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寶蓮院による一橋治済への「宣戦布告」と治済の「反応」。そして意次は将軍・家治に田安宗武の遺児・種姫を養女として迎えることを提案す。
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意次は田安家を辞去する際、寶蓮院の、それに登耶と賢丸の見送りを受けた。
田安大奥の座敷にて寶蓮院や、それに登耶と賢丸と向かい合っていた意次は用も済んだので腰を浮かしかけるや、
「されば、お見送りを…」
寶蓮院がそう申出、すると登耶もそれに倣い、我が子、賢丸の手を引いて、意次の見送りに立った。
意次は寶蓮院たちの見送りにより、まずは廣敷向、次いで表向へと出た。
表向に出た際、止せば良いのに家老の大屋遠江守明薫が意次を見咎めた。
昨日9日こそ、大屋明薫は相役の山木筑前守正信共々、御城に登城して老中と会ったものの、今日10日は山木正信が登城し、大屋明薫が留守を預かっていた。
その大屋明薫は寶蓮院によって、田安家と田沼家との仲を引裂かんと欲する一橋治済の「回し者」であると、それも家臣一同の前で見破られてからというもの、皆から莫迦にされていた。
今も意次の来訪を番頭の常見文左衛門から報されてはいなかった。完全に無視されていたのだ。
常見文左衛門が意次を表向より廣敷向へと案内した際には大屋明薫は家老の詰所にて詰めていたので、意次の来訪に気付かなかったが、今は昼時ということで、表向に出て来たところであり、そこへ寶蓮院らの案内により大奥、そして廣敷向から表向へと出て来た意次と「鉢合わせ」をしたのであった。
「主殿頭様…、何故、今時分に当家に…」
大屋明薫の第一声はそれだった。
老中としての仕事はどうした、サボって当家を訪れたのか―、それが大屋明薫の第一声の真意であり、つまりは意次を非難していた。
意次もそうと察して釈明しようとすると、それを寶蓮院が制し、
「意次殿…、いえ、主殿頭様は、お悔やみの為に態々、当家へと、お運び下されたのだ」
意次の代わりに大屋明薫にそう釈明、と言うよりは一喝した。
寶蓮院は「意次殿」と言いかけて、慌てて「主殿頭様」と言直した。
意次は田安家との縁を深めるべく、寶蓮院や登耶に対しては、
「何卒、意次と、お気軽に御呼び下され度…」
そう願ったのだ。主殿頭という官職名と呼ばれるよりも諱、所謂、「ファーストネーム」で呼んでくれる方がより親近感が増すというものである。
寶蓮院にしろ登耶にしろ、意次のその気持ちを汲取ってくれ、今し方までの様に、
「大奥にて余人を交えずに…」
逢う際には「意次殿」と呼んだ。
意次としては、「意次」と呼捨てにしてくれても一向に構わず、その旨、寶蓮院や登耶にも伝えたことがあったが、しかしこれは寶蓮院と登耶が揃って拒否した。
「老職にある御方を呼捨てにする訳には参りませぬ…」
それが寶蓮院と登耶の意見であり、寶蓮院と登耶の二人はどこまでも律儀であった。
その律儀さは今、この場においても発揮された格好である。
さて、寶蓮院は続け様、
「それでも主殿頭様が御老中の職を投出し、当家へと足を運んだと思い度ば、そう思うが良かろう…、或いは上様に対し、主殿頭様が職責放棄のかどにより告口でも致すが良かろう…、否…、そなたにとっての上様とはさしずめ、一橋民部卿様であろうかの…」
明薫に叩き付けるかの様にそう言い、明薫の自尊心をズタズタに引裂いた。
結果、大屋明薫はその場に居合わせた外の田安家臣の嘲笑、失笑を買った。これで益々、明薫が田安家中の最高位たる家老であるにもかかわらず、それ以下の家臣から莫迦にされるのは間違いない。
尤も、そんな大屋明薫に味方をしない者がいない訳ではなく、番頭の一人、竹本要人正美である。
「畏れながら…、この竹本要人を差置かれて、大奥へと人を招かれましては小姓頭としての立場が…」
竹本要人は番頭であると同時に小姓頭をも兼ねていた。
つまりは番頭として表向の警備部門の責任者であると同時に、中奥を兼ねた大奥の警備部門の責任者でもあった。その為の小姓頭であった。
それ故、大奥に人を招く際には、仮令、それが老中の田沼意次であろうとも、小姓頭として中奥を兼ねたる大奥の警備部門の責任者たる自分にも一声かけて欲しいと、竹本要人はそう抗議していたのだ。
つまりは自分を蔑ろ、要は「仲間外れ」にしないで欲しいと、寶蓮院にそう抗議、と言うよりは懇願していたのだ。
だから正確には大屋明薫の為ではなく、己の面子の為に過ぎない。
それが証拠に、竹本要人など、誰よりも大屋明薫を莫迦にしており、その激しさたるや、同じく明薫を莫迦にしている外の者からも窘められる程であった。
尤も、竹本要人が寶蓮院に抗議したのはそれだけではなく、意次への少なからぬ反感があった。即ち、
「伯父・正綱が御側御用取次に昇格を果たせなかったのは意次の所為だ…」
件の蟠りからであった。
寶蓮院もそれは分かっていたので、そこでその蟠りを解くかの様に、
「されば主殿頭様は賢丸にこの田安家を継がしめるべく、既に内定せし白河松平家と賢丸との養子縁組を白紙に戻そうと…、その為に力を尽くそうと、それを伝えるべく、態々、この田安家へと足を運ばれたのだ…」
竹本要人にそれを伝えた。
それで竹本要人もそれまでの仏頂面を一変、笑顔を、それも満面の笑顔を浮かべつつ、「そは…、真実でござりまするか?」と聞返した。
それに対して寶蓮院も「真実ぞ…」と応じたことから、竹本要人は意次に対する評価を一変させた。蟠りを解き、意次を見直した程である。
それと言うのも賢丸定信は竹本要人が伯母・本徳院古牟が産んだ宗武、つまりは従兄が子であり、竹本要人にとっては従甥に当たる。
意次が竹本要人の従甥・賢丸定信が田安家を継げる様、尽力を申出てくれたことで、竹本要人は意次を見直したのであった。
だが寶蓮院はそんな竹本要人に冷水でも浴びせかけるかの如く、
「なれど…、この寶蓮院が拝辞致した…」
そう告げたのであった。
これには実際、竹本要人は冷水どころか氷水をぶっかけられた思いであった。
「なっ…、何故に…」
意次からの折角の申出を拝辞、断ったのかと、竹本要人は寶蓮院に対して抗議の声を上げた。
「されば白河松平家と賢丸との養子縁組は畏れ多くも上様が御裁許あそばされ、それを今になって、賢丸にこの田安家を継がしめたいばかりに白紙に戻しては上様の御威光に瑕を付けるのみならず、将軍家たる御三卿、それも筆頭の田安家は上様の御威光…、公益よりも私…、私益を優先させたのかと、左様に誹らるるは必定にて、されば天下の御政道も立ち行くまいて…」
寶蓮院は意次を諭したのと同様、否、それ以上に竹本要人を諭した。
竹本要人も寶蓮院からそう諭されては反論のしようがなかった。
が、それで納得した訳ではなく、思わず登耶の方を見た。
寶蓮院は斯様に申しておるが、賢丸の実母たる登耶はどうなのだ―、竹本要人が登耶へと注ぐ視線はそう物語っていた。
賢丸は寶蓮院が養母として育てたとは申せ、あくまで登耶の腹から産まれた子であり、そこで寶蓮院としては如何に己が育てた子とは申せ、実の子ではないのだから、田安家を継げなくとも構わない、もっと言えば妾腹の賢丸には田安家を継いで欲しくないと、そう思っており、だからこそ、さも尤もらしい口実で意次からの折角の申出を断ったのではあるまいか―、竹本要人はそう考えていた。
だが寶蓮院には竹本要人の考えていることなど「お見通し」であり、寶蓮院は竹本要人のその思いをピタリと言当てみせると、
「香詮院殿も思いはこの寶蓮院と同じぞ…」
そう付加えたのであった。
すると香詮院こと登耶もそれを受け、
「如何にも寶蓮院様が仰せの通りにて…、我が子可愛さから既に上様が御許しあそばされし白河松平家との養子縁組を解消するなどとは、とんでもないことにて…」
竹本要人にそう応じたことから、竹本要人もそうなってはぐうの音も出なかった。
かくして寶蓮院は竹本要人を黙らせるや、
「されば大屋遠江よ…、この件で田安家に内訌を起こそうとも無駄ぞ…、何しろこの寶蓮院と香詮院殿とは一心同体にて…、加えて賢丸も田安家を継げないことは良く承知しておるによって…、左様、一橋民部に告口致すが良かろうっ!」
明薫にそう叩き付けたのであった。それはさしずめ、寶蓮院による一橋治済に対する「宣戦布告」であった。
寶蓮院による治済へのその「宣戦布告」だが、やはり治済のもう一人の「手先」である中田左兵衛によりその日の内に治済へと伝えられた。
治済は中田左兵衛より、正しくはその書状により寶蓮院の件の「宣戦布告」を伝えられるや苦笑したものである。
田安家と田沼家―、意次との離間に失敗した治済は確かに、寶蓮院の「読み」通り、田安家に内訌を、紛争を起こさせ様かと、考えたこともあった。
即ち、寶蓮院と登耶との離間である。
田安家当主の宗武の正室たる寶蓮院と側室の登耶、その二人が宗武亡き後、田安家の相続を巡って争う―、腹を痛めた我が子・賢丸に田安家を相続させたい登耶に対して、先に決まっていた白河松平家との養子縁組を盾に、これに反対する寶蓮院―、実に分かり易い構図であり、そのまま芝居にでも出来そうな筋立てであった。
だが実際には寶蓮院にしろ登耶にしろ、そして賢丸にしろ、治済のそんな筋書に踊らされる程、愚かではなかったらしい。
治済はそうと分かると、更に方針変更、
「家基暗殺が成就の暁には…、田安家も家基の暗殺に一枚噛んでいた…、周囲にそう思わせようぞ…」
即ち、田安家は賢丸にどうしても田安家を相続させたいと思い、そこで次期将軍奪取の野望に燃える清水家、その当主たる重好と、更には英邁な家基が目障りな意次、この三者間である種の「密約」が、
「家基暗殺成功の暁には清水重好が家基に代わり次期将軍職を、意次には息・意知を西之丸老中に取立てると同時に、意次も重好政権下においても本丸老中の地位の安泰、そして田安家には、賢丸に田安家を継がせてやる…、仮令、既に白河松平家の養嗣子として迎えられていとしても、これを離縁の上で改めて賢丸に田安家を相続させる…」
斯かる「密約」が結ばれ、その「密約」の下に、家基の暗殺を実行した―、治済は斯かる噂をでっち上げることを決意した。
一方、意次はと言うと、治済の思惑、と言うよりは陰謀など知る由もなく、翌日の11日に登城するや、将軍・家治に対して、前日、病気と称して田安家へと参ったことをまずは詫び、その上で寶蓮院たちとの「やり取り」について語ってきかせた。
それに対して家治はと言うと、元より意次の「サボり」など問題にするつもりはなく、それよりも寶蓮院や登耶、そして賢丸の実に殊勝なる態度に大いに感じ入った。
意次はそんな家治に対して種姫を将軍家、即ち、家治の養女として迎えることを提案したのであった。
種姫とは宗武がやはり登耶との間に生した娘であり、賢丸とは同腹の兄妹にて、やはり賢丸と共に寶蓮院によって育てられた。
意次としては賢丸に田安家を継がせてやれなかった、その「罪滅ぼし」から種姫を将軍・家治の養女として迎えることを提案し、家治も意次のそんな気持ちを汲取り、種姫を養女として迎えることにした。
田安大奥の座敷にて寶蓮院や、それに登耶と賢丸と向かい合っていた意次は用も済んだので腰を浮かしかけるや、
「されば、お見送りを…」
寶蓮院がそう申出、すると登耶もそれに倣い、我が子、賢丸の手を引いて、意次の見送りに立った。
意次は寶蓮院たちの見送りにより、まずは廣敷向、次いで表向へと出た。
表向に出た際、止せば良いのに家老の大屋遠江守明薫が意次を見咎めた。
昨日9日こそ、大屋明薫は相役の山木筑前守正信共々、御城に登城して老中と会ったものの、今日10日は山木正信が登城し、大屋明薫が留守を預かっていた。
その大屋明薫は寶蓮院によって、田安家と田沼家との仲を引裂かんと欲する一橋治済の「回し者」であると、それも家臣一同の前で見破られてからというもの、皆から莫迦にされていた。
今も意次の来訪を番頭の常見文左衛門から報されてはいなかった。完全に無視されていたのだ。
常見文左衛門が意次を表向より廣敷向へと案内した際には大屋明薫は家老の詰所にて詰めていたので、意次の来訪に気付かなかったが、今は昼時ということで、表向に出て来たところであり、そこへ寶蓮院らの案内により大奥、そして廣敷向から表向へと出て来た意次と「鉢合わせ」をしたのであった。
「主殿頭様…、何故、今時分に当家に…」
大屋明薫の第一声はそれだった。
老中としての仕事はどうした、サボって当家を訪れたのか―、それが大屋明薫の第一声の真意であり、つまりは意次を非難していた。
意次もそうと察して釈明しようとすると、それを寶蓮院が制し、
「意次殿…、いえ、主殿頭様は、お悔やみの為に態々、当家へと、お運び下されたのだ」
意次の代わりに大屋明薫にそう釈明、と言うよりは一喝した。
寶蓮院は「意次殿」と言いかけて、慌てて「主殿頭様」と言直した。
意次は田安家との縁を深めるべく、寶蓮院や登耶に対しては、
「何卒、意次と、お気軽に御呼び下され度…」
そう願ったのだ。主殿頭という官職名と呼ばれるよりも諱、所謂、「ファーストネーム」で呼んでくれる方がより親近感が増すというものである。
寶蓮院にしろ登耶にしろ、意次のその気持ちを汲取ってくれ、今し方までの様に、
「大奥にて余人を交えずに…」
逢う際には「意次殿」と呼んだ。
意次としては、「意次」と呼捨てにしてくれても一向に構わず、その旨、寶蓮院や登耶にも伝えたことがあったが、しかしこれは寶蓮院と登耶が揃って拒否した。
「老職にある御方を呼捨てにする訳には参りませぬ…」
それが寶蓮院と登耶の意見であり、寶蓮院と登耶の二人はどこまでも律儀であった。
その律儀さは今、この場においても発揮された格好である。
さて、寶蓮院は続け様、
「それでも主殿頭様が御老中の職を投出し、当家へと足を運んだと思い度ば、そう思うが良かろう…、或いは上様に対し、主殿頭様が職責放棄のかどにより告口でも致すが良かろう…、否…、そなたにとっての上様とはさしずめ、一橋民部卿様であろうかの…」
明薫に叩き付けるかの様にそう言い、明薫の自尊心をズタズタに引裂いた。
結果、大屋明薫はその場に居合わせた外の田安家臣の嘲笑、失笑を買った。これで益々、明薫が田安家中の最高位たる家老であるにもかかわらず、それ以下の家臣から莫迦にされるのは間違いない。
尤も、そんな大屋明薫に味方をしない者がいない訳ではなく、番頭の一人、竹本要人正美である。
「畏れながら…、この竹本要人を差置かれて、大奥へと人を招かれましては小姓頭としての立場が…」
竹本要人は番頭であると同時に小姓頭をも兼ねていた。
つまりは番頭として表向の警備部門の責任者であると同時に、中奥を兼ねた大奥の警備部門の責任者でもあった。その為の小姓頭であった。
それ故、大奥に人を招く際には、仮令、それが老中の田沼意次であろうとも、小姓頭として中奥を兼ねたる大奥の警備部門の責任者たる自分にも一声かけて欲しいと、竹本要人はそう抗議していたのだ。
つまりは自分を蔑ろ、要は「仲間外れ」にしないで欲しいと、寶蓮院にそう抗議、と言うよりは懇願していたのだ。
だから正確には大屋明薫の為ではなく、己の面子の為に過ぎない。
それが証拠に、竹本要人など、誰よりも大屋明薫を莫迦にしており、その激しさたるや、同じく明薫を莫迦にしている外の者からも窘められる程であった。
尤も、竹本要人が寶蓮院に抗議したのはそれだけではなく、意次への少なからぬ反感があった。即ち、
「伯父・正綱が御側御用取次に昇格を果たせなかったのは意次の所為だ…」
件の蟠りからであった。
寶蓮院もそれは分かっていたので、そこでその蟠りを解くかの様に、
「されば主殿頭様は賢丸にこの田安家を継がしめるべく、既に内定せし白河松平家と賢丸との養子縁組を白紙に戻そうと…、その為に力を尽くそうと、それを伝えるべく、態々、この田安家へと足を運ばれたのだ…」
竹本要人にそれを伝えた。
それで竹本要人もそれまでの仏頂面を一変、笑顔を、それも満面の笑顔を浮かべつつ、「そは…、真実でござりまするか?」と聞返した。
それに対して寶蓮院も「真実ぞ…」と応じたことから、竹本要人は意次に対する評価を一変させた。蟠りを解き、意次を見直した程である。
それと言うのも賢丸定信は竹本要人が伯母・本徳院古牟が産んだ宗武、つまりは従兄が子であり、竹本要人にとっては従甥に当たる。
意次が竹本要人の従甥・賢丸定信が田安家を継げる様、尽力を申出てくれたことで、竹本要人は意次を見直したのであった。
だが寶蓮院はそんな竹本要人に冷水でも浴びせかけるかの如く、
「なれど…、この寶蓮院が拝辞致した…」
そう告げたのであった。
これには実際、竹本要人は冷水どころか氷水をぶっかけられた思いであった。
「なっ…、何故に…」
意次からの折角の申出を拝辞、断ったのかと、竹本要人は寶蓮院に対して抗議の声を上げた。
「されば白河松平家と賢丸との養子縁組は畏れ多くも上様が御裁許あそばされ、それを今になって、賢丸にこの田安家を継がしめたいばかりに白紙に戻しては上様の御威光に瑕を付けるのみならず、将軍家たる御三卿、それも筆頭の田安家は上様の御威光…、公益よりも私…、私益を優先させたのかと、左様に誹らるるは必定にて、されば天下の御政道も立ち行くまいて…」
寶蓮院は意次を諭したのと同様、否、それ以上に竹本要人を諭した。
竹本要人も寶蓮院からそう諭されては反論のしようがなかった。
が、それで納得した訳ではなく、思わず登耶の方を見た。
寶蓮院は斯様に申しておるが、賢丸の実母たる登耶はどうなのだ―、竹本要人が登耶へと注ぐ視線はそう物語っていた。
賢丸は寶蓮院が養母として育てたとは申せ、あくまで登耶の腹から産まれた子であり、そこで寶蓮院としては如何に己が育てた子とは申せ、実の子ではないのだから、田安家を継げなくとも構わない、もっと言えば妾腹の賢丸には田安家を継いで欲しくないと、そう思っており、だからこそ、さも尤もらしい口実で意次からの折角の申出を断ったのではあるまいか―、竹本要人はそう考えていた。
だが寶蓮院には竹本要人の考えていることなど「お見通し」であり、寶蓮院は竹本要人のその思いをピタリと言当てみせると、
「香詮院殿も思いはこの寶蓮院と同じぞ…」
そう付加えたのであった。
すると香詮院こと登耶もそれを受け、
「如何にも寶蓮院様が仰せの通りにて…、我が子可愛さから既に上様が御許しあそばされし白河松平家との養子縁組を解消するなどとは、とんでもないことにて…」
竹本要人にそう応じたことから、竹本要人もそうなってはぐうの音も出なかった。
かくして寶蓮院は竹本要人を黙らせるや、
「されば大屋遠江よ…、この件で田安家に内訌を起こそうとも無駄ぞ…、何しろこの寶蓮院と香詮院殿とは一心同体にて…、加えて賢丸も田安家を継げないことは良く承知しておるによって…、左様、一橋民部に告口致すが良かろうっ!」
明薫にそう叩き付けたのであった。それはさしずめ、寶蓮院による一橋治済に対する「宣戦布告」であった。
寶蓮院による治済へのその「宣戦布告」だが、やはり治済のもう一人の「手先」である中田左兵衛によりその日の内に治済へと伝えられた。
治済は中田左兵衛より、正しくはその書状により寶蓮院の件の「宣戦布告」を伝えられるや苦笑したものである。
田安家と田沼家―、意次との離間に失敗した治済は確かに、寶蓮院の「読み」通り、田安家に内訌を、紛争を起こさせ様かと、考えたこともあった。
即ち、寶蓮院と登耶との離間である。
田安家当主の宗武の正室たる寶蓮院と側室の登耶、その二人が宗武亡き後、田安家の相続を巡って争う―、腹を痛めた我が子・賢丸に田安家を相続させたい登耶に対して、先に決まっていた白河松平家との養子縁組を盾に、これに反対する寶蓮院―、実に分かり易い構図であり、そのまま芝居にでも出来そうな筋立てであった。
だが実際には寶蓮院にしろ登耶にしろ、そして賢丸にしろ、治済のそんな筋書に踊らされる程、愚かではなかったらしい。
治済はそうと分かると、更に方針変更、
「家基暗殺が成就の暁には…、田安家も家基の暗殺に一枚噛んでいた…、周囲にそう思わせようぞ…」
即ち、田安家は賢丸にどうしても田安家を相続させたいと思い、そこで次期将軍奪取の野望に燃える清水家、その当主たる重好と、更には英邁な家基が目障りな意次、この三者間である種の「密約」が、
「家基暗殺成功の暁には清水重好が家基に代わり次期将軍職を、意次には息・意知を西之丸老中に取立てると同時に、意次も重好政権下においても本丸老中の地位の安泰、そして田安家には、賢丸に田安家を継がせてやる…、仮令、既に白河松平家の養嗣子として迎えられていとしても、これを離縁の上で改めて賢丸に田安家を相続させる…」
斯かる「密約」が結ばれ、その「密約」の下に、家基の暗殺を実行した―、治済は斯かる噂をでっち上げることを決意した。
一方、意次はと言うと、治済の思惑、と言うよりは陰謀など知る由もなく、翌日の11日に登城するや、将軍・家治に対して、前日、病気と称して田安家へと参ったことをまずは詫び、その上で寶蓮院たちとの「やり取り」について語ってきかせた。
それに対して家治はと言うと、元より意次の「サボり」など問題にするつもりはなく、それよりも寶蓮院や登耶、そして賢丸の実に殊勝なる態度に大いに感じ入った。
意次はそんな家治に対して種姫を将軍家、即ち、家治の養女として迎えることを提案したのであった。
種姫とは宗武がやはり登耶との間に生した娘であり、賢丸とは同腹の兄妹にて、やはり賢丸と共に寶蓮院によって育てられた。
意次としては賢丸に田安家を継がせてやれなかった、その「罪滅ぼし」から種姫を将軍・家治の養女として迎えることを提案し、家治も意次のそんな気持ちを汲取り、種姫を養女として迎えることにした。
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