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安永のトリカブト殺人事件 ~御殿山、花見の殺意~
しおりを挟む家基を鷹狩りに乗じて暗殺、毒殺すると言っても、その場合、その日の鷹狩りの総責任者である小笠原信喜の責は免れまい。
それが仮令、暗殺、毒殺と見破られずに病死として処理されたとしても、将軍・家治は小笠原信喜を絶対に許さぬであろう。
その場合、小笠原信喜は西之丸御側御用取次という「花形」から一気に小普請へと、正に奈落の底へと叩き落とされることになるやも知れなかった。
そうなれば小笠原信喜も黙ってはいまい。最悪、「自爆テロ」を敢行するやも知れなかった。
即ち、身の破滅を覚悟の上で、
「家基は実は毒殺で、それも一橋治済の命によるもの…」
家治に何もかも、ぶちまける恐れがあった。
そこで治済としては信喜に累が及ばぬよう、家基を死に追いやる必要があった。
だがこれは中々の難問と言えた。
小笠原信喜が総責任者を務めた家基の鷹狩りにおいて、その家基が死んだ、しかし総責任者たる信喜には責任が及ばない―、一見、それは不可能であるかの様に思われた。
だが治済はそれを可能にする策を思いつき、それこそが花見であった。
新井宿での鷹狩りともなると、御膳所は東海寺、というのが仕来りであった。
その東海寺の直ぐ隣には御殿山があり、今時分は櫻が満開であった。
そこでだ、東海寺での昼餉の際、家基からの寵愛が篤い西之丸小納戸頭取の新見正則より家基へと、
「今時分は直ぐ隣の御殿山は櫻も満開故、御花見でも…」
その様に提案させるのである。
すると家基のことである。正則の提案なればと、これを受容れ、御殿山へと足を運ぶに違いなかった。
その際、小笠原信喜は花見には同行せず、代わりに平御側の大久保忠翰や、正則とは相役の小納戸頭取、押田岑勝、それに小納戸の三浦左膳や石場弾正、石谷次郎左衛門や坪内五郎左衛門ら、清水家や田沼家と所縁の者を花見に同行させるのである。
そしてその花見において家基が苦しみ出し、そして絶命しとなれば少なくとも小笠原信喜が家基の死の責を問われることはあるまい。
信喜はあくまで鷹狩りの責任者であり、花見の責任者ではないからだ。
しかもその花見を言出したのが新見正則とあらば、花見における家基の死の責を取らねばならぬのは正則ということになる。
治済が遅効性の毒に拘ったのも正にこの点にあった。
さて治済が信喜にその策を授けるや、信喜は鷹狩りに扈従させるべき者の人選後に早速、それも密かに大久保忠翰と新見正則、それに押田岑勝らを呼寄せるや、
「正則から大納言様へと、東海寺での昼餉の折に花見を勧めては貰えまいか…」
まずは正則にそう提案した。
「されば今時分は東海寺の直ぐ隣の御殿山は櫻も満開にて、花見には丁度良い頃合なれども、この信喜から大納言様へと花見を勧め申上げしところで、果たして大納言様がこの信喜が勧めを素直に御聞届けあそばされるかどうか分からぬ…」
信喜は己が家基からはそれ程、信任されていないことを正則に匂わせるや、
「なれど正則なれば、この信喜とは違うて、大納言様の御寵愛が篤く、さればその正則からの花見の勧めともあらば、大納言様も素直に御聞届けになられるであろうぞ…」
正則から家基へと花見を勧めてくれた方がより確実に家基は応じてくれるであろうと、そう説いたのであった。
信喜はその上で、大久保忠翰には正則の勧めに同調して貰うことを頼んだ。
「されば大納言様におかせらては鷹狩りの最中に花見に興ずることに難色を示されるやも知れぬ…、否、本心では正則からの勧めともあらば、今直ぐにでも花見へと、御殿山へと駆付けたいところであろうが、なれど次期将軍としての立場から…」
つまりは鷹狩りはあくまで軍事訓練であり、その軍事訓練たる鷹狩りの「指揮官」とも言うべき家基がその最中、仮令、昼の休憩時であったとしても花見に興じては家臣に示しがつかず、更にはその士気にもかかわると、家基はそう考えて、本心とは裏腹に、折角の正則からの勧めにも直ぐには応じずに難色を示す可能性が高く、そこで平御側たる大久保忠翰からも家基の背中を押して欲しいと、信喜は忠翰にそう頼んでいたのだ。
忠翰からも花見を勧められたとあっては、さしもの家基も素直に応ずるに違いなかったからだ。
信喜はその上で家基の花見には大久保忠翰や新見正則、それに正則の相役である押田岑勝らが同行することを頼んだ。
すると大久保忠翰らも元よりそのつもりであったらしく、
「承知仕った」
忠翰らはそう声を揃えた。
信喜は忠翰らのその返事を聞くや、御膳番を兼ねる小納戸の石谷次郎左衛門らに対しては花見用の弁当を、つまりは「お重」を用意するよう命じた。
本来ならばこの手の「お重」にしても御膳所たる東海寺サイドに予め用意させるものだが、しかしそれでは家基は喜ばぬであろう。
家基により一層、喜んで貰う為には自身が寵愛する石谷次郎左衛門らが「お重」を用意させた方が良いに決まっている。
石谷次郎左衛門ら御膳番の小納戸は皆、信喜のその主張、もとい「大法螺」を真に受けた。
無論、真実はそうではない。
真実はあくまで、家基の死の責を田沼家所縁の石谷次郎左衛門や、或いは清水家所縁の三浦左膳らに被くことにあった。
鷹狩りの当日、家基にはトリカブトの毒と河豚毒とを混入させた朝餉を午前7時頃に摂らせるつもりであった。
それから1時間30分後、即ち、河豚毒が無害化することでトリカブトの毒と河豚毒との拮抗が崩れ、トリカブトの毒が現出する10分前に西之丸御膳奉行の神谷與市郎に改めて家基へと河豚毒を摂取させるつもりであった。
神谷與市郎にはそれから1時間30分毎に家基に河豚毒を摂取、河豚毒が混入した水、その水が入った水筒を家基へと勧めさせるつもりであった。
その場合、家基が昼餉の前、最後に河豚毒を摂取するのは午前11時30分頃ということになる。
正則には昼餉早々―、東海寺にて用意した昼餉に家基が手をつける前に花見を勧めさせる。
その場合、家基は直ぐには応じずに種々のやり取りをするであろうが、それでも10分とはかかるまい。
結果、正午を10分、長く見積っても15分後には腰を上げ、御殿山へと花見に足を運ぶであろう。
その際、大久保忠翰や新見正則、押田岑勝、それに「お重」を抱えた石谷次郎左衛門や三浦左膳らが御供をする。
御殿山は東海寺とは目と花の先、と言うよりは直ぐ隣であり、徒歩でも5分とはかかるまい。
結果、家基たちは遅くとも正午を30分も過ぎた頃には御殿山に着き、櫻の下で花見に興じることであろう。
そしてその際、家基は石谷次郎左衛門や三浦左膳らが用意した「お重」をつつくであろうが、それは家基の体内で河豚毒が無害化することでトリカブトの毒が現出する30分前、といったところであろう。
家基はそうとも知らずに石谷次郎左衛門や三浦左膳らが用意した「お重」をつつき、やがてトリカブトの毒により苦しみ出したとなれば、誰がどう見ても石谷次郎左衛門や三浦左膳らが用意した「お重」に家基が当たったものだと、そう考えるに違いない。
しかもその「お重」に関しては西之丸御膳奉行たる神谷與市郎の毒見は経ていないとなれば、もう完璧に家基の死の責を鷹狩りの総責任者たる信喜には及ぼさずに、家基に花見を勧めた田沼家所縁の新見正則や押田岑勝、それに「お重」を用意したやはり田沼家所縁の石谷次郎左衛門や清水家所縁の三浦左膳らに、もっと言えば意次や重好に被くことが出来るというものである。
それは即ち、家基亡き後の次期将軍レースにおいて、一橋家が、治済が有利な足場を築くことに資する。
家基が清水家所縁の者や、田沼家所縁の者の所為で死んだとなれば、
「清水重好は自が家基に取って代わろうと、そこで田沼意次と手を組んで、家基を死に追いやったのではあるまいか…」
周囲に、それも次期将軍選定の権がある御三家や幕閣諸侯らにそう思わせることが出来る。
そうなれば、清水重好は次期将軍レースから脱落するのは間違いない。
差当たって、事実かどうかは関係ない。斯かる疑惑が噴出すること自体が問題なのである。
斯かる疑惑を抱えた人物を、つまりは重好を次期将軍に据える訳にはいかない―、となると次期将軍の椅子は一橋家に転がり込むことになるだろう。
尤も、それで治済はその「椅子」に、次期将軍という「椅子」に座ることはない。
その「椅子」に座らせるのはあくまで、我が子・豊千代である。
治済はその為に斯かる「シナリオ」を書下ろし、信喜にその「シナリオ」に沿って演じて貰ったのだ。
信喜が石谷次郎左衛門や三浦左膳らに「お重」の用意を命じさせたのも、勿論、治済書下おろしの「シナリオ」に沿って演じた次第である。
そして治済はより確実に我が子、豊千代に次期将軍の「椅子」に座らせてやるべく、更に信喜に「芝居」をさせた。
それは奥医師についてである。
鷹狩りはあくまで軍事訓練、となれば怪我や病気とは常に「背中合わせ」であり、そこで医師も鷹狩りに扈従することになる。
西之丸の盟主たる次期将軍・家基の鷹狩りともなれば、西之丸奥医師が扈従するのが通例であった。
だが治済はその「通例」を破り、西之丸奥医師に加えて本丸奥医師をも扈従させることとした。
その本丸奥医師だが、田沼意次と親しい池原良誠とその娘婿、良誠の三女を娶っている森雲悦當光である。
一方、西之丸奥医師団よりは法印にして當光が実父、森養春院當定を扈従させる。
つまり「田沼派」とも言うべき医師が家基の鷹狩りに、それも最期となるであろう鷹狩りに扈従するのだる。
その鷹狩りにおいて、しかもその最中の花見にいて家基が苦しみ出し、そこで「田沼派」の医師である池原良誠らが応急処置に当たったものの、その甲斐もなく家基は亡くなったとなれば、
「重好は意次と手を組んで家基を暗殺したのだ…」
その様な風評をも立てられ、そうなれば意次としてはその風評を払拭すべく、その為には、
「厭でも…」
家基亡き後の次期将軍には一橋家を、その当主の治済を推すしかあるまい。
無論、治済は意次の推挙を拝辞し、代わりに我が子、豊千代を次期将軍に据える様、意次に頼むつもりであった。
かくして治済は鷹狩りに扈従させるべき医師についても田沼家所縁の者を、池原良誠とその娘婿の森當光、更にその実父の森當定を充てることにしたのだ。
ちなみに家基の体内を駆巡ることになるトリカブトの毒は如何な名医と雖も、池原良誠ほどの名医と雖も解毒は不可能であろうと、治済にはその自信があった。
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