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一橋治済は西之丸奥医師として次期将軍・家基に仕える法眼の小川玄達子雍とその甥である山添宗允直辰をも籠絡、家基暗殺計画の共犯者に仕立てていた。
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話は一昨年の安永5(1776)年5月にまで遡る。
安永5(1776)年5月、家基は麻疹に罹患り、そこで西之丸奥医師の小川子雍が同じく西之丸奥医師の山添宗允直辰と共に療治に当たった。
これは小川子雍と山添直辰の2人が、
「是非とも大納言様の療治に当たらせて頂き度…」
西之丸奥医師のリーダー、法印の吉田桃源院善正に名乗り出たことによる。
実は小川子雍と山添直辰の2人は実の叔父と甥の関係にあり、子雍が実姉が小普請医師であった山添宗積直之との間にもうけたのが直辰であった。
それ故、西之丸奥医師団の中でも、小川子雍と山添直辰は実の叔父と甥の関係からいつも仲良く連んでおり、そんな2人が家基の治療に当たらせて欲しいと、西之丸医師団のリーダー、吉田善正に売込んだんも至極、当然の流れと言えた。
ここで家基を見事、快復に導くことが出来れば、法眼から法印への昇格の道が開かれるからだ。
家基が麻疹に罹患った安永5(1776)年の時点で小川子雍と山添直辰の2人は既に法眼であり、更に法印へと昇格することを望んでおり、その為には医師としての実力があることを証明しなければならない。
そこで小川子雍と山添直辰の2人は西之丸奥医師団のリーダーである吉田善正に家基の治療をさせて欲しいと、己を売込んだのだ。
これに対して吉田善正も小川子雍や山添直辰のその「思惑」もとい野心には即座に気付いたものの、それ自体は責められるべきものではなかった。
幕府の医官ならば、それも上昇志向が強ければ、法印になりたいと、そう野心を持つのが普通であり、吉田善正からしてそうであった。
吉田善正はそれ故に医師としての腕を磨き、外の医官と切磋琢磨、結果、家基に仕える奥医師団のリーダーにまで登り詰めたのだ。
吉田善正はそれ故に、小川子雍と山添直辰の2人の野心、
「法印になりたい…」
その野心が理解出来たので、そこで子雍と直辰の2人に家基の治療を任せることにした。
将軍にしろ、次期将軍にしろ、どの医師に治療を任せるかは法印に委ねられていた。
西之丸の場合、法印は当時も今も吉田善正唯一人であり、善正にその「決定権」があった。
かくして小川子雍と山添直辰の2人が家基の麻疹の治療に当たる訳だが、しかし結果は惨憺たるものであった。
表向きこそ、小川子雍と山添直辰の2人が家基の麻疹の治療に当たり、結果、治療が功を奏して、子雍には褒美が下されたものの、実際には本丸奥医師の池原良誠が治療の賜物であった。
小川子雍と山添直辰の2人は家基の麻疹の治療を仰せ付かったは良いものの、元来、2人は共に腕が未熟であり、益体もない薬を家基に投与し続け、結果、深刻な事態を引起こしたのだ。
即ち、吉田善正ですら手の施し様がない程に家基の容態を悪化させてしまったのだ。
ちなみにこの時点で家基が死んでいれば、治済は手を汚さずに次期将軍職を手に入れられていたやも知れぬ。
だが、幸いにも―、治済にしてみれば生憎と、そうはならなかった。
吉田善正は小川子雍と山添直辰の2人に罵声を浴びせて直ちに家基の治療から引き摺り下ろすと、直ちに本丸奥医師の法眼、森雲禎當定に相談を持掛けた。
「大納言様の治療を小川子雍と山添直辰の2人の莫迦に任せたは良いものの、この莫迦共は大納言様に益体もない、それどころか麻疹には害となる薬を投与し、この善正も手の施し様がない程に大納言様の症状を悪化させてしまった…、まだ上様には、それに近侍せし御側御用取次や、或いは御老中らには気付かれてはいないものの、なれどこのことが明らかとならば、大納言様の御命を危険に晒した子雍と直辰の2人の莫迦は無論のこと、そんな莫迦2人に大納言様の治療を任せてしまったこの善正とて無事では済まぬ…、そこでだ、森殿、誰か本丸にて名医はおらぬか…」
吉田善正は森當定にそう相談を持掛けた、と言うよりは助けを求めたのだ。
ところで吉田善正が何故、森當定に助けを求めたのかと言うと、それは善正が実弟にして田安家臣の石寺伊織章貞が森當定の長女を娶っていたからだ。
その森當定だが、本丸奥医師に取立てられて日が浅い、池原良誠の名を挙げたのであった。
池原良誠は安永4(1775)年11月に田沼意次の推挙により奥医師に取立たてられたばかりであるが、しかし医師としての実力という点では本丸奥医師どころか、全ての医官の中でも一頭地を抜いていた。
それは本丸奥医師団のリーダーである法印の河野仙壽院通頼も認めるところであった。
それ故、池原良誠は本丸奥医師に取立てられたばかりだと言うに、河野通頼の強力な推挙もあって、その翌年の日光社参に扈従することが許されたのだ。
吉田善正は森當定から池原良誠の名医ぶりについて聞かされるや、この池原良誠を至急、家基の治療に当たらせて貰え様、取計らって貰いたいと、當定に懇願、泣付いた。
事は急を要す―、家基の命が懸かっており、そこで森當定は早速にも本丸奥医師団のリーダーである法印の河野通頼にこの件を上申に及んだ。
すると河野通頼も森當定からの上申を受けて、将軍・家治に対して、家基の治療に池原良誠をも召加えて貰いたいと、懇願したのだ。
それに対して家治は何の疑念も持たずに池原良誠をも家基の治療団に加えたのだ。
その池原良誠に対しては森當定より「真実」が伝えられた。
即ち、前任者とも言うべき小川子雍と山添直辰の両名による「医療ミス」の所為で家基は重態に陥っており、そこで池原良誠の腕で何とか、家基の命を救ってやって欲しいと、そう森當定より良誠へと告げられたのだ。
かくして池原良誠は急ぎ西之丸へと乗込むと、小川子雍と山添直辰の2人を押し退けて家基の治療に当たり始め、すると家基は良誠の治療の甲斐あって、危機を脱し、快復したのだ。
こうして池原良誠には褒美が下されたのだが、しかし同時に小川子雍にも褒美が下された。
将軍・家治は元より、御側御用取次の稲葉正明たちも、家基の麻疹を治療し、快復へと導いたのは池原良誠と共に、小川子雍と山添直辰の2人の医師であると、そう信じて疑わなかったからだ。
そこで家治は小川子雍と山添直辰、そして池原良誠の3人に褒美を下そうとした。
家治は、それに側近の御側御用取次や老中らも家基が快復したこの時点においても、家基の治療に当たったのは、それも快復に導いたのは小川子雍と山添直辰、そして池原良誠の3人であると、そう信じて疑わなかった。
だが、「現場レベル」においてはそれは猛反発を招いた。
即ち、実際には池原良誠一人が家基の治療に携わったことを知っている、それも西之丸奥医師団のリーダーである吉田善正からの要請に基づいて池原良誠を西之丸へと派した本丸奥医師団のリーダーである河野通頼や、吉田善正からの要請を河野通頼へと取次いだ森當定が猛反発した。
家基を実際に快復へと導いた池原良誠だけでなく、それとは逆に、家基を一時は快復不能なまでに重篤にさせた、正に医療過誤を仕出かした小川子雍や山添直辰にまで褒美が下されることに猛反発したのだ。
とりわけ森當定は猛反発した。
それと言うのも森當定は吉田善正の縁者であるばかりでなく、池原良誠の縁者でもあったからだ。
即ち、森當定が嫡子にして、同じく本丸奥医師の雲悦當光が池原良誠の三女を娶っており、しかも家基が麻疹に罹患るより前年、つまりは3年前の安永4(1775)年には吉五郎當寛なる嫡子までもうけていた。
森當定にとっては吉五郎當寛は嫡孫であり、池原良誠にとっても大事な娘が生んだ子という訳で外孫に当たる。
斯かる次第で森當定は吉田善正以上に池原良誠とは太い紐帯で結ばれていると言っても過言ではなく、それ故、池原良誠一人に褒美が下されるべきだと主張、将軍・家治にその旨、上申しようとし、森當定や池原良誠の直属の上司に当たる本丸奥医師団のリーダーである法印の河野通頼も森當定を支持した。
家基を実際い快復へと導いた本丸奥医師の池原良誠だけでなく、それとは正反対に家基を殺しかけた西之丸奥医師の小川子雍や山添直辰にまで褒美が下されては、本丸奥医師団の沽券にかかわるからだ。
だが当の本人である池原良誠がそれを制した。
「ここで、この良誠一人に褒美が下されましては、小川殿や山添殿は大納言様が療治には何の役にも立たなかったと、左様、天下に晒すも同然にて…」
良誠は将軍・家治への上申という過激な行動に出ようとする森當定や、それを支持するリーダーの河野通頼に対して、己一人に褒美が下されることを拝辞したのだ。
否、実際、小川子雍と山添直辰は家基の治療には何ら役に立なかったどころか、家基を殺しかけた。
それでもここは、
「穏便に…」
良誠だけでなく、小川子雍や山添直辰にも褒美が下されるのが懸命であると、良誠当人がそう主張したのだ。
成程、ここで河野通頼や森當定が一時の感情、激情に流されて将軍・家治に真実をぶちまければ、本丸奥医師団と西之丸奥医師団との間に亀裂を生じさせることにもなりかねず、それは決して好ましいことではなかった。
そこで本丸奥医師団のリーダー、河野通頼は池原良誠の拝辞もあり、良誠だけでなく、小川子雍や山添直辰にも褒美が下されることを承知したのだが、すると今度はやはり池原良誠が家基を救ったことを知る西之丸奥医師団の吉田善正が、
「それでは池原良誠に申訳なく…」
小川子雍か山添直辰のどちらか一方にだけ褒美が下されれば充分と、河野通頼にその意向を示したのだ。
そこで河野通頼は年長者の小川子雍を選び、
「大納言様を実際に御平癒へと導き申上げましたるは、小川子雍と池原良誠の2人にて、山添直辰は2人を援けたに過ぎず…」
そこで小川子雍と池原良誠の2人にだけ御褒美をと、家治にそう上申したのだ。
すると家治も河野通頼からのこの上申を真に受け、そこで小川子雍と池原良誠の2人にだけ家基を見事に治療、快復へと導いたことに対する褒美を下したのであった。
これで総てが丸く、収まるべきところに収まったかの様に思われたが、しかし森當定だけは収まらず、事の次第を本丸の表番医師にだけ内報に及んだのだ。
そこには勿論、表番医師の一人である天野敬登や峯岸瑞興も含まれており、そこでこの2人はこれを治済へと更に内報に及んだ。
この時、既に天野敬登と峯岸瑞興は治済に取込まれていたからだ。のみならず、家基暗殺計画の「共犯者」に成下がっていた。
一方、治済は天野敬登と峯岸瑞興からの内報を受けて早速、小川子雍と山添直辰と連絡を取ることにした。
これで西之丸奥医師として家基に近似する小川子雍と山添直辰の2人をも取込み、あまつさえ家基暗殺計画の「共犯者」に仕立て上げることが出来れば正に、
「鬼に金棒…」
であった。
問題は如何にして小川子雍と山添直辰に連絡を取るか、であった。
そこで名乗りを上げたのが治済が近習番を相勤むる村山惣五郎忠輔であった。
村山惣五郎は嘗て、一橋家の始祖にして治済が父、宗尹にやはり近習番として仕えていた村山藤九郎有成が次男であった。
この村山藤九郎には惣五郎の外にも吉之助元章なる嫡子、長男がいたのだが、村山藤九郎はその吉之助を兄にして寄合医師の村山元格元珍の養嗣子に差出したのだ。
御三卿家臣とは申せ、所詮は一大名家の陪臣の嫡子と幕府の医官の養嗣子とでは、幕府の医官の養嗣子の方が格上であった。
村山元珍は嫡子どころか子宝に恵まれず、そこで2人もの男児に恵まれた実弟の藤九郎に、
「どちらか一人を養嗣子に貰えまいか…」
そう相談を持掛けたのであった。
そこで村山藤九郎は「それなれば…」と、嫡子の吉之助を養嗣子として兄、元珍に差出したのであった。
それが明和7(1770)年6月、村山元珍が歿する直前のことであり、こうして吉之助元章は直ぐに伯父・元珍の家督を継いで小普請医師に列したは良いものの、それから直ぐに病に罹患り、その翌年の明和8(1771)年9月に歿してしまったのだ。まだ18であり、妻女も娶ってはいなかった。
村山吉之助元章は歿する直前、養嗣子を迎えることとした。このまま嫡子もおらず、養嗣子も迎えずに旅立っては、村山家は無嗣改易となるからだ。
そこで村山吉之助が死の直前に迎えたこの養嗣子こそが、件の小川子雍が三男坊、信古であった。
そこで村山惣五郎がまず、村山元古へと連絡を取り、そして元古から更に実父の小川子雍へと連絡を取って貰うこととした。
治済はこの様な手法を用いて、まずは小川子雍と接触を図ることに成功し、次いでその小川子雍の紹介により、その甥に当たる山添直辰とも接触を図ることに成功した。
こうして治済は小川子雍と山添直辰という西之丸奥医師コンビ、もとい実の叔父と甥のコンビと、
「幾度となく…」
密会を重ね、まずは2人を「親・一橋」、「治済シンパ」に仕立て、次いで家基暗殺計画の「共犯者」へと仕立て上げたのだ。
安永5(1776)年5月、家基は麻疹に罹患り、そこで西之丸奥医師の小川子雍が同じく西之丸奥医師の山添宗允直辰と共に療治に当たった。
これは小川子雍と山添直辰の2人が、
「是非とも大納言様の療治に当たらせて頂き度…」
西之丸奥医師のリーダー、法印の吉田桃源院善正に名乗り出たことによる。
実は小川子雍と山添直辰の2人は実の叔父と甥の関係にあり、子雍が実姉が小普請医師であった山添宗積直之との間にもうけたのが直辰であった。
それ故、西之丸奥医師団の中でも、小川子雍と山添直辰は実の叔父と甥の関係からいつも仲良く連んでおり、そんな2人が家基の治療に当たらせて欲しいと、西之丸医師団のリーダー、吉田善正に売込んだんも至極、当然の流れと言えた。
ここで家基を見事、快復に導くことが出来れば、法眼から法印への昇格の道が開かれるからだ。
家基が麻疹に罹患った安永5(1776)年の時点で小川子雍と山添直辰の2人は既に法眼であり、更に法印へと昇格することを望んでおり、その為には医師としての実力があることを証明しなければならない。
そこで小川子雍と山添直辰の2人は西之丸奥医師団のリーダーである吉田善正に家基の治療をさせて欲しいと、己を売込んだのだ。
これに対して吉田善正も小川子雍や山添直辰のその「思惑」もとい野心には即座に気付いたものの、それ自体は責められるべきものではなかった。
幕府の医官ならば、それも上昇志向が強ければ、法印になりたいと、そう野心を持つのが普通であり、吉田善正からしてそうであった。
吉田善正はそれ故に医師としての腕を磨き、外の医官と切磋琢磨、結果、家基に仕える奥医師団のリーダーにまで登り詰めたのだ。
吉田善正はそれ故に、小川子雍と山添直辰の2人の野心、
「法印になりたい…」
その野心が理解出来たので、そこで子雍と直辰の2人に家基の治療を任せることにした。
将軍にしろ、次期将軍にしろ、どの医師に治療を任せるかは法印に委ねられていた。
西之丸の場合、法印は当時も今も吉田善正唯一人であり、善正にその「決定権」があった。
かくして小川子雍と山添直辰の2人が家基の麻疹の治療に当たる訳だが、しかし結果は惨憺たるものであった。
表向きこそ、小川子雍と山添直辰の2人が家基の麻疹の治療に当たり、結果、治療が功を奏して、子雍には褒美が下されたものの、実際には本丸奥医師の池原良誠が治療の賜物であった。
小川子雍と山添直辰の2人は家基の麻疹の治療を仰せ付かったは良いものの、元来、2人は共に腕が未熟であり、益体もない薬を家基に投与し続け、結果、深刻な事態を引起こしたのだ。
即ち、吉田善正ですら手の施し様がない程に家基の容態を悪化させてしまったのだ。
ちなみにこの時点で家基が死んでいれば、治済は手を汚さずに次期将軍職を手に入れられていたやも知れぬ。
だが、幸いにも―、治済にしてみれば生憎と、そうはならなかった。
吉田善正は小川子雍と山添直辰の2人に罵声を浴びせて直ちに家基の治療から引き摺り下ろすと、直ちに本丸奥医師の法眼、森雲禎當定に相談を持掛けた。
「大納言様の治療を小川子雍と山添直辰の2人の莫迦に任せたは良いものの、この莫迦共は大納言様に益体もない、それどころか麻疹には害となる薬を投与し、この善正も手の施し様がない程に大納言様の症状を悪化させてしまった…、まだ上様には、それに近侍せし御側御用取次や、或いは御老中らには気付かれてはいないものの、なれどこのことが明らかとならば、大納言様の御命を危険に晒した子雍と直辰の2人の莫迦は無論のこと、そんな莫迦2人に大納言様の治療を任せてしまったこの善正とて無事では済まぬ…、そこでだ、森殿、誰か本丸にて名医はおらぬか…」
吉田善正は森當定にそう相談を持掛けた、と言うよりは助けを求めたのだ。
ところで吉田善正が何故、森當定に助けを求めたのかと言うと、それは善正が実弟にして田安家臣の石寺伊織章貞が森當定の長女を娶っていたからだ。
その森當定だが、本丸奥医師に取立てられて日が浅い、池原良誠の名を挙げたのであった。
池原良誠は安永4(1775)年11月に田沼意次の推挙により奥医師に取立たてられたばかりであるが、しかし医師としての実力という点では本丸奥医師どころか、全ての医官の中でも一頭地を抜いていた。
それは本丸奥医師団のリーダーである法印の河野仙壽院通頼も認めるところであった。
それ故、池原良誠は本丸奥医師に取立てられたばかりだと言うに、河野通頼の強力な推挙もあって、その翌年の日光社参に扈従することが許されたのだ。
吉田善正は森當定から池原良誠の名医ぶりについて聞かされるや、この池原良誠を至急、家基の治療に当たらせて貰え様、取計らって貰いたいと、當定に懇願、泣付いた。
事は急を要す―、家基の命が懸かっており、そこで森當定は早速にも本丸奥医師団のリーダーである法印の河野通頼にこの件を上申に及んだ。
すると河野通頼も森當定からの上申を受けて、将軍・家治に対して、家基の治療に池原良誠をも召加えて貰いたいと、懇願したのだ。
それに対して家治は何の疑念も持たずに池原良誠をも家基の治療団に加えたのだ。
その池原良誠に対しては森當定より「真実」が伝えられた。
即ち、前任者とも言うべき小川子雍と山添直辰の両名による「医療ミス」の所為で家基は重態に陥っており、そこで池原良誠の腕で何とか、家基の命を救ってやって欲しいと、そう森當定より良誠へと告げられたのだ。
かくして池原良誠は急ぎ西之丸へと乗込むと、小川子雍と山添直辰の2人を押し退けて家基の治療に当たり始め、すると家基は良誠の治療の甲斐あって、危機を脱し、快復したのだ。
こうして池原良誠には褒美が下されたのだが、しかし同時に小川子雍にも褒美が下された。
将軍・家治は元より、御側御用取次の稲葉正明たちも、家基の麻疹を治療し、快復へと導いたのは池原良誠と共に、小川子雍と山添直辰の2人の医師であると、そう信じて疑わなかったからだ。
そこで家治は小川子雍と山添直辰、そして池原良誠の3人に褒美を下そうとした。
家治は、それに側近の御側御用取次や老中らも家基が快復したこの時点においても、家基の治療に当たったのは、それも快復に導いたのは小川子雍と山添直辰、そして池原良誠の3人であると、そう信じて疑わなかった。
だが、「現場レベル」においてはそれは猛反発を招いた。
即ち、実際には池原良誠一人が家基の治療に携わったことを知っている、それも西之丸奥医師団のリーダーである吉田善正からの要請に基づいて池原良誠を西之丸へと派した本丸奥医師団のリーダーである河野通頼や、吉田善正からの要請を河野通頼へと取次いだ森當定が猛反発した。
家基を実際に快復へと導いた池原良誠だけでなく、それとは逆に、家基を一時は快復不能なまでに重篤にさせた、正に医療過誤を仕出かした小川子雍や山添直辰にまで褒美が下されることに猛反発したのだ。
とりわけ森當定は猛反発した。
それと言うのも森當定は吉田善正の縁者であるばかりでなく、池原良誠の縁者でもあったからだ。
即ち、森當定が嫡子にして、同じく本丸奥医師の雲悦當光が池原良誠の三女を娶っており、しかも家基が麻疹に罹患るより前年、つまりは3年前の安永4(1775)年には吉五郎當寛なる嫡子までもうけていた。
森當定にとっては吉五郎當寛は嫡孫であり、池原良誠にとっても大事な娘が生んだ子という訳で外孫に当たる。
斯かる次第で森當定は吉田善正以上に池原良誠とは太い紐帯で結ばれていると言っても過言ではなく、それ故、池原良誠一人に褒美が下されるべきだと主張、将軍・家治にその旨、上申しようとし、森當定や池原良誠の直属の上司に当たる本丸奥医師団のリーダーである法印の河野通頼も森當定を支持した。
家基を実際い快復へと導いた本丸奥医師の池原良誠だけでなく、それとは正反対に家基を殺しかけた西之丸奥医師の小川子雍や山添直辰にまで褒美が下されては、本丸奥医師団の沽券にかかわるからだ。
だが当の本人である池原良誠がそれを制した。
「ここで、この良誠一人に褒美が下されましては、小川殿や山添殿は大納言様が療治には何の役にも立たなかったと、左様、天下に晒すも同然にて…」
良誠は将軍・家治への上申という過激な行動に出ようとする森當定や、それを支持するリーダーの河野通頼に対して、己一人に褒美が下されることを拝辞したのだ。
否、実際、小川子雍と山添直辰は家基の治療には何ら役に立なかったどころか、家基を殺しかけた。
それでもここは、
「穏便に…」
良誠だけでなく、小川子雍や山添直辰にも褒美が下されるのが懸命であると、良誠当人がそう主張したのだ。
成程、ここで河野通頼や森當定が一時の感情、激情に流されて将軍・家治に真実をぶちまければ、本丸奥医師団と西之丸奥医師団との間に亀裂を生じさせることにもなりかねず、それは決して好ましいことではなかった。
そこで本丸奥医師団のリーダー、河野通頼は池原良誠の拝辞もあり、良誠だけでなく、小川子雍や山添直辰にも褒美が下されることを承知したのだが、すると今度はやはり池原良誠が家基を救ったことを知る西之丸奥医師団の吉田善正が、
「それでは池原良誠に申訳なく…」
小川子雍か山添直辰のどちらか一方にだけ褒美が下されれば充分と、河野通頼にその意向を示したのだ。
そこで河野通頼は年長者の小川子雍を選び、
「大納言様を実際に御平癒へと導き申上げましたるは、小川子雍と池原良誠の2人にて、山添直辰は2人を援けたに過ぎず…」
そこで小川子雍と池原良誠の2人にだけ御褒美をと、家治にそう上申したのだ。
すると家治も河野通頼からのこの上申を真に受け、そこで小川子雍と池原良誠の2人にだけ家基を見事に治療、快復へと導いたことに対する褒美を下したのであった。
これで総てが丸く、収まるべきところに収まったかの様に思われたが、しかし森當定だけは収まらず、事の次第を本丸の表番医師にだけ内報に及んだのだ。
そこには勿論、表番医師の一人である天野敬登や峯岸瑞興も含まれており、そこでこの2人はこれを治済へと更に内報に及んだ。
この時、既に天野敬登と峯岸瑞興は治済に取込まれていたからだ。のみならず、家基暗殺計画の「共犯者」に成下がっていた。
一方、治済は天野敬登と峯岸瑞興からの内報を受けて早速、小川子雍と山添直辰と連絡を取ることにした。
これで西之丸奥医師として家基に近似する小川子雍と山添直辰の2人をも取込み、あまつさえ家基暗殺計画の「共犯者」に仕立て上げることが出来れば正に、
「鬼に金棒…」
であった。
問題は如何にして小川子雍と山添直辰に連絡を取るか、であった。
そこで名乗りを上げたのが治済が近習番を相勤むる村山惣五郎忠輔であった。
村山惣五郎は嘗て、一橋家の始祖にして治済が父、宗尹にやはり近習番として仕えていた村山藤九郎有成が次男であった。
この村山藤九郎には惣五郎の外にも吉之助元章なる嫡子、長男がいたのだが、村山藤九郎はその吉之助を兄にして寄合医師の村山元格元珍の養嗣子に差出したのだ。
御三卿家臣とは申せ、所詮は一大名家の陪臣の嫡子と幕府の医官の養嗣子とでは、幕府の医官の養嗣子の方が格上であった。
村山元珍は嫡子どころか子宝に恵まれず、そこで2人もの男児に恵まれた実弟の藤九郎に、
「どちらか一人を養嗣子に貰えまいか…」
そう相談を持掛けたのであった。
そこで村山藤九郎は「それなれば…」と、嫡子の吉之助を養嗣子として兄、元珍に差出したのであった。
それが明和7(1770)年6月、村山元珍が歿する直前のことであり、こうして吉之助元章は直ぐに伯父・元珍の家督を継いで小普請医師に列したは良いものの、それから直ぐに病に罹患り、その翌年の明和8(1771)年9月に歿してしまったのだ。まだ18であり、妻女も娶ってはいなかった。
村山吉之助元章は歿する直前、養嗣子を迎えることとした。このまま嫡子もおらず、養嗣子も迎えずに旅立っては、村山家は無嗣改易となるからだ。
そこで村山吉之助が死の直前に迎えたこの養嗣子こそが、件の小川子雍が三男坊、信古であった。
そこで村山惣五郎がまず、村山元古へと連絡を取り、そして元古から更に実父の小川子雍へと連絡を取って貰うこととした。
治済はこの様な手法を用いて、まずは小川子雍と接触を図ることに成功し、次いでその小川子雍の紹介により、その甥に当たる山添直辰とも接触を図ることに成功した。
こうして治済は小川子雍と山添直辰という西之丸奥医師コンビ、もとい実の叔父と甥のコンビと、
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密会を重ね、まずは2人を「親・一橋」、「治済シンパ」に仕立て、次いで家基暗殺計画の「共犯者」へと仕立て上げたのだ。
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歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
米国戦艦大和 太平洋の天使となれ
みにみ
歴史・時代
1945年4月 天一号作戦は作戦の成功見込みが零に等しいとして中止
大和はそのまま柱島沖に係留され8月の終戦を迎える
米国は大和を研究対象として本土に移動
そこで大和の性能に感心するもスクラップ処分することとなる
しかし、朝鮮戦争が勃発
大和は合衆国海軍戦艦大和として運用されることとなる
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
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しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
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