意知を誉めることがあったとしても、そこには阿諛や、或いは厭味の響があった。
だが定邦にはそれが微塵もない。心底から意知を誉めていたのだ。
斯様なことは滅多にない、否、あり得ないと断言出来た。
それ故に意知は誉められた嬉しさよりも、居心地の悪さの方が強かった。
それでも意知は一応、「畏れ入り奉りまする…」とやはり叩頭して応じた。
すると定邦はそんな意知の胸中など「お構いなし」とばかり、更に意知を誉めそやした。
「されば、大和守殿は芙蓉之間にて老職を出迎える大役を…、仮の御|奏者番《そうじゃばん」を仰せ付かったとのこと…」
確かに定邦の言う通りであった。
定邦がまだ国許である白河にいた時分の先月、5月の2日、
「老中の昼の廻りにおいて芙蓉之間に詰め、奏者番と共に老中を出迎える様…」
意知はそう仰せ付けられ、それから今月、6月の4日まで平日はほぼ、毎日登城しては本来の殿中席である雁間ではなしに、奏者番やその筆頭の寺社奉行、或いは留守居や大目付、町奉行や勘定奉行などの殿中席である芙蓉之間に詰めては老中の昼の廻りに備えた。
老中が昼に表向の各部屋を見廻る、所謂、「廻り」のコース上にはこの芙蓉之間も含まれていた。
但し、昼前になると、留守居以下は芙蓉之間から中之間へと移動し、そこで老中の「廻り」に備えることとなる。
中之間も「廻り」のコース上にあり、留守居以下は本来の殿中席である芙蓉之間ではなしに、この中之間にて「廻り」に訪れた老中を出迎えることになる。
それ故、昼前になると、芙蓉之間には奏者番だけとなり、意知もそこに留まり、奏者番と共に「廻り」に訪れた老中を出迎えた。
これが5月3日から6月4日までの一月の間、平日はほぼ毎日、それが続いた。
その為に、意知は本来、雁間詰衆、所謂、「半役人」として平日は外の詰衆、「半役人」との交代で登城し、その殿中席である雁間に詰めれば良いところ、つまりは毎日登城する必要はないものの、この一月に限っては平日はほぼ毎日登城し、芙蓉之間に詰続けた。
これを所謂、仮の御奏者番、仮奏者番と言う。
「されば、大和守殿が御尊父、主殿頭様は当然のこととして、外の老職の御歴々も改めて、大和守殿が挨拶を受けられ、その男振を目の当たりにしては、大いに感心したと、専らの評判でござるよ…、いや、城使より…、そこな日下部武右衛門や、或いは安田七郎大夫より、その旨、聞及んでな…」
定邦は帝鑑間詰の大名、それ故に平日登城は許されず、その場合、平日登城が許されている溜間詰の諸侯や、或いは雁間詰衆との「格差」となる。
そこでこの「格差」の埋合わせという訳でもないが、平日登城が許されていない大廊下詰や大広間詰、それに定邦の様な帝鑑間詰詰や柳間詰、そして菊間詰といった諸侯はその家臣である江戸留守居、所謂、「城使」を御城へと登城させることが許されていた。
江戸留守居、所謂、「城使」は主君に成代わり、御城へと登営に及ぶと、表向の蘇鉄之間に詰めては、そこで「情報収集」に努める。
そこには意知の「仮の御奏者番」としての評判も含まれていたということだ。
そして定邦の言う通り、つまりは日下部武右衛門や、或いは安田七郎大夫が主君・定邦の為に収集してきた通り、意知の「仮の御奏者番」としての評判は素晴らしいものであった。
だがそれでも意知は一応、謙遜してみせた。
「されば御老中方への出迎えを命ぜられましたるは、この意知一人に非ずして…」
意知が昼に芙蓉之間へと「廻り」に訪ずれた老中を出迎える様にと仰せ付けられるより、即ち、「仮の御奏者番」を仰せ付けられるよりも前、4月の晦日にはやはり老中、それも首座である松平右近将監武元が息、主計頭武寛も同様に仰せ付けられた。
この「仮の御奏者番」とは一種の「御披露目」であった。
老中の嫡子、それも雁間詰が許された成人嫡子の中で、
「これは…」
と思われる者に一月程、大抵は5月から6月、若しくは6月から7月にかけて、芙蓉之間詰を命ずるのである。
任命権者は無論、老中である。老中全員の談合により、
「昼に廻りに訪れた老中を出迎えるべし…」
その名目にて、老中の嫡子に芙蓉之間詰が、つまりは「仮の御奏者番」が命じられる訳だが、その「心」は、
「芙蓉之間を殿中席とする諸役人に御披露目をする…」
そこにあった。
芙蓉之間を殿中席とする諸役人と言えば、奏者番やその筆頭の寺社奉行を頂点に、留守居や大目付、町奉行や勘定奉行といった、
「錚々たる…」
面子が揃っており、そこへ「これは…」と思われる老中の成人嫡子を謂わば抛り込むことで、彼等に御披露目をする。
と同時に、
「老中を勤める父と同じく、将来、幕政を担うだけの器量があるか…」
それを「品定め」もして貰う。
尤も、この「品定め」に関しては主に当番の奏者番が担うことになる。
奏者番、或いはその筆頭の寺社奉行は全員が毎日、登城する訳ではなく、当番の者が一人、登城しては殿中席である芙蓉之間に詰める。
この当番だが、奏者番、謂わば平の奏者番の場合もあれば、その筆頭の寺社奉行の場合もある。
但し、寺社奉行は式日や立合には評定所に出席せねばならず、また月番の寺社奉行には更に、内寄合という名目にて月番の寺社奉行の役宅を兼ねた私邸、つまりは上屋敷に集うこともあり、それ故、寺社奉行の中でも月番の者はその月に限って当番そのものが免除され、また式日や立合においても寺社奉行はやはり当番から免除される。
ちなみに当番には西之丸当番もあり、やはり奏者番か、その筆頭の寺社奉行が西之丸へと登城し、西之丸芙蓉之間に詰める。
それ故、平日には奏者番、或いはその筆頭の寺社奉行が2人、御城へと登城しては各々、本丸、西之丸へと登営に及ぶ。
さて、「仮の御奏者番」はこの当番、言うなれば本丸当番の奏者番、或いはその筆頭の寺社奉行が「採点」をする。
将来、奏者番として務まるかどうか、それが「採点」されるのだ。
それ故、この「仮の御奏者番」に選ばれると、奏者番見習いとして、先任の奏者番や、或いはその筆頭の寺社奉行から、
「奏者番同様…」
仕込まれることになる。要は「シゴキ」を受けることになる。それは、
「今を時めく…」
意次が息、意知とて変わらない。
それどころか老中の筆頭、首座の武元が息、武寛とて同じであった。
実を言えば、今年は、それも4月の晦日よりは武寛がこの「仮の御奏者番」を勤める筈であった。
だが直後、武寛が病に倒れ、そこで武寛の「ピンチヒッター」として意知が召喚された次第である。
それは意知が既に、「仮の御奏者番」の経験者でり、且つ、奏者番からの評判が良かったからだ。
意知が最初に「仮の御奏者番」を仰せ付かったのは今から3年前の明和7(1770)年5月11日であった。
その当時、意知が父、意次は老中格式の側用人、その官位も老中と同じく従四位下侍従であったが、しかしまだ正式な老中ではなく、本来ならばその息、意知が「仮の御奏者番」に任じられる筈はなかった。
だがその頃より、意知のその、「男振」については、
「夙に…」
知られており、その当時より既に老中の首座にある松平武元の、
「強力なる…」
推挙により、老中格式とは申せ、未だ側用人の息に過ぎぬにもかかわらず、「仮の御奏者番」に任じられたのであった。
こと時、意知の「採点」に当たったのが、当時も今も平の奏者番である小出伊勢守英常や西尾主水正忠需、或いはまた、既にその筆頭の寺社奉行にあり、今に至る牧野越中守貞長や土岐美濃守定経、それから平の奏者番として終わった松平丹波守光和や大岡兵庫頭忠喜、そして平の奏者番として歿した遠藤備前守胤将や松平伊豆守信禮といった面々であった。
意知はその全員から高い評判を得た。
とりわけ西尾主水忠需と大岡兵庫頭忠喜の2人は意知のことを高く評価した。
尤も、この2人の場合は田沼家と所縁があることから、その評価は額面通りには、
「必ずしも…」
受取れないところがあった。
即ち、大岡忠喜は意次の養女を娶っており、西尾忠需に至ってはその息、山城守忠移が意次の三女、つまりは実の娘の千賀を娶っていたのだ。
それも意知が「仮の御奏者番」に任じられるより僅か一月前のことに過ぎず、千賀は意知にとっては実の妹であるので、その千賀が西尾忠需が息、忠移の許へと嫁したことから、意知と忠移とは義兄弟となった。
その様な忠移が父である西尾忠需が意知を高く評価するのは当然であり、それ故、この西尾忠需とそれに大岡忠喜の「評価」だけならば、つまりはこの2人だけが意知を高く評価したとしても、それは公正な評価、採点とは見做されないであろう。
だが実際にはこの2人の外にも、田沼家とは所縁のない当番の奏者番たちも意知を高く評価、採点したことから、老中も意知を、
「充分に奏者番が務まるだけの人材…」
もっと言えば幕閣に相応しい人材として認めた。
殊に、奏者番の筆頭、寺社奉行の土岐定経は意知のことを高く評価したもので、
「明日にでも奏者番に取立ててやって欲しい…」
それ程までに意知を評価したものである。
結果、土岐定経のその評価、採点が決まり、その翌年、つまりは2年前の明和8(1771)年6月にも意知は再び、「仮の御奏者番」に任じられた。
ともあれ、今は病から快復した松平武寛が「仮の御奏者番」を勤めていた。
「されば…、主計殿はこの意知よりも遥かに勝れし器量の持主なれば…」
意知はそう「主計殿」こと、武元が嫡子である主計頭武寛を持上げてみせた。
定邦もそれは直ぐに分かったので、苦笑に誘われつつ、
「左様に謙遜するには及ばず…、まぁ、相手が老中首座の息ともなれば、大和守殿が謙遜せしも無理もないがの…」
そう応じて、意知にその頭を掻かせたものである。
「いや…、主計頭殿も大和守殿、貴殿よりは後れを取るやも知れぬが、なれど決して愚鈍に非ずして、やはり大和守同様、充分に奏者番が務まろうとの、これまた専らの評判にて…」
定邦はそう付加えると、
「少なくとも、秋元や松平…、輝高が愚息よりは数千倍、否、数万倍、マシと申すものにて…」
まるで止めでも刺すかの如く、そう断じた。
定邦が口にした、「秋元や松平…、輝高が愚息」とは、秋元但馬守涼朝が息、攝津守永朝、及び、松平右京太夫輝高が息、下野守輝行のことである。
秋元涼朝は明和2(1765)年12月から明和4(1767)年6月までの間、西之丸老中職にあり、その間、息、それも養嗣子の攝津守永朝がやはり「仮の御奏者番」を勤めたのだが、当番の奏者番によるその「採点」は余り芳しいものではなかった。
それ以前に、秋元永朝が「仮の御奏者番」に任じられたこと自体、疑問視する向きが多く、「採点」を担う奏者番の間では特にそうであった。
そもそも「仮の御奏者番」は老中の息ならば、
「誰でも…」
という訳ではなく、その息の中から、「これは…」と思われる者が老中の合議により選ばれるのだ。
意知の場合は老中首座の松平武元の強力な推挙により「仮の御奏者番」に選ばれたのに対して、秋元永朝はと言うと、西之丸老中を勤める養父の秋元涼朝が松平武元とそれに当時は御側御用取次であった意次に泣付いたことに加えて、永朝が岳父にして溜間詰の井伊直幸にも動いて貰った「賜物」であった。
秋元永朝は井伊直幸が息女の八重を娶っており、そこで永朝は己を「仮の御奏者番」に任じて貰うべく、養父にして西之丸老中の涼朝に武元と意次に泣付かせる傍ら、自身も岳父の井伊直幸に泣付くことで、どうにか「仮の御奏者番」に任じられることに成功したのだ。
だが、秋元永朝はその「機会」を生かすことは出来ず、養父・涼朝が職を辞し、致仕、隠居して家督を継いで5年が経った今以て、奏者番に任じられてはいなかった。
一方、松平輝高が息である輝行はその秋元永朝よりも更に、
「輪をかけた…」
愚か者であった。
やはり本来ならば到底、「仮の御奏者番」に任じられる器量ではないのだが、それでも父にして老中、本丸老中の輝高が首座の武元に泣付いたことから、武元も情に負ける格好で、老中の合議を主導し、輝行を「仮の御奏者番」に任じてやったのだ。それが宝暦13(1763)年の5月の晦日のことであった。
だが結果はやはり芳しいものではなかった。否、その様な生易しいものではない、惨憺たるものであった。
例えば「採点」を担った当番の奏者番の一人、それも筆頭の寺社奉行であった松平和泉守乗佑など、
「二度とあの莫迦を仮奏者番に任じてくれるなっ」
周囲にそう吐き捨てた程であり、それは外の「採点担当」の当番の奏者番の総意でもあった。
それが祟ってか、去年の安永元(1772)年までの9年間、輝行が「仮の御奏者番」に任じられることはなかった。
実を言えば明和7(1770)年、明和8(1771)年に続いて、去年の安永元(1772)年も本来ならば意知が「仮の御奏者番」に任じられる筈であった。
だがそこへ松平輝高が「待った」をかけたのであった。
「意次が倅の意知は既に、2年続けて仮奏者番に選ばれている。この上、更に続けて今年も仮奏者番に選ばれるなど不公平だっ」
そう騒ぎ立てたのだ。それはまるで、
「聞分けのない…」
駄々っ子そのものであり、武元など一喝、大喝に及ぼうとしたところ、そうと察した意次がそれを制する格好で、
「されば貴殿が息、輝行殿に仮の御奏者番をお譲り申す…」
そう取成して事無きを得た。
だが結果はやはり惨憺たるものであり、しかも一週間も持たないという有様であった。
輝行は前回、宝暦13(1763)年の折には周囲の援けも借りながら、何とか一月弱の間、「仮の御奏者番を勤めることが出来た。
これは輝行がその時はまだ、16歳という少年であったこともあり、周囲も輝行を援けた。
が、それから9年も経った安永元(1772)年、輝行も既に25、援ける者は誰もおらず、結果、「仮の御奏者番」として一週間、否、6日間しかもたなかった。
当番の奏者番の中でも、井伊兵部少輔直朗など、
「この俺が当番の時はあの莫迦を芙蓉之間に詰めさせないでくれ。目障りだ…」
そもそも「採点」すら拒否する有様であり、これでは一週間ももたないのも当然であった。
「いや、これなら初めから意知が仮奏者番であれば良かったのだ…」
そんな評判が立つこと頻りであり、今、意知の目の前にいる定邦もその評判なら城使こと江戸留守居の日下部武右衛門、並びに安田七郎大夫の両名より御城にて伝わる評判として伝え聞いており、把握していた。
「いや、大和守殿、まだ部屋住の身ではあられるが、奏者番になられる日も近いとの専らの評判でござるよ…、いや、それどころか筆頭の寺社奉行、或いは若年寄になられる日も…」
定邦は意知を更にそう持上げたので、
「愈々…」
意知を居心地悪くさせた。
これが厭味や、或いは嫉みの裏返であれば、意知も冷笑して受流すことが出来た。
だが定邦は心底から意知のことを評価しており、意知もそれは分かっていたので、それ故に居心地が悪かったのだ。
他者からの誹謗中傷、冷罵を受流すことには長けていた意知は誉められた場合の対応には長けていなかったのだ。
これで育ちの良い定邦であれば素直に喜びもしようが、生憎と意知はそこまで育ちが良くなかった。
定邦は意知をまじまじと見つつ、そう誉めそやした。
それが決して阿諛でもなければ、厭味でもないことは定邦の人柄からしても明らかであり、それだけに意知は何とも居心地が悪かった。
意知は罵詈雑言を浴びせかけられることには慣れていたものの、斯様に誉められることには慣れていなかった。
それが意知とは、それは父、意次にしてもそうだろうが、真逆とも言うべき、
「由緒正しき…」
家柄を誇る定邦から誉められるともなれば尚更であった。定邦の様な、
「由緒正しき…」
家柄を誇る者は大抵、意次・意知父子を忌嫌うのが常であったからだ。
仮令、彼等が意次や意知を誉めることがあったとしても、そこには阿諛や、或いは厭味の響があった。
だが定邦にはそれが微塵もない。心底から意知を誉めていたのだ。
斯様なことは滅多にない、否、あり得ないと断言出来た。
それ故に意知は誉められた嬉しさよりも、居心地の悪さの方が強かった。
それでも意知は一応、「畏れ入り奉りまする…」とやはり叩頭して応じた。
すると定邦はそんな意知の胸中など「お構いなし」とばかり、更に意知を誉めそやした。
「されば、大和守殿は芙蓉之間にて老職を出迎える大役を…、仮の御|奏者番《そうじゃばん」を仰せ付かったとのこと…」
確かに定邦の言う通りであった。
定邦がまだ国許である白河にいた時分の先月、5月の2日、
「老中の昼の廻りにおいて芙蓉之間に詰め、奏者番と共に老中を出迎える様…」
意知はそう仰せ付けられ、それから今月、6月の4日まで平日はほぼ、毎日登城しては本来の殿中席である雁間ではなしに、奏者番やその筆頭の寺社奉行、或いは留守居や大目付、町奉行や勘定奉行などの殿中席である芙蓉之間に詰めては老中の昼の廻りに備えた。
老中が昼に表向の各部屋を見廻る、所謂、「廻り」のコース上にはこの芙蓉之間も含まれていた。
但し、昼前になると、留守居以下は芙蓉之間から中之間へと移動し、そこで老中の「廻り」に備えることとなる。
中之間も「廻り」のコース上にあり、留守居以下は本来の殿中席である芙蓉之間ではなしに、この中之間にて「廻り」に訪れた老中を出迎えることになる。
それ故、昼前になると、芙蓉之間には奏者番だけとなり、意知もそこに留まり、奏者番と共に「廻り」に訪れた老中を出迎えた。
これが5月3日から6月4日までの一月の間、平日はほぼ毎日、それが続いた。
その為に、意知は本来、雁間詰衆、所謂、「半役人」として平日は外の詰衆、「半役人」との交代で登城し、その殿中席である雁間に詰めれば良いところ、つまりは毎日登城する必要はないものの、この一月に限っては平日はほぼ毎日登城し、芙蓉之間に詰続けた。
これを所謂、仮の御奏者番、仮奏者番と言う。
「されば、大和守殿が御尊父、主殿頭様は当然のこととして、外の老職の御歴々も改めて、大和守殿が挨拶を受けられ、その男振を目の当たりにしては、大いに感心したと、専らの評判でござるよ…、いや、城使より…、そこな日下部武右衛門や、或いは安田七郎大夫より、その旨、聞及んでな…」
定邦は帝鑑間詰の大名、それ故に平日登城は許されず、その場合、平日登城が許されている溜間詰の諸侯や、或いは雁間詰衆との「格差」となる。
そこでこの「格差」の埋合わせという訳でもないが、平日登城が許されていない大廊下詰や大広間詰、それに定邦の様な帝鑑間詰詰や柳間詰、そして菊間詰といった諸侯はその家臣である江戸留守居、所謂、「城使」を御城へと登城させることが許されていた。
江戸留守居、所謂、「城使」は主君に成代わり、御城へと登営に及ぶと、表向の蘇鉄之間に詰めては、そこで「情報収集」に努める。
そこには意知の「仮の御奏者番」としての評判も含まれていたということだ。
そして定邦の言う通り、つまりは日下部武右衛門や、或いは安田七郎大夫が主君・定邦の為に収集してきた通り、意知の「仮の御奏者番」としての評判は素晴らしいものであった。
だがそれでも意知は一応、謙遜してみせた。
「されば御老中方への出迎えを命ぜられましたるは、この意知一人に非ずして…」
意知が昼に芙蓉之間へと「廻り」に訪ずれた老中を出迎える様にと仰せ付けられるより、即ち、「仮の御奏者番」を仰せ付けられるよりも前、4月の晦日にはやはり老中、それも首座である松平右近将監武元が息、主計頭武寛も同様に仰せ付けられた。
この「仮の御奏者番」とは一種の「御披露目」であった。
老中の嫡子、それも雁間詰が許された成人嫡子の中で、
「これは…」
と思われる者に一月程、大抵は5月から6月、若しくは6月から7月にかけて、芙蓉之間詰を命ずるのである。
任命権者は無論、老中である。老中全員の談合により、
「昼に廻りに訪れた老中を出迎えるべし…」
その名目にて、老中の嫡子に芙蓉之間詰が、つまりは「仮の御奏者番」が命じられる訳だが、その「心」は、
「芙蓉之間を殿中席とする諸役人に御披露目をする…」
そこにあった。
芙蓉之間を殿中席とする諸役人と言えば、奏者番やその筆頭の寺社奉行を頂点に、留守居や大目付、町奉行や勘定奉行といった、
「錚々たる…」
面子が揃っており、そこへ「これは…」と思われる老中の成人嫡子を謂わば抛り込むことで、彼等に御披露目をする。
と同時に、
「老中を勤める父と同じく、将来、幕政を担うだけの器量があるか…」
それを「品定め」もして貰う。
尤も、この「品定め」に関しては主に当番の奏者番が担うことになる。
奏者番、或いはその筆頭の寺社奉行は全員が毎日、登城する訳ではなく、当番の者が一人、登城しては殿中席である芙蓉之間に詰める。
この当番だが、奏者番、謂わば平の奏者番の場合もあれば、その筆頭の寺社奉行の場合もある。
但し、寺社奉行は式日や立合には評定所に出席せねばならず、また月番の寺社奉行には更に、内寄合という名目にて月番の寺社奉行の役宅を兼ねた私邸、つまりは上屋敷に集うこともあり、それ故、寺社奉行の中でも月番の者はその月に限って当番そのものが免除され、また式日や立合においても寺社奉行はやはり当番から免除される。
ちなみに当番には西之丸当番もあり、やはり奏者番か、その筆頭の寺社奉行が西之丸へと登城し、西之丸芙蓉之間に詰める。
それ故、平日には奏者番、或いはその筆頭の寺社奉行が2人、御城へと登城しては各々、本丸、西之丸へと登営に及ぶ。
さて、「仮の御奏者番」はこの当番、言うなれば本丸当番の奏者番、或いはその筆頭の寺社奉行が「採点」をする。
将来、奏者番として務まるかどうか、それが「採点」されるのだ。
それ故、この「仮の御奏者番」に選ばれると、奏者番見習いとして、先任の奏者番や、或いはその筆頭の寺社奉行から、
「奏者番同様…」
仕込まれることになる。要は「シゴキ」を受けることになる。それは、
「今を時めく…」
意次が息、意知とて変わらない。
それどころか老中の筆頭、首座の武元が息、武寛とて同じであった。
実を言えば、今年は、それも4月の晦日よりは武寛がこの「仮の御奏者番」を勤める筈であった。
だが直後、武寛が病に倒れ、そこで武寛の「ピンチヒッター」として意知が召喚された次第である。
それは意知が既に、「仮の御奏者番」の経験者でり、且つ、奏者番からの評判が良かったからだ。
意知が最初に「仮の御奏者番」を仰せ付かったのは今から3年前の明和7(1770)年5月11日であった。
その当時、意知が父、意次は老中格式の側用人、その官位も老中と同じく従四位下侍従であったが、しかしまだ正式な老中ではなく、本来ならばその息、意知が「仮の御奏者番」に任じられる筈はなかった。
だがその頃より、意知のその、「男振」については、
「夙に…」
知られており、その当時より既に老中の首座にある松平武元の、
「強力なる…」
推挙により、老中格式とは申せ、未だ側用人の息に過ぎぬにもかかわらず、「仮の御奏者番」に任じられたのであった。
こと時、意知の「採点」に当たったのが、当時も今も平の奏者番である小出伊勢守英常や西尾主水正忠需、或いはまた、既にその筆頭の寺社奉行にあり、今に至る牧野越中守貞長や土岐美濃守定経、それから平の奏者番として終わった松平丹波守光和や大岡兵庫頭忠喜、そして平の奏者番として歿した遠藤備前守胤将や松平伊豆守信禮といった面々であった。
意知はその全員から高い評判を得た。
とりわけ西尾主水忠需と大岡兵庫頭忠喜の2人は意知のことを高く評価した。
尤も、この2人の場合は田沼家と所縁があることから、その評価は額面通りには、
「必ずしも…」
受取れないところがあった。
即ち、大岡忠喜は意次の養女を娶っており、西尾忠需に至ってはその息、山城守忠移が意次の三女、つまりは実の娘の千賀を娶っていたのだ。
それも意知が「仮の御奏者番」に任じられるより僅か一月前のことに過ぎず、千賀は意知にとっては実の妹であるので、その千賀が西尾忠需が息、忠移の許へと嫁したことから、意知と忠移とは義兄弟となった。
その様な忠移が父である西尾忠需が意知を高く評価するのは当然であり、それ故、この西尾忠需とそれに大岡忠喜の「評価」だけならば、つまりはこの2人だけが意知を高く評価したとしても、それは公正な評価、採点とは見做されないであろう。
だが実際にはこの2人の外にも、田沼家とは所縁のない当番の奏者番たちも意知を高く評価、採点したことから、老中も意知を、
「充分に奏者番が務まるだけの人材…」
もっと言えば幕閣に相応しい人材として認めた。
殊に、奏者番の筆頭、寺社奉行の土岐定経は意知のことを高く評価したもので、
「明日にでも奏者番に取立ててやって欲しい…」
それ程までに意知を評価したものである。
結果、土岐定経のその評価、採点が決まり、その翌年、つまりは2年前の明和8(1771)年6月にも意知は再び、「仮の御奏者番」に任じられた。
ともあれ、今は病から快復した松平武寛が「仮の御奏者番」を勤めていた。
「されば…、主計殿はこの意知よりも遥かに勝れし器量の持主なれば…」
意知はそう「主計殿」こと、武元が嫡子である主計頭武寛を持上げてみせた。
定邦もそれは直ぐに分かったので、苦笑に誘われつつ、
「左様に謙遜するには及ばず…、まぁ、相手が老中首座の息ともなれば、大和守殿が謙遜せしも無理もないがの…」
そう応じて、意知にその頭を掻かせたものである。
「いや…、主計頭殿も大和守殿、貴殿よりは後れを取るやも知れぬが、なれど決して愚鈍に非ずして、やはり大和守同様、充分に奏者番が務まろうとの、これまた専らの評判にて…」
定邦はそう付加えると、
「少なくとも、秋元や松平…、輝高が愚息よりは数千倍、否、数万倍、マシと申すものにて…」
まるで止めでも刺すかの如く、そう断じた。
定邦が口にした、「秋元や松平…、輝高が愚息」とは、秋元但馬守涼朝が息、攝津守永朝、及び、松平右京太夫輝高が息、下野守輝行のことである。
秋元涼朝は明和2(1765)年12月から明和4(1767)年6月までの間、西之丸老中職にあり、その間、息、それも養嗣子の攝津守永朝がやはり「仮の御奏者番」を勤めたのだが、当番の奏者番によるその「採点」は余り芳しいものではなかった。
それ以前に、秋元永朝が「仮の御奏者番」に任じられたこと自体、疑問視する向きが多く、「採点」を担う奏者番の間では特にそうであった。
そもそも「仮の御奏者番」は老中の息ならば、
「誰でも…」
という訳ではなく、その息の中から、「これは…」と思われる者が老中の合議により選ばれるのだ。
意知の場合は老中首座の松平武元の強力な推挙により「仮の御奏者番」に選ばれたのに対して、秋元永朝はと言うと、西之丸老中を勤める養父の秋元涼朝が松平武元とそれに当時は御側御用取次であった意次に泣付いたことに加えて、永朝が岳父にして溜間詰の井伊直幸にも動いて貰った「賜物」であった。
秋元永朝は井伊直幸が息女の八重を娶っており、そこで永朝は己を「仮の御奏者番」に任じて貰うべく、養父にして西之丸老中の涼朝に武元と意次に泣付かせる傍ら、自身も岳父の井伊直幸に泣付くことで、どうにか「仮の御奏者番」に任じられることに成功したのだ。
だが、秋元永朝はその「機会」を生かすことは出来ず、養父・涼朝が職を辞し、致仕、隠居して家督を継いで5年が経った今以て、奏者番に任じられてはいなかった。
一方、松平輝高が息である輝行はその秋元永朝よりも更に、
「輪をかけた…」
愚か者であった。
やはり本来ならば到底、「仮の御奏者番」に任じられる器量ではないのだが、それでも父にして老中、本丸老中の輝高が首座の武元に泣付いたことから、武元も情に負ける格好で、老中の合議を主導し、輝行を「仮の御奏者番」に任じてやったのだ。それが宝暦13(1763)年の5月の晦日のことであった。
だが結果はやはり芳しいものではなかった。否、その様な生易しいものではない、惨憺たるものであった。
例えば「採点」を担った当番の奏者番の一人、それも筆頭の寺社奉行であった松平和泉守乗佑など、
「二度とあの莫迦を仮奏者番に任じてくれるなっ」
周囲にそう吐き捨てた程であり、それは外の「採点担当」の当番の奏者番の総意でもあった。
それが祟ってか、去年の安永元(1772)年までの9年間、輝行が「仮の御奏者番」に任じられることはなかった。
実を言えば明和7(1770)年、明和8(1771)年に続いて、去年の安永元(1772)年も本来ならば意知が「仮の御奏者番」に任じられる筈であった。
だがそこへ松平輝高が「待った」をかけたのであった。
「意次が倅の意知は既に、2年続けて仮奏者番に選ばれている。この上、更に続けて今年も仮奏者番に選ばれるなど不公平だっ」
そう騒ぎ立てたのだ。それはまるで、
「聞分けのない…」
駄々っ子そのものであり、武元など一喝、大喝に及ぼうとしたところ、そうと察した意次がそれを制する格好で、
「されば貴殿が息、輝行殿に仮の御奏者番をお譲り申す…」
そう取成して事無きを得た。
だが結果はやはり惨憺たるものであり、しかも一週間も持たないという有様であった。
輝行は前回、宝暦13(1763)年の折には周囲の援けも借りながら、何とか一月弱の間、「仮の御奏者番を勤めることが出来た。
これは輝行がその時はまだ、16歳という少年であったこともあり、周囲も輝行を援けた。
が、それから9年も経った安永元(1772)年、輝行も既に25、援ける者は誰もおらず、結果、「仮の御奏者番」として一週間、否、6日間しかもたなかった。
当番の奏者番の中でも、井伊兵部少輔直朗など、
「この俺が当番の時はあの莫迦を芙蓉之間に詰めさせないでくれ。目障りだ…」
そもそも「採点」すら拒否する有様であり、これでは一週間ももたないのも当然であった。
「いや、これなら初めから意知が仮奏者番であれば良かったのだ…」
そんな評判が立つこと頻りであり、今、意知の目の前にいる定邦もその評判なら城使こと江戸留守居の日下部武右衛門、並びに安田七郎大夫の両名より御城にて伝わる評判として伝え聞いており、把握していた。
「いや、大和守殿、まだ部屋住の身ではあられるが、奏者番になられる日も近いとの専らの評判でござるよ…、いや、それどころか筆頭の寺社奉行、或いは若年寄になられる日も…」
定邦は意知を更にそう持上げたので、
「愈々…」
意知を居心地悪くさせた。
これが厭味や、或いは嫉みの裏返であれば、意知も冷笑して受流すことが出来た。
だが定邦は心底から意知のことを評価しており、意知もそれは分かっていたので、それ故に居心地が悪かったのだ。
他者からの誹謗中傷、冷罵を受流すことには長けていた意知は誉められた場合の対応には長けていなかったのだ。
これで育ちの良い定邦であれば素直に喜びもしようが、生憎と意知はそこまで育ちが良くなかった。
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