天明奇聞 ~たとえば意知が死ななかったら~

ご隠居

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一橋治済の私兵と化した庭番は酒井兵庫忠郷・山城守忠起の兄弟を毒殺した実行犯と思しき出羽松山藩元藩医の水田養陸こと水谷梅秀の身柄を押さえていた

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 本丸ほんまる若年寄わかどしより酒井さかい石見守いわみのかみ忠休ただよしそく大學頭だいがくのかみ忠崇ただたかは6年前ねんまえの明和4(1767)年うるう9月朔日ついたち将軍しょうぐん家治いえはるはつ御目見得おめみえたし、そのとしくれ師走しわすの16日には従五位下じゅごいのげ諸太夫しょだいぶじょされ、大學頭だいがくのかみ名乗なのるようになった。

 本来ほんらいならばその翌年よくねんにはちち忠休ただよしおなじく帝鑑間ていかんのまめることがゆるされるはずであった。

 忠休ただよし当主とうしゅつとめる出羽でわ松山藩まつやまはん酒井家さかいけ殿中でんちゅうせき帝鑑間ていかんのまであり、この帝鑑間ていかんのま父子ふし同席どうせき成人嫡子せいじんちゃくしもまた帝鑑間ていかんのまめられる。

 ただし、帝鑑間詰ていかんのまづめちち若年寄わかどしよりあるいは奏者番そうじゃばん勤仕ごんじちゅうであればはなしべつであり、その成人嫡子せいじんちゃくし菊間きくのま本間ほんまる。

 事実じじついま、やはり本丸ほんまる若年寄わかどしよりつとめる、それも筆頭ひっとうである首座しゅざにある松平まつだいら伊賀守いがのかみ忠順ただより本来ほんらい帝鑑間詰ていかんのまづめであるものの、いま若年寄わかどしよりつとめているために、その成人嫡子せいじんちゃくし左衛門佐さえもんのすけ忠済ただまさ菊間きくのま本間ほんまていた。

 そこで酒井さかい忠崇ただたか本来ほんらいならば菊間きくのま本間ほんまられるはずであり、将軍しょうぐん家治いえはるもそのつもりでいた。

 ところがそこへおもわぬ「伏兵ふくへい」があらわれた。

 それは酒井さかい彌市郎やいちろう忠夷ただひら忠休ただよし実兄じつのあに酒井さかい主膳忠英しゅぜんただひらまごである。

 酒井家さかいけ本来ほんらい嫡子ちゃくしである酒井さかい主膳忠英しゅぜんただひでぐべきであった。

 ところが主膳忠英しゅぜんただひで眼疾がんしつやまいによりめくらになってしまった。

 めくらではいえげまい。

 そこでその当時とうじ出羽でわ松山まつやま酒井家さかいけ当主とうしゅであった、つまりは主膳忠英しゅぜんただひらちちである石見守いわみのかみ忠豫ただやす本家ほんけたる庄内しょうない鶴岡つるがおか酒井さかい左衛門尉さえもんのじょうよりその家臣かしんである酒井圖書さかいずしょ直隆なおたかそく養嗣子ようししとしてむかえたのだ。

 これが忠休ただよしであった。

 これでめくらため廃嫡はいちゃくされた主膳忠英しゅぜんただひでが、それも男児だんじがいなければなに問題もんだいこらないはずであった。

 だが、さいわいと言うべきか、はたまた、生憎あいにくと言うべきか、主膳忠英しゅぜんただひで兵庫忠郷ひょうごたださと山城守やましろのかみ忠起ただおきという2人の男児だんじめぐまれた。

 この兵庫忠郷ひょうごたださと山城守やましろのかみ忠起ただおきは2人とも

五体ごたい満足まんぞく…」

 充分じゅうぶん大名家だいみょうけ嫡子ちゃくしたりた。

 そこでまず、あに兵庫忠郷ひょうごたださと忠休ただよし養嗣子ようししとしてむかえられた。

 なにしろ兵庫忠郷ひょうごたださと本来ほんらい出羽でわ松山まつやま酒井家さかいけの、

正統せいとうなる…」

 後継者こうけいしゃであった主膳忠英しゅぜんただひらいている。

 わば、出羽でわ松山まつやま酒井家さかいけ嫡流ちゃくりゅうであり、そうであれば酒井さかい忠休ただよしとしても、兵庫忠郷ひょうごたださとという、

正統せいとうなる…」

 嫡流ちゃくりゅう存在そんざいしている以上いじょう彼者かのもの養嗣子ようししとしてむかれるのがスジというものであり、事実じじつ忠休ただよしはそうした。

 だが兵庫忠郷ひょうごたださとは寛延2(1749)年10月に16歳のわかさで夭逝ようせいしてしまう。

 そこで次兄じけい忠起ただおき白羽しらはった。

 忠起ただおきもまた、兵庫忠郷ひょうごたださと実弟じっていとして、主膳忠英しゅぜんただひでいており、兵庫忠郷ひょうごたださとあとはこの忠起ただおき出羽でわ松山まつやま酒井家さかいけ正統せいとうなる嫡流ちゃくりゅうということになり、そこで忠休ただよしはこの忠起ただおき養嗣子ようししとしてむかえた。

 この忠起ただおきあに兵庫忠郷ひょうごたださとように10代で夭逝ようせいすることはなく、寛延3(1750)年7月にはとき将軍しょうぐんであった九代くだい家重いえしげはつ御目見得おめみえたし、そのとしくれには従五位下じゅごいのげ諸太夫しょだいぶじょされ、山城守やましろのかみ名乗なのるようになった。

 すると忠起ただおき菊間きくのま本間ほんまへとた。これはその当時とうじ酒井さかい忠休ただよし西之丸にしのまる若年寄わかどしよりつとめていたためだ。

 忠休ただよしはその、宝暦11(1761)年8月より本丸ほんまる若年寄わかどしよりへと遷任せんにん異動いどうたすも、忠起ただおき引続ひきつづ菊間きくのま本間ほんま詰続つめつづけた。

 と言っても平日登城へいじつとじょうはなく、月次御礼つきなみおんれい五節句ごせっくなどの式日しきじつ登城とじょうすることが、そして将軍しょうぐん拝謁はいえつすることがゆるされているにぎない。

 だが、その忠起ただおきまでも、あに兵庫忠郷ひょうごたださとつづいて、最期さいごときむかえてしまったのだ。

 すなわち、それこそが忠休ただよし嫡子ちゃくし、それも実子じつのこである忠崇ただたか将軍しょうぐん家治いえはるはつ御目見得おめみえたした明和4(1767)年であり、それも4ヶ月前の6月9日であった。

 忠休ただよしは明和4(1767)年6月に養嗣子ようしし忠起ただおき先立さきだたれるや、

ってました…」

 とばかり、実子じつのこである忠崇ただたか嫡子ちゃくしに、つまりは出羽でわ松山まつやま酒井家さかいけ正統せいとうなる後継者こうけいしゃさだめ、将軍しょうぐん家治いえはるはつ御目見得おめみえたさせると、従五位下じゅごいのげ諸太夫しょだいぶにまでじょされたのであった。

 これで忠崇ただたか後継者こうけいしゃとしての立場たちば盤石ばんじゃくえたが、そこへ忠起ただおき嫡子ちゃくし彌市郎やいちろう忠夷ただひらったをかけたのだ。

 彌市郎やいちろう忠夷ただひら出羽でわ松山まつやま酒井家さかいけ正統せいとうなる嫡流ちゃくりゅうである忠起ただおき実子じつのこであるので、そうであればこの彌市郎やいちろう忠夷ただひらほう忠崇ただたかよりも出羽でわ松山まつやま酒井家さかいけ後継者こうけいしゃ相応ふさわしい。

 だが忠休ただよし養嗣子ようしし忠起ただおき歿後ぼつご、その妻女さいじょにして彌市郎やいちろう忠夷ただひら政姫まさひめ実家じっかである新発田しばたはん溝口家みぞぐちけへとかえらせ、そのうえ彌市郎やいちろう忠夷ただひら本家ほんけである庄内しょうない鶴岡つるがおか酒井さかい左衛門尉さえもんのじょうへと引取ひきとらせた。

 忠休ただよし元々もともと彌市郎やいちろう忠夷ただひら実母じつぼ政姫共々まさひめともども新発田しばたはん溝口家みぞぐちけへと引取ひきとらせるつもりであったが、彌市郎やいちろう忠夷ただひらはこれを拒否きょひ、あくまで実家じっかとも言うべき出羽でわ松山まつやま酒井家さかいけに、その上屋敷かみやしき居座いすわ姿勢しせいせたので、そこで忠休ただよしは「それなれば…」と、

無理むりやり…」

 彌市郎やいちろう忠夷ただひら上屋敷かみやしきより追出おいだし、本家ほんけへと、その上屋敷かみやしきへと押付おしつけたのであった。

 こうして忠休ただよし本家ほんけとはもうせ、酒井さかい左衛門尉さかいさえもんのじょう陪臣ばいしん家臣かしんぎぬにもかかわらず、その分家ぶんけとはもうせ、

れきとした…」

 大名家だいみょうけである出羽でわ松山まつやま酒井家さかいけの「り」に成功せいこうしたのであった。

 無論むろん出羽でわ松山まつやま酒井家さかいけ正統せいとうなる後継者こうけいしゃとも言うべき彌市郎やいちろう忠夷ただひらがそれをだまってているはずもなく、彌市郎やいちろう忠夷ただひら軟禁先なんきんさきとも言うべき神田橋御門内かんだばしごもんないにある鶴岡つるがおかはん上屋敷かみやしきより脱出ぬけだすや、辰ノ口たつのぐち評定所ひょうじょうしょ門前もんぜんへとはしり、

若年寄わかどしより酒井さかい忠休ただよし本家ほんけとはもうせ、陪臣ばいしんぎぬにもかかわらず、分家ぶんけとはもうせ、れきとした大名家だいみょうけである当家とうけらんとほっし、つまりは兵庫忠郷ひょうごたださと山城守やましろのかみ忠起ただおきという2人もの嫡流ちゃくりゅうがいるにもかかわらず、忠崇ただたか当家とうけがせるべく、そこでまず兵庫忠郷たださとを…、この彌市郎やいちろうじつ伯父おじ毒殺どくさつし、つづいてちち山城守やましろのかみ忠起ただおきをも毒殺どくさつし、忠崇ただたか当家とうけ嫡子ちゃくしとしてさだめ、当家とうけったのだ…」

 大意たいい、そのよううったえ目安箱めやすばこ投込なげこんだのであった。

 それが明和5(1768)年正月しょうがつのことであり、家治いえはるがそろそろ、忠崇ただたか菊間きくのま本間ほんましてやろうと間がえていたころであった。

 だが家治いえはる彌市郎やいちろう忠夷ただひらからのうったえにより、忠崇ただたか菊間きくのま本間ほんますのはしばらくのあいだ延期えんきすることにした。

 無論むろんこと真相しんそうあきらかになるまでのあいだ、である。

 家治いえはること真相しんそうあきらかにすべく、庭番にわばんうごかすことにした。

 これはその当時とうじすで御側御用取次おそばごようとりつぎであった、そのうえで、

一橋ひとつばし治済はるさだ取込とりこまれていた…」

 稲葉いなば越中守えっちゅうのかみ正明まさあきら進言しんげんによる。

 明和5(1768)年の正月しょうがつ家治いえはる目安箱めやすばことうじられたうったえなかから、酒井さかい彌市郎やいちろう忠夷ただひらとうじたそのうったえ取上とりあげるや、この問題もんだいをどう処理しょりすべきか、側用人そばようにん田沼たぬま意次おきつぐや、それに御側御用取次おそばごようとりつぎ鳩首協議きゅうしゅきょうぎおよんだ。

 ちなみに田沼たぬま意次おきつぐはその前年ぜんねん、明和4(1767)年7月の朔日ついたちまでは稲葉いなば正明まさあきらとは相役あいやく同僚どうりょう御側御用取次おそばごようとりつぎであったが、それが7月朔日ついたち御側御用取次おそばごようとりつぎなかでも意次おきつぐ側用人そばようにんへと取立とりたてられたことから、稲葉いなば正明まさあきらをはじめとする御側御用取次おそばごようとりつぎ上役うわやくとなった。

 御側御用取次おそばごようとりつぎ中奥なかおくにおいて常置じょうち最高職さいこうしょくであるのにたいして、側用人そばようにん非常置ひじょうち最高職さいこうしょくであり、それゆえ非常置ひじょうち最高職さいこうしょくというてんにおいて表向おもてむきにおける大老たいろう匹敵ひってきする。

 その側用人そばようにん御側御用取次おそばごようとりつぎなかから意次おきつぐだけが抜擢ばってきされたので、ほか御側御用取次おそばごようとりつぎなかには当然とうぜん意次おきつぐ嫉妬しっとするものがいた。

 とりわけ稲葉いなば正明まさあきらがそうであった。

 そこを一橋ひとつばし治済はるさだ上手うまかれた。

 治済はるさだ御側御用取次おそばごようとりつぎなかでも意次おきつぐ側用人そばようにん取立とりたてられるとるや、

「これは…、ほかもの当然とうぜん意次おきつぐめに嫉妬しっとしているに相違そういあるまいて…」

 そうみ、そこで御側御用取次おそばごようとりつぎ接触せっしょくったのであった。

 そのころ治済はるさだはまだ、「天下てんがり」の野望やぼういていなかったものの、それでも、

意次おきつぐめに反感はんかんもの取込とりこんでおけば、追々おいおいやくつやもれぬ…」

 うすぼんやりとだが、そうかんがえ、そこで意次おきつぐさきされた格好かっこう御側御用取次おそばごようとりつぎ接触せっしょくったのだ。

 結果けっか御側御用取次おそばごようとりつぎなかでも松平まつだいら因幡守いなばのかみ康郷やすさとなどは意次おきつぐ昇進しょうしん素直すなおよろこんでいたが、それとは対照的たいしょうてきなのが稲葉いなば正明まさあきらであり、正明まさあきら意次おきつぐ昇進しょうしんおおいに憤慨ふんがいし、それを治済はるさだかくそうともしなかった。

 かくして治済はるさだ御側御用取次おそばごようとりつぎなかでも稲葉いなば正明まさあきらに「ねらい」をさだめ、

集中的しゅうちゅうてきに…」

 正明まさあきらを「接待漬せったいづけ」にし、これを取込とりこむことに成功せいこうしたのだ。

 もっとも、側用人そばようにん非常置ひじょうち最高職さいこうしょくであるゆえに、常置じょうち最高職さいこうしょくである御側御用取次おそばごようとりつぎように、庭番にわばん使つかうことは出来できない。

 庭番にわばん使つかうことが出来できるのは将軍しょうぐんのぞいては、御側御用取次おそばごようとりつぎだけであり、その御側御用取次おそばごようとりつぎ上役うわやくたる側用人そばようにんさえ庭番にわばん使つかうことは出来できなかった。

 つまり意次おきつぐ御側御用取次おそばごようとりつぎから側用人そばようにんへと昇進しょうしんたした「代償だいしょう」として庭番にわばん使つか権利けんりうしなったとも言える。

 家治いえはる側用人そばようにん御側御用取次おそばごようとりつぎまじえての鳩首協議きゅうしゅきょうぎにおいて、そのうち一人ひとり御側御用取次おそばごようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきら庭番にわばん探索たんさくさせることを提案ていあんしたのも、ひとえに、正明まさあきらには庭番にわばんうごかす権限けんげんがあったためだ。

 もっとも、御側御用取次おそばごようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきら一人ひとりではない。

 意次おきつぐ昇進しょうしん素直すなおよろこ松平まつだいら康郷やすさともそうであり、あるいは当時とうじはまだ豊後守ぶんごのかみ官職かんしょくめい名乗なのっていた水野みずの出羽守でわのかみ忠友ただとももそうである。

 水野みずの忠友ただとももまた、意次おきつぐ昇進しょうしんを、

ことごとく…」

 よろこんだものである。

 かくして庭番にわばんつかえる御側御用取次おそばごようとりつぎ当時とうじは3人もいた次第しだいで、そこで正明まさあきらほかの2人、松平まつだいら康郷やすさと水野みずの忠友ただともに、

さきんじて…」

 庭番にわばん探索たんさくさせることを家治いえはる提案ていあんしたのは勿論もちろん第一義的だいいちぎてきにはおのれ有能ゆうのうさを家治いえはる主張アピールするためであった。

 おのれ有能ゆうのうであることを家治いえはる主張アピール出来できれば、昇進しょうしんつながるからだ。

 正明まさあきらのその「み」は間違まちがってはいなかった。

 家治いえはる酒井さかい彌市郎やいちろう忠夷ただひらからのうったえについて、つまりは現職げんしょく若年寄わかどしよりたる酒井さかい忠休ただよし御家おいえ出羽でわ松山まつやま酒井家さかいけりをたくらみ、本来ほんらい嫡流ちゃくりゅうとも言うべき彌市郎やいちろう伯父おじ兵庫忠郷ひょうごたださと実父じっぷ山城守やましろのかみ忠起ただおきにまでをかけたうたがいがあると、この一件いっけんをどう処理しょりすべきか、側用人そばようにん御側御用取次おそばごようとりつぎ諮問しもんしたところ、それこそ、

てばひびよう…」

 正明まさあきら庭番にわばん探索たんさくさせることを提案ていあんしたので、家治いえはる正明まさあきらを「有能ゆうのう」であると認定にんていした。

 いや、よくよくかんがえてみれば正明まさあきら当然とうぜんのことを提案ていあんしたにぎず、その提案ていあん自体じたい、どうということはない。

 それでも正明まさあきら反射神経はんしゃしんけいいところを家治いえはるけたのであった。

 ほかものは、意次おきつぐさえもこと重大じゅうだいさにまれ、その至極しごく当然とうぜん提案ていあんさえもぐには出来できずにいた。

 そのようなか正明まさあきら唯一人ただひとり素早すばやたりまえ提案ていあんではあるものの、こえげることが出来できたので、家治いえはるはそのてん評価ひょうかした。

 そこで家治いえはる酒井さかい彌市郎やいちろうからのうったえ処理しょりについては稲葉いなば正明まさあきら一任いちにんすることにした。

 かくして正明まさあきら庭番にわばん探索たんさくめいじた次第しだいであり、それも水田みずた養陸ようりく探索たんさく真先まっさきめいじた。

 それと言うのも酒井さかい彌市郎やいちろうによると、伯父おじちち毒殺どくさつした実行犯じっこうはん藩医はんい水田みずた養陸ようりくだと言うのである。

 その水田みずた養陸ようりく酒井さかい忠休ただよし実子じつのこ忠崇ただたか正式せいしき出羽でわ松山まつやま酒井家さかいけ後嗣こうしさだめられるや、まるでそれを見届みとどけるかのように、姿すがたくらましたと言うのである。

 水田みずた養陸ようりく出羽でわ松山藩まつやまはん酒井家さかいけ藩医はんいとして酒井さかい兵庫忠郷ひょうごたださとやそのおとうと山城守やましろのかみ忠起ただおき存命ぞんめいおりには江戸えど上屋敷かみやしきにてらしていたそうな。

 出羽でわ松山まつやま酒井家さかいけ上屋敷かみやしき当時とうじいまも、大下馬之後おおげばのあとにあり、水田みずた養陸ようりくはその邸内ていないしつらえられた組屋敷くみやしき一角いっかく診療所しんりょうじょねた長屋ながやあたえられ、そこでらしていた。

 無論むろん世子せいしであった兵庫忠郷ひょうごたださと山城守やましろのかみ忠起ただおきもその上屋敷かみやしきにてらしており、山城守やましろのかみ忠起ただおき遺児いじ彌市郎やいちろう忠夷ただひらに言わせると、水田みずた養陸ようりく伯父おじ兵庫忠郷ひょうごたださとや、そのうえ実父じつのちちである山城守やましろのかみ忠起ただおきにまで一服いっぷくったとのことである。無論むろん

けた…」

 忠崇ただたか松山まつやま酒井家さかいけ後継あとつぎようほっした、つまりは御家おいえりをたくら忠休ただよし使嗾しそうけしかけられてのことである。

 そして兵庫忠郷ひょうごたださとつづいて、山城守やましろのかみ忠起ただおきまでが歿ぼっしたことから、

れて…」

 忠崇ただたか出羽でわ松山まつやま酒井家さかいけ後継あとつぎさだまるや、水田みずた養陸ようりくはその行方ゆくえくらましたそうな。

 そこで稲葉いなば正明まさあきらは「実行犯じっこうはん」とも言うべき、水田みずた養陸ようりく身柄みがら確保かくほ先決せんけつと、庭番にわばんにその探索たんさく指示しじしたのであった。

 と同時どうじに、治済はるさだにもその情報じょうほうながしたのであった。

 治済はるさだ御側御用取次おそばごようとりつぎ触手しょくしゅばしたのは、それは庭番にわばん使つかえるからだ。

 庭番にわばん使つかえる御側御用取次おそばごようとりつぎ取込とりこんでおけば、これほど心強こころづよいことはない。

 庭番にわばんうごかせるのは将軍しょうぐん御側御用取次おそばごようとりつぎだけであり、しかも将軍しょうぐんみずか御側御用取次おそばごようとりつぎうごかすことは滅多めったになく、かり将軍しょうぐんみずか御側御用取次おそばごようとりつぎうごかす場合ばあいでも、御側御用取次おそばごようとりつぎには将軍しょうぐん一体いったい庭番にわばんなに指示しじしたのか、連絡れんらくがいくようになっていた。

 つまりかり家治いえはる治済はるさだ調しらべるようかりやすく言えばその身辺しんぺんまわよう指示しじしたとして、御側御用取次おそばごようとりつぎにだけは連絡れんらくがいく。

 治済はるさだはそこで御側御用取次おそばごようとりつぎ取込とりこめたならばこれほど心強こころづよいことはないと、

常々つねづね…」

 そうおもっていたところ、御側御用取次おそばごようとりつぎである意次おきつぐ側用人そばようにんへの昇進しょうしんという事態じたい際会さいかいして、

「これは…」

 ほかの、意次おきつぐさきされた格好かっこう御側御用取次おそばごようとりつぎ取込とりこめる絶好ぜっこう好機チャンス直感ちょっかんし、彼等かれら御側御用取次おそばごようとりつぎ触手しょくしゅばし、結果けっか稲葉いなば正明まさあきら取込とりこむことに成功せいこうした次第しだいである。

 こうして治済はるさだ取込とりこまれた正明まさあきら庭番にわばんうごかすことがあれば、治済はるさだにその情報じょうほう内報リークするのをつねとするようになった。

 そして正明まさあきら酒井さかい彌市郎やいちろう忠夷ただひらからのうったえについて将軍しょうぐん家治いえはるたいし、

真先まっさきに…」

 庭番にわばんうごかすことを提案ていあんしたのもそのためであった。

 そうすれば酒井さかい彌市郎やいちろう忠夷ただひらからのうったえ真偽しんぎたしかめるべく、家治いえはる正明まさあきらからの進言しんげんしたがい、庭番にわばんうごかすことにしたとして、その場合ばあい正明まさあきら一任いちにんされることが見込みこまれたからだ。

 つまりは正明まさあきら庭番にわばんうごかすことを家治いえはるみとめるというわけで、事実じじつ、そのとおりになった。

 正明まさあきらはそのうえで、後程のちほど治済はるさだにも酒井さかい彌市郎やいちろうからのうったえについて内報リークすると同時どうじに、そのけん庭番にわばんうごかすことを家治いえはるよりみとめられたことをも内報リークおよんだ。

 つまり、正明まさあきら真先まっさき庭番にわばんうごかすことを家治いえはる提案ていあんしたのは、おのれ有能ゆうのうさを家治いえはるせつけることで立身出世りっしんしゅっせつなようとの思惑おもわくほかにも、いや、それ以上いじょうに、

治済はるさだため…」

 そのよう思惑おもわくかくされていた。

 正明まさあきらはこのけんかぎらず、庭番にわばんによる探索たんさく必要ひつようであると看取かんしゅするや、相役あいやく松平まつだいら康郷やすさと水野みずの忠友ただともに、

さきんじて…」

 庭番にわばんうごかすことを家治いえはる提案ていあんし、畢竟ひっきょう家治いえはる正明まさあきら一任いちにん、つまりは庭番にわばんうごかすことをみとめがちとなった。

 結果けっか庭番にわばんいまや、稲葉いなば正明まさあきらわば、

私兵しへい…」

 とし、それはそのまま、「治済はるさだ私兵しへい」とも言換いいかえることが出来できた。

 実際じっさい治済はるさだ稲葉いなば正明まさあきらかいして庭番にわばんにまで触手しょくしゅばすことに成功せいこうした。

 たとえば、稲葉いなば正明まさあきら口利くちききにより、庭番にわばん一人ひとり古坂ふるさか勝次郎かつじろう孟雅たかまさ実姉じつのあね治済はるさだ侍女じじょとして一橋家ひとつばしけにてつかえさせることに成功せいこうした。

 こうして実姉じつのあねとおして、治済はるさだはその実弟じってい古坂ふるさか勝次郎かつじろう取込とりこむことに成功せいこうし、さらにその所縁ゆかり辿たどり、古坂ふるさか勝次郎かつじろう従兄いとこ古坂ふるさか政次郎せいじろう古峯ひさみねをも取込とりこむことに成功せいこうしたのだ。

 また梶野かじの平九郎へいくろう矩満のりみついたっては、その実父じつのちちである太左衛門たざえもん氏友うじとも治済はるさだ実父じつのちち宗尹むねただ小十人こじゅうにんとしてつかえていたことがあった。

 治済はるさだまれたころには梶野かじの太左衛門たざえもんすで一橋家ひとつばしけ小十人こじゅうにんより、

はんすすめ…」

 つまりは将軍しょうぐんへの御目見得おめみえかなわぬ御家人ごけにんから、それがかな旗本はたもとへと昇格しょうかく庭番にわばん地位ちいにあったが、それでも、

終生しゅうせい…」

 一橋ひとつばし贔屓びいきであった。それと言うのも、梶野かじの太左衛門たざえもん御家人ごけにんから旗本はたもとへと、

はんすすめられた…」

 昇格しょうかく出来できたのはひとえに、宗尹むねただ口添くちぞえがあったからである。

 そのため梶野かじの太左衛門たざえもんは明和元(1764)年に歿ぼっするまで、一橋ひとつばし贔屓びいきでありつづけ、そのそくである平九郎へいくろう矩満のりみつにも、

一橋ひとつばし贔屓びいき…」

 ちち太左衛門たざえもんのその「」が、

脈々みゃくみゃくと…」

 受継うけつがれた。

 そのため梶野かじの平九郎へいくろう取込とりこみは古坂ふるさか政次郎せいじろう勝次郎かつじろう従兄弟いとこときよりも容易よういと言えた。

 治済はるさだはこの梶野かじの平九郎へいくろうかいして馬場ばば吉之助きちのすけ通喬みちたかをも取込とりこむことにも成功せいこうした。

 梶野かじの平九郎へいくろう実母じつぼはやはり、かつては庭番にわばんつとめていた馬場ばば善五兵衛ぜんごべえ信富のぶとみ実姉じつのあねむすめであり、治済はるさだはその所縁ゆかりたよりに、まず、いま西之丸にしのまる納戸なんどがしらつとめる馬場ばば善五兵衛ぜんごべえ取込とりこみ、いでそのそくにして庭番にわばんつとめる馬場ばば吉之助きちのすけ通喬みちたか取込とりこみにも成功せいこうした次第しだいである。

 治済はるさだはこの馬場ばば善五兵衛ぜんごべえ吉之助きちのすけ父子おやこをも辿たどって、ほか庭番にわばんにも触手しょくしゅばした。

 かくして庭番にわばんいまや、「治済はるさだ私兵しへい」としつつあり、彼等かれら探索たんさくによりついに、水田みずた養陸ようりく居所いどころ判明はんめいしたのだ。

 水田みずた養陸ようりく水谷みずたに梅秀ばいしゅうあらため、四谷よつやにて診療所しんりょうじょ開業かいぎょうし、町医者まちいしゃをしていたのだ。

 治済はるさだは、そして正明まさあきらもだが、水田みずた養陸ようりくくちふさがれているものとおもっていた。

 それは探索たんさくたった庭番にわばんにしてもそうであった。

 だがあん相違そういして、水田みずた養陸ようりくくちふさがれることなく、それどころか町医者まちいしゃとして公的こうてき立場たちばたもつづけていたのだ。

 無論むろんこそ水谷みずたに梅秀ばいしゅうあらためてはいたものの、それでも町医者まちいしゃとして診療所しんりょうじょ開業かいぎょう出来できあたり、忠休ただよしから「成功せいこう報酬ほうしゅう」として、

「それ相応そうおうの…」

 わるくないがく行渡ゆきわたったものとおもわれる。

 そのてん忠休ただよしはある意味いみ、「律儀りちぎ」と言えた。

 普通ふつう、この場合ばあいくちふさぐのが「常道じょうどう」であったからだ。

 さて、庭番にわばん水田みずた養陸ようりくこと水谷みずたに梅秀ばいしゅう身柄みがら拘束こうそくよう拉致らちすると、その身柄みがら稲葉いなば正明まさあきら分家筋ぶんけすじである稲葉主計いなばかずえ正存まさよし屋敷やしきへと移送いそうした。

 無論むろん稲葉いなば正明まさあきら指図さしずによるものであり、正明まさあきら庭番にわばんより、水田みずた養陸ようりく水谷みずたに梅秀ばいしゅうあらためて、四谷よつやにて町医者まちいしゃをしていることをつたえるや、それをそのまま、治済はるさだつたえた。勿論もちろん将軍しょうぐん家治いえはるつたえるよりもさきに、であった。

 すると治済はるさだ家治いえはるにはその事実じじつつたえぬよう正明まさあきらたのんだのであった。

 それと言うのも、酒井さかい忠休ただよしとの「取引とりひき」の道具どうぐ使つかうつもりでいたからだ。

 そこで稲葉いなば正明まさあきらはいったん分家筋ぶんけすじ主計かずえ正存まさよし屋敷やしき水田みずた養陸ようりくこと水谷みずたに梅秀ばいしゅう身柄みがらあずけることをおもいつき、治済はるさだにその諒承りょうしょうると、庭番にわばん水田みずた養陸ようりくこと水谷みずたに梅秀ばいしゅうの「逮捕たいほ」を指示しじ庭番にわばんもそれをけて水田みずた養陸ようりくこと水谷みずたに梅秀ばいしゅうを「逮捕たいほ」、拉致らちするとその身柄みがら正明まさあきらより指示しじされていたとおり、稲葉主計いなばかずえ屋敷やしきへと移送いそうしたのであった。

 それが5月の初旬しょじゅんのことであった。
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