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第六章:裏切りと決意
第二十五話:血に染まる獅子
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ライオネルの出現は、セレスタ王子の余裕を完全に打ち砕いた。
まさか、獣王国の王自らが、これほど早く単騎で突入してくるとは全くの想定外だった。
「なっ……なぜ、お前がここに……!砦はどうした!?」
「貴様のような下衆を、俺の番に近づかせないためだ」
ライオネルは、吐き捨てるように言うと、手に持った長剣を静かに構えた。
その切っ先からは、赤い雫がぽつり、ぽつりと滴り落ちている。天幕にたどり着くまでの間に、立ち塞がった何人ものセレスタ兵を、沈黙させてきたのだろう。
その姿は、まさしく怒れる獅子。神聖さすら感じるほどの圧倒的な威圧感と、純粋な殺意の波動に天幕の中にいた兵士たちは完全に気圧され、じりじりと後退りしている。
「ユリアンを、離せ」
地を這うような低い声で、ライオネルが命じる。
それは、もはや人間の声ではなかった。獲物を前にした獣の低いうなり声そのものだ。
だが、セレスタ王子は恐怖に顔を引きつらせながらも、最後の悪あがきとばかりに叫んだ。
「は、はなすものか!こいつは、我が国のものだ!そうだ、こいつは、俺の弟だぞ!兄である俺が、どうしようと勝手だろうが!」
「――黙れ」
ライオネルは、その言葉を聞き終える前に、地を蹴った。
人間の目では到底追いきれないほどの神速の踏み込み。ユリアンが息を呑んだ次の瞬間には、彼はユリアンを押さえつけていた兵士の一人の背後に回り込んでいた。閃光。
兵士は声もなくその場に崩れ落ちる。
残りの兵士たちは、目の前の超常的な光景に恐怖し、ユリアンを放り出して我先にと天幕から逃げ出そうとする。だが、ライオネルはそれを許さない。逃げる兵士の背後へと音もなく回り込み、一人、また一人と、正確無比な剣筋でその動きを止めていく。悲鳴を上げる間もなかった。命が散る乾いた音だけが、静寂の中に響く。
天幕の中は、一瞬にして凄惨な静寂に支配された。
ユリアンは、その場にへたり込んだまま、目の前で繰り広げられた惨状を、ただ呆然と見つめることしかできない。
これが、獣王の戦い。
敵と見なした者には、一切の慈悲も容赦もない、絶対的な力の行使。
彼の圧倒的な強さを、ユリアンは初めて目の当たりにした。
それは全身の血が凍るほどの恐怖だった。しかし同時に、自分のためにここまで怒りを爆発させてくれる彼の姿に、どうしようもないほどの愛おしさを感じる、矛盾した感情が胸を締め付けた。
一瞬にして、周囲の敵を無力化したライオネルは、赤い染みの広がった剣を構えたまま、ゆっくりとセレスタ王子へと向き直った。
「さて……次は、貴様の番だ」
「ひっ……!た、助けてくれ……!俺たちは、兄弟だろう、ユリアン!」
王子は、腰を抜かし、無様に後ずさりながらユリアンに助けを乞う。
だが、ユリアンは声も出せずにいた。
ライオネルは、そんな王子の見苦しい姿を、氷のように冷たい目で見下ろしている。
「命乞いか、見苦しいな。だが、安心しろ。すぐには殺さん。
貴様が俺の番にしたことの報いは、その体に、ゆっくりと、たっぷりと刻み込んでやる」
ライオネルが、最後の一撃を振り下ろそうと剣を振り上げた、その時だった。
「――やめて、ライオネル!」
ユリアンが、叫んだ。
ライオネルは、はっとしたように動きを止め、ユリアンを振り返る。その琥珀の瞳には、まだ怒りの炎が燃え盛っていた。
「……なぜだ、ユリアン。こいつは、お前を辱めようとしたのだぞ」
「それでも……!それでも、この人は、僕のたった一人の兄です……。これ以上、目の前で血が流れるのを見るのは耐えられません……!」
ユリアンの瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
その涙を見て、ライオネルの瞳に宿っていた獣の光が、すっと人間らしい理性の光へと変わった。
彼は、血に濡れた剣を静かに鞘に収めると、大きく息を吐いた。
「……分かった。お前が、そう言うのなら」
ライオネルは、恐怖で意識を失ったように動かなくなった王子を一瞥すると、ユリアンの元へと歩み寄った。そして、その震える体を、まるで壊れ物を抱きしめるように優しく、しかし二度と離さないと誓うように力強く抱きしめた。
「すまなかった……怖い思いをさせた。
俺が、もっと早く来ていれば……」
後悔と自責の念が滲む声だった。ほんのわずかな時間でも、番が自分の腕の中にいないことが耐えられない。失う恐怖が、獣の本能を鈍く疼かせる。
「いえ……来てくれて、よかった……。本当に……、ライオネル……!」
ユリアンは、彼の胸の中で、子供のように声を上げて泣いた。押さえつけていた恐怖と安堵が一気に決壊し、涙となって溢れ出す。
乱暴で、けれど自分だけを守ろうとしてくれる不器用な愛情が、全身に染み渡っていくようだった。ライオネルの鎧は、鉄と土の匂いがした。だが、その腕の中は世界で一番、安全で、温かい場所だった。
その時、天幕の外から、ライオネルの副官である、狼の獣人の声が響いた。
「陛下!ご無事ですか!敵軍が、総崩れになりました!王子を失い、指揮系統が完全に麻痺したようです!」
どうやら、ライオネルが突入したという報せと、王子の悲鳴が、セレスタ軍の兵士たちの戦意を完全に喪失させたらしい。
戦いは終わったのだ。
それも、本格的な開戦を前に、ほとんど犠牲を出すことなく。
ライオネルは、ユリアンを抱きしめたまま、静かに天を見上げた。
予言にあった「大いなる災い」は、確かに訪れた。だが、それを退けたのは、自分の武力ではない。
ユリアンが、自らの命を懸けて敵陣に乗り込むという、その勇気ある行動が結果として、敵の心を折り、戦いを最小限の被害で終わらせたのだ。
「……国を救ったのは、お前だ、ユリア-ン」
ライオネルは、愛しい番の髪を優しく撫でながら、噛みしめるように、そう呟いた。
予言は、真実だった。
だが、それは『血と魂を犠牲にする』という、悲しい結末ではなかった。
ただ、ひたむきな愛と勇気が、国を、そして愛する王の心をも救ったのだ。
まさか、獣王国の王自らが、これほど早く単騎で突入してくるとは全くの想定外だった。
「なっ……なぜ、お前がここに……!砦はどうした!?」
「貴様のような下衆を、俺の番に近づかせないためだ」
ライオネルは、吐き捨てるように言うと、手に持った長剣を静かに構えた。
その切っ先からは、赤い雫がぽつり、ぽつりと滴り落ちている。天幕にたどり着くまでの間に、立ち塞がった何人ものセレスタ兵を、沈黙させてきたのだろう。
その姿は、まさしく怒れる獅子。神聖さすら感じるほどの圧倒的な威圧感と、純粋な殺意の波動に天幕の中にいた兵士たちは完全に気圧され、じりじりと後退りしている。
「ユリアンを、離せ」
地を這うような低い声で、ライオネルが命じる。
それは、もはや人間の声ではなかった。獲物を前にした獣の低いうなり声そのものだ。
だが、セレスタ王子は恐怖に顔を引きつらせながらも、最後の悪あがきとばかりに叫んだ。
「は、はなすものか!こいつは、我が国のものだ!そうだ、こいつは、俺の弟だぞ!兄である俺が、どうしようと勝手だろうが!」
「――黙れ」
ライオネルは、その言葉を聞き終える前に、地を蹴った。
人間の目では到底追いきれないほどの神速の踏み込み。ユリアンが息を呑んだ次の瞬間には、彼はユリアンを押さえつけていた兵士の一人の背後に回り込んでいた。閃光。
兵士は声もなくその場に崩れ落ちる。
残りの兵士たちは、目の前の超常的な光景に恐怖し、ユリアンを放り出して我先にと天幕から逃げ出そうとする。だが、ライオネルはそれを許さない。逃げる兵士の背後へと音もなく回り込み、一人、また一人と、正確無比な剣筋でその動きを止めていく。悲鳴を上げる間もなかった。命が散る乾いた音だけが、静寂の中に響く。
天幕の中は、一瞬にして凄惨な静寂に支配された。
ユリアンは、その場にへたり込んだまま、目の前で繰り広げられた惨状を、ただ呆然と見つめることしかできない。
これが、獣王の戦い。
敵と見なした者には、一切の慈悲も容赦もない、絶対的な力の行使。
彼の圧倒的な強さを、ユリアンは初めて目の当たりにした。
それは全身の血が凍るほどの恐怖だった。しかし同時に、自分のためにここまで怒りを爆発させてくれる彼の姿に、どうしようもないほどの愛おしさを感じる、矛盾した感情が胸を締め付けた。
一瞬にして、周囲の敵を無力化したライオネルは、赤い染みの広がった剣を構えたまま、ゆっくりとセレスタ王子へと向き直った。
「さて……次は、貴様の番だ」
「ひっ……!た、助けてくれ……!俺たちは、兄弟だろう、ユリアン!」
王子は、腰を抜かし、無様に後ずさりながらユリアンに助けを乞う。
だが、ユリアンは声も出せずにいた。
ライオネルは、そんな王子の見苦しい姿を、氷のように冷たい目で見下ろしている。
「命乞いか、見苦しいな。だが、安心しろ。すぐには殺さん。
貴様が俺の番にしたことの報いは、その体に、ゆっくりと、たっぷりと刻み込んでやる」
ライオネルが、最後の一撃を振り下ろそうと剣を振り上げた、その時だった。
「――やめて、ライオネル!」
ユリアンが、叫んだ。
ライオネルは、はっとしたように動きを止め、ユリアンを振り返る。その琥珀の瞳には、まだ怒りの炎が燃え盛っていた。
「……なぜだ、ユリアン。こいつは、お前を辱めようとしたのだぞ」
「それでも……!それでも、この人は、僕のたった一人の兄です……。これ以上、目の前で血が流れるのを見るのは耐えられません……!」
ユリアンの瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
その涙を見て、ライオネルの瞳に宿っていた獣の光が、すっと人間らしい理性の光へと変わった。
彼は、血に濡れた剣を静かに鞘に収めると、大きく息を吐いた。
「……分かった。お前が、そう言うのなら」
ライオネルは、恐怖で意識を失ったように動かなくなった王子を一瞥すると、ユリアンの元へと歩み寄った。そして、その震える体を、まるで壊れ物を抱きしめるように優しく、しかし二度と離さないと誓うように力強く抱きしめた。
「すまなかった……怖い思いをさせた。
俺が、もっと早く来ていれば……」
後悔と自責の念が滲む声だった。ほんのわずかな時間でも、番が自分の腕の中にいないことが耐えられない。失う恐怖が、獣の本能を鈍く疼かせる。
「いえ……来てくれて、よかった……。本当に……、ライオネル……!」
ユリアンは、彼の胸の中で、子供のように声を上げて泣いた。押さえつけていた恐怖と安堵が一気に決壊し、涙となって溢れ出す。
乱暴で、けれど自分だけを守ろうとしてくれる不器用な愛情が、全身に染み渡っていくようだった。ライオネルの鎧は、鉄と土の匂いがした。だが、その腕の中は世界で一番、安全で、温かい場所だった。
その時、天幕の外から、ライオネルの副官である、狼の獣人の声が響いた。
「陛下!ご無事ですか!敵軍が、総崩れになりました!王子を失い、指揮系統が完全に麻痺したようです!」
どうやら、ライオネルが突入したという報せと、王子の悲鳴が、セレスタ軍の兵士たちの戦意を完全に喪失させたらしい。
戦いは終わったのだ。
それも、本格的な開戦を前に、ほとんど犠牲を出すことなく。
ライオネルは、ユリアンを抱きしめたまま、静かに天を見上げた。
予言にあった「大いなる災い」は、確かに訪れた。だが、それを退けたのは、自分の武力ではない。
ユリアンが、自らの命を懸けて敵陣に乗り込むという、その勇気ある行動が結果として、敵の心を折り、戦いを最小限の被害で終わらせたのだ。
「……国を救ったのは、お前だ、ユリア-ン」
ライオネルは、愛しい番の髪を優しく撫でながら、噛みしめるように、そう呟いた。
予言は、真実だった。
だが、それは『血と魂を犠牲にする』という、悲しい結末ではなかった。
ただ、ひたむきな愛と勇気が、国を、そして愛する王の心をも救ったのだ。
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