天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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意知と平蔵は将軍・家治の命を護るべく、御城へと奔る

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 その頃、意知おきとも愛宕あたごしたにある池原いけはら邸において、今はき、この屋敷やしきあるじであった池原いけはら良誠よしのぶ妻女さいじょ藤江ふじえとそのそく子明たねあきらより話をうかがっていた。

 子明たねあきらは昨日…、父・良誠よしのぶ無惨むざんにも斬殺ざんさつされた4月1日は宿直とのいであったために、今日は休みであった。

 いや、仮に日勤にっきんであったとしても登城とじょうひかえねばならなかっただろう。それと言うのも、父・良誠よしのぶ斬殺ざんさつ…、血を流したからだ。これをぞくに、

けがれ」

 と言い、あくまで自主的にだが、登城とじょうひかえねばならなかった。けがれた身でおそれ多くも将軍がおわす御城おしろ登城とじょうしては申し訳ないということだ。ちなみに屋敷が失火しっかした場合などもやはり自主的に登城とじょうひかえるものであった。

 ともあれそのような状態に置かれた今の池原いけはら母子ぼしの元へと足を向けるのは本来ほんらいなればひかえるべきところであったやも知れぬが、今は一刻いっこく猶予ゆうよゆるされぬ、まさに、

緊急きんきゅう事態じたい

 それであり、そうである以上、「けがれ」にかまってはいられなかった。

 意知おきともは父・意次と共に池原いけはら良誠よしのぶとは顔見知り、それも親しく付き合っており、のみならず、そのそく子明たねあきらとも親しく付き合っていた。

 とりわけ子明たねあきらは年が近い意知おきともと親しく付き合っていた。子明たねあきら意知おきともより3歳年下であり、意知おきとも子明たねあきらはさしずめ、兄弟のような間柄あいだがらであった。

 そのような事情があったので、意知おきとも来訪らいほう池原いけはら母子ぼし、とりわけ子明たねあきら歓待かんたいした、と言っては語弊ごへいがあるだろう、受け入れたのであった。

 そこで意知おきとも子明たねあきらと、さらに母にして良誠よしのぶ妻女さいじょでもある藤江ふじえに対して遊佐ゆさ信庭のぶにわ小野おの章以あきしげのことについて尋ねた。

 当然、池原いけはら母子ぼしは何ゆえにそのようなことを尋ねるのかと、その疑問を口にしたので、それに対して意知おきともも、

「お二人の疑問はもっとも…」

 まずはそう認めた上で、

「されば今はまだくわしくは申し上げられませんが、この二人がお父上…、良誠よしのぶ殿の斬殺ざんさつ関与かんよしているやも知れず…」

 そう曖昧あいまいに答えたのであった。

 すると子明たねあきらは驚きの表情を浮かべた。

「その…、小野おのなにがしなる者はぞんじかねますが…、小野おの西育さいいく章以あきしげなる名から察するに、やはり医師なのでござろうが…、一方、遊佐ゆさ先生なれば正真しょうしん正銘しょうめいの医師、それもおもてばん医師いしなれば到底とうてい、我が父を斬殺ざんさつせし下手げしゅにんとは思えず…」

 子明たねあきらはそう疑問をていした。

如何いかにも子明たねあきら殿、いえ、池原いけはら先生が申される通りにて…」

 意知おきともはやはりまずは子明たねあきらの疑問を認めた上で、先を続けた。

無論むろん、二人が…、小野おの章以あきしげにしても池原いけはら先生のお見立みたて通り、医師、それも小児しょうになのでござるが…、ともあれ医師いしである二人が池原いけはら先生…、ご尊父そんぷ良誠よしのぶ先生を斬殺ざんさつせし下手げしゅにん…、わば実行犯だとも思えず…、なれど何らかの形で関与しているのではないかと、そう思いましてな…」

成程なるほど…、それにしても意知おきとも様は父の事件の探索たんさくでも?」

 子明たねあきらもはやはり意知おきとものそのいみなで呼びかける一人であった。

左様さよう…、くわしくは申せませぬが、上様うえさまより直々じきじきに…」

 意知おきとも上様うえさまこと将軍・家治より直々じきじきに命じられたのはあくまで、

家基いえもとの死の真相を探るよう…」

 それであったが、しかし、池原いけはら良誠よしのぶ斬殺ざんさつ事件は家基いえもと殺害、それも毒殺事件の延長えんちょう線上せんじょにあると考えられるので、池原いけはら良誠よしのぶ斬殺ざんさつ事件について、

上様うえさまより直々じきじきに…」

 探索たんさくせよと命じられたと、そう示唆しさしたところで、あながち間違いとも言えないであろう。いや、拡大かくだい解釈かいしゃくと言うべきか。

 ともあれ子明たねあきら意知おきともの言葉を信じて疑わずに、「左様さようで…」と答えると、

「されば今も申し上げし通り、小野おのなにがしにつきましてはぞんじかねまするが、なれど遊佐ゆさ先生のことなれば多少は…」

 意知おきともにそう答えたのであった。

左様さようで…、して遊佐ゆさ先生は如何いか御仁ごじんにて?」

 意知おきとも子明たねあきらに対して遊佐ゆさ先生こと遊佐ゆさ卜庵ぼくあん信庭のぶにわ所謂いわゆる

「人となり…」

 それを尋ねたのであった。

 だがあまりに漠然ばくぜんとしており、子明たねあきらはどう答えれば良いものかと、きゅうしている様子がうかがえたので、そこで意知おきとも誘導ゆうどう訊問じんもんを行った。

一橋ひとつばし家とえにしはありませなんだか?」

一橋ひとつばし家と?」

左様さよう…」

「それは…、父を斬殺ざんさつせしが一橋ひとつばしの手によるものだと?」

 子明たねあきら一橋ひとつばしと呼び捨てにしてそう尋ねた。

 それに対して意知おきともはと言うと、まさしく、そう見立みたてていたので、

「恐らくは…」

 そう声をひそませて答えると、「それで…、一橋ひとつばし家と何らかのえにしはありませなんだか?」とり返した。

「そう言えば確か弟が一橋ひとつばし邸にてつかえていると、何かの折にふと、耳にせし記憶が…」

 意知おきともはやる気持ちをおさえつつ、「そはまことで?」とあくまで冷静れいせいに確かめるように尋ねた。

 それに対して子明たねあきら意知おきとものそんな胸中きょうちゅうを察してか、

まことでござりまする」

 前よりも力強い口調でそう断言してみせたことから、意知おきともようやくに納得した。

「してその弟は…、やはり遊佐ゆさと名乗っているので?」

「いや、確か山名やまなと名乗っていると…」

山名やまな、でござるか…」

左様さよう、いや、その程度ていどしかぞんぜず…」

 子明たねあきらは申し訳なさそうにそう告げた。

 だが意知おきともには「その程度ていど」だけでもだい収穫しゅうかくであり、実際、

「いやいや、だい収穫しゅうかくでござるよ…」

 意知おきとも子明たねあきらねぎらうようにそう言った。

 それから意知おきとも池原いけはら邸を辞去じきょすると、平蔵との待ち合わせ場所である比丘尼びくに橋へと向かった。

 果たして平蔵の姿があるか、意知おきともには何とも分からなかったが、幸いにも、

「タイミング良く…」

 意知おきとも比丘尼びくに橋へと近付くと、平蔵が逆方向から比丘尼びくに橋へと近付く姿が意知おきとも視界しかいに入り、そしてそれは平蔵も同様だったらしく、平蔵は意知おきともに向けて右手をかかげてみせたので、意知おきとももそれにならい、右手をかかげた。

 そして比丘尼びくに橋で落ち合うなり、早速さっそく意知おきともの方から切り出した。

 すなわち、遊佐ゆさ信庭のぶにわとは弟をかいして一橋ひとつばし家と関わり合いがあり、その弟は山名やまな苗字みょうじ一橋ひとつばし家につかえていると、意知おきともは平蔵に教えたのであった。

 するとその瞬間しゅんかん、平蔵の色が変わった。

「それはまことで?」

 かつて意知おきとも子明たねあきらに対してそう確かめるように尋ねたのと同じく、今度は意知おきともから平蔵にそう問われる番であった。

 とするならば「山名やまな」の苗字みょうじに平蔵が何か思い当たるふしでもあるに違いないと、意知おきともは己の経験則からそうと察しながら、「まことです」と力強い調子でもって答えた。

 すると平蔵は「実は…」と切り出し、意知おきともの経験則が正しかったことが裏付けられた。

小野おの章以あきしげが例の、本銀町一丁目の家屋敷を、それも2000両で買い取った際、小野おの章以あきしげの保証人となったのが、山名やまな荒二郎こうじろう信鷹のぶたかなる一橋ひとつばし家の陪臣ばいしんにて…」

「それでは…、遊佐ゆさ信庭のぶにわの弟が小野おの章以あきしげの保証人をつとめたと?」

「そういうことになりましょう…」

 平蔵はそう答えると、さらに家屋敷の売主にして本銀町を支配する名主なぬし明田あけた惣蔵そうぞうより聞いた話として、家屋敷の代金2000両の受け渡しは一橋ひとつばし御門ごもんないにある一橋ひとつばし邸にて行われたこと、さらに町内のひろめ、要は挨拶あいさつ回りにはその保証人である山名やまな荒二郎こうじろうと、さらにもう一人の一橋ひとつばし家の陪臣ばいしんを引き連れてひろめを行ったことをも、平蔵は意知おきともに教えたのであった。

「もう一人の陪臣ばいしんと?」

左様さよう。されば高尾たかお惣兵衛そうべえなる者にて…」

「たかお、そうべえ…」

 意知おきともがそう確かめるようにつぶやいたので、平蔵は高尾たかお惣兵衛そうべえと書くことを説明した上で、

「されば本丸ほんまるにて御膳ごぜん奉行ぶぎょうを…、おそれ多くも上様のお食事の毒見どくみにないし御膳ごぜん奉行ぶぎょう高尾たかお惣十郎そうじゅうろう信福のぶとみ縁者えんじゃ…、叔父おじか、弟に相当そうとうせし御仁ごじんではないかと…」

 平蔵が思わせぶりにそう告げたことから、意知おきともも、「まさか…」と家治毒殺の危機に気付いたような声を上げ、実際、

「次は上様うえさまねらわれると?」

 意知おきともは続けざま、うめくようにそう尋ねたのであった。

 それに対して平蔵は、「恐らくは…」と認めた上で、もう一人の御膳ごぜん奉行ぶぎょうである山木やまき次郎八じろはち勝明かつあきらなる者も一橋ひとつばし家と縁があり、将軍・家治の夕食時にはこの二人が毒見どくみになうことをも打ち明けたのであった。

「そうであれば…、早ければ今宵こよいにも?」

 意知おきともは顔色をあおざめさせた。無理もないと、平蔵は思った。

「いや、流石さすが今宵こよいという話には…」

「なれど用心ようじんするにしたことはありますまい?」

 確かに意知おきともの言う通りであり、平蔵は「如何いかにも」と首肯しゅこうした。

「そうであればこれよりただちに御城おしろへと…」

 意知おきともがそう言うので、平蔵は留守居るすい高井たかい土佐守とさのかみ直熙なおひろへの聞き込みはどうするのかと、意知おきともに尋ねた。

「一応、その屋敷やしきの所在地を曲淵まがりぶち様よりうかがったのでござるが…」

 平蔵はそう告げると、高井たかい直熙なおひろ屋敷やしきが飯田町九段坂にあることを教えたのだが、

「いや…、折角せっかく曲淵まがりぶち殿より聞き出してくれたのに申し訳ないが…」

 意知おきともはまずはびの言葉を口にしてから、ただちに御城おしろに戻ると、そうだんくだしたのであった。

 平蔵にも異論いろんはなく、それどころか、実を言えば平蔵自身、高井たかい直熙なおひろへの聞き込みは明日に後回しして、今は将軍・家治に対して十分に身辺しんぺんに気をつけるようにと、そう注意ちゅうい喚起かんきをすべく、御城おしろに戻るべきではないかと、意知おきともにアドバイスしようと考えていたほどであった。

 これから高井たかい直熙なおひろ屋敷やしきへとおもむき、そこで高井たかい直熙なおひろから聞き込みをしていたのでは、聞き込みを終える頃には暮六つ(午後6時頃)を過ぎてしまうだろう。そうなれば江戸城の諸門は全て閉まり、明日の朝、それも明六つ(午前6時頃)にならなければ絶対に開かない。

 その間、将軍・家治が毒殺されないとも限らないのだ。杞憂きゆうに過ぎないとは分かっていても、しかし杞憂きゆうに過ぎないとの確かなあかしがあるわけでもないのだ。

 もっとも、それを口にしてはある種の「負けしみ」に聞こえるので、平蔵はそれは口にはせず、その代わりに意知おきともともを申し出たのであった。

「いや、平さんから留守居るすい高井たかい殿に…」

 意知おきともはそう反論した。確かに意知おきともは将軍・家治に対して十分に身辺しんぺんに気をつけるよう…、とりわけ食べ物に気をつけてと、そう注意ちゅうい喚起かんきをするかたわら、平蔵が高井たかい直熙なおひろへの聞き込みをする方が合理的ではあったが、しかし、

「相手は留守居るすい様…、されば留守居るすい様と申せば、ご公儀こうぎ武官ぶかん五番ごばん方の頂点とも言うべき大番頭おおばんがしらよりも上にて、その留守居るすい様より話を聞きだす相手として、一介いっかい書院しょいん番士ばんしに過ぎぬ俺ではまさしく、力不足と申すものにて…」

 平蔵はそう理由をならべ立てて、留守居るすい高井たかい直熙なおひろへの聞き込みを拝辞はいじしたのであった。

 実を言えば意知おきともも同じことを考えていたのだが、しかし、如何いかにそれが事実だとしても意知おきともからそれを口にすればあまりにかどが立つというものだろう。いや、それを通り越して、喧嘩を売るようなものである。

 意知おきともはそこまで無礼な人間ではなかったので、平蔵の方からそう言ってくれないものかと、内心、そう思っていたので、期待通り、平蔵が高井たかい直熙なおひろへの聞き込みを拝辞はいじしてくれたので、内心、ホッとすると同時に、その代わりにと、己のともまで申し出てくれたので、意知おきとも心底しんそこ、平蔵に感謝した。

 こうして意知おきともと平蔵は御城おしろへとはしった。
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