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一橋治済の私兵と化した庭番は酒井兵庫忠郷・山城守忠起の兄弟を毒殺した実行犯と思しき出羽松山藩元藩医の水田養陸こと水谷梅秀の身柄を押さえていた
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本丸若年寄・酒井石見守忠休が息・大學頭忠崇は6年前の明和4(1767)年閏9月朔日に将軍・家治に初の御目見得を果たし、その年の暮、師走の16日には従五位下諸太夫に叙され、大學頭を名乗るようになった。
本来ならばその翌年には父・忠休と同じく帝鑑間に詰めることが許される筈であった。
忠休が当主を務める出羽松山藩酒井家の殿中席は帝鑑間であり、この帝鑑間は父子同席、成人嫡子もまた帝鑑間に詰められる。
但し、帝鑑間詰の父が若年寄、或いは奏者番に勤仕中であれば話は別であり、その成人嫡子は菊間の本間に出る。
事実、今、やはり本丸若年寄を勤める、それも筆頭である首座にある松平伊賀守忠順は本来、帝鑑間詰であるものの、今は若年寄を勤めている為に、その成人嫡子の左衛門佐忠済は菊間の本間に出ていた。
そこで酒井忠崇も本来ならば菊間の本間に出られる筈であり、将軍・家治もそのつもりでいた。
ところがそこへ思わぬ「伏兵」が現れた。
それは酒井彌市郎忠夷、忠休が実兄の酒井主膳忠英が孫である。
酒井家は本来、嫡子である酒井主膳忠英が継ぐべきであった。
ところが主膳忠英は眼疾、眼の病により盲になってしまった。
盲では家は継げまい。
そこでその当時の出羽松山酒井家の当主であった、つまりは主膳忠英が父である石見守忠豫は本家に当たる庄内鶴岡酒井左衛門尉家よりその家臣である酒井圖書直隆が息を養嗣子として迎えたのだ。
これが忠休であった。
これで盲の為に廃嫡された主膳忠英に子が、それも男児がいなければ何も問題は起こらない筈であった。
だが、幸いと言うべきか、はたまた、生憎と言うべきか、主膳忠英は兵庫忠郷と山城守忠起という2人の男児に恵まれた。
この兵庫忠郷と山城守忠起は2人共、
「五体満足…」
充分に大名家の嫡子たり得た。
そこでまず、兄の兵庫忠郷が忠休の養嗣子として迎えられた。
何しろ兵庫忠郷は本来、出羽松山酒井家の、
「正統なる…」
後継者であった主膳忠英の血を引いている。
謂わば、出羽松山酒井家の嫡流であり、そうであれば酒井忠休としても、兵庫忠郷という、
「正統なる…」
嫡流が存在している以上、彼者を養嗣子として迎え入れるのが筋というものであり、事実、忠休はそうした。
だが兵庫忠郷は寛延2(1749)年10月に16歳の若さで夭逝してしまう。
そこで次兄の忠起に白羽の矢が立った。
忠起もまた、兵庫忠郷の実弟として、主膳忠英の血を引いており、兵庫忠郷亡き後はこの忠起が出羽松山酒井家の正統なる嫡流ということになり、そこで忠休はこの忠起を養嗣子として迎えた。
この忠起は兄・兵庫忠郷の様に10代で夭逝することはなく、寛延3(1750)年7月には時の将軍であった九代・家重に初の御目見得を果たし、その年の暮には従五位下諸太夫に叙され、山城守を名乗るようになった。
すると忠起は菊間の本間へと出た。これはその当時、酒井忠休が西之丸若年寄を勤めていた為だ。
忠休はその後、宝暦11(1761)年8月より本丸若年寄へと遷任、異動を果たすも、忠起は引続き菊間の本間に詰続けた。
と言っても平日登城はなく、月次御礼や五節句などの式日に登城することが、そして将軍に拝謁することが許されているに過ぎない。
だが、その忠起までも、兄・兵庫忠郷に続いて、最期の時を迎えてしまったのだ。
即ち、それこそが忠休が嫡子、それも実子である忠崇が将軍・家治に初の御目見得を果たした明和4(1767)年であり、それも4ヶ月前の6月9日であった。
忠休は明和4(1767)年6月に養嗣子の忠起に先立たれるや、
「待ってました…」
とばかり、実子である忠崇を嫡子に、つまりは出羽松山酒井家の正統なる後継者に定め、将軍・家治に初の御目見得を果たさせると、従五位下諸太夫にまで叙されたのであった。
これで忠崇の後継者としての立場は盤石に見えたが、そこへ忠起が嫡子の彌市郎忠夷が待ったをかけたのだ。
彌市郎忠夷は出羽松山酒井家の正統なる嫡流である忠起の実子であるので、そうであればこの彌市郎忠夷の方が忠崇よりも出羽松山酒井家の後継者に相応しい。
だが忠休は養嗣子の忠起が歿後、その妻女にして彌市郎忠夷の政姫を実家である新発田藩溝口家へと帰らせ、その上で彌市郎忠夷を本家である庄内鶴岡酒井左衛門尉家へと引取らせた。
忠休は元々、彌市郎忠夷も実母の政姫共々、新発田藩溝口家へと引取らせるつもりであったが、彌市郎忠夷はこれを拒否、あくまで実家とも言うべき出羽松山酒井家に、その上屋敷に居座る姿勢を見せたので、そこで忠休は「それなれば…」と、
「無理やり…」
彌市郎忠夷を上屋敷より追出し、本家へと、その上屋敷へと押付けたのであった。
こうして忠休は本家とは申せ、酒井左衛門尉家の陪臣、家臣の身に過ぎぬにもかかわらず、その分家とは申せ、
「歴とした…」
大名家である出羽松山酒井家の「乗っ取り」に成功したのであった。
無論、出羽松山酒井家の正統なる後継者とも言うべき彌市郎忠夷がそれを黙って見ている筈もなく、彌市郎忠夷は軟禁先とも言うべき神田橋御門内にある鶴岡藩上屋敷より脱出すや、辰ノ口評定所の門前へと奔り、
「若年寄の酒井忠休は本家とは申せ、陪臣の身に過ぎぬにもかかわらず、分家とは申せ、歴とした大名家である当家を乗っ取らんと欲し、つまりは兵庫忠郷、山城守忠起という2人もの嫡流がいるにもかかわらず、我が子・忠崇に当家を継がせるべく、そこでまず兵庫忠郷を…、この彌市郎が実の伯父を毒殺し、続いて我が父、山城守忠起をも毒殺し、忠崇を当家の嫡子として定め、当家を乗っ取ったのだ…」
大意、その様な訴を目安箱に投込んだのであった。
それが明和5(1768)年正月のことであり、家治がそろそろ、忠崇を菊間の本間に出してやろうと考えていた頃であった。
だが家治は彌市郎忠夷からの訴により、忠崇を菊間の本間に出すのは暫くの間、延期することにした。
無論、事の真相が明らかになるまでの間、である。
家治は事の真相を明らかにすべく、庭番を動かすことにした。
これはその当時、既に御側御用取次であった、その上で、
「一橋治済に取込まれていた…」
稲葉越中守正明の進言による。
明和5(1768)年の正月、家治は目安箱に投じられた訴の中から、酒井彌市郎忠夷が投じたその訴を取上げるや、この問題をどう処理すべきか、側用人の田沼意次や、それに御側御用取次と鳩首協議に及んだ。
ちなみに田沼意次はその前年、明和4(1767)年7月の朔日までは稲葉正明とは相役、同僚の御側御用取次であったが、それが7月朔日に御側御用取次の中でも意次が側用人へと取立てられたことから、稲葉正明をはじめとする御側御用取次の上役となった。
御側御用取次が中奥において常置の最高職であるのに対して、側用人は非常置の最高職であり、それ故、非常置の最高職という点において表向における大老に匹敵する。
その側用人に御側御用取次の中から意次だけが抜擢されたので、外の御側御用取次の中には当然、意次に嫉妬する者がいた。
とりわけ稲葉正明がそうであった。
そこを一橋治済に上手く突かれた。
治済は御側御用取次の中でも意次が側用人に取立てられると知るや、
「これは…、外の者は当然、意次めに嫉妬しているに相違あるまいて…」
そう読み、そこで御側御用取次に接触を持ったのであった。
その頃は治済はまだ、「天下獲り」の野望は抱いていなかったものの、それでも、
「意次めに反感を持つ者を取込んでおけば、追々、役に立つやも知れぬ…」
薄ぼんやりとだが、そう考え、そこで意次に先を越された格好の御側御用取次に接触を持ったのだ。
結果、御側御用取次の中でも松平因幡守康郷などは意次の昇進を素直に喜んでいたが、それとは対照的なのが稲葉正明であり、正明は意次の昇進に大いに憤慨し、それを治済に隠そうともしなかった。
かくして治済は御側御用取次の中でも稲葉正明に「狙い」を定め、
「集中的に…」
正明を「接待漬け」にし、これを取込むことに成功したのだ。
尤も、側用人は非常置の最高職である故に、常置の最高職である御側御用取次の様に、庭番を使うことは出来ない。
庭番を使うことが出来るのは将軍を除いては、御側御用取次だけであり、その御側御用取次の上役に当たる側用人さえ庭番を使うことは出来なかった。
つまり意次は御側御用取次から側用人へと昇進を果たした「代償」として庭番を使う権利を喪ったとも言える。
家治が側用人や御側御用取次を交えての鳩首協議の場において、その内の一人、御側御用取次の稲葉正明が庭番に探索させることを提案したのも、偏に、正明には庭番を動かす権限があった為だ。
尤も、御側御用取次は稲葉正明一人ではない。
意次の昇進を素直に喜ぶ松平康郷もそうであり、或いは当時はまだ豊後守の官職名を名乗っていた水野出羽守忠友もそうである。
水野忠友もまた、意次の昇進を、
「我が事の如く…」
喜んだものである。
かくして庭番を仕える御側御用取次は当時は3人もいた次第で、そこで正明は外の2人、松平康郷や水野忠友に、
「先んじて…」
庭番に探索させることを家治に提案したのは勿論、第一義的には己の有能さを家治に主張する為であった。
己が有能であることを家治に主張出来れば、昇進に繋がるからだ。
正明のその「読み」は間違ってはいなかった。
家治は酒井彌市郎忠夷からの訴について、つまりは現職の若年寄たる酒井忠休が御家、出羽松山酒井家の乗っ取りを企み、本来の嫡流とも言うべき彌市郎の伯父の兵庫忠郷や実父の山城守忠起にまで手をかけた疑いがあると、この一件をどう処理すべきか、側用人や御側御用取次に諮問したところ、それこそ、
「打てば響く様…」
正明が庭番に探索させることを提案したので、家治は正明を「有能」であると認定した。
否、よくよく考えてみれば正明は当然のことを提案したに過ぎず、その提案自体、どうということはない。
それでも正明は反射神経の良いところを家治に見せ付けたのであった。
外の者は、意次さえも事の重大さに呑まれ、その至極、当然の提案さえも直ぐには出来ずにいた。
その様な中で正明が唯一人、素早く当たり前の提案ではあるものの、声を上げることが出来たので、家治はその点を評価した。
そこで家治は酒井彌市郎からの訴の処理については稲葉正明に一任することにした。
かくして正明は庭番に探索を命じた次第であり、それも水田養陸の探索を真先に命じた。
それと言うのも酒井彌市郎によると、伯父や父を毒殺した実行犯は藩医の水田養陸だと言うのである。
その水田養陸も酒井忠休が実子、忠崇が正式に出羽松山酒井家の後嗣に定められるや、まるでそれを見届けるかの様に、姿を晦ましたと言うのである。
水田養陸は出羽松山藩酒井家の藩医として酒井兵庫忠郷やその弟の山城守忠起が存命の折には江戸の上屋敷にて暮らしていたそうな。
出羽松山酒井家の上屋敷は当時も今も、大下馬之後にあり、水田養陸はその邸内に設えられた組屋敷の一角に診療所を兼ねた長屋を与えられ、そこで暮らしていた。
無論、世子であった兵庫忠郷や山城守忠起もその上屋敷にて暮らしており、山城守忠起が遺児、彌市郎忠夷に言わせると、水田養陸が伯父の兵庫忠郷や、その上、実父である山城守忠起にまで一服盛ったとのことである。無論、
「血を分けた…」
我が子・忠崇を松山酒井家の後継に据え様と欲した、つまりは御家乗っ取りを企む忠休に使嗾、嗾けられてのことである。
そして兵庫忠郷に続いて、山城守忠起までが歿したことから、
「晴れて…」
忠崇が出羽松山酒井家の後継に定まるや、水田養陸はその行方を晦ましたそうな。
そこで稲葉正明は「実行犯」とも言うべき、水田養陸の身柄の確保が先決と、庭番にその探索を指示したのであった。
と同時に、治済にもその情報を流したのであった。
治済が御側御用取次に触手を伸ばしたのは、それは庭番を使えるからだ。
庭番を使える御側御用取次を取込んでおけば、これ程、心強いことはない。
庭番を動かせるのは将軍と御側御用取次だけであり、しかも将軍が自ら御側御用取次を動かすことは滅多になく、仮に将軍が自ら御側御用取次を動かす場合でも、御側御用取次には将軍が一体、庭番に何を指示したのか、連絡がいくようになっていた。
つまり仮に家治が治済を調べる様、分かり易く言えばその身辺を嗅ぎ回る様、指示したとして、御側御用取次にだけは連絡がいく。
治済はそこで御側御用取次を取込めたならばこれ程、心強いことはないと、
「常々…」
そう思っていたところ、御側御用取次である意次の側用人への昇進という事態に際会して、
「これは…」
外の、意次に先を越された格好の御側御用取次を取込める絶好の好機と直感し、彼等、御側御用取次に触手を伸ばし、結果、稲葉正明を取込むことに成功した次第である。
こうして治済に取込まれた正明は庭番を動かすことがあれば、治済にその情報を内報するのを常とする様になった。
そして正明が酒井彌市郎忠夷からの訴について将軍・家治に対し、
「真先に…」
庭番を動かすことを提案したのもその為であった。
そうすれば酒井彌市郎忠夷からの訴の真偽を確かめるべく、家治が正明からの進言に従い、庭番を動かすことにしたとして、その場合、正明に一任されることが見込まれたからだ。
つまりは正明が庭番を動かすことを家治が認めるという訳で、事実、その通りになった。
正明はその上で、後程、治済にも酒井彌市郎からの訴について内報すると同時に、その件で庭番を動かすことを家治より認められたことをも内報に及んだ。
つまり、正明が真先に庭番を動かすことを家治に提案したのは、己の有能さを家治に見せつけることで立身出世に繋げ様との思惑の外にも、否、それ以上に、
「治済の為…」
その様な思惑が隠されていた。
正明はこの件に限らず、庭番による探索が必要であると看取するや、相役の松平康郷や水野忠友に、
「先んじて…」
庭番を動かすことを家治に提案し、畢竟、家治は正明に一任、つまりは庭番を動かすことを認めがちとなった。
結果、庭番は今や、稲葉正明の謂わば、
「私兵…」
と化し、それはそのまま、「治済の私兵」とも言換えることが出来た。
実際、治済は稲葉正明を介して庭番にまで触手を伸ばすことに成功した。
例えば、稲葉正明の口利きにより、庭番の一人、古坂勝次郎孟雅が実姉を治済の侍女として一橋家にて仕えさせることに成功した。
こうして実姉を通して、治済はその実弟の古坂勝次郎を取込むことに成功し、更にその所縁を辿り、古坂勝次郎が従兄の古坂政次郎古峯をも取込むことに成功したのだ。
また梶野平九郎矩満に至っては、その実父である太左衛門氏友が治済が実父、宗尹に小十人として仕えていたことがあった。
治済が産まれた頃には梶野太左衛門は既に一橋家の小十人より、
「班を進め…」
つまりは将軍への御目見得が叶わぬ御家人から、それが叶う旗本へと昇格、庭番の地位にあったが、それでも、
「終生…」
一橋贔屓であった。それと言うのも、梶野太左衛門が御家人から旗本へと、
「班を進められた…」
昇格出来たのは偏に、宗尹の口添えがあったからである。
その為、梶野太左衛門は明和元(1764)年に歿するまで、一橋贔屓であり続け、その息である平九郎矩満にも、
「一橋贔屓…」
父・太左衛門のその「血」が、
「脈々と…」
受継がれた。
その為、梶野平九郎の取込みは古坂政次郎・勝次郎従兄弟の時よりも容易と言えた。
治済はこの梶野平九郎を介して馬場吉之助通喬をも取込むことにも成功した。
梶野平九郎が実母はやはり、嘗ては庭番を勤めていた馬場善五兵衛信富の実姉が娘であり、治済はその所縁を頼りに、まず、今は西之丸納戸頭を勤める馬場善五兵衛を取込み、次いでその息にして庭番を勤める馬場吉之助通喬の取込にも成功した次第である。
治済はこの馬場善五兵衛・吉之助父子をも辿って、外の庭番にも触手を伸ばした。
かくして庭番は今や、「治済の私兵」と化しつつあり、彼等の探索により遂に、水田養陸の居所が判明したのだ。
水田養陸は水谷梅秀と名を改め、四谷にて診療所を開業し、町医者をしていたのだ。
治済は、そして正明もだが、水田養陸は口を塞がれているものと思っていた。
それは探索に当たった庭番にしてもそうであった。
だが案に相違して、水田養陸は口を塞がれることなく、それどころか町医者として公的な立場を保ち続けていたのだ。
無論、名こそ水谷梅秀と改めてはいたものの、それでも町医者として診療所を開業出来た辺り、忠休から「成功報酬」として、
「それ相応の…」
悪くない額が行渡ったものと思われる。
その点、忠休はある意味、「律儀」と言えた。
普通、この場合は口を塞ぐのが「常道」であったからだ。
さて、庭番は水田養陸こと水谷梅秀の身柄を拘束、要は拉致すると、その身柄を稲葉正明の分家筋である稲葉主計正存の屋敷へと移送した。
無論、稲葉正明の指図によるものであり、正明は庭番より、水田養陸が水谷梅秀と名を改めて、四谷にて町医者をしていることを伝えるや、それをそのまま、治済に伝えた。勿論、将軍・家治に伝えるよりも先に、であった。
すると治済は家治にはその事実を伝えぬ様、正明に頼んだのであった。
それと言うのも、酒井忠休との「取引」の道具に使うつもりでいたからだ。
そこで稲葉正明はいったん分家筋の主計正存の屋敷に水田養陸こと水谷梅秀の身柄を預けることを思いつき、治済にその諒承を得ると、庭番に水田養陸こと水谷梅秀の「逮捕」を指示、庭番もそれを受けて水田養陸こと水谷梅秀を「逮捕」、拉致するとその身柄を正明より指示されていた通り、稲葉主計の屋敷へと移送したのであった。
それが5月の初旬のことであった。
本来ならばその翌年には父・忠休と同じく帝鑑間に詰めることが許される筈であった。
忠休が当主を務める出羽松山藩酒井家の殿中席は帝鑑間であり、この帝鑑間は父子同席、成人嫡子もまた帝鑑間に詰められる。
但し、帝鑑間詰の父が若年寄、或いは奏者番に勤仕中であれば話は別であり、その成人嫡子は菊間の本間に出る。
事実、今、やはり本丸若年寄を勤める、それも筆頭である首座にある松平伊賀守忠順は本来、帝鑑間詰であるものの、今は若年寄を勤めている為に、その成人嫡子の左衛門佐忠済は菊間の本間に出ていた。
そこで酒井忠崇も本来ならば菊間の本間に出られる筈であり、将軍・家治もそのつもりでいた。
ところがそこへ思わぬ「伏兵」が現れた。
それは酒井彌市郎忠夷、忠休が実兄の酒井主膳忠英が孫である。
酒井家は本来、嫡子である酒井主膳忠英が継ぐべきであった。
ところが主膳忠英は眼疾、眼の病により盲になってしまった。
盲では家は継げまい。
そこでその当時の出羽松山酒井家の当主であった、つまりは主膳忠英が父である石見守忠豫は本家に当たる庄内鶴岡酒井左衛門尉家よりその家臣である酒井圖書直隆が息を養嗣子として迎えたのだ。
これが忠休であった。
これで盲の為に廃嫡された主膳忠英に子が、それも男児がいなければ何も問題は起こらない筈であった。
だが、幸いと言うべきか、はたまた、生憎と言うべきか、主膳忠英は兵庫忠郷と山城守忠起という2人の男児に恵まれた。
この兵庫忠郷と山城守忠起は2人共、
「五体満足…」
充分に大名家の嫡子たり得た。
そこでまず、兄の兵庫忠郷が忠休の養嗣子として迎えられた。
何しろ兵庫忠郷は本来、出羽松山酒井家の、
「正統なる…」
後継者であった主膳忠英の血を引いている。
謂わば、出羽松山酒井家の嫡流であり、そうであれば酒井忠休としても、兵庫忠郷という、
「正統なる…」
嫡流が存在している以上、彼者を養嗣子として迎え入れるのが筋というものであり、事実、忠休はそうした。
だが兵庫忠郷は寛延2(1749)年10月に16歳の若さで夭逝してしまう。
そこで次兄の忠起に白羽の矢が立った。
忠起もまた、兵庫忠郷の実弟として、主膳忠英の血を引いており、兵庫忠郷亡き後はこの忠起が出羽松山酒井家の正統なる嫡流ということになり、そこで忠休はこの忠起を養嗣子として迎えた。
この忠起は兄・兵庫忠郷の様に10代で夭逝することはなく、寛延3(1750)年7月には時の将軍であった九代・家重に初の御目見得を果たし、その年の暮には従五位下諸太夫に叙され、山城守を名乗るようになった。
すると忠起は菊間の本間へと出た。これはその当時、酒井忠休が西之丸若年寄を勤めていた為だ。
忠休はその後、宝暦11(1761)年8月より本丸若年寄へと遷任、異動を果たすも、忠起は引続き菊間の本間に詰続けた。
と言っても平日登城はなく、月次御礼や五節句などの式日に登城することが、そして将軍に拝謁することが許されているに過ぎない。
だが、その忠起までも、兄・兵庫忠郷に続いて、最期の時を迎えてしまったのだ。
即ち、それこそが忠休が嫡子、それも実子である忠崇が将軍・家治に初の御目見得を果たした明和4(1767)年であり、それも4ヶ月前の6月9日であった。
忠休は明和4(1767)年6月に養嗣子の忠起に先立たれるや、
「待ってました…」
とばかり、実子である忠崇を嫡子に、つまりは出羽松山酒井家の正統なる後継者に定め、将軍・家治に初の御目見得を果たさせると、従五位下諸太夫にまで叙されたのであった。
これで忠崇の後継者としての立場は盤石に見えたが、そこへ忠起が嫡子の彌市郎忠夷が待ったをかけたのだ。
彌市郎忠夷は出羽松山酒井家の正統なる嫡流である忠起の実子であるので、そうであればこの彌市郎忠夷の方が忠崇よりも出羽松山酒井家の後継者に相応しい。
だが忠休は養嗣子の忠起が歿後、その妻女にして彌市郎忠夷の政姫を実家である新発田藩溝口家へと帰らせ、その上で彌市郎忠夷を本家である庄内鶴岡酒井左衛門尉家へと引取らせた。
忠休は元々、彌市郎忠夷も実母の政姫共々、新発田藩溝口家へと引取らせるつもりであったが、彌市郎忠夷はこれを拒否、あくまで実家とも言うべき出羽松山酒井家に、その上屋敷に居座る姿勢を見せたので、そこで忠休は「それなれば…」と、
「無理やり…」
彌市郎忠夷を上屋敷より追出し、本家へと、その上屋敷へと押付けたのであった。
こうして忠休は本家とは申せ、酒井左衛門尉家の陪臣、家臣の身に過ぎぬにもかかわらず、その分家とは申せ、
「歴とした…」
大名家である出羽松山酒井家の「乗っ取り」に成功したのであった。
無論、出羽松山酒井家の正統なる後継者とも言うべき彌市郎忠夷がそれを黙って見ている筈もなく、彌市郎忠夷は軟禁先とも言うべき神田橋御門内にある鶴岡藩上屋敷より脱出すや、辰ノ口評定所の門前へと奔り、
「若年寄の酒井忠休は本家とは申せ、陪臣の身に過ぎぬにもかかわらず、分家とは申せ、歴とした大名家である当家を乗っ取らんと欲し、つまりは兵庫忠郷、山城守忠起という2人もの嫡流がいるにもかかわらず、我が子・忠崇に当家を継がせるべく、そこでまず兵庫忠郷を…、この彌市郎が実の伯父を毒殺し、続いて我が父、山城守忠起をも毒殺し、忠崇を当家の嫡子として定め、当家を乗っ取ったのだ…」
大意、その様な訴を目安箱に投込んだのであった。
それが明和5(1768)年正月のことであり、家治がそろそろ、忠崇を菊間の本間に出してやろうと考えていた頃であった。
だが家治は彌市郎忠夷からの訴により、忠崇を菊間の本間に出すのは暫くの間、延期することにした。
無論、事の真相が明らかになるまでの間、である。
家治は事の真相を明らかにすべく、庭番を動かすことにした。
これはその当時、既に御側御用取次であった、その上で、
「一橋治済に取込まれていた…」
稲葉越中守正明の進言による。
明和5(1768)年の正月、家治は目安箱に投じられた訴の中から、酒井彌市郎忠夷が投じたその訴を取上げるや、この問題をどう処理すべきか、側用人の田沼意次や、それに御側御用取次と鳩首協議に及んだ。
ちなみに田沼意次はその前年、明和4(1767)年7月の朔日までは稲葉正明とは相役、同僚の御側御用取次であったが、それが7月朔日に御側御用取次の中でも意次が側用人へと取立てられたことから、稲葉正明をはじめとする御側御用取次の上役となった。
御側御用取次が中奥において常置の最高職であるのに対して、側用人は非常置の最高職であり、それ故、非常置の最高職という点において表向における大老に匹敵する。
その側用人に御側御用取次の中から意次だけが抜擢されたので、外の御側御用取次の中には当然、意次に嫉妬する者がいた。
とりわけ稲葉正明がそうであった。
そこを一橋治済に上手く突かれた。
治済は御側御用取次の中でも意次が側用人に取立てられると知るや、
「これは…、外の者は当然、意次めに嫉妬しているに相違あるまいて…」
そう読み、そこで御側御用取次に接触を持ったのであった。
その頃は治済はまだ、「天下獲り」の野望は抱いていなかったものの、それでも、
「意次めに反感を持つ者を取込んでおけば、追々、役に立つやも知れぬ…」
薄ぼんやりとだが、そう考え、そこで意次に先を越された格好の御側御用取次に接触を持ったのだ。
結果、御側御用取次の中でも松平因幡守康郷などは意次の昇進を素直に喜んでいたが、それとは対照的なのが稲葉正明であり、正明は意次の昇進に大いに憤慨し、それを治済に隠そうともしなかった。
かくして治済は御側御用取次の中でも稲葉正明に「狙い」を定め、
「集中的に…」
正明を「接待漬け」にし、これを取込むことに成功したのだ。
尤も、側用人は非常置の最高職である故に、常置の最高職である御側御用取次の様に、庭番を使うことは出来ない。
庭番を使うことが出来るのは将軍を除いては、御側御用取次だけであり、その御側御用取次の上役に当たる側用人さえ庭番を使うことは出来なかった。
つまり意次は御側御用取次から側用人へと昇進を果たした「代償」として庭番を使う権利を喪ったとも言える。
家治が側用人や御側御用取次を交えての鳩首協議の場において、その内の一人、御側御用取次の稲葉正明が庭番に探索させることを提案したのも、偏に、正明には庭番を動かす権限があった為だ。
尤も、御側御用取次は稲葉正明一人ではない。
意次の昇進を素直に喜ぶ松平康郷もそうであり、或いは当時はまだ豊後守の官職名を名乗っていた水野出羽守忠友もそうである。
水野忠友もまた、意次の昇進を、
「我が事の如く…」
喜んだものである。
かくして庭番を仕える御側御用取次は当時は3人もいた次第で、そこで正明は外の2人、松平康郷や水野忠友に、
「先んじて…」
庭番に探索させることを家治に提案したのは勿論、第一義的には己の有能さを家治に主張する為であった。
己が有能であることを家治に主張出来れば、昇進に繋がるからだ。
正明のその「読み」は間違ってはいなかった。
家治は酒井彌市郎忠夷からの訴について、つまりは現職の若年寄たる酒井忠休が御家、出羽松山酒井家の乗っ取りを企み、本来の嫡流とも言うべき彌市郎の伯父の兵庫忠郷や実父の山城守忠起にまで手をかけた疑いがあると、この一件をどう処理すべきか、側用人や御側御用取次に諮問したところ、それこそ、
「打てば響く様…」
正明が庭番に探索させることを提案したので、家治は正明を「有能」であると認定した。
否、よくよく考えてみれば正明は当然のことを提案したに過ぎず、その提案自体、どうということはない。
それでも正明は反射神経の良いところを家治に見せ付けたのであった。
外の者は、意次さえも事の重大さに呑まれ、その至極、当然の提案さえも直ぐには出来ずにいた。
その様な中で正明が唯一人、素早く当たり前の提案ではあるものの、声を上げることが出来たので、家治はその点を評価した。
そこで家治は酒井彌市郎からの訴の処理については稲葉正明に一任することにした。
かくして正明は庭番に探索を命じた次第であり、それも水田養陸の探索を真先に命じた。
それと言うのも酒井彌市郎によると、伯父や父を毒殺した実行犯は藩医の水田養陸だと言うのである。
その水田養陸も酒井忠休が実子、忠崇が正式に出羽松山酒井家の後嗣に定められるや、まるでそれを見届けるかの様に、姿を晦ましたと言うのである。
水田養陸は出羽松山藩酒井家の藩医として酒井兵庫忠郷やその弟の山城守忠起が存命の折には江戸の上屋敷にて暮らしていたそうな。
出羽松山酒井家の上屋敷は当時も今も、大下馬之後にあり、水田養陸はその邸内に設えられた組屋敷の一角に診療所を兼ねた長屋を与えられ、そこで暮らしていた。
無論、世子であった兵庫忠郷や山城守忠起もその上屋敷にて暮らしており、山城守忠起が遺児、彌市郎忠夷に言わせると、水田養陸が伯父の兵庫忠郷や、その上、実父である山城守忠起にまで一服盛ったとのことである。無論、
「血を分けた…」
我が子・忠崇を松山酒井家の後継に据え様と欲した、つまりは御家乗っ取りを企む忠休に使嗾、嗾けられてのことである。
そして兵庫忠郷に続いて、山城守忠起までが歿したことから、
「晴れて…」
忠崇が出羽松山酒井家の後継に定まるや、水田養陸はその行方を晦ましたそうな。
そこで稲葉正明は「実行犯」とも言うべき、水田養陸の身柄の確保が先決と、庭番にその探索を指示したのであった。
と同時に、治済にもその情報を流したのであった。
治済が御側御用取次に触手を伸ばしたのは、それは庭番を使えるからだ。
庭番を使える御側御用取次を取込んでおけば、これ程、心強いことはない。
庭番を動かせるのは将軍と御側御用取次だけであり、しかも将軍が自ら御側御用取次を動かすことは滅多になく、仮に将軍が自ら御側御用取次を動かす場合でも、御側御用取次には将軍が一体、庭番に何を指示したのか、連絡がいくようになっていた。
つまり仮に家治が治済を調べる様、分かり易く言えばその身辺を嗅ぎ回る様、指示したとして、御側御用取次にだけは連絡がいく。
治済はそこで御側御用取次を取込めたならばこれ程、心強いことはないと、
「常々…」
そう思っていたところ、御側御用取次である意次の側用人への昇進という事態に際会して、
「これは…」
外の、意次に先を越された格好の御側御用取次を取込める絶好の好機と直感し、彼等、御側御用取次に触手を伸ばし、結果、稲葉正明を取込むことに成功した次第である。
こうして治済に取込まれた正明は庭番を動かすことがあれば、治済にその情報を内報するのを常とする様になった。
そして正明が酒井彌市郎忠夷からの訴について将軍・家治に対し、
「真先に…」
庭番を動かすことを提案したのもその為であった。
そうすれば酒井彌市郎忠夷からの訴の真偽を確かめるべく、家治が正明からの進言に従い、庭番を動かすことにしたとして、その場合、正明に一任されることが見込まれたからだ。
つまりは正明が庭番を動かすことを家治が認めるという訳で、事実、その通りになった。
正明はその上で、後程、治済にも酒井彌市郎からの訴について内報すると同時に、その件で庭番を動かすことを家治より認められたことをも内報に及んだ。
つまり、正明が真先に庭番を動かすことを家治に提案したのは、己の有能さを家治に見せつけることで立身出世に繋げ様との思惑の外にも、否、それ以上に、
「治済の為…」
その様な思惑が隠されていた。
正明はこの件に限らず、庭番による探索が必要であると看取するや、相役の松平康郷や水野忠友に、
「先んじて…」
庭番を動かすことを家治に提案し、畢竟、家治は正明に一任、つまりは庭番を動かすことを認めがちとなった。
結果、庭番は今や、稲葉正明の謂わば、
「私兵…」
と化し、それはそのまま、「治済の私兵」とも言換えることが出来た。
実際、治済は稲葉正明を介して庭番にまで触手を伸ばすことに成功した。
例えば、稲葉正明の口利きにより、庭番の一人、古坂勝次郎孟雅が実姉を治済の侍女として一橋家にて仕えさせることに成功した。
こうして実姉を通して、治済はその実弟の古坂勝次郎を取込むことに成功し、更にその所縁を辿り、古坂勝次郎が従兄の古坂政次郎古峯をも取込むことに成功したのだ。
また梶野平九郎矩満に至っては、その実父である太左衛門氏友が治済が実父、宗尹に小十人として仕えていたことがあった。
治済が産まれた頃には梶野太左衛門は既に一橋家の小十人より、
「班を進め…」
つまりは将軍への御目見得が叶わぬ御家人から、それが叶う旗本へと昇格、庭番の地位にあったが、それでも、
「終生…」
一橋贔屓であった。それと言うのも、梶野太左衛門が御家人から旗本へと、
「班を進められた…」
昇格出来たのは偏に、宗尹の口添えがあったからである。
その為、梶野太左衛門は明和元(1764)年に歿するまで、一橋贔屓であり続け、その息である平九郎矩満にも、
「一橋贔屓…」
父・太左衛門のその「血」が、
「脈々と…」
受継がれた。
その為、梶野平九郎の取込みは古坂政次郎・勝次郎従兄弟の時よりも容易と言えた。
治済はこの梶野平九郎を介して馬場吉之助通喬をも取込むことにも成功した。
梶野平九郎が実母はやはり、嘗ては庭番を勤めていた馬場善五兵衛信富の実姉が娘であり、治済はその所縁を頼りに、まず、今は西之丸納戸頭を勤める馬場善五兵衛を取込み、次いでその息にして庭番を勤める馬場吉之助通喬の取込にも成功した次第である。
治済はこの馬場善五兵衛・吉之助父子をも辿って、外の庭番にも触手を伸ばした。
かくして庭番は今や、「治済の私兵」と化しつつあり、彼等の探索により遂に、水田養陸の居所が判明したのだ。
水田養陸は水谷梅秀と名を改め、四谷にて診療所を開業し、町医者をしていたのだ。
治済は、そして正明もだが、水田養陸は口を塞がれているものと思っていた。
それは探索に当たった庭番にしてもそうであった。
だが案に相違して、水田養陸は口を塞がれることなく、それどころか町医者として公的な立場を保ち続けていたのだ。
無論、名こそ水谷梅秀と改めてはいたものの、それでも町医者として診療所を開業出来た辺り、忠休から「成功報酬」として、
「それ相応の…」
悪くない額が行渡ったものと思われる。
その点、忠休はある意味、「律儀」と言えた。
普通、この場合は口を塞ぐのが「常道」であったからだ。
さて、庭番は水田養陸こと水谷梅秀の身柄を拘束、要は拉致すると、その身柄を稲葉正明の分家筋である稲葉主計正存の屋敷へと移送した。
無論、稲葉正明の指図によるものであり、正明は庭番より、水田養陸が水谷梅秀と名を改めて、四谷にて町医者をしていることを伝えるや、それをそのまま、治済に伝えた。勿論、将軍・家治に伝えるよりも先に、であった。
すると治済は家治にはその事実を伝えぬ様、正明に頼んだのであった。
それと言うのも、酒井忠休との「取引」の道具に使うつもりでいたからだ。
そこで稲葉正明はいったん分家筋の主計正存の屋敷に水田養陸こと水谷梅秀の身柄を預けることを思いつき、治済にその諒承を得ると、庭番に水田養陸こと水谷梅秀の「逮捕」を指示、庭番もそれを受けて水田養陸こと水谷梅秀を「逮捕」、拉致するとその身柄を正明より指示されていた通り、稲葉主計の屋敷へと移送したのであった。
それが5月の初旬のことであった。
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