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第10話:十五年目の独白
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その日、光希は一楓に頼まれ、彼の書斎の整理を手伝っていた。滅多に入ることのないその部屋は、一楓の頭の中を覗いているようで、少しだけ緊張する。本棚には、経営学や最先端技術に関する専門書がずらりと並んでいた。その一角に、不釣り合いなほど古びたノートが数冊、大切に保管されているのを見つけた。
「一楓さん、これ……」
光希が手に取ったのは、表紙が擦り切れた大学ノートだった。中を開くと、そこにはびっしりと、少し癖のある字で、複雑な数式やプログラムのコードが書き込まれていた。日付は、十年も前のものだ。
「ああ、それか…。恥ずかしいから見ないでくれ」
一楓は、いつものヘタレな笑顔で照れくさそうに言う。
「こんなに勉強、してたんですか?」
光希の素朴な疑問に、一楓は少しだけ遠い目をした。そして、ぽつり、ぽつりと語り始めた。光希が今まで知らなかった、十五年間の彼の物語を。
***
あの日、光希を乗せた車が夕闇に消えていった後、十歳の一楓の世界から、すべての色が消えた。
隣の家は固く閉ざされ、笑い声も、泣き声も、もう聞こえない。抜け殻のようになった一楓を、両親は心配したが、彼は泣きもせず、ただ空っぽの目で天井を見つめるだけだった。
数週間が過ぎたある夜、一楓は自室の窓から、明かりの消えた隣の家をじっと見つめていた。
(泣いていても、みつきは帰ってこない。『いやだ』と叫んでも、誰も助けてくれない)
幼い心で、彼は残酷な現実を悟った。両親の言う通り、「好き」という気持ちだけでは、何も守れないのだ。
では、何が必要なのか。
――大人になることだ。
誰にも文句を言わせない、力のある大人に。光希をどんな場所からでも迎えに行ける、強い大人に。
その日から、一楓は変わった。
学校から帰ると、友達と遊ぶのもやめ、自室にこもって教科書を開いた。
最初は両親も、光希を失った悲しみを紛らわせているのだろうと、静観していた。だが、彼の集中力は常軌を逸していた。中学、高校と進学しても、彼の生活の中心は勉強だけだった。
「なあ一楓、お前、なんでそんなにガリ勉なんだ?休み時間もずっと本読んでるし、付き合い悪いぜ」
クラスメイトにからかわれても、一楓は気にも留めなかった。彼らの目には、自分がつまらない男に映っていることなど、どうでもよかった。
(お前たちには、分からないだろうな。俺が、何のために――戦っているのか)
頭の中にいるのは、いつも泣き顔の光希だった。
施設の暮らしは、どうだろうか。いじめられていないだろうか。寂しい思いをしていないだろうか。その姿を想像するたびに、胸が張り裂けそうになり、それが、彼を机に向かわせる燃料になった。
高校時代にはプログラミングにのめり込み、大学では経営学を専攻した。
周りがサークルや恋愛に浮かれている間も、彼は一人、黙々と知識を吸収し、起業のための準備を進めていた。すべては、一日でも早く、光希を迎えに行くため。その執念が、彼を突き動かしていた。
大学二年生の時、彼は数人の仲間と共に小さなIT企業を立ち上げた。
寝る間も惜しんで働き、数々の困難を乗り越え、会社は急成長を遂げた。
そして、二十四歳になった年、彼は都心にそびえるタワーマンションの最上階をキャッシュで購入した。
がらんとしただだっ広い部屋で、不動産業者の祝福の言葉を上の空で聞きながら、一楓は窓の外の夜景を見下ろした。
(手に入れたぞ、光希。お前が、安心して帰ってこられる城を)
だが、その胸を満たしたのは、達成感よりも、深い孤独だった。この景色を、一番見せたかった相手は、まだここにいない。
「……あと、一年」
光希が施設を出る日まで、あと一年。
十五年という長い助走の、最後の直線だった。
***
「……だから、その……家事とか、生活に関することは、全部後回しにしてたんだ。トーストの焼き方一つ、覚える余裕もなくてな」
一楓は、話を終えると、バツが悪そうに頭を掻いた。
光希は、何も言えなかった。
ただ、目の前で情けない顔で笑うこの男が、どれほどの覚悟と孤独を抱え、自分だけのために十五年間を捧げてくれたのかを、ようやく理解した。
そのヘタレな姿は、彼が戦い抜いた証なのだ。
光希は、そっと立ち上がると、一楓の背後から壊れ物を抱きしめるように優しく腕を回した。
「……ありがとう、一楓さん」
「……え?」
「俺のために、戦ってくれて。……ずっと、待っていてくれて」
驚きで固まる一楓の広い背中に、光希はそっと顔をうずめる。込み上げてくる熱い想いを、今はただ、この温もりで伝えたかった。
十五年という空白が、本当の意味で満たされた瞬間だった。
「一楓さん、これ……」
光希が手に取ったのは、表紙が擦り切れた大学ノートだった。中を開くと、そこにはびっしりと、少し癖のある字で、複雑な数式やプログラムのコードが書き込まれていた。日付は、十年も前のものだ。
「ああ、それか…。恥ずかしいから見ないでくれ」
一楓は、いつものヘタレな笑顔で照れくさそうに言う。
「こんなに勉強、してたんですか?」
光希の素朴な疑問に、一楓は少しだけ遠い目をした。そして、ぽつり、ぽつりと語り始めた。光希が今まで知らなかった、十五年間の彼の物語を。
***
あの日、光希を乗せた車が夕闇に消えていった後、十歳の一楓の世界から、すべての色が消えた。
隣の家は固く閉ざされ、笑い声も、泣き声も、もう聞こえない。抜け殻のようになった一楓を、両親は心配したが、彼は泣きもせず、ただ空っぽの目で天井を見つめるだけだった。
数週間が過ぎたある夜、一楓は自室の窓から、明かりの消えた隣の家をじっと見つめていた。
(泣いていても、みつきは帰ってこない。『いやだ』と叫んでも、誰も助けてくれない)
幼い心で、彼は残酷な現実を悟った。両親の言う通り、「好き」という気持ちだけでは、何も守れないのだ。
では、何が必要なのか。
――大人になることだ。
誰にも文句を言わせない、力のある大人に。光希をどんな場所からでも迎えに行ける、強い大人に。
その日から、一楓は変わった。
学校から帰ると、友達と遊ぶのもやめ、自室にこもって教科書を開いた。
最初は両親も、光希を失った悲しみを紛らわせているのだろうと、静観していた。だが、彼の集中力は常軌を逸していた。中学、高校と進学しても、彼の生活の中心は勉強だけだった。
「なあ一楓、お前、なんでそんなにガリ勉なんだ?休み時間もずっと本読んでるし、付き合い悪いぜ」
クラスメイトにからかわれても、一楓は気にも留めなかった。彼らの目には、自分がつまらない男に映っていることなど、どうでもよかった。
(お前たちには、分からないだろうな。俺が、何のために――戦っているのか)
頭の中にいるのは、いつも泣き顔の光希だった。
施設の暮らしは、どうだろうか。いじめられていないだろうか。寂しい思いをしていないだろうか。その姿を想像するたびに、胸が張り裂けそうになり、それが、彼を机に向かわせる燃料になった。
高校時代にはプログラミングにのめり込み、大学では経営学を専攻した。
周りがサークルや恋愛に浮かれている間も、彼は一人、黙々と知識を吸収し、起業のための準備を進めていた。すべては、一日でも早く、光希を迎えに行くため。その執念が、彼を突き動かしていた。
大学二年生の時、彼は数人の仲間と共に小さなIT企業を立ち上げた。
寝る間も惜しんで働き、数々の困難を乗り越え、会社は急成長を遂げた。
そして、二十四歳になった年、彼は都心にそびえるタワーマンションの最上階をキャッシュで購入した。
がらんとしただだっ広い部屋で、不動産業者の祝福の言葉を上の空で聞きながら、一楓は窓の外の夜景を見下ろした。
(手に入れたぞ、光希。お前が、安心して帰ってこられる城を)
だが、その胸を満たしたのは、達成感よりも、深い孤独だった。この景色を、一番見せたかった相手は、まだここにいない。
「……あと、一年」
光希が施設を出る日まで、あと一年。
十五年という長い助走の、最後の直線だった。
***
「……だから、その……家事とか、生活に関することは、全部後回しにしてたんだ。トーストの焼き方一つ、覚える余裕もなくてな」
一楓は、話を終えると、バツが悪そうに頭を掻いた。
光希は、何も言えなかった。
ただ、目の前で情けない顔で笑うこの男が、どれほどの覚悟と孤独を抱え、自分だけのために十五年間を捧げてくれたのかを、ようやく理解した。
そのヘタレな姿は、彼が戦い抜いた証なのだ。
光希は、そっと立ち上がると、一楓の背後から壊れ物を抱きしめるように優しく腕を回した。
「……ありがとう、一楓さん」
「……え?」
「俺のために、戦ってくれて。……ずっと、待っていてくれて」
驚きで固まる一楓の広い背中に、光希はそっと顔をうずめる。込み上げてくる熱い想いを、今はただ、この温もりで伝えたかった。
十五年という空白が、本当の意味で満たされた瞬間だった。
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