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近づいてはいけない熱
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凪が学校を休み始めたのは、あの廊下での一件から数日後のことだった。
最初は「風邪」とか「体調不良」とか、クラスメイトが適当に囁いていただけだった。
Ωの特別教室だから情報も入ってこない。
でも湊には、すぐにわかってしまった。
LINEは既読にもならない。
朝の登校時間に、凪の家のカーテンが開かない日が続く。
あの「納得した」という冷めた目が、頭から離れない。
「……無理して行くなって言ったんだ」
朝食の席で、颯がぽつりと呟いた。
新聞をめくりながら、何気ない口調。
でも、その一言で湊の箸が止まる。
「兄貴、会ったのか」
「ああ。帰り道でな。顔色悪かったよ」
喉が、急に詰まるような感覚。
「……様子は、どうだった」
「良くねえな。抑制剤、効いていないっぽいぞ。ヒート近いんじゃねえかと思って、病院に寄るよう言っといた」
その言葉で、頭の中が一気に冷えた。
Ω。発情期。抑制剤。
保健の授業で習った知識が、急に生々しい現実として迫ってくる。
凪の花の香りが、熱を帯びて暴走する姿が、脳裏に浮かぶ。
学校が終わる頃には、湊の足は無意識に凪の家に向かっていた。
(行く資格なんてねえよ)
あの「兄貴のほうが向いてる」って言葉をぶつけたくせに。
傷つけた相手の家に、顔を出せるわけがない。
それでも、足は止まらなかった。
インターホンの前まで来て、深呼吸してからボタンを押す。
少し間があって、低い声が応答器から聞こえた。
「……誰」
「俺だ。湊」
名前を言い終わる前に、向こうで息を呑む気配。
明らかに動揺してる。
「……帰って」
凪の声は掠れてる。息が荒い。
玄関の向こうで、必死に抑えてるのが伝わってくる。
「今、会えない。来ないで」
「わかってる」
嘘だった。全くわかってない。
「でも、顔だけ見せてくれ。それだけでいいから」
長い沈黙。
その間に、扉の隙間から微かに香りが漏れてきた。
あの日とは全然違う。
甘さが異常に強くて、熱を帯びた、濃密な匂い。
鼻腔をくすぐって、頭の奥が痺れるような。
本能が、強く警鐘を鳴らす。
――近づくな。危険だ。
αとしての衝動が、急に鋭くなる。
凪を今すぐ抱き寄せて、熱を全部受け止めたいという、獣じみた欲がうずく。
でも同時に、理性が叫ぶ。
(それじゃダメだ。本能に流されるだけだ)
ガチャリ、と小さな音がして、
防犯扉がほんの少しだけ開いた。隙間から、凪の姿が見えた。
額に汗が滲んで、髪が湿ってる。
瞳が潤んで定まらない。頬が上気してる。
いつも静かな凪が、今は熱に冒されてるのが一目でわかる。
「……来ないでって、言ったろ」
声が震えてる。必死に抑えてる。
「すぐ帰るから。約束する」
湊は一歩も踏み込まない。玄関の外で、必死に距離を保つ。
香りが強すぎて、頭がクラクラする。
「体調、大丈夫か?抑制剤飲んだ?」
「飲んだよ。でも……効かないみたい」
凪は自嘲するように小さく笑った。
その笑顔が、いつもより脆く見えて、胸が締めつけられる。
言葉が続かない。
何を言えばいいのか、自分でもわからなくなる。
凪の香りが、さらに濃くなる。
甘い熱が、じわじわと理性を削いでいく。
αの本能が、「今すぐ中に入れ」と囁いてくる。
「帰って、湊」
凪が、もう一度強く言った。
額に手を当てて、壁に寄りかかるようにして。
「湊がここにいたら、俺……ちゃんと抑えられない。お願いだから、行って」
その言葉は、拒絶じゃなかった。
凪なりの、必死の自制心だった。
湊を傷つけたくない、巻き込みたくないっていう。
湊は拳を握りしめて、爪が手のひらに食い込むのを感じた。
「……俺もだよ」
小さく、掠れた声で答えた。
「俺も、お前を放っておけない。でも、今抱き寄せたら……それこそ、αの本能に負けるだけだ」
凪の目が、わずかに見開かれる。
その視線に、湊は必死で言葉を続ける。
「ちゃんと、落ち着いたら話そう。俺が言ったこと、全部撤回させてくれ。お前を選びたいって、ちゃんと伝えさせて」
返事はなかった。
凪は、ただじっと湊を見つめてる。
瞳の奥で、熱と理性がせめぎ合ってるのがわかる。
ゆっくり、扉が閉まる。
ガチャリと音がして、花の香りが完全に遮断された。
湊は、その場にしばらく立ち尽くした。
手のひらに残る爪の跡が、じんじん痛む。
(守るってのは、そばにいることじゃねえのかもな)
離れることも、同じくらい苦しい守り方だって、今初めてわかった。
帰り道、空気が冷たく肌に刺さる。
頭の中は、凪の熱い香りでいっぱいだ。
あんな状態でも、自分を押さえつけて湊を遠ざけようとした凪を思うと、胸が張り裂けそうになる。
家に着いても、夕飯は喉を通らない。
部屋に閉じこもって、ベッドに突っ伏す。
スマホには、颯からのLINEが入ってた。
[凪の様子、どうだった?抑制剤追加で買っといたぞ]
兄貴は、ちゃんとΩの世話をしてる「ちゃんとしたα」だ。
湊よりずっと、余裕を持って対処できるんだろう。
それでも、湊は自分が凪のそばにいたい。
本能じゃなくて、心で選びたい。
でも、その資格を自分で潰してしまった。
夜中、ふと目が覚めると、隣の家からかすかな灯りが見えた。
凪の部屋だ。まだ熱が引かないのかもしれない。
湊は、枕に顔を埋めて呟いた。
「早く、落ち着いてくれ」
話したいことが、山ほどあるのに。
あの「言わなくてよかった言葉」を、全部なかったことにするために。
花の香りが恋しい夜だった。
近づいちゃいけない熱が、こんなにも愛おしいなんて、初めて知った。
最初は「風邪」とか「体調不良」とか、クラスメイトが適当に囁いていただけだった。
Ωの特別教室だから情報も入ってこない。
でも湊には、すぐにわかってしまった。
LINEは既読にもならない。
朝の登校時間に、凪の家のカーテンが開かない日が続く。
あの「納得した」という冷めた目が、頭から離れない。
「……無理して行くなって言ったんだ」
朝食の席で、颯がぽつりと呟いた。
新聞をめくりながら、何気ない口調。
でも、その一言で湊の箸が止まる。
「兄貴、会ったのか」
「ああ。帰り道でな。顔色悪かったよ」
喉が、急に詰まるような感覚。
「……様子は、どうだった」
「良くねえな。抑制剤、効いていないっぽいぞ。ヒート近いんじゃねえかと思って、病院に寄るよう言っといた」
その言葉で、頭の中が一気に冷えた。
Ω。発情期。抑制剤。
保健の授業で習った知識が、急に生々しい現実として迫ってくる。
凪の花の香りが、熱を帯びて暴走する姿が、脳裏に浮かぶ。
学校が終わる頃には、湊の足は無意識に凪の家に向かっていた。
(行く資格なんてねえよ)
あの「兄貴のほうが向いてる」って言葉をぶつけたくせに。
傷つけた相手の家に、顔を出せるわけがない。
それでも、足は止まらなかった。
インターホンの前まで来て、深呼吸してからボタンを押す。
少し間があって、低い声が応答器から聞こえた。
「……誰」
「俺だ。湊」
名前を言い終わる前に、向こうで息を呑む気配。
明らかに動揺してる。
「……帰って」
凪の声は掠れてる。息が荒い。
玄関の向こうで、必死に抑えてるのが伝わってくる。
「今、会えない。来ないで」
「わかってる」
嘘だった。全くわかってない。
「でも、顔だけ見せてくれ。それだけでいいから」
長い沈黙。
その間に、扉の隙間から微かに香りが漏れてきた。
あの日とは全然違う。
甘さが異常に強くて、熱を帯びた、濃密な匂い。
鼻腔をくすぐって、頭の奥が痺れるような。
本能が、強く警鐘を鳴らす。
――近づくな。危険だ。
αとしての衝動が、急に鋭くなる。
凪を今すぐ抱き寄せて、熱を全部受け止めたいという、獣じみた欲がうずく。
でも同時に、理性が叫ぶ。
(それじゃダメだ。本能に流されるだけだ)
ガチャリ、と小さな音がして、
防犯扉がほんの少しだけ開いた。隙間から、凪の姿が見えた。
額に汗が滲んで、髪が湿ってる。
瞳が潤んで定まらない。頬が上気してる。
いつも静かな凪が、今は熱に冒されてるのが一目でわかる。
「……来ないでって、言ったろ」
声が震えてる。必死に抑えてる。
「すぐ帰るから。約束する」
湊は一歩も踏み込まない。玄関の外で、必死に距離を保つ。
香りが強すぎて、頭がクラクラする。
「体調、大丈夫か?抑制剤飲んだ?」
「飲んだよ。でも……効かないみたい」
凪は自嘲するように小さく笑った。
その笑顔が、いつもより脆く見えて、胸が締めつけられる。
言葉が続かない。
何を言えばいいのか、自分でもわからなくなる。
凪の香りが、さらに濃くなる。
甘い熱が、じわじわと理性を削いでいく。
αの本能が、「今すぐ中に入れ」と囁いてくる。
「帰って、湊」
凪が、もう一度強く言った。
額に手を当てて、壁に寄りかかるようにして。
「湊がここにいたら、俺……ちゃんと抑えられない。お願いだから、行って」
その言葉は、拒絶じゃなかった。
凪なりの、必死の自制心だった。
湊を傷つけたくない、巻き込みたくないっていう。
湊は拳を握りしめて、爪が手のひらに食い込むのを感じた。
「……俺もだよ」
小さく、掠れた声で答えた。
「俺も、お前を放っておけない。でも、今抱き寄せたら……それこそ、αの本能に負けるだけだ」
凪の目が、わずかに見開かれる。
その視線に、湊は必死で言葉を続ける。
「ちゃんと、落ち着いたら話そう。俺が言ったこと、全部撤回させてくれ。お前を選びたいって、ちゃんと伝えさせて」
返事はなかった。
凪は、ただじっと湊を見つめてる。
瞳の奥で、熱と理性がせめぎ合ってるのがわかる。
ゆっくり、扉が閉まる。
ガチャリと音がして、花の香りが完全に遮断された。
湊は、その場にしばらく立ち尽くした。
手のひらに残る爪の跡が、じんじん痛む。
(守るってのは、そばにいることじゃねえのかもな)
離れることも、同じくらい苦しい守り方だって、今初めてわかった。
帰り道、空気が冷たく肌に刺さる。
頭の中は、凪の熱い香りでいっぱいだ。
あんな状態でも、自分を押さえつけて湊を遠ざけようとした凪を思うと、胸が張り裂けそうになる。
家に着いても、夕飯は喉を通らない。
部屋に閉じこもって、ベッドに突っ伏す。
スマホには、颯からのLINEが入ってた。
[凪の様子、どうだった?抑制剤追加で買っといたぞ]
兄貴は、ちゃんとΩの世話をしてる「ちゃんとしたα」だ。
湊よりずっと、余裕を持って対処できるんだろう。
それでも、湊は自分が凪のそばにいたい。
本能じゃなくて、心で選びたい。
でも、その資格を自分で潰してしまった。
夜中、ふと目が覚めると、隣の家からかすかな灯りが見えた。
凪の部屋だ。まだ熱が引かないのかもしれない。
湊は、枕に顔を埋めて呟いた。
「早く、落ち着いてくれ」
話したいことが、山ほどあるのに。
あの「言わなくてよかった言葉」を、全部なかったことにするために。
花の香りが恋しい夜だった。
近づいちゃいけない熱が、こんなにも愛おしいなんて、初めて知った。
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