天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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一橋邸に仕える納戸頭の堀内平左衛門氏芳の証言 3

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 いや、原理原則にらしてみるならば、仮に高橋たかはし又四郎またしろう平左衛門へいざえもんの言う通り、吉原よしわら岡場所おかばしょにて一泊いっぱくしたとなればそれはすなわち、無断むだん外泊がいはくとなり、

駆落かけおち者」

 として処罰される。これが旗本や御家人であれば御家おいえ断絶だんぜつもあり得た。

 だがそのような原理原則が適用されていたのは元禄げんろく正徳しょうとくすなわち、五代将軍・綱吉つなよしや六代将軍・家宣いえのぶ御代みよまでであり、今…、十代将軍・家治の御代みよにおいては最早もはや、その原理原則も完全に空文くうぶんと化していた。

 それより景漸かげつぐとしては、高橋たかはし又四郎またしろうの身を案じていた。それと言うのも景漸かげつぐにはどうにもむなさわぎがしてならなかったからだ。

「仮に平左衛門へいざえもんが申す通り、高橋たかはし又四郎またしろう遊所ゆうしょにて一泊いっぱくせし、としてもだ、遅くとも朝五つ(午前8時頃)までには…、今日の朝五つ(午前8時頃)までには帰って来るのではあるまいか…」

 今の刻限こくげんすでに昼の四つ半(午前11時頃)をとうの昔に過ぎており、それどころか昼九つ(正午頃)に近かった。

 そして一橋ひとつばし邸につかえる納戸なんどがしらをここ辰ノ口たつのぐちにある評定所ひょうじょうしょへと召喚しょうかんすべく、かち目付めつけ一橋ひとつばし邸へとしたのはそれよりも前とは言え、昼四つ(午前10時頃)であり、そうであれば仮に高橋たかはし又四郎またしろう吉原よしわらか、あるいはおか場所ばしょにて一泊したとしても、評定所ひょうじょうしょよりのつかいであるそのかち目付めつけ一橋ひとつばし邸に到着とうちゃくする頃にはすでに、高橋たかはし又四郎またしろう一橋ひとつばし邸に帰って来ても良いはずであり、いや、流石さすがにその頃には…、昼四つ(午前10時頃)までには帰って来なければならないはずであり、そうであれば高橋たかはし又四郎またしろう相役あいやく…、同僚である堀内ほりうち平左衛門へいざえもん共々ともども、ここ評定所ひょうじょうしょへと出頭しゅっとうできたはずであった。

 にもかかわらず、評定所ひょうじょうしょへと出頭しゅっとうしてきたのは平左衛門へいざえもんただ一人ひとりであり、つまりは高橋たかはし又四郎またしろう平左衛門へいざえもんも言う通り、今もって一橋ひとつばし邸に帰って来てはいないということだ。

 これは何かあったのではないか…、高橋たかはし又四郎またしろうの身に何かが…、景漸かげつぐがそう考えるのも当然であった。

 何しろ高橋たかはし又四郎またしろう平左衛門へいざえもんが言うにはご丁寧ていねいにも紫の袱紗ふくさを持ち出して姿を消したのであった。これで高橋たかはし又四郎またしろうの身に何かあったのではないかと、そう考えない方がおかしいだろう。

 一方、今もって事情を…、紫の袱紗ふくさの意味するところを知らぬ平左衛門へいざえもんは取り成すつもりで…、高橋たかはし又四郎またしろうを弁護するつもりであったのだろうが、さらにとんでもないことを、それこそ、

爆弾ばくだん証言」

 をしてみせたのであった。

「もしかしたら…、兄と話がはずんでおるのやも知れませぬ…」

 平左衛門へいざえもんのその「証言」に景漸かげつぐは首をかしげながら、「兄?」と聞き返した。

左様さよう…」

 ああ…、と景漸かげつぐはそれで合点がてんがいった。

 すなわち、高橋たかはし又四郎またしろうが旗本の次男か三男坊であり、つまりは、

附切つけきり

 その身分にて、一橋ひとつばし邸に納戸なんどがしらとしてつかえていることに景漸かげつぐは察しがつくと、そのことを平左衛門へいざえもんに対して確かめるように尋ねた。

 すると平左衛門へいざえもん景漸かげつぐのその推量すいりょうを認めた。

如何いかにも高橋たかはし又四郎またしろう附切つけきりにて…、されば本丸にて腰物こしもの方を勤めし小栗おぐり伊右衛門いえもん正舎まさおきが四男にて…」

 腰物こしもの方とは将軍家所有の刀剣とうけん類を保管、管理する役職であり、一方、そのせがれ、四男である高橋たかはし又四郎またしろう一橋ひとつばし邸にて贈答ぞうとう品を管理する納戸なんどがしらを勤めており、親子そろって似たような仕事にいていた。

成程なるほど…、されば高橋たかはし又四郎またしろうは…、そのせいが変わったことから察するに、一橋ひとつばし家につかえし、高橋たかはしを名乗りし者の養嗣子ようししとしてむかえられたわけか?」

 景漸かげつぐ平左衛門へいざえもんに対してさらにそう推量すいりょうをぶつけてみると、平左衛門へいざえもんもやはりと言うべきか、これを認めた。

如何いかにも…、されば高橋たかはし治兵衛じへえ正信まさのぶ養嗣子ようししとしてむかえられましてござる…」

 それから平左衛門へいざえもんはその、高橋たかはし又四郎またしろう養父ようふ高橋たかはし治兵衛じへえ正信まさのぶの実父、小右衛門こえもん正直まさなおが何と、高橋たかはし又四郎またしろうの実父である小栗おぐり伊右衛門いえもん正舎まさおき実弟じっていにて、高橋たかはしせいを称して一橋ひとつばし邸に、それも宗尹むねただつかえていたことを打ち明けたのであった。

 つまり、高橋たかはし又四郎またしろうにとってよう祖父そふに当たる高橋たかはし小右衛門こえもん正直まさなおは実は伯父おじに当たり、高橋たかはし又四郎またしろうにとって養父ようふに当たる高橋たかはし治兵衛じへえ正信まさのぶはその小右衛門こえもん正直まさなお実子じっしというわけで、つまり高橋たかはし治兵衛じへえ高橋たかはし又四郎またしろうとは従兄弟いとこ同士というわけだ。

「されば…、高橋たかはし又四郎またしろうは兄のもとに…、つまりは小栗おぐりの実家に帰省きせいしていると申すか?」

 景漸かげつぐ平左衛門へいざえもんより高橋たかはし又四郎またしろうが、

「兄と話がはずんでおるのやも…」

 そう聞かされて、てっきり小栗おぐり本家の嫡男ちゃくなんである長男を連想したわけだが、違った。

「いえ…、小栗おぐり家は既に嫡男ちゃくなんの…、すなわち、又四郎またしろうが兄の武右衛門ぶえもん正遊まさゆきぎましてござる。父・伊右衛門いえもんは既にく…、ともあれ又四郎またしろうはその小栗おぐり本家をぎし兄と語らうためにその実家へと帰省きせいすることはほとんどなく…」

「上の兄とはうまくいっていないと?」

 景漸かげつぐがそう水を向けると、平左衛門へいざえもんは「まぁ…」と曖昧あいまいに答えた。どうやら答えにくい質問のようであり、してみると平左衛門へいざえもん高橋たかはし又四郎またしろうより兄弟仲についての事情を聞かされているのであろう。

 景漸かげつぐとしてもそうと察すると、それ以上は深くは追及しなかった。今大事なのは高橋たかはし又四郎またしろう行方ゆくえである。

「されば…、兄と話がはずんでおるのやも、との話であるが、それは次男か三男ということか?」

 高橋たかはし又四郎またしろうは四男とのことであり、そうであれば嫡男ちゃくなん…、長男を除いた兄と言えば必然ひつぜん的に次男か三男ということになる。

如何いかにも…、されば清水邸に足を向ければ次男と三男…、高橋たかはし又四郎またしろうにとって二人の兄に会えますゆえ…」

 平左衛門へいざえもんのその「証言」に評席ひょうせきはどよめいた。いや、評席ひょうせきのみならず、白洲しらすにて平左衛門へいざえもんならんで床机しょうぎ腰掛こしかけていた益五郎ますごろう玄通げんつうにしてもそうであり、何より今はふすまで固く閉じられている、その先にある誓詞之間せいしのまにてならぶ将軍・家治や、それに治済はるさだ重好しげよしも驚いたに違いない。とりわけ清水家の当主である重好しげよしは誰よりも驚いたに違いない。何ゆえにそこで清水邸の名が出て来るのかと。

 平左衛門へいざえもんはそのような重好しげよしの胸のうちを察したわけでもないだろうが、「ああ、申し遅れましたが…」と切り出すと、いよいよ皆を驚かせる「爆弾ばくだん証言」をしてのけた。
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