地獄0丁目

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3 全ての始まり③

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「…ヴィカ、食事だ」

 その日の食事はいつもとは違い、クレードゥルスが運んで来た。
 父親はやつれて憔悴しているように見えた。
 几帳面に後ろに撫でつけていた髪は乱れて幾房も顔にかかり、服もほつれや汚れが目立った。
 しゃんと背筋を伸ばして堂々としていた以前の面影はどこにも無くなっていた。
 やはり、この間バスクが言っていたことが関係しているのだろうか。

「…あ、…ありがとう…、っ!?」

 父親の痛々しい姿にずきりと胸が痛むのをこらえて、ヴィカはトレイを受け取ろうと手を伸ばした。
 だが、皿の上に盛られたものを見て、目を大きく見開いた。
 咄嗟に手を引いたせいで、トレイが音を立てて床に落ちた。中身が散らばる。
 それは、切り開かれ平たくなっていた。
 所々焦げているせいで判別が難しいが四つの小さな手に小さな頭部、歯は見慣れていたから間違いようがない。
 間違いなく、それは毎日ここにやって来ていた鼠だった。

「————ひっ!」

 引き攣る喉から漏れる短い悲鳴。
 己の目が捉えたものを信じることができなかった。
 ヴィカはぶるぶると震える手で口を覆い、酸素が足りないかのように短く早い呼吸を繰り返した。
 鼠の変わり果てた姿から視線を外すことはできなかった。
 衝撃のあまり頭は真っ白で思考は停止していた。
 なぜ、どうして。
 それだけが渦のように廻っていた。

「…あ…、ああ……っ…!」

 瞬きを忘れた目が焼けるような熱を帯び、涙がこぼれた。

「どうした、食べないのか…?」

 クレードゥルスの言葉に、はっと顔を上げた。
 そんな…食べられない……食べられるはずがない。
 ヴィカは頭を左右に振って拒んだ。

「なぜ…なぜ食べない…何で父さんの言う事がきけないんだ…」

 地を這うような声と目に仄暗い光を宿して、じりじりと自分の方に近寄って来る父親に恐怖を感じて、ヴィカは後ずさった。
 狭い地下室。逃げる背中はすぐに壁にぶつかってしまう。
 どうにか逃げようと室内に視線を巡らせるヴィカは、開いた扉の奥に誰かが立っているのに気がついた。
 バスク。
 バスクが残忍な笑みをたたえて、こちらを見ていた。

「…ヴィカ、…お前は悪い子だ…」

 ゆらりと大きな影が顔にかげって、ヴィカの意識はクレードゥルスへと引き戻された。
 細くなった手が丸焼きの鼠を拾い上げ、もう片方の手で顎を掴まれた。
 嫌な予感しかせず、ヴィカはやめてと父親に懇願した。

「ヴィカ、食べなさい!…食え!食えよ…!」

 ヴィカは目も口もぎゅっと閉じて、必死で抵抗した。父親の手を引き剥がそうともがいた。しかしもがけばもがくほど、手に力を込められてしまう。
 あまりの力の強さに顎の骨が軋み、わずかに開いた口の隙間から鼠をねじ込まれた。

「————ッ!」
「ほら、ほら!お前が飼っていた鼠だ!美味いだろう!?…はは、ははははは…ッ!」

 舌で鼠を押し出そうとするも、顎にを掴む手にさらに力を込められ、噛めと何度も命令される。
 いやだ、食べたくない!いやだイヤダ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ…!
 そう言いたかった。そう叫びたかった。
 クレードゥルスの狂ったような笑いを耳にしながら、ヴィカは自分の中の何かが壊れていくのを感じていた。

 どれ程の時が経ったのか、時間の感覚がなくなった頃にようやくヴィカは解放された。
 ヴィカは最後まで抵抗をやめなかった。無理矢理に鼠を口に入れられ、その肉に歯を立てることにはなってしまったが、飲み込むことは決してしなかった。
 頑なに抵抗を続けるヴィカに対し興味を失った様子のクレードゥルスはふらつく体をバスクに支えられながら、地下室を後にした。
 バスクは去り際、呆然とするヴィカの目前で床に落ちた鼠の体を靴で踏み潰した。
 彼は始終変わらず気味の悪い笑みを浮かべてヴィカを見つめ続けていた。
 ドアが閉まり足音が聞こえなくなると、ヴィカは口の中に残ったままの鼠の肉片を手で掻き出した。床のそこかしこに散った小さな友の体を集めて、震えの止まらない両手で掬い上げる。
 ごめん。ごめんね、おれのせいだ。
 謝罪の言葉は音に成らず、霧散する。
 自分と関わってしまったために命を落としてしまった鼠だった欠片を胸に抱いて、ヴィカは夜通しむせび泣いた。


 ヴィカにとって、鼠は暗闇に灯る小さな光だった。
 その光を握り潰された少年の心は、以前よりも深い闇の底に落ちて行った。
 父親やバスクにどれだけ手酷く殴られようとも、何も感じなくなってしまった。

「…鼠が唯一の友達とか、お前ホンットに気持ちわりぃのな。…どーせ他にもいんだろ?吐けよ」
「……」

 胸倉を掴まれて、腹部に重い拳が打ち込まれる。しかしヴィカは呻き声すら漏らさず、ぼんやりとバスクを見つめた。

「…その呪われた目を俺に向けんじゃねえ!」

 手を離されたせいで、ヴィカの体は床に叩きつけられ鈍い音が響いた。

「…さぃ…」
「あ?聞こえねーよ、ちゃんと喋れよ」

 僅かに聞こえた小さな声に、バスクはヴィカの栗毛を乱暴に掴んで顔を上げさせると、口元に耳を近づけた。
 殺してください。
 か細いけれどもはっきりとそう聞き取ったバスクは、驚きで目を見開きつつもヴィカを見た。
 ヴィカは髪を掴まれた痛みに顔を歪めることもなく、「殺してください」ともう一度呟いた。

「…ハッ!…殺してなんかやるかよ。お前の望む通りになんかしてやらねえよ。…お前は!生きたまま地獄を味わえばいいんだよ…!」

 バスクは引きつった笑みを顔に貼り付けて、そう吐き捨てた。


 まるで壊れた人形のように、殺してくれとしか口にしなくなったヴィカの姿を目の当たりにしたクレードゥルスは、良心の呵責に耐えられないでいた。
 また、交易の失敗による領民の不満は膨らむばかりで、暴徒と化した一派が屋敷の前に現れては、領主をなじり、塀や門を破壊し、石やごみを投げ入れた。バスクを始めとした使用人が力でもって領民を追い返すため、火に油を注いだ形となり、反発は強まる一方だった。
 クレードゥルスの精神はもはや一本の細い糸のようなもので、何かの拍子で簡単にぷつりと切れてしまいそうな程に限界にきていた。
 ひどくやつれた顔に、落ち窪んだ目は深い井戸の底のように昏く、領主だと言われても俄かに信じられないような姿で、まるで浮浪者だった。

「ルンプル神父…!私は、私は…どうすれば…!」

 バスクに連れられてやって来たルンプル神父の姿を目にするや否や、クレードゥルスは彼の足元に蹲って、激しく泣き出した。

「なんと哀れな御姿なのでしょう…クレードゥルス殿…。よもやここまでとは…」
「…神父さま…どうか、どうか私をお導きください…!あの子の瞳のせいで、そこかしこで交易を断られ…、ゆえに領民の不満が…!ああ、神父さまはヴィカを手放すよう、私にきちんと忠告してくださっていたのに!…私の、己の我儘を優先させてしまったが為に…ッ」

 クレードゥルスは、涙にまみれた顔を上げて神父を見据えた。
 ルンプル神父は床に膝をついて、クレードゥルスを宥めるかのように背中を優しく叩きながら、ふわりと微笑を浮かべた。

「ええ、ええ。貴方の苦悩はようく存じております。私にできる事であれば何でもする所存。すぐに他領地との交易を再開できるよう手筈を整えましょう。私に全て一任して頂けますか?」
「ルンプル神父…!」

 またとない言葉に、クレードゥルスの瞳は久々に輝きを取り戻した。

「私の遣り方に手出し、口出しは決してしないと誓ってくださいますね?」
「ああ、神父さま…!勿論、勿論ですとも…!」

 クレードゥルスは今度は感激の涙を流しながら何度も頷き、神父の手を両手で握った。

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